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江戸時代の農民と差別されていた人の
髪型について調べています。

服装も差別化されていた時代なので
武家と同じ髪型というのもおかしいと思うのですが
なかなか調べてもわかりません。

もちろん、江戸時代と言っても長いので
流行はあったでしょうが、基本的なもので構いません。

男性、女性それぞれについて
詳しい方、教えていただけると助かります。

よろしくお願いします。

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A 回答 (2件)

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>江戸時代の農民と差別されていた人の
髪型について調べています。

農民は江戸時代は、おしなべて、
男子・・・月代(さかやき)は剃らず後頭部に小さな丁髷を結いました。
     庄屋などになると、武士と同じように月代を剃り、後頭部に小さな髷を結いました。
     非人は、江戸の場合では、奉行所の手伝いなどもさせられていましたので、ザンバラ髪に後頭部に小さな髷を結いま     した。
     穢多(えた)はザンバラ髪でした。

女子・・・総じて髪は結わず長いまま紐などで縛っていました。伸びるのにまかせていました。
     庄屋の奥方になると、高島田を結っていました。
     高島田も江戸時代の後期になると、100種類位になり町家の娘などは自分の気に入った高島田を結うよいなりまし      た。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

詳しい説明助かります。
「ザンバラ」というのは、坊主頭が伸びた感じでしょうか…
現代の男性に近かったのかもしれませんね。
「ザンバラ髪」を詳しく調べてみます。

農民と差別されていた人でも違うのですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2011/09/30 17:39

 大雑把なのでご自身で調べてもらう必要がありますが。


 時代考証関係の本では…
 正式の武士は髪型は決まっていたらしく、定期的に床屋で整髪しておく義務があったそうな。
 だから浪人になると、整髪は自分でやることになるのでTVで見るような、一ヶ所をくくっただけの形になったらしい。
 (なんでも刀の持ち方にも規定があったそうです。)
 女性の場合も既婚と未婚は違っていたそうです。

 http://www5.ocn.ne.jp/~ukiyo26/onna_3.html
 http://www.cosmo.ne.jp/~barber/kamigata.html
 http://www.cosmo.ne.jp/~barber/kamigat2.html
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    • 1
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

髪型のURL付けてくださり助かります。
ただ男子の髪型など種類は多いですが
農民など階級の違いが分かるともっとよかったのですが…

参考にさせていただきます。

お礼日時:2011/09/30 17:35

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Q江戸時代頃まであった総髪という髪型

昔の男性の髪型の「総髪」というのは、確か学者とか医者などの髪型だったと読んだことがあります。
幕末には、新撰組もそうですが、剣客にも総髪の人が多かったようですが、これはどういう理由からですか?

また、総髪という形で、頭頂部あたりを剃らずに髪を残したのはなぜでしょうか?

Aベストアンサー

武士が月代を剃るのは、「戦の時は兜を被るから」です。実際は兜を一度も被らずに死んでいく武士も多かったでしょうが、武士である以上は「お召しがあればいつでも戦に出る覚悟」を示す象徴として月代を剃りました。

本来「武士以外の人」は月代を剃る合理的な理由はありません。ただ、江戸時代の平民で月代を剃るのはごく普通の風俗であったようです。以前「兜を被るはずのない平民が月代を剃るのは、『まともな人間』であるとアピールするため」という回答がありましたが、当時の平民に聞けば「他の人が剃っているから俺も剃る」と言う回答しか返って来なかったのではないでしょうか。

一方、武士と全く別な社会に生きている、武士の支配下には属さない公家や神官は月代を決して剃りませんでした。これは「武士の習俗は公家や神官には関係ない」からで、当たり前のことです。

「また、総髪という形で、頭頂部あたりを剃らずに髪を残したのはなぜでしょうか?」
質問の意味が良く分かりませんが、月代を剃らないのが総髪ですから…現代の男性で、自由業の方で髪を長くして後ろで結んでいる人がいます。あれをもっと長くして、髪を油で固めて後ろを持ち上げ、上の方で結べば「総髪」になります。

