プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

宇喜多秀家は何故重用されたのでしょう?
確かに父 直家は権謀術数に長けた稀代の謀略家でしたが
秀家は正直ぱっとしません…

幼くして父と死別
その後家臣団の多数が離反して家中はガタガタでしたが
そこを付け込まれる事無く むしろ信長なんかは同盟を継続してるし


秀吉時代には秀吉の養子となり
養女まで妻に娶り、朝鮮出兵では大将にもなっています
さらには五大老にも選任

家康時代には関ヶ原にも参戦
最前線で奮戦しましたが総崩れ
戦後島津を頼って助命され島流し(西軍武将が多数斬られた中 彼は流罪で済みました)

宇喜多秀家は
戦が上手いわけでもなく
今で言うお坊ちゃまな感じで
領地だって備前岡山54万石

彼が信長~家康の時代において重要視された理由は何なのでしょうか?

A 回答 (3件)

秀吉時代は有能でなくても家の財産(領地)で重用された、ということじゃないですか?


毛利輝元、上杉景勝にしても、当人が有能かと問われるとそうでもないような。

秀吉が宇喜多秀家を重用した結果、秀家は西軍について奮闘します。家康を嫌っていたというのもあるけど、秀吉の恩義というのを感じていたのでしょう。
秀家は、重臣にも領民にも嫌われていた、という認識です(違うかも)。しかし彼は、関ヶ原で東軍の猛将相手に互角の戦いをしたのです(そうでなければ、後世に天下分け目の戦などと評されません)。関ヶ原の敗戦は、石田三成が、秀家のような貴重な駒を使いこなせなかったというのが大きいのだと考えます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます
毛利や上杉も決して優れた武将ではありませんが
領国経営(政治力)と言う点では秀家より上だと思います

お礼日時:2014/06/29 07:12

>宇喜多秀家が重用された理由



その理由は、恐らく azuki さん自身百も承知でしょうが、敢えて・・。

「その子涼し気である、大事にしてやれ」といった趣旨の、信長の言葉が伝えられております。
つまり対毛利最前線に位置した宇喜多家、その処遇といった政治的理由の他に、幼い頃より秀家(八郎)には、他人に気に入られる理屈抜きの素質があった、そういう事でしょう。

次いで秀吉に関して言えば、宇喜多秀家の御生母、つまり直家の未亡人であった「お福の方」の閨房へ、一時期の秀吉(恐らく中国攻めの頃でしょう)がせっせと通い詰めたのは有名な話。

つまり彼女の体を通して、秀家とは他人ではないとの実感が当時子供がいなかった秀吉にあったのかも知れない、加えて一度でも寝た女性を将来に渡り気に留めたのはどうやら真実のようでして、その事が秀家の処遇に波及した可能性は否定出来ません。

或いは安土桃山時代を代表すると巷間伝えられている、見目麗しい彼のその容姿にもその一因があったのかも知れないが、やはり有力と思われる最大の理由は、秀次を筆頭に秀吉の係累・縁者にはそれこそろくな者がいなかった、依って豊臣家の将来を思い、彼に柱石の役割を担わせたかったというのも正直なところでしょう。

確かに宇喜多の家政はお世辞にも治まっているとは言えなかった、その一方で秀家自身武人としては有能な指揮官であり、且つ桃山時代を代表する文化人の一人でして、その両面及び彼に対する愛情が、日本史上最大の具眼者とも思える秀吉をして過大評価させた原因、或いはそうなのかも知れません。

尚養子・猶子を濫発した秀吉ですが、最後まで彼の愛情を独占したいたのはどうやら秀家だけのようでして、老最高権力者に打算という政治的理由は不適当ですから、その愛情は本物であった、・・・でなければ京・大阪より指呼の地に於いて50数万石もの大封を与え続ける事は無かったでしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2014/06/29 07:12

羽柴秀吉には、「譜代がいない」という致命的欠点があった。


羽柴秀吉には、「力量」は有り余っていた。

宇喜多秀家には、「重臣達を抑える力量の不足」という致命的欠点があった。
宇喜多秀家は、「幼い」が故に教育しやすかった。


羽柴秀吉は宇喜多秀家を疑似譜代として教育しつつ、その力量で宇喜多秀家をしっかりとサポートできた。両者は社会的相性がピッタリだったのである。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2014/06/29 07:13

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!