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タイトルのとおり人にとって宗教はなぜ必要なのか?教えてください。

A 回答 (68件中51~60件)

人は人の心は弱く儚いものです。



何が正しくて、何が間違っているのか解らない時

願いを叶えたくても、自分ではどうする事もできない時

自分の思いが弱くて、くじけそうになった時

進むべき道を暗示してくれるのが宗教です。

日本は第二次世界大戦に負けるまでは新道(天皇崇拝)が主たる宗教でした。戦後、宗教の自由を謳い、戦前のトラウマから日教組という団体ができて。学校で宗教を教えるのを止めてしまいました。そして道徳という科目で子供達に世の中で生きて行く上でのマナーの様な物を教えようとしましたが結果はどうでしょうか?

小学生がカッターで同級生を殺し、学校では生徒が先生の言う事を聞かず、
先生は生徒を殴る事も出来ない。
電車の中の高校生の態度を見て下さい。化粧をして、通路に座り、携帯電話で遊んでいる。
大学生は勉強するのはテストの時だけ後はアルバイトか遊んでる

どうして、子供達がこんな風になってしまったのでしょうか

当たり前の事、正しい事を教える強さが宗教にはあると思います。
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#10さんに1票。



何でもわかったつもりになっているけど、人間って結局のところ何もわかっていないんですよね。

ニュートンはニュートン力学を編み出したときに、時間は「時間の始まりに神が巻いた大きなぜんまい時計によって正確に刻まれ」引力は「神の意思により働いている」としました。
後年、アインシュタインはニュートン力学を補正する相対性理論を完成させました。が、晩年のアインシュタインは自問したそうです。「それでも、なぜ石は落ちるのか?」
世界中を旅するうち、モンゴルで遊牧民の少年にアインシュタインは尋ねてみました。何事もないように少年は答えたそうです。「石は、落ちたがっているのさ」。この回答にアインシュタインはしばらく固まったそうです(NHK「アインシュタイン・ロマン」より)。

既出のように宗教と一言で言ってもいろいろ解釈がありますが、こういえるでしょうか。「わからないことをわからないと認める勇気」。
(これを書くと怒る人がいるかな・・・)デカルトは「懐疑主義」という考えに基づき、あらゆるものを疑っていきました。そして、最後に「この疑っている自分だけは、疑えない」と思い、「われ思う、ゆえにわれあり」という有名なせりふを吐きました。
しかし、これは大間違い。デカルトはあらゆるものを疑ったわけですから、疑った対象があったはずです。疑った対象と「われ」、この両者が存在して初めて「疑う」という行為が可能になったのです。
このことを忘れて、デカルトは「われ」だけを肯定して「疑った対象」を消しちゃった。「われ」も消したら「あら、何も残らない・・・」となってしまうからでしょうね。これが哲学の限界かなぁ?

ホントは、「われ」も「疑う対象」も無い、そして同時に、「われ」も「疑う対象」も存る。「無い」と「在る」が共存するこの概念。ヘンな概念ですが、仏教では「空」と呼ばれる概念です。

というように、「何も知らない」ということを知ったその日から、あなたも宗教なくして生きられなくなるはずです・・・。でも、「何も知らない」ことも「すべて知っている」ことも同じことなんですよねぇ。「空」の概念の下では。
だから、遊牧民の少年の回答にアインシュタインは愕然とさせられたんでしょうね。
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自分の力で理解・納得できないからでしょうね。

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私自身は熱心な信仰をもつ人間ではありませんが、色々な状況で神・仏に救いを求めます。


キリストさまでもお釈迦さまでも阿弥陀如来さまでも観音さまでもどなた様でもOKです。
もっとも最近は観音経にある観世音菩薩の現世での衆生救済の力を読んで観音さまにお願いしたいなと思っていますが。
一言で宗教と言っても様々なレベルがあります。
世界3大宗教のような数億人の信者を持つ宗教から、苦しい時の神頼みまで様々です。
どのレベルで宗教が必要かを考えるかによっても答えは違ってきます。
私自身は宗教(信仰)は必要だと思います。
『宗教は必要ない』と言える人は非常に強い人だと思います。
最愛の人が突然の事故や病気で死の淵をさまよっていれば思わず神・仏に祈るのが自然ではないでしょうか?
あるいは自分自身が癌を宣告され余命3ヶ月と教えられ、それを天命と受止めて静かに死を迎えられる人がいるだろうかと思います。
『宗教は必要ない』と言える人は非常に強い人だと表現したのはこのことです。
つまり自分ではどうすることも出来ない、さらには人の力ではどうすることも出来ないことに直面すれば何かにすがって救いを求めるのが私たち凡人です。
私は宗教の原点はここにあると考えています。
ここまでのレベルは信仰する神・仏はあまり明確なものではなくぼんやりした神・仏である場合が多いと思います。
もちろん明確な信心の対象を持った人もいますが、集団に属さずあくまでも個人です。
次に『自分の家は先祖代々○○宗の檀家で阿弥陀如来さまがご本尊様です』のレベルがあります。
自分自身が特別信心している訳ではないけれども、先祖供養のご法事の際には決まったお経を読むレベルです。
その次のレベルはある特定の宗教団体に入信して具体的な信仰対象の神・仏を信心するレベルになります。
人間の基本的な欲求として良く言われる食欲、性欲、睡眠欲がありますが、これらは種の保存のための本能的な欲求であり、これらとは別に人として生きていくために帰属の欲求と認知の欲求があると言われています。
帰属の欲求とは自分がある集団に属することで一人きりではないという安心感を得る欲求であり、認知の欲求とはその集団の中で周りの人に自分の存在を認知される喜びを得る欲求です。
特定の宗教団体に入信することは帰属の欲求を満たすことであり、その団体の教祖や指導者に導かれて、一種の認知の欲求も満たすことになります。
また、自分の悩みを同じ様な悩みを持つ周りの人に聞いてもらえる喜びもあります。
新興宗教団体の信者に主婦が多いのは、家庭に閉じこもっていては満たすことの出来ない帰属の欲求をその団体に所属することによって満たしていると言うのが一つの理由でしょう。
何かにすがって救いを求める点は原点の宗教そのものですが、新興宗教団体の場合はその団体の教祖、指導者が本来の信仰対象の神、仏に取って代る場合も多いのではないでしょうか?
その上、信仰を確実なものとするための(と教えられる)お布施、布教活動に精を出し結果的に団体の勢力拡大のお手伝いをさせられる羽目になることも多いと思われます。
ただし新興宗教団体に限らず各種の団体が自分の団体を大きくしたいと活動するのは至極当たり前のことで、集団が大きい方がより壊れにくく外部に対する発言力も大きくなりますから。
帰属の欲求から考えても小さな集団に属するより、より大きな集団に属する方がより安心で喜びは大きくなります。
もちろん純粋に自ら進んでその活動をせずにはいられないと言う心境に至る人も生まれるでしょう。
世界を動かすほどの力を持つ巨大な宗教についてはコメントする知識・能力がありませんが、平和な社会を目指す本来の目的は同じはずなのに何故仲良く出来ないのかと残念に思います。
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タイトル通りの人でなくても、


