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徳川幕藩体制は、封建制度ですが、かつ官僚制による統治であったと考えていいですか。

また、家光あたり以後の幕藩体制は、かなりな程度、法治的かつ文治的だったとも思えます。

さらに、そもそも官僚制は法治と文治を要件にするのでしょうか。
あるいは、最高の官僚制は軍隊というような言い方もされるので、武断的な官僚制もあると考えるのが正しいですか。

結局、官僚制の要件と、それを踏まえた上で、徳川幕府の統治形態をどう見るかという質問になりました。
よろしくお願い致します。

A 回答 (2件)

多くの藩では、武家御法度に似たものをつくっています。

平和な時代に政策にぶれがでて不公平感を露呈するのは、農民一揆の誘因になりますし、農民一揆の発生は幕府の介入のきっかけになります。
 法治国家は必然の歴史です。文治はその延長上にあります。
 武断政治をすることは幕府に対する敵対を意味しますので、加賀百万石では工芸、美術、諸芸を興隆させます。幕府に睨まれないためには文治の実をあげることだったのです。剣道が盛んになるのは幕末です。
 武士は普段、釣りをしたり、園芸でつつじ、椿、さつきなどの新種改良に取り組んだりしています。日本文化の基礎が形成さています。
 
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
なるほど長期安定政権を求めれば、法治体制に移行せざるを得ない、ということですね。
剣道が盛んになるのは幕末、その通りですね。たいした根拠の無いままに伝統と思われているよい例かと思いました。
サムライジャパンはその上に乗っかった言い方で、厳密に言うとおかしいかもしれません。

お礼日時:2009/03/27 09:39

誤解を恐れずに言えば、そう言っても良いかもしれません。


江戸幕府は、封建制を建前としつつ、官僚制の要素も多いに含んだ過渡的な形態だと思います。
また、官僚制と軍隊は確かに排他的なものではありません。

封建制では、統治機構つまり政府と、支配者個人やその家族が分離されていません。

一方、近代的な統治機構では、公私の分離や法の支配が必要です。もちろん、こういった概念も徐々に生まれてきたものです。
官僚制とは、そういう近代的な統治機構において、支配者の個人的な従者でなく、統治機構の公的な組織構成員ではないでしょうか?

西洋近代史でも絶対王政の時代、官僚制と軍隊がこれを支えました。
その後、革命がおこり、王政が廃止されたり、「君臨すれども統治せず」と言う状態になって、支配者個人(私)と統治機構(公)の分離が確立したのです。

江戸幕府は、官僚と言っても支配者の親族や、昔の家産支配時代の従者の子孫からリクルートしていました。この点は、封建的です。しかし、世代が進むと血縁も薄くなるし、時期によっては能力次第での登用も行いました。また、公の概念や法の支配も芽生えていました。
将軍が好き勝手をすれば、家臣に「それは前例がない」「法度でこうするものだと決まっている」「将軍の役目を果たして下さい」などど指摘され、「法度と将軍のどっちがえらいのか分からない」と愚痴を言ったというエピソードも聞いたことがあります。

なお、武断とか文治というのは、日本独特の言い方かもしれません。ただ、戦士階級が支配階級の大半を占め、彼らが平時は官僚を排出したのは、多くの国で見られた現象だと思います。
ただし、現在も文民統制と言う言葉があるのは、もともと軍と権力が密接に関係していた(あるいは、今でもそうなりかねない危険性がある)という認識の上で、民主主義を定着させるための知恵だと言えるでしょう。

この回答への補足

ありがとうございました。
ぼんやりしていたこと、特に公私の分離という観点を指摘していただいて有益でした。

さて、公私を分離するということは、私の裁量を排除するから、それに代わる法制度が無くてはならない。法を執行する体制も無くてはならない。つまり、官僚制と法制度はセットのもの、補完関係にあると考えられるでしょうか。
それとも、どちらかが主でどちらかが従という関係なのでしょうか。

また、最初に戻って、幕藩体制下の法制度はかなり整っていた、といっていいですか、程度問題としても。

補足日時:2009/03/27 10:07
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