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前回の質問
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1796077
に対して、興味深い回答を頂きました。

『朝鮮の歴史を簡単に述べると、古代において君主制の中央集権の統一国家が出現し、それが近代に至るまでずっと続いたということです。日本やヨーロッパのように、封建制が間に入らないので、織田信長級の変革者となると、数は限定されます。』

質問1
朝鮮半島では古代君主制がずっと続いて近代まできたというのは本当ですか?
日本の歴史に例えるならば、大和朝廷体制が近代を迎えたようなものでしょうか?
なぜ朝鮮半島は封建制など体制の変移がなかったのでしょうか?
なぜ朝鮮半島では織田信長級の変革者が生まれなかったのでしょうか?


質問2
もし日本が大和朝廷体制のまま、
―つまり鎌倉幕府・室町幕府・織豊政権(織田信長、豊臣秀吉)・江戸幕府などの体制を経由せずに―
ペリーの黒船を迎えたならば、自国の力で近代化できたと思いますか?

A 回答 (6件)

富の偏在→教育の偏在→国家のポテンシャルの強弱と言う考え方で説明できるように思えます。


19世紀半ばにおいて、日本に「西洋化準備完了人口」が人口の10%いたとしたら、シナや朝鮮は0.1%といったレベルでしょう。この差が、近代化の可否につながったと考えます。

(1) シナや朝鮮の前近代社会は、一口で言うと「少数の権力者が富を独占し、他の国民を徹底して搾取する体制」です。この図式は、今の中国(都市戸籍者が農村戸籍者を搾取)、北朝鮮(党幹部、平壌居住者が他国民を搾取)に受け継がれています。

この体制下では、少数者が贅沢三昧に耽る一方で、多数者は食うや食わず、しばしば餓死し流浪します。しかし、少数者はそれを歯牙にもかけません。我々が見ると、金正日は国民を餓死させてなぜ平気なのか理解できませんが、彼らの文化ではそれは問題にならないのです。

食うや食わずの一般国民は、資本や技術の蓄積も、教育への投資も不可能です。その日暮らしを続けるしかありません。即ち、現代の北朝鮮の状況です。

一方、江戸時代の日本では、権力者(幕府、藩)は善政を敷くことがシステム化されていました。武士階級は全て教育を受け、一般国民の教育水準も、欧州諸国と比べて低いレベルではなかったと思われます。シナや朝鮮の場合、一般国民の文盲率は100%に近かったと思われます。

(2) 開国後の日本が急速に近代化できたのは、「士族出身者が、直ちに近代化に対応できる下地をもっており、かつその人数が十分にいた」ことが大きな理由を占めます。現に、明治維新の前に国外に出て、西洋の知識を身につけて帰ってくる日本人が続出しました。これは、日本以外の非白人国には望むべくもなかったことでしょう。いち早く近代化した士族出身者が火種となり、日本全体に近代化が急速に広まり、ほぼ完成したのが一世代が経過した明治末頃でしょうか。この時期から、非士族出身者の活動が目立つようになります。

富と教育が極端に偏在していたシナや朝鮮の場合、そういうわけには行きませんでした。例えば1910年の二巻併合の際、韓国の一般国民はまったく関与していません。
朝鮮人が近代人に変化したのは、日本統治下の30年(一世代)で教育が普及してからのことと思われます。
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質問1、


朝鮮半島には、西暦1392年の朝鮮王朝の建国から、1910年の日韓併合まで李王朝がつづいていました。この王朝は、中国に、隷属し制度的にも、大和朝廷と同じ、君主制でした。封建制は、西ヨーロッパや、インド、日本などでみられた制度です。もし、封建制が歴史の発展に必要不可欠な制度なのだとしたら、それを経験しなかった理由は、その変革が起きる前に植民地にされてしまったせいでは、ないでしょうか。朝鮮は、中国の影響の大きい国ですから、その中国が、封建制になっていないので、その理由を調べた方が、いいと思います。封建制というのは、武人(軍人)による支配体制ですが、その成立のためには、中央政権の力が弱く、各地に力の拮抗した武人集団が生まれる内乱状態を経験する必要があります。中国は、中央集権国家で国が乱れても、次の中央集権国家が後をおそい、封建制にはいたらなかったものと思われます。また、伝統的に文人の方が権威が高く、文明的には、進んでいたともいえるのですが、文明同士の衝突となった大航海時代には、軍事的競争(戦争)に遅れをとってしまった、という評価もできるのではないでしょうか。
封建制との関連で、織田信長を持ち出していますが、変革者として取り上げるなら、源頼朝ではないでしょうか。頼朝が、封建制を作り上げた立役者です。

質問2
このもしは、質問1の回答と同じ理由で、すぐに植民地にされていたと思います。というか、それ以前に、中国の属国になっていたでしょう。元寇に勝つことが無理だったのではないでしょうか。
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   質問1