マクロには、宗教→哲学→科学ですから、全てをを統合した場合、科学で知りえる事などは僅かですよよねぇ?既存のものさしで全てを考察しようとしても無理だと思いますよ。ツールが足りない。そして科学は非常に重大で大きな課題を残しています。それは形而上においての神の存在。
おそらく神という概念が存在する時点で、既に神は存在しているので、この謎を突き詰めるにつれて、いずれは科学から宗教に強制的に戻されるという、ある種の循環モデルが完成すると思います。
それが人類にとっての、宗教の存在理由です。
ちなみに、ツールを進化させたいなら、先ず数学的思考において、見落としている法則性はないか?よく検討して見る必要性がありますね。
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面白い症例があります。



脅迫性障害の患者は、脳の疾患によって理由がなく不安を感じる病気だとされています。不安を感じる理由としては、自分の決断したことがらをチェックする機構がうまく作用していないからだとされています。
この症例には多種多様な症状が報告されていますが、有名なものに「手を洗うのがやめられない」というものがあります。ここで面白いのが、患者のほとんどみんな、自分では「意味のない行為だ」ということを理解している点です。頭ではわかっているが、心の底から溢れるように作り出される得たいの知れない不安から、そうせざるを得ないというのです。
これは水俣病の発作などとは違う種類の繰り返し行為なのです。「勝手に体が動く」のではなく、不安から半能動的に自分から体を動かしています。
同じ脅迫性障害の症例に次のようなものもあります。
何か不吉な言葉を見つけると、縁起のいい言葉を捜すことに没頭してしまうというものです。
これらの行為を「儀式」とは呼べないでしょうか。

受験で神経がピリピリしてるときに変な言葉に神経質になりませんでしたか?

それともうひとつ。
共依存という境界症状があります。
これはアルコール依存症や過食症・拒食症などに代表される障害です。
共依存とは一言で言えば鬱の一歩手前のようなものなのですが、自分に自信がなく、他者に評価されることでしか満足を得ることができなくなるので、他人の評価を自分でコントロールしてしまおうとするものです。
この症状を持つ人の思考パターンには、「永遠、絶対、普遍、神」など、何かこの世の法則とでもいった事柄を考える性質があります。

他人の評価が怖くて何かをごまかしたことはありませんか?w
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「信じること」が必要なんでしょう。



脳は、まず仮説を受け入れてから、
それが妥当かどうか考えるというシステムです。

「まず受け入れないことには」ナンニモで
きないのです。いや、それどころか死んで
しまいます。


宗教が「世界観」や「道徳」を規定したり
「死」のショックを和らげたり「協力」
を促がしたりと活躍できるのも、脳がそ
んなんだからでしょう。

いままでのところ、これが出来たのが
宗教しかなかった
ということだと思います。

ずっと必要とは限らないと思います。
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自分ではこう解釈しています。


人が人らしく生きるための知恵だと。

根源的な疑問を抱いた時に、解決するために必要なものだと思います。
(信じる、という点で哲学とは違いますが。)
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【…人にとって宗教はなぜ必要なのか?】



人が、「わたしは 知っている!」と 思っている期間、宗教は 必要ない。

人が、「わたしが 知ったことは すべて “借り物”だった!」と 気づいた時から 宗教が必要になる。

******* ******* *******
 
わたしの師が 話した言葉です、質問者様の 参考にして下さい。

「わたしは誰?」
わたしは誰? それは 宗教において最も根本的な質問だ? 

神や、天国や、地獄が何かではなく 「わたしは誰か?」 

自分自身の 存在の真実を 見つけることができたら、あなたは 知る必要のある、知る価値のある すべての真実を知るだろう。
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私は無神論者・無信仰者で、宗教批判家なんですが、


「人にとって宗教は必要だ」とは思えません。
宗教・信仰がなくても生きていけます。
宗教家、宗教団体などが「宗教は必要」とのプロパガンダしているだけです。
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