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先日、鈴木福の主演で一休さんが放送されました
思ったよりアニメに忠実で
内容としては悪くは無かったな…と言う感想でした

ただ、キャラでは安国寺の小坊主で
鉄斎が…さよちゃんの飼い猫のタマが出てない事

それに残念なのがOP曲が
♪とんちんかんちん一休さん♪では無く
♪証城寺の狸囃子♪の替え歌だったのが
消化不良でした

しかし、消化不良は別として
1つ不思議な設定だったのが
将軍様こと足利義満の住まいです

アニメでも、一般でも義満の住まいは金閣寺の筈ですが
ドラマでは京都御所が住まいの設定
これは、アニメで一休さんの声が担当だった
声優、藤田淑子氏のナレーションでもハッキリと
京都御所が住まいと語ってました

そこで聞きたいんですが
これは実際の歴史上、義満が京都御所に住んでた…
なんて事は考えられたんでしょうか?

一応ドラマの設定上だろうな?…とは思ったんですが
そこ迄、歴史には詳しく無い為質問しました

A 回答 (10件)

コメントありがとうございます。


「御所」=「高貴な人のいるところ」という意味で考えてください。
京都室町にある足利義満様のおられる所=室町御所
現在残っている「京都御所」と関係があるわけではありません。

横槍ですみませんが、日新斎は光圀の史実の号であり、テレビの創作ではありません。質問者さんはお分かりだと思いますが。
なお私も「麓穏院金閣」なる正式名称ははじめて聞きました。是非出典を知りたいものです。
「金閣寺」という鹿苑寺舎利殿の通称が間違いかどうか、質問者の言われるとおり通称として定着しており、間違いと断定することはできないでしょう。
正式名称のみを正しいとするのであれば、正式名称「舎利殿」の通称「金閣」すら間違いとなります。
あまりに浅はかで勘違い甚だしい回答がありましたので、つい我慢ならず失礼いたしました。
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この回答へのお礼

回答有難う御座います
コンディション不良でレスが遅れました

金閣寺に関しては、私も間違ってるとは思いません
それに日新斎に関しても同じです

お礼日時:2012/08/01 17:23

お礼 ありがとうございます


金閣が「寺」であることは間違いです なぜならここは義満の別荘であり 仏閣としての要素をそなえていないからです
昔から金閣寺と呼ばれているため 間違って覚えている人がほとんどです

あと 徳川光圀が水戸光圀なのも正解です
御三家と将軍家を区別させるために光圀の時代には御三家は徳川とは正式に名乗っていません
 
尾張家 紀伊家 水戸家と名乗っています
また 梅里と西山は正しいですが 日新斎はドラマでかんがえた名前でしょ


もう少し歴史を学んで出直してくださいね
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この回答へのお礼

貴方の場合、表現自体が変ですよ
前回回答を頂いた時には

「金閣寺という表現は間違いです」
と金閣寺自体を否定して、今度は寺では無い…ですか?
もし、そうだというなら最初から正確に表現するべきでしょう?

それに水戸光圀に関しても
「徳川光圀が水戸光圀なのも正解です」
何が正解なんですか?正解と言うより水戸光圀は別名ですし

「日新斎はドラマでかんがえた名前でしょ」
これも間違ってます、何ならウィキペディァで調べて下さい
水戸光圀、梅里、西山、日新斎と全て別名で表示されてます

「もう少し歴史を学んで出直してくださいね」
その言葉、そのまま返しします

お礼日時:2012/08/01 17:21

 コメントありがとうございました。


「御所」について、サックリとお話しします。鎌倉幕府の時代に「御恩奉公」という言葉があったことを日本史の授業で聞いた憶えはありませんか?。
 将軍と御家人の間に作られるパーソナルな主従関係のことです。簡単にいえば、仕える主人が家来である自分の権利(土地の領有やら相続などの権利)を保障する代わりに、主人から命令や要請があったら直ぐに駆けつけて仕事をするという契約関係です。
 ここに使われている「御」の文字と「花の御所」の「御」は全く同じ意味に使われています。権力のある者との意味であり、その人物が政務を司るところが「御所」です。そして古文書や史料の中にこの文字が登場したと時には釈文を作る時に少しばかり注意が必要です。差出人が誰に宛てて出したのかを頭に入れておかないとトンデモナイ釈文になってしまいます。
 同様に「公儀」「公方」といった呼び名も、時代と階層によって異なります。古代の「公」地「公」民の公と太宰府公営田の「公」そして戦国時代以後の「公」儀と江戸時代の「公」儀に共通して使われている「公」の文字は意味が異なります。
 因みに現在の相国寺は創建当時とはかなり規模が異なり、またそこにある建造物も少なくなっています。塔之段と呼ばれる辺りにはかつて七重の塔が建てられていたといわれていますが、何度か落雷によって消失し今は跡形もありません。地名としてその名を伝えているだけです。この塔の上から権力者として義満は京都御所を見下ろしていたのでしょうね。
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この回答へのお礼

