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日露戦争前のロシアの韓国中立化案は、平和を保障するもので日本は受け入れるべきだったのでしょうか?それともこの案を蹴ったことは妥当だったのでしょうか?
日本が日清戦争のときに韓国の独立を大義名分としましたが、ロシアの中立化案はそれと質的な差はあるのでしょうか?

A 回答 (5件)

どちらも基本的構造は一緒


既得権のある国(日清戦争前の清国、日露戦争前の日本)に対して、後発国が、まずは既得権の放棄を迫ったもの。
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この回答へのお礼

やはり同じ構造のものですか。てことは、日本側としてはそう簡単に受けいれられせんね。どうもありがとうございました。

お礼日時:2007/03/18 22:00

参考例とすると


日清戦争後の三国干渉。
日清戦争の結果、日本が清国から得た遼東半島を、いったん清国に戻させてから、ロシアは租借しました。
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事実としては、日露戦争直前の段階では、ロシアは、『満州』を確保する事を優先課題にしていて、その為には朝鮮半島が軍事面を含め完全に日本の勢力範囲に入る事を阻止したいと考えていました。

国境を接しているという事もありますが、沿海州から中国東北部への海上ルートの通行を確保する、という意味もあります。
中立化案は、満州の権益を保全する為に日本が完全に朝鮮半島を確保する事を防ぐ為の一つの方法に過ぎません。ここらあたりは、当時のロシア側の文書が明らかになっていて、実証的な研究の世界では常識です。

客観情勢としても、当時のロシアは、第二次露清密約(1900年11月)で、満州の軍事占領を正当化できたものの、これが暴露されると、列強各国及びその支持を背景にした日本の抗議、清の強気の交渉態度、などで結局は撤退を約束させられましたが、第二次撤退を遅延させ、7か条の要求を清に出す(1903年4月)など、義和団事件のドサクサに紛れて行った満州占領から、最大限のものを得る為に、ドタバタ・四苦八苦していました。この時点での、ロシアの主要な目標は、あくまで満州であって、その満州を確保する為の提案として、朝鮮半島の南北をそれぞれ日露が勢力圏とする案とか、中立化とかを持ち出してきた訳です。

尚、日露戦争数年前の、朝鮮における日本とロシアの力関係は、山県=ロバノフ協定(1896年)の段階では対等、西=ローゼン協定(1898年)では、「ロシアは韓国における日本の商工業の発達と居留民の多数を認め、日韓間の商工業の関係と発展を妨害しない」とあるので、日本の韓国での特殊な地位を認めてるので、日本優位、といった感じです。つまり、ロシアは韓国での勢力は後退気味、更に、既に述べた様に1900年の時点で、ロシアは満州で大きなチャンスを掴み、より優先すべき目標が生まれていました。
このような流れからしても、中立化=「後発国が、既得権の放棄を迫ったもの」、と理解するのは無理だと思います。

参考URLは、韓国の学者の論文(原文英語)です。万が一、このサイトをご覧の方で、書いた人の国籍が気に食わない方がいたら、引用されているヴィッテの手紙等、一次資料だけを読んで下さい。
(それでも、引用が信じられないと言ったらどうにもなりませんけど…)

また、仮に中立化案を日本が受け入れた場合、「ロシアの朝鮮半島での勢力拡大が全くなくなったに違いない」と主張するつもりはありません。あくまで、この時点では、「朝鮮半島での日本の勢力は、満州での自国の権益に危険でなければ、さしたる問題ではない」という趣旨です。お互いの勢力圏がとりあえず確定するので、暫くは戦争は起きなかったでしょうが…。
しかし、日露戦争が起きず、ロシアが満州での権益を確保したとして、その後、「ロシアがどうしたかだろうか」というのは歴史というより、空想の世界に入ると思います。ロシア革命が起きたかどうか、とか、非常に重要なポイントで前提をいくつも置かないと、議論すらできません。

参考URL:http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/46/soku …
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この回答へのお礼

詳しくわかりやすい回答ありがとうございます。提案時点でディフェンスを主眼にしたものだということがわかりました。
・しかしその時点で「満州の権益を保全する為に日本が完全に朝鮮半島を確保する事を防ぐ為の一つの方法に過ぎ」ず、「ロシアの主要な目標は、あくまで満州であっ」たとしても、保守派の人たちがこの中立化案の前後を語るとき、ロシアの南下の性質にまで目配りして叙述をしていくようです。「小村寿太郎とその時代」P158~161(文庫の方)にロシアの朝鮮半島にこだわる理由が、当時のロシアの要人の言葉を引用して説明されていて、これなどを読むと、ある時点でデフェンシヴでも、もっと長いスパンでロシアの南下をとらえる視点の必要性を感じますが、(NO.3さんはロシアの朝鮮半島への野心を否定してはいませんし、「時点」と時間を限定していることを断ってはいますが)よかったらご意見をおきかせください。
・参考URLの論文は、まだざっと目を走らせただけです。またご意見を伺いに補足を求めるかもしれないのでよろしくお願いします。