現代の「長髪男性」のように後ろで下向きに結ばないのは、公家や神主は冠(烏帽子)を被るからです。この場合、髪の毛を油で固め、結び目(髷)が上の方にあると、上からスッポリ冠などを被ることができます。

雛人形のお内裏様(親王様)が、冠を被っていない状態の写真
http://images.pingmag.jp/images/article/dolls09.jpg
を見てください。これが要するに「総髪」です。頭がこのような状態になっていないと、冠が上手く載りません。

武士が月代を剃るのは、「戦の時は兜を被るから」です。実際は兜を一度も被らずに死んでいく武士も多かったでしょうが、武士である以上は「お召しがあればいつでも戦に出る覚悟」を示す象徴として月代を剃りました。

本来「武士以外の人」は月代を剃る合理的な理由はありません。ただ、江戸時代の平民で月代を剃るのはごく普通の風俗であったようです。以前「兜を被るはずのない平民が月代を剃るのは、『まともな人間』であるとアピールするため」という回答がありましたが、当時の平民に聞けば「他の人が剃っ...続きを読む

Q江戸時代の女性の髪の結い方

ふと疑問に思ったことがあります。
江戸時代の女性達(町人など)は、時代劇や大河で見ると皆同じような髪型をしていますよね。
確かに身分の違いや、その時の流行、年齢によって変化があり、島田髷や丸髷という種類も知っています。
しかし、はたから見たら髪がどのような構造になっているか分かりません。
毎日あのような髪型にしているとしたら、女性達は朝時間がかかってしょうがないとも思います。
現在の私達も、長い髪の方でしたら自毛で同じような髪型に出来るのでしょうか。

そこで、髪を垂らした状態から、島田髷やそういう髪型にできる詳しい手順を知っている方、またはそのようなサイト様があったら教えてください。
また、当時モテる髪型などという物もあるのでしょうか?
特に幕末の女性達の髪型について興味があります。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

テレビの時代劇の髪型のバリエーションは非常に少ないです。
実際には時代により、地方により、もっと変化に富んでいたようです。
京都の髪型とか、江戸の髪型とか。
昔、古語辞典で男性の鬢(びん)の細い結い方の絵図を見たことがあるので、男性も「あの髪型(テレビで見る)」でない髪形があったのでしょう。

>現在の私達も、長い髪の方でしたら自毛で同じような髪型に出来るのでしょうか。

結う技術のある人に結ってもらえば出来ます。
(自分は詳しく知りませんが)
江戸東京博物館のミュージアムショップで面白い本を売っていたので買いました。
髪型や服装など。
現代の女性が実際に結い髪にしている写真が出ていました。
この本かな?
「日本の髪型―伝統の美 櫛まつり作品集」京都美容文化クラブ
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%AB%AA%E5%9E%8B%E2%80%95%E4%BC%9D%E7%B5%B1%E3%81%AE%E7%BE%8E-%E6%AB%9B%E3%81%BE%E3%81%A4%E3%82%8A%E4%BD%9C%E5%93%81%E9%9B%86-%E4%BA%AC%E9%83%BD%E7%BE%8E%E5%AE%B9%E6%96%87%E5%8C%96%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%96/dp/4838199023
マンガを描く人にも参考になりそうだなと思いました。
古代の髪型も出ています。山岸涼子さんチックな。

こんなサイト発見。
http://www5.ocn.ne.jp/~ukiyo26/onna_3.html
検索してみると意外といろいろなサイトがあるようです・・・・
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&client=firefox-a&channel=s&rls=org.mozilla%3Aja%3Aofficial&hs=rQr&q=%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%80%80%E9%AB%AA%E5%9E%8B&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=

テレビの時代劇の髪型のバリエーションは非常に少ないです。
実際には時代により、地方により、もっと変化に富んでいたようです。
京都の髪型とか、江戸の髪型とか。
昔、古語辞典で男性の鬢(びん)の細い結い方の絵図を見たことがあるので、男性も「あの髪型(テレビで見る)」でない髪形があったのでしょう。

>現在の私達も、長い髪の方でしたら自毛で同じような髪型に出来るのでしょうか。

結う技術のある人に結ってもらえば出来ます。
(自分は詳しく知りませんが)
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Q日本髪の規制

江戸時代は髪型についても町人女性は~髷にしなさいとかお触れが出てたのですか?それとももっと髪の部分的な指示で規制してたのですか?

