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忠臣蔵で、たった一晩でたくさんの畳替えをするシーンがありますが、
あれは史実なのでしょうか?
どうもうそっぽくかんじるのですが。

よろしくお願いします。

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A 回答 (5件)

増上寺に記録や言い伝えは残っていないそうです。


また、当時の浅野内匠頭長矩の役目には畳替えは無いそうです。
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畳替えは御畳奉行の役目です。

   江戸幕府の職制にもあります。
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「ほとんどがフィクション」なのは確かですが、決して「吉良=偶然居合わせた不幸な善人」、「浅野=ただ切れやすいだけの悪人」というわけでもないので注意が必要でしょう。


あなたの周りに「ただただ悪い根っからの悪人」はどれだけいますか?逆に「どこをとっても非の打ち所のない善人」は?
いませんよね?

史実もその程度でしょう。浅野が切れやすい人だったのは確かなようですが、吉良も結構「人をいじめるのが好きなたち」だったようです。吉良がわざと困らせるような事をしたとは考えられませんが、言葉の端々に意地悪な言い方があったかもしれません。それが切れやすい浅野を刺激した事は十分考えられ、記録にも残らない事でしょう。

「一夜の畳替え」はフィクションでしょうが、吉良の側にも原因はあると思っています。
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No.2さんのおっしゃる通り、フィクションの忠臣蔵と現実の赤穂事件は分けて考えなければなりません。


吉良さんの職務である高家とは、つまるところ儀礼の指南役であります。
もし吉良の指導を受けながら浅野が不始末をしでかせば吉良の指導もよろしくなかったということで吉良自身の落ち度ということになります。
つまり、忠臣蔵のお芝居のように、誤ったことを教えて困らせるなど吉良自身の自殺的行為で不可能事であります。
いわれている吉良の「いやがらせ」というものが全て根拠の無い「お話」にすぎないことは明らかです。
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忠臣蔵の物語はほとんどが創作されたフィクションですよ。


元禄14年3月の浅野内匠頭が吉良上野介に切りつけた“松の廊下刃傷事件”と、翌15年12月の赤穂浪士による“吉良邸討ち入り事件”の二つの事件は史実だったようですが、肝心の事件を起こした理由が全く解らず、そのために後世の人たちが勝手に脚色して面白オカシク話を膨らませたものが現代に伝わる話のようです。

この物語は事件から数十年経ってから、人形浄瑠璃として造られた『仮名手本忠臣蔵』という創作された物語りが中心になり、その後に歌舞伎の題材に取り入れられ、それが当時の一般大衆にヒットして現代まで続く物語りとなっているのですが、全体としてはあくまでも創作としてのお話です。

正確な史実を元とせずに、『仮名手本忠臣蔵』という創作劇を元に造られた“忠臣蔵”という勧善懲悪的な物語りを一般人は見てきたために、浅野側(赤穂浪士)=善であり、吉良側=悪である、というような単純な構図で捉えられていたのが現状です。

実際には、キレ易い精神不安定なお坊ちゃまである浅野内匠頭が、ある日何かの拍子にキレてしまい、近くにいた善良な吉良上野介に襲い掛かり切腹となり、その処分を巡って逆ギレした大勢の浪士たちによって夜中に襲撃されてしまった一大テロ事件というのが本来の姿だとも言われていますよ。
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Q「忠臣蔵」のこの部分は歴史的事実ですか?

「忠臣蔵」の次の部分は、ドラマや映画になるときによく描かれています。
これは歴史的事実だったのでしょうか?

1.吉良は普段から賄賂をもらっていた。
2.赤穂藩は吉良に賄賂を渡さなかったので、嫌われた。
3.吉良の嘘のせいで、一晩で二百畳の畳替えをするはめになった。
4.浪士のひとりが大工の棟梁の娘をだまして吉良宅の図面を手に入れた。

 万が一勅旨接待に落ち度があれば、吉良氏が一番に責任をとらされるはずなので、2.3はなかったと予想しています。
 4は芝居がかっていますが、可能性は十分あります。
 1はどうでしょうか?

Aベストアンサー

1番は、当時の慣習で、勅使接待の「前後」に大判一枚(又は小判10枚)を、ご指導いただく高家(吉良)に贈り「誠意」をみせるのが常識でした。
ところが浅野家ではそれを終わった後だけでよいと考えました。
こういう事のために、江戸在住の藩士がおり、数人は代々江戸で生まれ江戸で育った、生粋の江戸っ子の藩士がおります。
こうした藩士が他藩の同じような役職の者と情報を交換し合って、贈り物の相場などを決めていたようですが・・・。
浅野内匠頭長矩も勅使御馳走役は18年振りの2度目の事で、先回は優秀な家来が広島の本家などから情報を仕入れて十分な事をしましたが、この時は経験者という驕りもあったのか、予算自体も物価の上昇を甘く見て、前回(400両)に少し色(700両)をつければよいと、相当ケチったようです。
因みに元禄十年に伊藤出雲守が勅使接待を務めた際の予算1200両でした。
吉良としては接待が失敗すれば自分の指導力を問われますから、浅野家の非常識には相当頭に来たと思いますが、かといって決定的な失敗をすれば連帯責任を問われるので、相当のジレンマがあったと想像します。
こうした背景を考えると、浅野をなじったり叱りつけたりはしたと思いますが、嘘を教えた事はないと思われます。
ただこの時吉良は高齢の上、京都へ使いに出かけ、帰ってから日が浅く疲れが出ていたのも事実で、うっかり失念した可能性も無きにしもですが、意図的に失敗を計るとは考えられません。
大工の棟梁の娘を騙したのは「かな手本忠臣蔵」というお芝居の上での事で、事実ではないと思います。

http://www.fsinet.or.jp/~fight/illust/main/kira.htm

1番は、当時の慣習で、勅使接待の「前後」に大判一枚(又は小判10枚)を、ご指導いただく高家(吉良)に贈り「誠意」をみせるのが常識でした。
ところが浅野家ではそれを終わった後だけでよいと考えました。
こういう事のために、江戸在住の藩士がおり、数人は代々江戸で生まれ江戸で育った、生粋の江戸っ子の藩士がおります。
こうした藩士が他藩の同じような役職の者と情報を交換し合って、贈り物の相場などを決めていたようですが・・・。
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