回答有難う御座います
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ただ…あまりに専門的過ぎてチョット理解に時間が掛かりそうです
従って、時間に余裕を持てる時に何回か読ませて頂きます

お礼日時:2012/08/01 17:25

京都室町にあった室町第(花の御所)を指しているのではないでしょうか?


現在のいわゆる旧皇居『京都御所』とは別物でしょう。

ちなみに一休さんのモデル一休宗純の生年は1394年。足利義満(37歳)が将軍職を子の義持に譲り、出家した年です。金閣の所在する北山第に移ったのは1398年。
なお、ドラマで取り上げられた日明貿易の開始は1402年です。
もっとも明への使者派遣は1401年で使者が帰国するまで1年かかっています。疫病には手遅れでしょう。
そもそも「一休さん」では、義満は出家していませんので、あまり時代設定を厳密には考えないほうがよいかと。
ちなみに、北山第での義満の住まいは、金閣ではなく北山第に建っていたのは他の建物でしょう。

本題と外れますが、誤解があるといけないので指摘しておきます。
義満が天皇位簒奪を図っていたというのは、多くの学者が否定視しています。一般向けのまともな歴史本をご覧ください。
「日本国王」称号も明との外交上(国王じゃないと外交してもらえなかった)必要だっただけで、国内では使用していません。貿易するための偽称とされています。
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この回答へのお礼

回答有難う御座います

コンディション不良でレスが遅れました

あれから調べて見たんですが
私の勘違いで、京都御所とは関係無かったですね?
正確に言うと、私は御所と言うと京都御所しか知りませんでした

と言うのも、京都御所の事は御存知でしょうか?

実は以前、親戚が京都に住んでおり
京都御所の乾御門の直ぐ近くだったんです

正確には、乾御門から正面の細い路地に入り
真っ直ぐ進んで1分位の所です
それで子供の頃には、私も関西に住んでましたから
よく遊びに行ったんですが

その御所の事だと思ってたんです

ただ、花の御所って京都御所から見れば
直ぐ斜め前なんですね?(笑)
でも…どうして御所の名前が入って
しかも斜め前なんでしょうね?
これは京都御所と何か関連が考えられるんでしょうか?

お礼日時:2012/07/17 00:17

 ♯3の方の答は井沢元彦なる出鱈目な小説家(実態は右翼です)の書いた珍説ですので気にしない方が賢明です。

建物の屋根の上に鳳凰を着けている建物などいくらでもあります。それらを全て天皇の地位を脅かす存在と考え、或いは逆に天皇にそんなに大きな権力があったなどと考えるのでは日本の歴史的過程を説明することなどできません。せめて新田一郎や今谷明程度は出してほしかったな(もっとも新田は今谷からの質問に何も応えてはいないが)。
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この回答へのお礼