Aベストアンサー

日本は民衆に小うるさい規制をかけたがる国です。とくに江戸時代は世界稀にみる細かさではないでしょうか。
軍事官僚体質なんです。

着物や食べ物は、身分・格式に応じてかなり細かい規制があったようですが、髪型は比較的緩かったようですね。

調べてみたら髪型関係禁令に関するサイトがありましたので参考にしてみてください。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru_reply.php3?q=1618678

また同じ軍事官僚体質の明治以降の(一部現在でも続く)義務教育の中でも髪型・服装を細かく規制する制度が残っていることから、法律等による規制だけではなく、社会的な規制も多かったと思われます。
また、渋染一揆でもわかるように、幕府だけではなく藩による地域規制も多くありました。

余談ですが、規制を好む体質は権力者であり、庶民は禁令の網目をくぐりながらお洒落や遊びを楽しんだようです。色まで決められて絹が禁止されると、絹より高価な染め方の綿製紬が流行したりと、そう簡単には規制されてばかりではありません。

Q江戸時代迄の洗髪に関して

時代劇などを見ていると、女性・男性共に髪を結っていますが、
その髪を結いなおすなんて毎日やるようなことではないですよね?
だとすれば今で言うところのシャンプー(洗髪)もその結いなおしの
時にしかできないのだと思うのですが、それだと3日もすれば髪の臭いが
かなりひどくなると思うのです。
結いなおしをどの程度の間隔で行っていたのかはわからないのですが、
当時の人たちは臭い髪のまま普通に過ごしていたのでしょうか?

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。
ご質問の件ですが、時代劇・・・ということから、江戸時代についてお話をさせていただきます。

まず、庶民に限って言えば、髪を洗うのは、大体1ケ月に1回位でした。
当然、あなたの言われるように、3日もすれば・・・ですが、そうした匂いを隠すために、裕福な家庭では「伽羅油(きゃらゆ)」で、一般的には「五味子(ごみし)」という匂いの強い整髪剤を使っていました。

五味子・・・マツブサ科の植物で赤い実を葡萄のようにつけます。酸味が非常に強く、また、苦い。実や葉、茎から、やや「ネバネバ」した汁が採れる。しかし、整髪剤にだけではなく、実は乾燥させて、肝臓や肺臓の薬としても用いられました。

また、シャンプーの代わりとして用いられたのは、「ふのり」「うどん粉」「卵の白味」「椿油の搾りかす」などでした。

男性の場合:
すでに江戸時代初期から「髪結床」があり、橋のたもとや四辻(十字路)などの「露天」で商いをしていました。やがて、時代が安定してくると、自宅営業が主流となりましたが、「廻(まわ)り髪結」といって、出張営業する者もいました。この「廻り髪結」は大店の主人や割合経済状態の良い旗本などを「お得意様」として、2~3日に1回、または、かなりの「おしゃれ」な主人になると毎朝、髪結を呼んで整髪(月代=さかやきを剃ったり、髪型を整えたり)させました。

女性の場合:
昔からの慣わしで、髪を自分で結えて、初めて「一人前」と言われ、自分で鏡を見て結うのが「嗜み(たしなみ)」とされていました。しかし、いつの時代でもファッションには余念がなく、髪型は、100種類以上にものぼり、女性専用として「女髪結」も登場するようになりました。だが、幕府は「女髪結」は一種の「贅沢」とみなし、たびたび「禁止令」を出しています。従って、「女髪結」は、もっぱら、隠れての「廻り髪結」で、自宅営業はできませんでした。

