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明治以来続いてきた法隆寺の再建・非再建論争が、年輪年代測定法によりほぼ決着した、とのニュースがありました。心柱が西暦594年、垂木ほかが663年などでした。垂木や化粧裏板はそうっーと抜き取り、調査したあと元へ戻すこともできるでしょうが、心柱の試料はどうしたのでしょうか。
NHKの映像で見る限り、直径数十センチ(あるいはそれ以上)、厚さ十数センチの試料によったようですが、法隆寺は現存する建物です。まさか、輪切りにして積み木倒しのように取り出したのではないと思います。最頂部に遊びがあってそこを切り取ったのでしょうか。それとも、明治以降に大規模解体修理があって、そのときに切り出したのでしょうか。

A 回答 (2件)

 下記ペ−ジ等によると,『1943年から1954年までの解体修理で、腐食していたため取り出され、京都大で保管されていた心柱の標本』を使ったようです。



 ・http://www.google.co.jp/search?q=cache:LUVfMqC4f …

 ・http://www.mainichi.co.jp/eye/yoroku/200102/22.h …

 その他,「Google」で「法隆寺 年代測定」を検索すると幾つかヒットします。
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この回答へのお礼

戦時中から終戦直後の動乱期によく解体修理などできたものですね。意外でした。
ありがとうございました。

お礼日時:2003/07/16 14:42

時代の下がった塔の場合、心柱は初重までというのが


一般的ですが、法隆寺の五重塔は心柱が基壇まで届いています。
解体修理の時に、基壇部分が腐っていたので修理したと聞いた事がありますので、その時に試料として切り出したのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

調査のためにわざと切り出したのではなく、腐食して取り替えた部分を遺してあったのですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2003/07/16 14:39

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