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歴史についてよく知りませんが、疑問に思うことがあってお聞きします。

たった数十年前の歴史でも正確な情報は困難だというのに、さらに数百年前、数千年前といった歴史はどうなのだろうか?と思うんです。
思想信条が、歴史を歪曲したりしたことが最近やっと気づいたりするありさまなんですから、歴史の難しさを思うんです。さらに昔となると、古文書だけの資料とわずかな考古学的検証しかないわけだから、大ざっぱなことしか分からないのではないのだろうか?なぜあんなに何年何月何日、何々があったと断言出来るのかと不思議に思いました。ですから歴史の教科書は一体どのようにして作られるのか?と思っています。科学、数学等は人類の知識の産物だから分かるが、歴史となると人間の感情が入って時代とともに変わるようでは、科学的な学問でない気がします。違うのだろうか?

というのは、歴史を科学的に検証しようとしても強固に否定したり政策にも使われたりして村山談話に使われたりしているから、そう感じました。

A 回答 (14件中11~14件)

研究者は真理を追究するのが仕事です。

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確かに歴史は必ずしも正確なものではないようです。


例えばずっと教わってきた鎌倉時代の始まりは1192年ではなく、最近の研究ではそれ以前から実質的に始まっていたというのが主流の説となっています。
教科書に載っている西郷隆盛や源頼朝の肖像画も本人のものではないようですし、日本にとって重要な天皇家の系図にしたって、初代天皇の神武天皇は多くの研究者が懐疑的見解なのに、未だに歴史の教科書に記載されています。

歴史なんて歴史上の勝者が作り上げてきたものですから、いつかの時点で歪曲されていても道理というものです。
ちなみに、個人的に思うのは蘇我氏の名前には疑問を感じます。
大化の改新によって暗殺された「蘇我入鹿」や、その子「馬子」。大切な我が子に「鹿」だとか「馬」だなんて名前を付けるとは考えにくいし、これは勝者である藤原氏が後世の歴史書に名前を改ざんして記述したのではないかと邪推してしまいます。
卑弥呼にしたって、未だに当時の中国人が適当につけた漢字表記のままだし、本来の意味からしたら「日巫女」や「姫巫女」のようにするのが妥当ではないでしょうか?
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この回答へのお礼

やはりそうなんでしたか。このようなこと初耳でした。ありがとうございます。

蘇我とか物部、聖徳太子、秦河勝、卑弥呼って謎だらけですね。。
「大化の改新によって暗殺された「蘇我入鹿」や、その子「馬子」。大切な我が子に「鹿」だとか「馬」だなんて名前を付けるとは考えにくいし、これは勝者である藤原氏が後世の歴史書に名前を改ざんして記述したのではないかと邪推してしまいます。」確かにそうですよね。。

お礼日時:2009/04/05 19:06

結論から言うとあらゆる学問に絶対の正解はないだろうと思います。


数学は絶対の正解があると思われるでしょうし、
1+1=2だと思われるでしょうが、
これは前提をそう決めているからで何らかの事情で前提を変えた場合1+1は2にならない可能性があります。
数学の基本はたぶん物理現象から前提を作っていると思うのですが、(りんご一個を1とするというような話から)数学の前提では点というのは面積が0だったりしたはずです。
でもこれは現実には不可能でどんな点も点を打てば絶対に面積を生じます。ゆえに数学を物理に応用すると誤差が出るのです。
その誤差の範囲が正しいと思うか間違っていると思うかの違いではないかと思います。
物理ではプレートテクニクス論とかほとんど確定のように言われていますが、反論の余地が残っているのは誤差の問題です。
歴史も同じで誤差の範囲でたとえば1789年7月14日にバスティーユ監獄が陥落したという歴史事実はニュースとして新聞が国内外で書き立てているとか、その三日後にイギリス大使が本国に事件のあらましを述べた手紙を送っているとか、証拠がいっぱいあるので本当だろうと思われるもので、それでも本当だというには足りないと思えばその人にとっては容認できる誤差の範囲外ということだと思います。

さて、歴史の事実はこういった物理と似た誤差の問題なのですが、
この解釈になると問題が変わります。たとえば上記バスティーユの陥落をフランス革命の始まりと見るかどうかとなると、問題が変わります。
これは誰にも決定できない人の頭の中の話だからです。
たぶん当時でもこれが始まりだと思った人もいれば集大成だと思った人もいるでしょう。
人文系学問と自然科学の違いはここにあるのじゃないかと思います。
談話で使うのはこの解釈の問題です。
これはもう人によって違うので全員正しいといえるし全員間違っているともいえます。
ここにいたっては科学的といえないでしょう。
(まあアナール学派とか数量的に人の思想を(葬式におけるミサに払った値段から信仰心の変移を調べるとか)調べている人がいるのでそういうのはある意味科学的かもしれない。)
科学的じゃないなら学問として存在しえない。というかと思われますが、これは私には否定したい。
(人によっては哲学は科学として成り立たないから廃絶すべきという人もいますが)
自然科学がモノを提供するなら人文はそれをどうすればいいのかを提供するものだと思います。
コンピューターでいうと、自然科学がハードなら人文はソフトの部分を担っていてどっちがかけても困ると思います。

歴史哲学としてはEHカーという人が「歴史とは現在と過去との対話である」(「歴史とは何か」岩波新書)といっています。そして未来を考えることだというようなことをいっていますが、歴史とはそんなものではないかと私は思っています。(興味があれば考えさせられる名著なのでお読みください。)
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この回答へのお礼

学問についての哲学的な考察どうもありがとうございます。

大変ためになりました。やはり奥が深いと考えさせられました。物事は単純ではないんですね。。「歴史とは現在と過去との対話である」(「歴史とは何か」岩波新書)のお勧めもありがとうございます。機会があれば読んでみます。

お礼日時:2009/04/05 18:59

超最近の北朝鮮のロケットも、ミサイルという人と人工衛星という人がいるくらいですから、歴史は幻想です。


 歴史学の正確さに疑問を持つ人は、歴史を考えないほうが良いとおもいます。歴史を考えなくても生計のたつ職業は沢山あります。
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この回答へのお礼

そうですよね。北朝鮮の歴史では、2009年4月5日人工衛星発射実験成功ということになりますね。

それで、歴史は国家のための貴重な財産と思うんです。「民族を滅ぼすには、その民族の歴史を抹殺すればいい」という格言があって、GHQが日本の歴史の抹殺を図ったために、今の腐敗堕落した日本に陥ったと。ですから、正しい日本の歴史を取り戻して、本来の日本を取り戻すしかないという主張があります。ここはそういう議論ではなく、科学的な歴史の考察は出来るのだろうか?という質問に限定します。よく太古の昔の何年何月何日に何々があったということがよく分かるのが信じられないです。

お礼日時:2009/04/05 18:26

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