(よもやま話)
1.風呂は、おおよそ、各町内に1軒はありました。江戸で火災が起きると、一気に広範囲に焼失しましたので、防火の観点から、自宅に風呂を造ることは禁じられており、かの有名な大店「三井越後屋(現:三越)」の店員でさえ、風呂屋に通いました。
2.また、江戸では「神田上水」などができると、まあまあ、水の便は良くなりましたが、「薪」は近隣の農家から買い付けるので途轍もなく高かった。
3.そこへいくと、風呂屋は、と、言うと、8文位で「蕎麦」の16文の半分だったので、ご隠居風情になると、朝夕に風呂通いをしました。
4.「女髪結」が唯一「黙認」されたのは、芸者の髪を結うことでした。「吉原芸者」や「深川芸者」などの髪を結うのは「女性」に限られていました。男性が芸者の髪を結うと、今度は逆に「風紀上よろしからず」との禁止令が出されていました。
5.女性のヘアスタイルを大きくかえるきっかけとなったのは、江戸時代初期に有名になった「出雲の阿国」だと言われてています。歌舞伎の前進といわれる「お国歌舞伎」を踊り、阿国が男役を演じ、夫の名古屋三郎が女役を演じました。この時の阿国が結った髷(まげ)を「若衆髷(わかしゅまげ)」と呼び、女性の間で大流行しました。やがて、「島田髷」などが出現し、寛永年間(1624~1643)ころには「兵庫髷」という、頭の上で「輪」を一つ作ったような髷が流行。元禄時代(1688~1703)ころには「元禄島田髷」。明和年間(1764~1771)ころには、浮世絵に出てくるような「春信風島田髷(はるのぶふうしまだまげ)」。江戸後期~明治初期には、芝居の「お染久松」でお染が結っていた「おそめ髷」などと変遷していきました。
6.髪結床は株仲間組織になっており、「株」がなければ営業はできなかった。しかし、天保の改革(1841~1843)により営業は自由となった。料金は28文が相場だった。
7.徒弟制度も厳しく、まず「小僧」が客の元結(もとゆい)を切り、髪を梳(す)く。次に「中床(なかどこ)」が月代(さかやき)と顔を剃り、髪を仮元結で結ぶ。最後に「親方」が仕上げをした。
8.おもしろいことに、町奉行所またはその近辺で火事があると、髪結床が「梅床」とか「亀床」などという提灯をかざして、「駆けつけ、駆けつけ」と叫んで奉行所に向かった。現代の消防車のようなもので、皆、道を空けたという。なぜ?・・・というと、男衆が何人もいる商売は髪結床しかなかったからです。でも、力仕事なら大工は・・・と、いうと、現場がバラバラで集まりにくかった。そして、奉行所の書類は常に箱に入れられ麻縄がかけられており、次々と運び出したという。
9.風呂屋での洗髪は「ご法度」でした。これは、湯をたくさん使うことから、男も女も禁止されていました。唯一、頭を洗えたのは坊主頭にした「あんま」くらいのものでした。
10.では、どこで洗髪を・・・と、言うと、自宅でお湯を沸かして洗髪しました。夏には盥(たらい)で行水をし、洗髪をしました。

まだまだ、おもしろそうな話はありますが、あなたの「答」になっていたでしょうか。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。
ご質問の件ですが、時代劇・・・ということから、江戸時代についてお話をさせていただきます。

まず、庶民に限って言えば、髪を洗うのは、大体1ケ月に1回位でした。
当然、あなたの言われるように、3日もすれば・・・ですが、そうした匂いを隠すために、裕福な家庭では「伽羅油(きゃらゆ)」で、一般的には「五味子(ごみし)」という匂いの強い整髪剤を使っていました。

五味子・・・マツブサ科の植物で赤い実を葡萄のようにつけます。酸味が非常に強く...続きを読む

Q江戸時代の服装について

江戸時代の商人、町人、武士、農民、役者、遊女などの格好について調べています。
旅装束や、夏服、冬服の違いや、まげの種類など、ありとあらゆる江戸時代の人々の格好が載った参考文献(できれば図解的なもの)を探しています。
何か良い資料がございましたら、ぜひ教えて下さい。
全てを網羅していなくてもよいのでお願いします。

