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鎌倉幕府衰退の一つの理由としてよく挙げられるものに
均分相続(分割相続)があります。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1110729.html
もっともな理由ですが、もう少し詳しく考察してみたいと思います。

【論点1】
例えば、以下の回答者は
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question …
>簡単に言うと「人口は増えなくても、世帯数は増える」ということです。

そうだとすると、鎌倉時代の世帯あたり人数は減少していたのでしょうか?

【論点2】
子に均分相続させるとしても、子孫を残さずに死ぬ子は多数いたはずです。
その場合、その子の田畑はどうなったのでしょうか?
耕作放棄されてしまうのでしょうか?

【論点3】
子孫を残さずに死んだ人の田畑を、
何らかの方法で親戚にゆずるシステムがあったとします。
それでも御家人が困窮するという事は、このシステムではまかないきれないほど
人口の増加があったということになります。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/1150.html
によると、確かに増加はしているようです。

となると、幕府衰退の(根本)理由は、
均分相続というよりも生産力以上の人口増加という事になるのではないでしょうか?

どの論点でも構いませんので、どなたかおつきあいください。

A 回答 (5件)

鎌倉幕府衰退の理由といえば、元寇における圧勝にあるでしょう。



井沢元彦さんの「逆説の日本史」を読まれては?
http://www.amazon.co.jp/dp/4094020063

この回答への補足

とりあえずここでは元寇のことはおいてください。
ちなみに、私は「逆説」の読者で、
均分相続の件は逆説にも取り上げられていました。

補足日時:2012/07/08 22:25
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均分相続は、母体となる生産単位が成長していれば問題ない。


鎌倉幕府において、北条家は均分相続しても北条家が拡大したので北条家内では問題が生じない。
北条家の拡大は、他の有力御家人を滅ぼすことで実現された。
なので、最後に残ったとも言える有力御家人の足利家に滅ぼされた。

論点1
現在の核家族が成立したのは、江戸時代初期で、それ以前は非血縁者も含めた大家族制度。
世帯数で・・・と考えるのは変だなと

北条家と御家人のイス取りゲーム
上層部は人口が日本全体の人口増加(=耕地増加)よりも大きく、下層部の人口は飢餓ラインにおりますので日本全体の増加よりは少ない(場合によっては減少する)。このために、上層部の生き残りイス取りゲームが生じます。
江戸時代は、長子相続でイス取りゲームを戦闘にしないようにしたということかなと。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%B3% …
チンギス・カンの遺伝子という話がありますが、これはチンギス・カンだけの話ではなく、経済的・政治的に優位に立っている子孫は多いという一般則であり、イス取りゲームの存在を傍証します。

上層部と下層部と分けて考える必要があるかと思います
江戸時代の前半は、農民においては大家族制度から核家族づくり時代
※ 自作農創成運動
の時代だったので
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
やはり世帯数で考えるのはおかしいですよね・・・
問題はイス取りゲームで空いたイスの処遇ですが、
いったいどのように分配されたのでしょう?

お礼日時:2012/07/09 22:05

いや 息子の頼家と実朝がアホだっただけです


どう見ても頼朝ほどの実力はなかったですから

この回答への補足

実朝がアホだろうと凡人だろうと歌の達人だろうと
この質問には全く関係ありませんが、
あえて疑問を呈するとすれば、
幕府滅亡まで、実朝死後100年もかかったのはなぜでしょうか?

補足日時:2012/07/09 21:40
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問題はイス取りゲームで空いたイスの処遇ですが、



基本的は、上層部ではイスは余らない。2,3男や庶子なり親族が仰山いましたので。

下層部においては、耕地の所有権がないのでイスがもともと無い。

後半の下層部というのは、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E7%99%BE% …
農村における上層部=初期本百姓に対する、水呑み百姓という歴史学用語で定義されるかと思います

平安時代以降江戸時代前までで言えば
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%A3%E6%9D%91
惣村の 乙名 というのが農村における上層部でそうでないものが下層部
http://www.morikado.net/culture-nichizemi/018_ed …
ここの資料で言うところの 大百姓 小百姓の構造となります。


上層部に関して鎌倉時代・室町時代を比較すると

とにかく北条家だけは拡大再生産できたのが鎌倉時代
有力守護大名層のなかで、大名家内自治とでもいう認識で、有力大名層も拡大再生産出来ないが、足利家も拡大再生産しないというのが室町時代。
だから、明徳の乱とかいろいろな大名個人を潰しても、義満は潰した大名個人の弟や従兄弟などを大名家に継がせています。
逆に、義満の息子たちは、義持以外は基本的に出家させています。つまり足利家も拡大再生産を自粛している。
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この回答へのお礼

なるほど、分かってきました。

> 2,3男や庶子なり親族が仰山いましたので。

となると、幕府衰退の(根本)理由は、
均分相続というよりも生産力以上の人口増加という事になるのではないでしょうか?

という疑問はどうなりますか?

ひょっとして、鎌倉後期は親戚関係が遠くなってしまって
協力体制が築きにくかったという事情があるのでしょうか?

お礼日時:2012/07/09 23:30

人口増加というのはなんとも言えない


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3% …

研究者によって1200-1300-1400-1500-1600 つまり鎌倉時代から室町時代の人口推移推定がバラバラ
単に横軸で合わないというのではなく、源平の争乱時代の養和の飢饉に対し
1100-1200の変化を
5750→7500(千人)と増加と推定する研究者もいれば
7000→6000(千人)と減少と推定する研究者もいる

鎌倉幕府の衰退というのも、結果として鎌倉幕府が潰れたから後付けで衰退していたに違いないということであって、尊氏が負けていたら、鎌倉時代に多くあった北条家の他家排除あるいは、北条家内の内訌の1つとなっていたかもしれない。
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