No.6ベストアンサー
- 回答日時:
参考サイトでは・・・
当時の感覚では「卑怯」と呼ばれていない!と説明されてます。
で「卑怯」と呼んだのは武士にロマンを求める現代人の感覚だと!
「義経の戦法はルール違反?」
http://www.spacelan.ne.jp/~daiman/rekishi/yoshit …
No.5
- 回答日時:
俗説ですが、義経は鞍馬の天狗に学び鍛えられたという話しがあります。
実はこの天狗というのは西欧人の事であり、義経はこの天狗(西欧人)から西欧風の戦術を学んだのではないかという説があります。例えば、それまでの日本の騎馬戦術では、戦場では武士は馬を下りて戦っていたそうです。あくまで馬は戦場までの移動手段として。これを打破したのが義経で、馬上戦闘を始めたのが義経だと言われています。西欧風の戦術を学んでいたから、旧来の日本の戦術にとらわれなかったというのです。まあ、あくまで俗説ですので、どこまでが真実かはわかりませんけれど。西欧人が来ていたとはおもしろいですね。確かに西欧人も天狗も鼻が高いし。ペリーが来たときも、当時の人たちは天狗が来たと驚いたとのこと。ところで、日本に初めて来た西欧人というのは、1543年種子島に来たポルトガル人ということでいいのでしょうか?
No.4
- 回答日時:
ジャンヌダルクも同じようなことが言われていますね。
当時の戦争というのは血なまぐさい殺し合いでありながら、同時にスポーツの要素すらありました。本来はルール無用の殺し合いでありながら、同時にそれはやってはいけないという暗黙の価値観というルールが厳然とあったわけです。これは現代の戦争のおいてもそうですが。手を変え品を変えルールは新しい概念で常に新しくなってはいますが、やはりルールはどの時代にもありました。
そのルールを根底から無視してしまうと、原因としては、そもそもそんなルールなんて知らない、あるいは知っていてもそれを重要視しない価値観というものが第一にあると思います。それは一言で言ってしまえば生い立ちによるものでしょう。卑怯と幾ら罵られようとあまりピンと来なかったのでは無いんですかね。
例えばサッカーなんて観たことが無い人が、サッカーをしている人をみて、ルールをボールを相手ゴールに入れたら得点と理解したとします。でみな何かしらんけど、手を使わずに足だけで運んでいるけど、手を使えば楽勝じゃんなんて結論に達しても何の不思議もありません。でそれを実際にして、非難されてもあまり理解できないでしょう。殺し合いなのに、何で手を使ってはいけないの?という素朴な疑問に答えられる人はいないでしょう。
だからこそあーゆー悲劇的な最後を迎えたとも思います。、またそういう暗黙のルールを守っていれば時代の麒麟児的な活躍はしなかったでしょうが、逆に時代の価値観に守られていたとも思います。
サッカーにたとえたお話、とても面白いですね。ジャンヌダルクはのちに魔女とされて処刑されてしまいました。戦いかたにマナー違反があって魔女とされたのか、魔女とされたから後から卑怯な戦いをしたといううわさをながされたのか、今となってはどちらともいえないような気がします。とにかく戦争は嫌ですね。ありがとうございました。
No.3
- 回答日時:
ひと言で言えば、無知からです。
現代に置き換えてみましょう。
戦時国際法によって、戦闘員以外への攻撃は禁じられています。つまり、都市への無差別爆撃は、違法行為です。しかし、やってしまって勝ってしまえば、罰せられる事はありません。第二次世界大戦におけるアメリカですね。
同様なことを、壇ノ浦で行ったのが義経です。
正当な武家修行あるいは、武家の統領としての教育を受けていなかったが故に、躊躇無く、漕ぎ手を討たすことができたのです。
ありがとうございます。当時、合戦では、色々なマナーというものがあって、スポーツのようなところが多かったと聞いています。それゆえに、元寇のさいには、日本の合戦マナーが全く通用せず、御家人たちは戸惑ったということです。それくらい、合戦マナーが日本の武士にはゆきわたっていたのに、義経はそれを無視したというのは、不思議です。ご指摘のように、それほど無知だったのでしょうか。