Aベストアンサー

この絵巻をまずご覧になってはいかがですか。
図書館にあると思います。

『大江戸日本橋絵巻 『煕代勝覧』の世界』
http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2113724

とにかく鮮明できれいです。
そして、正にありとあらゆる人びとが登場します。
注釈がついていますが、服装の細かなところまでは説明されていません。
商店や扱い商品の説明は詳しいです。

この絵巻の一部です。
http://www.jmrlsi.co.jp/menu/mnext/d01/2006/meti200606_01.html

脚に障害のある人かあるいは脚の萎えた人かも知れませんが「いざり車」に乗っていますね。

この本も参考になると思います。
『江戸おしゃれ図絵』
http://shop.kodansha.jp/bc/books/topics/edo/

Q江戸、幕末の治療について

幕末の時代について、質問があります。
あの時代の怪我の治療は、どのように行われていたのでしょうか?消毒薬、包帯等今と同じような形であったのでしょうか?包帯なんかは時代劇でも普通に出てくる気がしますが・・・深い傷はぬったりもしますよね。
ちょっとした疑問ですが、よろしければ教えてください。

Aベストアンサー

戦場で受けた外傷の手当ては焼酎で消毒してサラシで
きつく縛る以上の手当ては出来なかったようです。
江戸時代初期に南蛮医術に続いてオランダ医学が伝来したので、当時のヨーロッパで知られていた薬やメス、包帯類は数が少なく貴重品であったにせよ、日本でも使われていたと考えられます。しかし、戦場では昔ながらの
傷の手当以上のことは出来なかったでしょう。外傷には
小便や馬糞が効果があるなどの記述が時代小説などに見られます。オランダ医学が盛んになるまでは日本の医学は漢方中心ですが、漢方は内服薬で自然に健康体を作る
という考え方なので外傷には効果が少なかったようです。なお手術に欠かせない全身麻酔を初めて実用化したのは幕末の医師華岡青洲です。江戸時代といえどもオランダ医学を学んだ医者のいるところでは当時の西洋並みの治療が行われていたと考えていいでしょう(設備の差はあっても)

Q武士のチョンマゲについて教えて下さい

時代劇を見ていて不思議に感じる時があります。

チョンマゲについて詳しくはないのですが、まず城内のシーンでは大体の武士は月代をきれいに剃った、普通のチョンマゲで登場しますよね。 名前は分かりません。 大名でも旗本でも、下級武士でも同じスタイルです。 

その一方、いわゆる 「茶筅髷」 で登場する武士もいます。 伊達政宗公がそうだったような ・・・

また将軍というか殿様は結んだ髷を頭頂部に乗せないで、後頭部でピンと垂直に立てたスタイルで登場します。 志村けんのバカ殿様を思い出して頂ければ分かると思います。

これだと同じ場面で3種類のチョンマゲのスタイルが存在する事になるのですが、まずこれらは時代考証として正解ですか?

仮に正解だとして、城内に上がる時のチョンマゲのスタイルは自分で勝手に選択できる事になるのですが、本当にそうだったのですか?

それと殿様のチョンマゲですが、これは将軍にしか許可されていなかったのでしょうか? 下級武士や町人がふざけて真似をしたら打ち首になるでしょうか?