お礼日時:2007/03/19 22:38

朝鮮半島を勢力圏化しようとする日本にとっては中立化案はありえないと単純に思えます。

北半分をロシア、南半分を日本に分けるといっても、朝鮮半島の旨みは北半分にあるのでやはり意味ないでしょう。日本が飲めるのは朝鮮半島を日本、満州をロシアです。ロシアはそれを拒否したのですから激突は必至でしょう。ロシアにとって満州が第一目標であると同時に、日本にとって朝鮮が第一目標。それでもロシアは満韓交換を飲まなかったのです。ロシアはまさか日本がロシアに喧嘩を売れるとは思わなかったわけですが(国力を比較すると無理からぬこと、太平洋戦争の日米より開いていたんですから。)、それが全ての誤算だったというわけです。

ただロシアが満韓交換を飲まなかった理由が、満州の次は朝鮮と思っていたのか、朝鮮半島を緩衝地帯にする目論見だったのかは、正直私にはよくわかりません。あるいは旅順とウラジオストックを鉄道でつなぐつもりだったのかな?
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この回答へのお礼

ウィッテは朝鮮をどうしようがそれはわれわれの任意である、と会談した日本の要人に述べたそうです。おっしゃるように相手にしてなかったようですね。どうもありがとうございました。

お礼日時:2007/03/19 22:40

>もっと長いスパンでロシアの南下をとらえる視点の必要性を感じますが…よかったらご意見をおきかせください。


何を考える為の必要性かにもよりますが、ごく一般的に「ロシアの政策を充分に理解する為」には、と理解するなら、局面毎の個々の政策の意味だけでなく、もっと長い期間の流れもあわせて考える必要がある、というのは、全くその通りだと思います。ロシアの南下志向を否定するつもりは毛頭ありません。前回リンクを入れた論文にも、ウィッテが、韓国中立化は『東清鉄道を完成し中国北部での影響力が強くなれば韓国を自動的に取りもどせるので、当分の間日本の侵入から守るための臨時策』だ、と述べたと書いてあります。その双方のバランスをどのようにとるかは、学者あるいは歴史を考える個々人に任されているのでしょう。(ご質問は、中立案にしぼらていたので、それに対して知っている事=その時点でのロシアの考えを回答しました。)
ただ、ロシアの南下志向だけから、単純に「日本が韓国を併合しなかったら、ロシアは朝鮮半島を植民地化したに決まっている」式の結論は、おかしいと思っています。まして、そこから一足飛びに「朝鮮、その次は日本に決まっている」に行くのは、何の論理性も感じません。同じ意味で、「日本が韓国に対して開国を要求した時から、日本はいずれは朝鮮半島を植民地にするつもりだった」という主張がもしあったら、それにも到底ついていけません。現実の歴史は、もっと『場当たり的』です。例えば、前回リンクを入れた論文にあるように、「中立化や南北での勢力圏折半」というロシアの提案は、日本の『元老』にとってはそれ程無茶なものではなかった事、日本側で結果的に加藤高明の(元老に比べれば)強硬論が通ったが、ロシア側でも常にウィッテの意見が通っていた訳ではない事、等々、その場の状況に応じて当事者が判断し、それが政府の政策になったりならなかったり、なっても結果的に成功だったり失敗だったりしてきたのが歴史だと思っています。ウィッテは、朝鮮を『取り戻す』つもりだったのかも知れませんが、この『取り戻す』の意味はちょっと横に置いても、ウィッテがそう考えていたからといって、いずれはロシアが朝鮮を自国の勢力下に置いたに決まっている、と決め付けるのも無理です。
中立化提案に関する事からほぼ間違いなく言える事は、「ロシアにとっての朝鮮での『野望』は、最優先課題ではなく、満州での権益確保の為には、朝鮮での勢力拡大のチャンスを減らしても構わない、と考える程度のもの」という事ぐらいでしょうか…。元々、私は「もしあの時こうしていれば…」という疑問よりも、とりあえず事実として何があったのかを知りたい、という『たち』なので、一般論でしかお答えできませんので、こんな感じになりました。

尚、追加で疑問・質問があれば、新たに質問を立てる事をお奨めします。その方が、また新たな人の回答のチャンスも増えますから…。
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この回答へのお礼

さらにわかりやすい回答ありがとうございます。この三日ほど日露の開戦前の部分をいろいろ拾い読みしていました。実は最初の回答の第三パラグラフ、とくに西=ローゼンあたりで「突っ込み」たいところもあったものですから。しかし、ご自身の歴史の見方を言葉を尽くして整然と具体的に分かりやすく語っていただいたので、その必要はなくなりました。
「場当たり的」は確かにそうです。これは個人史でもそうですよね。野口英世の例で言えば、医学を志すという大きな方向性はあっても、アメリカでの毒蛇や梅毒、ガーナでの黄熱病の研究は偶然性によるのもですから。
二度にわたっての回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/03/23 21:05

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