回答有難う御座います

コンディション不良でレスが遅れました

ただ、No.3の方に関しては
書いてる事も今1つ分りませんし
申し訳無いですが、貴方の回答も今回の質問とは
主旨がズレてると思います

お礼日時:2012/07/17 00:16

 さっくりと言えば「御所」は政務を司るところであり、それが天皇の場合は禁裏などと呼ばれています。

そしてこの「御所」という言葉は権力の所在場所であり権力者を指す言葉ともなります。
 さてこの「御所」という言葉が天皇以外を指すのはいつ頃からの事かとの話になりますが、それは「院政」と呼ばれる天皇が引退し上皇や出家して法皇となっても実際に政治を取り仕切っていた時代(平安中頃の11世紀~12世紀半ば)となります。
 これに対し「幕府」の政庁のある場所であり将軍が生活する空間(現在で言えば前者は総理大臣官邸、後者は総理大臣公邸にあたる)が御所と呼ばれるのは鎌倉時代以後の「幕府」という政治組織が生まれてのこととなります。「花の御所」という言葉を耳にしたことはありませんか?。これは京都市の相国寺あたりに開かれた室町幕府を指す歴史用語です。実際に現在の京都市内にも室町通の名称があり、四条通の繁華街から三条通そして御池通を突き抜ける形で北上し、京都御所の脇を抜け同志社大学の今出川キャンパスに突き当たる南北を貫く道です。地理的には京都御所を南にする形です。従って「花の御所」と「京都御所」は別物であることもお判りいただけたでしょう。
 そして北山にある金閣寺ですが、建前としてこちらは足利義満の別荘となります。建前としてと但し書きをしたのには理由があります。足利義満は征夷大将軍にして太政大臣の地位を手に入れますが、ほどなくしてそれら全てを手放し、唯一手許に遺したのは「源氏としての氏の長者」のみです。隠居しながら実質の政治を取り仕切るほどのカリスマ性を有していた人物です。そして彼の別荘が実質の御所となりそこに公家や天皇を迎え、海外からの使者の表敬を受けるなどの為政者としての存在を誇示します。
 こうした事実から足利義満が御所(少しオカシナ表現ですが「幕府としての御所」に居住していたことは間違いありません)。そして将軍(征夷大将軍)を御所様(ごしょさま)と呼ぶのに対し、その奥さんを御台様(みだいさま)と呼びます。
 一休宗純が大徳寺に入山したのは15世紀初頭の頃ですから、足利義満が御所で生活していた事を実際に見聞していたことでしょう。もし質問者様の論理からいけば、江戸時代の将軍も別の何処かに住居を構えていたとのことになります。実際に徳川将軍は江戸城内で寝食し政務にあたっていたわけですから、質問者様の前提が崩れることになります。もっと詳しく知りたければ年表形式で表示しましょうか?
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この回答へのお礼

回答有難う御座います

コンディション不良でレスが遅れました
ただ、チョット内容が専門的過ぎて
あまり分りませんでした

あれから調べて見たんですが
私の勘違いで、京都御所とは関係無かったですね?
正確に言うと、私は御所と言うと京都御所しか知りませんでした

と言うのも、京都御所の事は御存知でしょうか?

実は以前、親戚が京都に住んでおり
京都御所の乾御門の直ぐ近くだったんです

正確には、乾御門から正面の細い路地に入り
真っ直ぐ進んで1分位の所です
それで子供の頃には、私も関西に住んでましたから
よく遊びに行ったんですが

その御所の事だと思ってたんです

ただ、花の御所って京都御所から見れば
直ぐ斜め前なんですね?(笑)
でも…どうして御所の名前が入って
しかも斜め前なんでしょうね?
これは京都御所と何か関連が考えられるんでしょうか?

お礼日時:2012/07/17 00:14

 天皇の住まいや執務場所を、厳密に規定するなら「内裏」と呼称される筈です。


 (雛人形の男雛をお内裏様[天皇]と呼ぶのはここに由来する。)

 なお「御所」という言葉は、天皇および其れに準じる地位の皇族(足利義満は、准后という待遇[太皇太后、皇太后、皇后の三后に准じる←あくまで待遇がそうなるだけなので男性にも与えられる]を得ていました。)の邸宅にも使われました。
 (武家政権では、将軍家の当主及び連枝に対しても…。)

 ちなみに、御所(徳川家康が大御所と呼ばれるのもこれに由来)に次ぐ物が屋形(武田信玄などが時代劇などでお屋形様と呼ばれたりします。)だったりします。

 そして、当時の天皇の御座所である里内裏(大内裏には居住しないのが慣例化していた)は土御門東洞院殿ですから、京都の御所と呼称すれば足利義満の邸宅を指していてもおかしくは無いかと…。

 なお、現在の京都御所の領域は、土御門東洞院殿を豊臣秀吉や江戸幕府末期の拡張をへて現在の面積になりました。
 (つまり、現在の京都御所の領域内に住んでいた多くの貴族などを移転させた。)

 ちなみに、義満の御所である花の御所が有ったと推測される場所は現在の京都御所の北西の極めて隣接した場所だったりします。
 (もしかしたら、現在の京都御所[御苑]と若干被っていたかも知れません。)
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回答有難う御座います

コンディション不良でレスが遅れました
ただ、チョット内容が専門的過ぎて
あまり分りませんでした

ただ、あれから調べて見たんですが
私の勘違いで、京都御所とは関係無かったですね?
正確に言うと、私は御所と言うと京都御所しか知りませんでした

と言うのも、京都御所の事は御存知でしょうか?