宜しくお願いします。

Aベストアンサー

私も研究途中なのです。
参考になるサイトって、皆無ですね。
本しか、参考になるものがありません。
そして、資料の少なさ故に、裏をとるにいたっていませんが、それでよろしければ。
茶筅まげは、正式のものではなく、バサラを気取りたい時にするまげだと思います。
信長、政宗も目上の人(斎藤道三、豊臣秀吉)に対面したときは、もっと、きちんとした、髷に結いなおしたと思います。
茶筅髷は、「花川戸の助六」なんて、ご存知ないですか?
武士の身分は、持っていても、「漢」を気取りたい人がしゃれでやったもので、町人がするなど、もってのほかだったと思います。
きちんとした、殿様などは、若い武士が、変な髷をすることを嫌い、切腹させた例もあるということです。
ちょんまげの種類は、3種どころではありません。
町人、百姓、若い、年寄りでも違います。
武士で、プライベートで、ふざけた髷をしていても、登城する時は、きちんとしていたはずです。
それでも、目はつけられますから、リスクは覚悟の上で。
と、いうことです。
なぜ、ちょんまげが、発生したかというと、兜をかぶるためです。
兜をかぶる必要がなくなっても、なぜ維持されたかというと、身分を自分から、名乗るためです。
不要なトラブルを避けるためだと思います。
幕末は、武士の身分でない、土方歳三なども、平気で、武士の髷を結っていましたが、これは、規律が崩れていたから黙認されただけです。
それより前に自分の身分でない髷を結うことは、身分詐称ということで、罰せられると思います。

私も研究途中なのです。
参考になるサイトって、皆無ですね。
本しか、参考になるものがありません。
そして、資料の少なさ故に、裏をとるにいたっていませんが、それでよろしければ。
茶筅まげは、正式のものではなく、バサラを気取りたい時にするまげだと思います。
信長、政宗も目上の人(斎藤道三、豊臣秀吉)に対面したときは、もっと、きちんとした、髷に結いなおしたと思います。
茶筅髷は、「花川戸の助六」なんて、ご存知ないですか?
武士の身分は、持っていても、「漢」を気取りたい人がしゃれ...続きを読む

Q庄屋・名主

庄屋・名主は自分では田畑を耕作することはなかったのでしょうか?
彼らは日頃どんな仕事を行っていたのでしょうか。

Aベストアンサー

庄屋は基本的には農民ですから庄屋も自身の田畑を耕作します。読み書き・計算は必須でしたのでどうしても富裕な農民(地主や豪農)から選ばれることになります。
たいていは世襲制ですが、数年毎の選挙で選ばれる村もありました。世襲制の村でも何かの都合で交代することもありました。
藩(武士)からすると年貢がスムースに収納できるのなら村の支配がどうであろうとあまり関与しなかったようです(面倒だったという理由もあるでしょう)。つまり村の自治は現在の我々が想像する以上に大幅に認められていたようです。その分庄屋の責務は大きくなります。
庄屋の業務は諸事万端です。村人からの色々な相談に応じることに始まり、出生や婚姻などの戸籍業務、道路や水路の修理・新設の計画など色々です。こういった経費は原則的には村の負担ですが、藩からも出ました。その折衝も重要な仕事です。藩からいくらの金を出させるか--庄屋のウデだったようです。
農作業の計画を作るのも庄屋が中心でした。例えば田に水を入れるのは勝手には出来ません。ひとつの地域ごとに同時にせねばならず、このようなスケジュール調整も庄屋が主導していたようです。
旅行手形を作ったり村人の結婚に対して転入・転出の書類も作ります。村人同士の証文に署名することもありました。土地取引ではその土地の「高」で価格が決まりますが、その「高」を証明するのも庄屋の役目でした。

庄屋は基本的には農民ですから庄屋も自身の田畑を耕作します。読み書き・計算は必須でしたのでどうしても富裕な農民(地主や豪農)から選ばれることになります。
たいていは世襲制ですが、数年毎の選挙で選ばれる村もありました。世襲制の村でも何かの都合で交代することもありました。
藩(武士)からすると年貢がスムースに収納できるのなら村の支配がどうであろうとあまり関与しなかったようです(面倒だったという理由もあるでしょう)。つまり村の自治は現在の我々が想像する以上に大幅に認められていたよ...続きを読む

Q江戸時代、えた・ひにんの人ははどうやって選ばれたのか?