 まず朝鮮には日本や中国で言う王朝は存在していません。日本や中国は帝であったのに対して朝鮮は帝から封ぜられた王です。日本風に言えば幕府です。それもランクが相当低いようです。(ドラマで申し訳ないが「チャングムの誓い」で描かれているのですが、竜の数が少ないのです。琉球より数が少なく、地位では琉球>朝鮮になります)つまり古代君主制ではなく、中国社会における地方領主という地位が正しいかと思います。中国が近代化していなかったのですから朝鮮も近代化できないのです。また、両班と庶民の格差が激しく、庶民はなんとかハングルが使えるという程度で、大半はハングルすら読めない状況でした。一方両班は漢字文化で生活しております。つまり、庶民がどう足掻いても高級官僚になれませんでした。また、朝鮮では両班内の内部抗争が酷かったようです。19世紀末には通貨制度が破綻をきたしていました。農地の8割は荒地で、都市の一部のみ建物があるだけで、あとは竪穴式住居クラスしかない状況だったのです。

> 織田信長級の変革者が生まれなかったのでしょうか
 変革を行えば宗主国である中国が軍事介入してきます。日清戦争を考えれば朝鮮政府の置かれた立場が判るかと思います。

   質問2
 答えようがないのでは?ペリー来航より1000年以上昔に崩壊した体制でIFを考えろは無理です。日本は唐などの制度を取り入れて大宝律令を制定した結果、失敗したのです。その結果が次の封建社会です。更に言うならば封建社会があったから近代化した訳ではありません。庶民に至る迄子供達は寺子屋や藩校で読み書き算数を学んでおり、能力のある者は役人に取り立てられました。これは日本が世界に先駆けて実施した役人登用制度です。この下地があったから近代化出来たと考えるべきです。
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前のかたが答えておられるように


>封建制が有ったのは、西欧と日本だけです。
>他の地域には見られません。

つまり
>朝鮮半島が封建制を経験しなかった

というよりも、

「日本が封建制を経験した」ほうが世界的にみて「例外」なのでしょう。

文明の生態史観 中公文庫
梅棹 忠夫 (著)

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4122030 …
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封建制が有ったのは、西欧と日本だけです。


他の地域には見られません。
ヨーロッパにおいても、ロシアなどでは見られません。

むしろ、なぜ西欧と日本で封建制が成立したかを、考えたほうが良いでしょう。

西欧での封建制は、ローマ帝国が崩壊した後、成立した各王国は、王国とは名ばかりで、まともに国内を統治できませんでした。
そのため、各地の領主の権限を認め、とりあえず臣下にする方法を取りました。

ビザンツ帝国では、アラブ人の侵入、スラブ人進入を、同時期に体験し、中央軍では対抗しきれなくなったため、中央政府が役人を任命し、地方軍を組織させました。
その地方軍に、行政権も与えたため、一種の封建制に近い制度となりました。

日本で封建制が確立するのは、鎌倉幕府以降です。

封建制が確立した地域は、国王の力が相対的に弱く、地方を完全に支配できない状況で、外部勢力の侵入が比較的少ない地域です。
外部勢力の侵入の多い地域は、王権が弱いと、すぐに侵略を受ける事になり、封建制の発達する余地がありません。

また、ある程度の地域間の交流、貨幣経済の浸透した地域である事も、必要です。
各地域が、孤立した自給自足経済では、他地域の影響を受けず、封建制そのものが成立しません。

朝鮮においては、基本的に中国の保護下に中央政府があり、地方に対し、圧倒的な力を持っていましたので、封建制が成立する余地が有りませんでした。

封建制の最大の功績は、地方自治の発展により、地方の活性化が働く事です。
中央と地方の関係だけでなく、地方と地方の競争も即され、国の基本的な国力(特に経済力)がアップする事です。
明治期日本が近代化に短期間で成功したのには、封建制の確立が、大きな基となったと思います。
ペリーが来なくても、当時はいずれかの欧米国家が日本に進出したでしょうから、近代化は、なされたと思います。
しかし、欧米諸国が全く来なければ、日本は封建制のままで、発展しなかったでしょう。
国の発展は、封建制を経て、絶対制(中央集権制)になって初めて、発展した地域の力を集約できるからです。
ヨーロッパで日本の黒船にあたるのが、オスマン トルコの進出ではないでしょうか。
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質問1


簡単に言えば、朝鮮がシナ帝国の冊封体制から逃れられなかったという
ことです。朝鮮は歴史上幾たびもシナから侵略行為を受けています。そ
のためシナ帝国に隷属する王とその臣下の貴族(両班)、そして残りの
国民は半奴隷状態というのが韓帝国独立まで続いたのです。
日本はシナ帝国からの影響が少なかったが、朝鮮はシナ帝国の影響下か
ら逃れられなかったというのが一番簡単な理由ですね。

質問2
丸山真男は「ペリーは日本を侵略する意思は全くなかった」などと書い
ていましたが嘘ですね。やはり日本が幕末の時点において大きな歴史的
蓄積があったからこそ、列強からの侵略の危機を逃れられたのだと思い
ます。
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