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タイトル通りなのですが、戦国大名の最大版図の石高がどれくらいになったのかが大変興味があります。

関ヶ原後の石高はかなり有名なのですが、その前に最大版図を迎えた武将も多いと思います。

人数が多いですが下に書いてある武将の石高を教えて頂けると幸いです。


・伊達政宗
・北条氏直
・上杉謙信
・上杉景勝
・武田信玄
・徳川家康
・豊臣秀吉
・織田信長
・柴田勝家
・明智光秀
・長宗我部元親
・毛利元就
・毛利輝元
・島津義久


人数が多くて申し訳ありません。

よろしくお願い致します。

A 回答 (5件)

No1です


まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせると30万石を越える程度はあったようです。

上杉謙信
越後の半分程度が直接的に支配できているところなんだとは思います。
揚北衆と呼ばれる(本庄、色部、新発田)勢力は北越後の広大な範囲を領地にしていましたが、家臣という感じではなく「協力者」というイメージが近いです。勝手に外交したり人事権も及ばない状態でしたから。
そういう独立勢力を束ねて越後、北関東、越中、能登まで支配している感じです。最大版図は私もどこまで含めて良いのかさっぱりわかりません。
味方と言い切れない独立勢力が大勢いるということです。

信長、秀吉、家康のそれぞれの時代によって最大版図のとらえ方も様々に違っているようには思いますね。
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この回答へのお礼

2度目の回答ありがとうございます。

柴田勝家と「味方陣営」の石高はどうしても分からなかったので大変助かりました。

180万石というのは正直驚かされました。
賤ヶ岳の戦いで3万の兵を動員したとされている勝家ですが、それを上回る5万もの兵を動員した秀吉はさらに多くの領地を押さえていたということなのでしょうか?

度重なる回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/11/18 01:08

最大版図は学研歴史群像シリーズ「図説・戦国地図帳」から採りました。

   石高は太閤検地と吉宗の検地の双方を使いました。
  概算です。
         太閤検地   吉宗検地
毛利輝元     196万石  278万石   11国他
武田信玄     129    173
上杉謙信     100    179
北条氏直     205    287   
長曽我部元親    61     91
       参考
大友宗麟     156
織田信長     812            24国他

 太閤検地は信頼性が低いので、信頼性が一番高いといわれている、米将軍吉宗の享保6年の値もとりましたが、広い地域を見るのでは太閤検地で十分のようです。
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この回答へのお礼

織田信長、812万石ですか・・・。

とんでもない石高ですね・・・。
徳川700万石でもすごいのに、さらにプラス100万石ですか。

自らを第六天魔王と称したのも納得できるものがあります。

大変参考になりました。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/11/18 01:41

こんばんは。


面白い質問ですね。
これまで読んだ・見た歴史書・歴史番組などから覚えている範囲で回答します。

伊達政宗…114万石(芦名氏などを破り、南奥州を制覇後、秀吉に領地の没収をされるまで)。

北条氏直…およそ240万石(秀吉の小田原攻め直前期)。

上杉謙信…最初は45万石からスタート。その後、拡大。ただし北関東などは非常に流動的で最大石高は不明。

上杉景勝…120万石(会津への移封後、関が原の戦いまで)。その直前は越後70万石だったらしい。

武田信玄…120万石(三方が原の戦い直前)。最初は20万石からスタート。家督を継いだ直後には南に兵を進められなかったのは今川(100万石)が当時の武田氏にとっては敵にまわすには大きすぎたからです。

徳川家康…関東へ移る前は134万石。関東へ移った後、関が原の戦いの時点では255万6千石。関が原の戦い以後、直接納めた領地は400万石。譜代大名の300万石もあわせ700万石が徳川家康の影響下にあったということです。これは当時の日本全国の総石高の4分の1にあたります。

豊臣秀吉…220万石(天下人であるときの石高)。実は直接治めていた領地は家臣である徳川家康より少なかったのです。

毛利輝元…121万石(関が原の戦い当時)。

島津義久は正式には当主ではなかったと思いますが、関が原の戦い当時の島津家の所領は60万石。後に琉球を加え77万石と扱われたらしい。

なお、石高を推定するのに兵力から計算するという手もあります。
兵一人につきおよそ40石です。
現代の貨幣価値に換算して400万円くらいです。
たとえば、手持ちの兵が1万人なら、領地の石高は40万石くらいだろう、という感じです。
もっとも表高と実際の石高は異なることがありますのでその点は注意。

また伊達家の場合、こっそりお米を作っていても、幕府から目をつけられないよう石高を過少申告していたそうです。
1さんのご紹介してくださったサイトでは実石高約99万石だそうですが、100万石以上はあっただろうというのが多数説のようです。
江戸時代を通じ3万人の兵力を保っていたとテレビで解説していましたので、ざっと120万石くらいはあったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました!

丁寧な回答でとても参考になりました。

各武将の石高と年代を細かく書いて頂き非常にたのしく読ませていただきました。

お礼日時:2006/11/18 00:56

学校の宿題ですか?一般的なレベルで「最大版図と推定石高」を調べるなら、ウィキペディアの情報でもだいたい分かると思いますが。

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この回答へのお礼

ウィキペディアは参考にさせて頂いていますが、それだけでは限界があったためこのサイトに投稿させていただきました。

戦国時代、大国、強国と言われた国を支配していた武将達に興味がありました。

明智光秀は本能寺の変前後にその後戦いを有利に進めるだけの領地を持っていたのだろうか。

豊臣秀吉と柴田勝家は賤ヶ岳の戦いの頃はそれぞれどれくらいの領地をもっていたんだろう。
その後秀吉はどこまで領地を増やしたんだろう。

四国、九州をほぼ手中に収めた長宗我部元親や島津義久はどれくらいの石高を有していたのだろう。

徳川家康は関東移封後250万石程になったのは有名ですが、関ヶ原後はいったいどれくらいになったんだろう。

彼らを遥かに凌ぐ広大な領地を有し、魔王とまで呼ばれた織田信長はどのくらいなんだろう。


と小さな疑問が沸いてきたのです。
分かる武将だけで結構ですので回答頂けると幸いです。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/11/15 21:16

太閤検地のデータを使うか、江戸時代のデータを使うのかによって違うと思いますし、一時的に占拠しただけならば版図とは言えても領地とは言わないと思うので難しいですね。



土佐一国と言っても太閤検地では9万8千石ですが、江戸時代初期で20万石になっていたりします。

新田開発された分が石高に反映されていたり、されていなかったり、そもそも実高(実際の収穫量)によるものなのか表高(申請上の数値)なのかにもよるので難しいです。

このような歴史サイトのデータを参考にしてみてはいかがでしょうか。
http://homepage3.nifty.com/ksatake/

おおよそ、これくらい?という感覚的なものはつかめるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

サイト拝見させていただきました。
おもしろかったです。

表高と内高の違いには大変驚きました。

こんなにも開きがあるとは興味深いですね。

「いつの時代のデータを使うのか」ということですが、
質問に書いてある武将が”生涯で一番石高が高かった時”
が分かれば幸いです。

早速の回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/11/15 20:58

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