江戸時代に士・農・工・商・えた・ひにんなどの身分制度が出来ましたが、このえた・ひにんに該当する人たちは、どうやって決定されたのでしょうか?
中学校では「時の権力者が世の混乱を治めるために低い身分の人を作って不満のはけ口にした」などと習った気がします。しかし、この"低い身分"の人たちはどのようにして選ばれたのでしょうか?貧しい農民をこの身分に割り当てたのでしょうか?私の思いつきでは前科のある人やその家族などをこの身分にしたのではないかと思ったのですが、実際はどうなのでしょうか?

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

まず、身分制度についてですが、士・農・工・商ですが、次にくるのは「非人」「穢多(えた)」の順です。

で、ここで、あなたの質問に答えるとしたら、地方の成立は雑多な部分もありますので、話が長くなります。そこで、江戸および江戸時代についてのみお話をいたします。

確かに、士農工商の序列ではありましたが、実際としては、士・工・商・農、という序列が正しいと思います。

年貢(税金、または、武士の給与)確保のため、武士の次に農民が位置しましたが、士農工商で一番苦労したのは、農民でした。

まず、「非人」について:

元々は「人非人」あるいは「僧侶」の意味でした。つまり、人間界を捨てた「世捨て人」のことを指しました。やがて、賎民(せんみん=貧しい人)を指すようになり、中性では「穢多」と混称されるようになってきました。しかし、江戸時代に入ると両者は「厳密」に区別され、「非人」は良民(平民)のなり下がりとして位置づけられ、良民への復帰の道が開かれていました。
「穢多」と違っているところは、「皮細工等の生産に従わず」卑属な遊芸や物貰いの独占権を持ち、「穢多」よりも上位に位置していました。

「非人」にも2種類あり、「抱非人(かかえひにん)」と「野非人(のひにん)」とに分かれていました。

「野非人」は今日で言われる「路上生活者」。つまり、ホームレスで、主に、農村部で飢饉や病気などにより年貢が納められなくなった者が「人別帳」を離れて江戸へ流入した者たちでした。つまり、「無宿者」と同じ考え方です。江戸でも厳しく取り締まりをし、一定の区域に住まわせたりしましたが、効果はなく、後の、「無宿狩り」などへと発展していきました。

一方、「抱非人」は、例えば、
(1)姉妹伯母姪と密通した者。
(2)男女の心中(相対死)で女が生き残った場合。もしくは、両人とも生き残った場合。
(3)主人と下女の心中で主人が生き残った場合の主人。
(4)15歳未満で無宿の子どもが盗みをした時。
などとなっていますが、
非人小屋頭が江戸の各地にあり、そこの頭の支配を受けていました。この非人組頭の頂点に「弾左衛門」という人物がおり、その支配下に「頭」と呼ばれる者が4~5人いました。最も有名なのは、荒川土手(地名は分かってはいますが、人権に関わることなので、ここでは、あえて、荒川土手とします)に木組みと筵(むとろ)で住まいを造り、痩せた土地を開墾し、非人同士が結婚して子どもが生まれても、その子どもも非人でしかなかったのです。

まあまあ、幅を利かしていたのが「車善七」率いる人たちでした。

非人の生計としては痩せた土地から得るものは少ないので、主に「物乞い」でした。江戸時代、非人以外が「物乞い」をすると、逆に、罪になりました。また、街角の清掃、門付(かどづけ)などの清めに関わる芸能を披露。そして、街角の清掃に付随して紙くずを拾って、それを発展させて「再生紙」造りにも寄与しました。(現代のリサイクルの先駆け?)。さらに、町役の下役として警備や刑死者の埋葬、また、斬首の刑(首切りの刑)などでは、罪人を押さえつけたり、その後の死体処理をしたり、入牢した者が病気に罹った時の看病。少年犯罪者の世話などに従事しました。

そして、「非人」は、上記(1)~(4)などの罪で非人になっても、家族や親類縁者が、多少の「銭」を支払うことで、平民に戻れたのです。

そこへいくと、「穢多」は、「非人」よりも、さらに下位に置かれ、町民の住居からは、かけ離れた場所に、一箇所に集めて住まわされました。その条件?としては、「非人」の中でも、さらに「素行」が悪く、「非人の秩序」を乱す者などが対象でした。しかし、支配をしていたのは、やはり、「非人組頭」の弾左衛門でした。