No.2
- 回答日時:
義経(Wikipedia)には、義経が水手・梶取を弓矢で狙えば、平家方も応戦するはずである。
当時、平家方は内陸の拠点を失い、弓箭の補給もままならなかった。そのため序盤で矢を射尽くし、後は射かけられるままとなって無防備な水手・梶取から犠牲になっていったのである……なんとなく説得力があるみたいですが、どうでしょうか?ちなみに、やはり義経(Wikipedia)では、『平家物語』の中で、義経の風貌に関して「色白で反っ歯の小男」と記されている。これは武士の容姿の表現としてはかなり悪意のあるものであり、平家物語の作者、あるいは当時一般の義経に対する評価は低かったと思われる。義経の印象を形成するのに大きな影響のあった『義経記』では風貌に関する記述は無かった。と……平家方から見れば憎っくき敵であるので、する事なす事を言いように取らないのではないだろうか。そして義経は大群を任せられた事がなく、いつも少人数だったと……その為には、ありとあらゆる手もつかわざるをえません。もしかしたら卑怯な手も使ったかもしれませんが、戦地では食うか喰われるかの連続です。ましてや、その戦闘シーンを目の当たりにした訳ではないのでなんともいいようがありませんが……戦争ではいつの時代も勝った方が卑怯とよばれ負けた方は言われる事が少ないようです。歴史の教科書に義経の絵がのっていましたが、あれなどは結構男前に書かれていますね。義経は結局、平泉に逃げ、時の政権にとっては反逆者になってしまいましたから、あとで悪いイメージをつけられたのかもしれませんね。伝説の多い人なので、事実は闇の中ということでしょうか。ありがとうございました。
No.1
- 回答日時:
史記の伍子胥列伝曰く、
「吾日暮途遠 故倒行而逆施之」
これは日本語の四字熟語である
”日暮道遠”の語源となった故事ですが
元々の意味は、要するに、
人間の寿命は短く、果たすべき大望のためなら
人の道に外れることも厭わないということです。
源義経は、源氏の大将として認められるために
何としても武功をあげなければならず、
遅れて登場したからには正攻法でいっていたら
名を上げることはできないというできないという
認識があったのは確かでしょうし、実際にそうでした。
もともと義経は妾腹の子で、外戚に力もなく、
妻も有力者の家の出で無いという、弱い立場。
しかも弓の猛者として有名な叔父の為朝や、
悪源太との異名をもつ兄の義平とも違って、
義経は体躯に優れず、個人的武勇にいささか劣るという悪条件。
もう一人の兄の頼朝も武勇はからっきしダメですが、
頼朝には北条氏というバックがついているだけに
何も無い義経としては、合戦で勝つしかなかったというところでしょう。
また有名な話ですが、義経は”虎の巻”を授かったという伝説があるわけで、
虎の巻とは、中国の兵法書・六韜の一篇である虎韜のことです。
ただ残念ながらこの六韜の内容は、兵法書でありながら
あまり実用的な話はなく、むしろ徳を説いているところが多く
役に立ちそうに無いんですが、
もっと有名な兵法書である、孫子の兵法は
有名な「兵道は詭道なり」という原則をかかげていいます。
形式的むしろ儀式的ですらあった
源平時代の戦闘作法は、無駄そのものだったのわけで
卑怯云々という評価は、勝利を目指すという点で無意味であり、
両立しないものといえるでしょうから、
要するに義経の戦術は単に現実的だっただけということができます。
ま、戦争とは非道なものなのです。
義経が家柄的にそんなに弱い立場だったとはしりませんでした。それらのコンプレックスがあのような戦法を生んだのかもしれませんね。義経が自分の弱弓を海に落としたとき、自分の体力のなさをしられまいとして危険を顧みず拾おうとした、ということが平家物語に書かれていますが、これなどは案外、義経の性格の核心をついているのかもしれません。丁寧なご回答ありがとうございました。
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