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タイトルのとおり人にとって宗教はなぜ必要なのか?教えてください。

A 回答 (68件中31~40件)

 現代社会においては人によってかなり開きがあると思います。

強いて言えばNo.22の方とNo.33の方に近い考えです。
 どうにもならない閉塞感の中では絶対的な存在が救済を担保することで現状を生きるモチベーションになり得ます。また、それを利用して自らの支配を正当化した為政者も多数存在しました。
 崇拝の対象が「人を超えた」存在であればあるほど、人の期待を無限に拡げてくれます。それは即ち現在感じているストレスの緩和につながり、ある意味で「生きる糧」となり得るのではないでしょうか。
 不遇な生活が続けば、それが例え自分に起因するものであっても、人はストレスの蓄積のみで簡単に病気になり、死んでしまいます。逃避行動と蔑むのは簡単ですが、「自分自身を絶対化」できない人にとっては、宗教は非常に重要なツールとして存在する事を私は否定できません。もしそうでないのなら、無神論者の私としては単なる経済活動として、他のサービス産業同様課税対象とすることを主張するところです(笑)。こんなんでどーすか。
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人は誰でも自分を支えてくれる支柱みたいなもの、つまり精神的な支えが必要です。



その支柱は人によっては、愛する恋人だったり、めざしている夢だったり、没頭できる趣味だったりします。
そして、またある人にとってはその支柱が特定の宗教の信仰であるんだと思います。

現代では一般に人間関係の希薄化が叫ばれているようですが、そういうことが原因で、また新興宗教が発展を遂げているのかもしれません。
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人は不安・分からない事などを沢山抱えています。

これが宗教の対象になったのです。

たとえば、原始の社会においては、
人間が農業を始めたころ、水をコントロールできないものですから、水神様が生まれました。

現代社会においても同じです。万能で全てを知り尽くしている人はまずいません。
科学で解明できた部分は、沢山ありますが、不安・分からない事も、まだまだ、多いと思います。
だから、宗教が生まれ、それに頼ろうとするのです。
言葉を変えて言うならば、心の支えでしょうか。

全てを知り尽くし、自分の力で生きてゆく自信のある人は、宗教なんていらないのかも知れません。
何時かはそんな時代がくるかも知れませんが!!
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キリストの時代、マホメットの時代。


人々は争い、都市を破壊し、人を奴隷とし、人々を陵辱し、人間の蛮行が行われていました。

その状況を何とか打破したい。
このような状態では人々は安心して暮らせないし、このような蛮行をする人間を作ってはいけない!
人災に苦しんだキリスト、マホメットは悩んだ末にあるべき姿の人間としての教義を説き、その教義を身に付けば気高き人間になれる。としたのではないかと思います。

自然崇拝は天災に恐怖し、自然を敬う気持ちから始まったものだと思います。

宗教の根本は人々が安心して生活できるようにと願ったシロモノだと思います。

ただ始祖たちは人間の悪意を深く見ることは出来なかった。
「力」ある場所が悪意の温床となることを。
人の悪意を解消するために作ったシロモノが、悪意によってまた新たな道具にされてしまった・・・。
始祖の唱えた教義は捏造され民衆をもてあそぶ道具にされ、自然崇拝も人身御供等で無意味な血が多く流れました。

最終的には「楽」なんでしょうね。どうしたら人間が楽になれるのか?と。
代替行為の一種かもしれません。「カミサマ」というシロモノを自分の中で描き、苦痛はカミが与えたもう試練。と置き換えれば耐えられる。
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健康で暮らすため。



ある調査では「敬虔な信者ほど健康である」という結果が出たそうです。まあ「よく笑う人は健康」とどうレベルの話のようですが。

仕組みとしては「日々のこまごまとした悩みを神様に押し付けること」よって、無駄なストレスから逃れられるということのようです。

私にとって言えば宗教は「言い訳」でしかありません。
「なぜ罪を犯してはならないのか、それは聖書に書いてある(あるいは神様がそういった)から」というわけです。ある意味では「精神的な麻薬」とも思います。

本来一人ひとりの人が「自分自身を見つめることによって見つけなければいけない答え」を安易に「答えてくれたような気になるマニュアル」それが宗教だと私は思います。
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人々の不満をそらすためです。

 まじめに暮らしていればいつか神様が助けてくださる。死んでから極楽に行けると洗脳しておけば反乱を防げるからです。なにゆえにまじめに暮らしても生活がよくならないのか?それは為政者の搾取であると なすべきことは立ち上がり為政者を抹殺して よい世の中をつくることだと気づかれては困るんです。
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必要ではない。

無用である。しかし、必要とする人がいる。それは否定できない。では何故か。
と言う質問ならば、みなさんがいろいろおっしゃっているとおりだと思います。
基本的には、無用でしょう。
(じゃあ、結婚式とか葬式はどうするのよ、と言うのであれば、私はそういうのこそ宗教的な考えではない、と思います。それがもし本当なら、日本人の宗教って、どうなっているのよ、と。結婚式はキリスト教か神道で、葬式は仏教って…そういうのは、「宗教は必要ない」の典型でしょうね。)
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「信じること」なしでは「十分な幸せ」が得られないからではないでしょうか。

科学だってその点では大差ないように思います。宗教・信仰よりももっと確実に信じられるもの、絶対の事実・法則を極めるために、人間は「妥当性」と「再現性」を求めて「科学」というものを作り上げてきたのではないでしょうか。

宗教も科学も要するに一種の「方便」・「仮説」であると感じます。「こう考えるとつじつまが合いやすいから落ち着く」というものの集積ではないでしょうか。だから、宗教も、科学も「統一理論」がない間はあくまでも「部分理論」でしかないので、「う~ん、この理論は電気関係ではすごくよく当てはまるし、これしかないだろって言う感じだけど、重力関係には全然説得力ないよなぁ」なんてことが宗教にもあるわけで、だからこそ宗教の対立や紛争が起きてしまうんではないでしょうか。

 でも、よくよく考えると根本は「より幸せに生きる」という大目的に帰すると思うのです。どんな客観的事実(そんなものあるのか疑わしいですが…)より、「俺を信じろ!」の一言の方が「自分をより幸せにしてくれそう」なら、人はそっちを選ぶし、客観的事実の集積の方が「自分をより幸せな状態」に導いてくれそうなら、その人はやはりそっちを優先して人生を生きていくと思うのです。

 個人的結論としては「自分がより幸せに生きられる」ために、「宗教」・「科学」が必要になる。ただし、人それぞれ、それぞれの環境下に応じてバランスがあるし、そのバランスも恒久的なものでもないかもしれない…
現時点ではこんな感じに思えます。

このトピ一年前から続いて居るんですねぇ。まだまだ続きそうな感じですが、ここらへんで「質問者さん」自身のご意見も、途中経過でも結構なので、一度お伺いしたいものです。
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最近倫理で習いましたっ!!


人は助けが誰にでも必要らしく、祈る事で不安をおさえるらしいのです。だから宗教によって不安をおさえるらしいです!
また、にたような人が集まりユダヤ教の人など一人でいると他の国の人から殺されたりするので、宗教で固まってるのが安全だからだそうです。
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なんかで聞いたんですけど。


温暖で豊かな地域には多神教が、過酷な地域には一神教がはやるって。
過酷なだけに共同体がひとまとまりにならなければ乗り越えられないからって。

宗教も必然的に生まれるひとつの文化のような気がしますね。
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