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関が原合戦の東軍、西軍の軍隊数と、明治維新で起こった、鳥羽伏見戦争、会津越後宇都宮戦争、函館戦争の軍隊数は違いますが、日本国内の戦争では世紀の二大戦争だと思います、この中で徳川幕臣で結成され、わずか一日で上野山にて全滅した彰義隊、この彰義隊の隠れた秘話などが知っている方、その秘話を教えてください。

A 回答 (2件)

ご存知のように、戊辰戦争で江戸は西郷隆盛と勝海舟のトップ会談で無血開城が決まり、江戸は戦災に遭わずに済みました。

しかし「戦わずして降伏した」ことに不満を持つ人たちは当然にそれなりにいたわけで、そういった連中が集まったのが上野の山だったのです。
どうも勝海舟も新政府軍も、わざとそういった連中を上野に集結させたようです。あっちこっちにいてテロ活動でもされたほうがよっぽど治安が不安定になりますからね。「同志よ、上野に集まれ!」なんてのを比較的黙認していました。その中心にいたのが質問者さんがおっしゃる彰義隊でした。

新政府軍はそういった不満分子を一掃することにしました。その指揮を執ったのが奇人揃いの幕末の志士の中でも飛び抜けて奇人だった大村益次郎です。もうルックスからして強烈なお方ですけどね。
大村の作戦の憎いところは、三方向を囲んだということです。孫子の兵法にも「囲む師は必ず欠く」とあります。逃げ道を用意しておけってことです。素人考えだと逃げ道があったら逃げられちゃうと思いますが、逃げ道があると人間死ぬのは嫌ですからそこから逃げようとするので一気に敗走するんですね。
実際の戦いでもそうなりました。彰義隊は薩摩軍との正面の戦いではそこそこに善戦しますが、結局支えきれなくなると戦線は一気に瓦解、みな散り散りに逃げていきました。大勝利の報に接した大村益次郎はニコリともせず「当然です」といったとか。ほんとヘンな人です。
生き残った人たちは、ある者は宇都宮を目指し、ある者は会津藩を頼っていきましたが、たぶん、多くの人たちは「家に帰った」んじゃないかと思います。もう彰義隊は崩壊してしまったし、戦って勝ち目がないことは身に沁みて知ったわけですからね。帰れる人は帰ったと思います。ただ、戦後の元彰義隊員への捜索はかなり厳しかったみたいですね。

有名な話ですが、彰義隊の隊長が「俺に続け」といって駆け上がって、ふと振り返ったら誰もついてきてなかったという話があります。乱暴を働くなど粗暴で軍紀が守られておらず、隊長にもついていかなかったくらいですから、まー知名度の割には案外たいしたことがない連中だったというのが実際のところじゃないでしょうかね。口じゃイキがってもいざ警察が来たら脱兎のごとく逃げる暴走族の類いと同じってことでしょう。
函館戦争で土方歳三に率いられた共和国軍が圧倒的な兵力を持つ新政府軍に対して粘り強く戦ったのとは対照的ですね。そのあたりは指揮官に差があったということでしょうね。
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この回答へのお礼

なるほど、彰義隊は腰抜け組織だったのですね、伊庭八郎がいた遊撃隊とは雲泥の差がありますね、ありがとうございました。

お礼日時:2012/09/22 07:14

世紀の2大戦争は関ヶ原の戦いと応仁の乱ですが…

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この回答へのお礼

応仁の乱の事は、全く頭の中にありませんでした、私の頭の中では、関が原合戦と明治維新が二大戦争だと思っています、ありがとうございました。

お礼日時:2012/09/21 21:38

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