彼らは、例えば、死んだ牛馬を百姓から貰い受け、その肉を食い、皮は皮製品などにしました。この斃牛馬(へいぎゅうば=死んだ牛馬)の取得権は「穢多」の何よりの独占権でした。
その他にも、藁(わら)細工、燈心細工、破魔弓矢(はまゆみや)細工等簡単な手工業的生産に携わりました。

この「穢多」の歴史は、戦国時代に戦国大名から鎧(よろい)や鞍(くら)などの武器としての皮製品調達のために、当時は長史(ちょうし=村のまとめ役)に皮製品の上納を命じたことに始まる、と、されています。その見返りとしては、年貢を安くしてもらったり、とかの恩恵も与えられました。

しかし、江戸時代に入ると、「穢多」は、、「士農工商・非人・穢多」と「非人」より下位に位置づけられ戦国時代と同じような職業に従事し、一生涯「平人(ひらびと、または、ひらんど)=庶民」に戻ることはできませんでした。

こうした「非人」や「穢多」は、収入があってないようなものでしたので、租税を課せられることもなかったので、やがて、その租税免除により、幾らかでも貯えをし、土手などから、平地に土地を持つ者も出始め、大きな意味で「部落」ができました。

そして、明治4(1871)年に制定され、明治5年に編成された、いわゆる、壬申戸籍(じんしんこせき)には、「皇族」「華族」「士族」「卒」「地士」「僧」「旧神官」「尼」「平民」「新平民」「非人」「穢多」などという「階級」が書かれており、当時は、まだまだ、身分制度が色濃く残っており、しかも、誰でもがこの戸籍を閲覧することができました。

しかし、昭和43(1968)年に、差別部落の人を探し出す事件が発覚し、大企業での採用取り消し、部落民との結婚禁止などという事件が発生し、同年、「閲覧」および「公開」を禁止し「永久封印」とされました。

とは言うものの、現在に至っても、「部落名」を聞いたり、そこに代々住んでいたということで、「偏見の目」が向けられ、現在、「部落開放運動」や「同和問題」が今なおクローズアップされているのが現状です。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

まず、身分制度についてですが、士・農・工・商ですが、次にくるのは「非人」「穢多(えた)」の順です。

で、ここで、あなたの質問に答えるとしたら、地方の成立は雑多な部分もありますので、話が長くなります。そこで、江戸および江戸時代についてのみお話をいたします。

確かに、士農工商の序列ではありましたが、実際としては、士・工・商・農、という序列が正しいと思います。

年貢(税金、または、武士の給与)確保のため、武士の次に農民が位置し...続きを読む

Q江戸時代のちょんまげは何故頭そる?

戦国時代の武将はかぶとを被ったとき蒸れないようにちょんまげにしていましたが、そってはいません。
なぜ江戸時代のちょんまげはそっているのですか?
例 水戸黄門
seriba0082様 間違ってポイントつけれませんでした。
ごめんなさい。

Aベストアンサー

なぜ剃るか?

かっこいいからだよ。言い方を変えると「流行だから」

近世においては、身分制は外見によって明示されることを前提にされていました。○○な髪型をしていれば、身分は○○というのがはっきりしています。
功労のあった農民・町民に「名字帯刀を許す」というのがありますが、名字なんてもっていたわけで、それを外部に対して表明してもいいよ!というのが名字帯刀。帯刀は名の通り、刀を帯びてもいいよということ。
やくざが「ナガドス」でチャンバラしますが、あれは太刀ではなく、ドスの長いものであり、見れば「あら、この人は武家じゃないのね」というのが分かったわけです。

ということで、身分制として外見が規定されていたから、剃っていたということになります。
平たく言うと「流行」だから。

ズボンをおろし気味にはいている若者がいますが、あれは「なぜ?」と言われても理由はない。
「おれは、かっこいいんだ」と主張しているだけですので、そこに具体的な利便性はない。


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