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先祖の事を辿って調べていたら江戸時代末期に「作事下奉行勤方」(さくじしもぶぎょうつとめがた?)であったと残っていました。
そこで質問があります。

★江戸時代の終わり頃で「作事下奉行」というのは大工の職人に城内の大工仕事をやらせる仕事のようですが、具体的にはどのような仕事だったのですか?
★当時の作事下奉行の平均的な報酬は100俵と言われていますが、石高にすると何石位ですか?
★100俵程度の役人の暮らしは慎ましいものだったのでしょうか?
もし使用人を雇っていたとしたら何人位雇っていたと思われますか?

A 回答 (2件)

禄高100石(知行取り)と100俵(蔵米取り)の収入は同じです。


100石は知行地の総収入ですから、領主はその4割の年貢、40石=100俵が収入です。
同じなのに呼び方が違うのは、江戸時代初期500石以下の知行取りを蔵米取りに変えたとき、以前からの蔵米取りと区別するため、石取の名をそのまま残したからです。
ところで100俵=100石取りですが、100石といえば槍一筋と称され、江戸の御家人の中では上級武士です。   (200石になると最下級の旗本ですが)
100石となると軍役で兵卒2人(槍持ちほか)かかえていなければなりません。   下男、下女計2人に家族5~6人これだけ養うのは、特に江戸中期以降は大変でした。
ただし作事下奉行になると業者の付け届け、賄賂の副収入が多く豊に暮らしていたでしょう。
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この回答へのお礼

俵と石の呼称について解りやすく解説いただき有難うございました。
>作事下奉行になると業者の付け届け、賄賂の副収入が多く豊に暮らしていたでしょう。
これについては今も昔も役人と業者の関係というのは余り変わっていないのかな~と妙に納得してしまいました(笑)

お礼日時:2008/10/05 14:28

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

★江戸時代の終わり頃で「作事下奉行」というのは大工の職人に城内の大工仕事をやらせる仕事のようですが、具体的にはどのような仕事だったのですか?

作事奉行は老中支配下で、
幕府の造営修繕を掌る役職。特に木工仕事が専門で、大工・細工・畳・植木などの部署も統括した。役高は2100石高であったが慶応3年に2000両支給に変更した。芙蓉の間席で定員は2人、納戸口と中の口門の間の棟の一番端の目付部屋の隣に本部があり、詰所は大廊下をへだてたところにあり、御用をうけたまわった。
この作事奉行の支配下に「作事方下奉行(さくじかたしたぶぎょう)」と「作事方大工頭」「植木奉行」「畳奉行」の4職が置かれた。

作事方下奉行の配下に「手代」「書役」が置かれ、主に、修繕の「見積もり」や「費用計算」、大工や植木職人、畳職人への「給料」の支払い等の「事務」を担当しました。

★当時の作事下奉行の平均的な報酬は100俵と言われていますが、石高にすると何石位ですか?

1俵=平均4斗
江戸時代は、1俵が2~5斗と、幕府の経済事情により変遷があった。
また、1斗は現在の0.4斗でしかなかった。
10斗=1石
従って、
100俵=400斗=40石

★100俵程度の役人の暮らしは慎ましいものだったのでしょうか?

良く、「○俵(石)2人扶持」などという「扶持米」の支給がありますが、
「扶持米」の計算では、男では1日5合の計算。(女は1日3合)。
5合×365日=1,825合
100俵=400斗=4,000升=40,000合
従って、100俵では、男だけであれば20人余りが食べることができ、当然、一家には女も子供もいますから、男女子供を入れても30人分位の支給です。
「家族(主人、妻、子供4~5人の平均的家族構成)」であれば、「裕福」とまではいかなくとも、まあまあの暮らしだったのではないでしょうか。

>>もし使用人を雇っていたとしたら何人位雇っていたと思われますか?

上記の計算でいけば、4~5人位でしょうか。
主人が全部を雇い人に支給してしまうと、家族は家財道具など買えませんから、多少は「余禄」を残したと思います。
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この回答へのお礼

歴史に詳しい方からの詳細な回答を頂きまして感謝いたします。
いただいた回答を読んでいると当時の暮らしが見えてくる様で益々関心が湧いてきました。
どうも有難うございました。

お礼日時:2008/10/05 14:12

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