実は以前、親戚が京都に住んでおり
京都御所の乾御門の直ぐ近くだったんです

正確には、乾御門から正面の細い路地に入り
真っ直ぐ進んで1分位の所です
それで子供の頃には、私も関西に住んでましたから
よく遊びに行ったんですが

その御所の事だと思ってたんです

ただ、花の御所って京都御所から見れば
直ぐ斜め前なんですね?(笑)
でも…どうして御所の名前が入って
しかも斜め前なんでしょうね?
これは京都御所と何か関連が考えられるんでしょうか?

お礼日時:2012/07/17 00:13

金閣は政庁ですね。



三相構造になってるでしょ、
下が寝殿造りで貴族を、
中が書院造りで武家を、
上が禅宗様で仏門を表し、
屋根の上に吉兆たる鳳凰が降り立っています。

世の中をバカにしてます。


「源氏物語」を読んだ義満はそのとおり実行して、
太上天皇の称号を得る直前まで行きました。

それを恐れた南朝方の刺客に消されたようです。
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ただ、今回の回答の様な事迄は分りません

お礼日時:2012/07/17 00:11

金閣は義満の別荘です ちなみに金閣寺という表現は間違いです


正しくは 麓穏院金閣です

別荘なので住んでた可能性はあります
京都御所は天皇の住まいなので皇族ではない義満は住めません

ただ義満は天皇になるの一歩手前までいきましたよ 日本国王と名乗ってましたから
ただ義満を天皇にするという詔勅が下る直前に義満は死んでしまい 天皇にはなれませんでした

なので御所には住んでないです
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まず余談ですが、金閣寺が
麓穏院金閣と言うのは初めて知りました

私は正式名称が、鹿苑寺金閣だと覚えてましたから

“ちなみに金閣寺という表現は間違いです”
ただ、貴方の回答に反論する訳じゃ無いですが
この間違いと言うのは適切な表現では無いと思います

その理由は、ネットで調べても通称とは書いてますが
間違いだとは何処にも書いてませんでしたから(笑)

この通称で言うなら、先日放送が終了した
水戸黄門で有名な水戸光圀も、水戸光圀と言うのは通称で
本名は徳川光圀です、しかも通称は1つでは無く
ドラマで見てても、文の裏の今で言う差出人の所には梅里(ばいり)
光圀公が石坂浩二氏の時代には
旅での名前が光右衛門では無く日新斉と名乗ってました
更には隠居前には城での呼び名も西山殿

つまり、本名は徳川光圀ですが
通称は、水戸光圀、梅里、日新斉、西山と
これだけ存在しましたが、これも間違いじゃないです(笑)

話を本題に戻しますが
ただ、あれから調べて見たんですが
私の勘違いで、京都御所とは関係無かったですね?
正確に言うと、私は御所と言うと京都御所しか知りませんでした

と言うのも、京都御所の事は御存知でしょうか?

実は以前、親戚が京都に住んでおり
京都御所の乾御門の直ぐ近くだったんです

正確には、乾御門から正面の細い路地に入り
真っ直ぐ進んで1分位の所です
それで子供の頃には、私も関西に住んでましたから
よく遊びに行ったんですが

その御所の事だと思ってたんです

ただ、花の御所って京都御所から見れば
直ぐ斜め前なんですね?(笑)
でも…どうして御所の名前が入って
しかも斜め前なんでしょうね?
これは京都御所と何か関連が考えられるんでしょうか?

お礼日時:2012/07/17 00:10

足利将軍家の邸宅は「花の御所」と呼ばれていたと思います。


http://ja.wikipedia.org/wiki/花の御所

京都御所とは違うと思います。
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コンディション不良でレスが遅れました

あれから調べて見たんですが
私の勘違いで、京都御所とは関係無かったですね?
正確に言うと、私は御所と言うと京都御所しか知りませんでした

と言うのも、京都御所の事は御存知でしょうか?

実は以前、親戚が京都に住んでおり
京都御所の乾御門の直ぐ近くだったんです

正確には、乾御門から正面の細い路地に入り
真っ直ぐ進んで1分位の所です
それで子供の頃には、私も関西に住んでましたから
よく遊びに行ったんですが

その御所の事だと思ってたんです

ただ、花の御所って京都御所から見れば
直ぐ斜め前なんですね?(笑)
でも…どうして御所の名前が入って
しかも斜め前なんでしょうね?
これは京都御所と何か関連が考えられるんでしょうか?

お礼日時:2012/07/17 00:00

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