リオのオリンピックが近づいて来ました。
最近複数の質問に回答をして自分の考えにあらためて触れ、また質問文や他の回答者の意見を読んで気が付いたのは、
わたしには「戦う」「闘う」「競争」「勝負」という言葉の意味が、更には「勝つ」「負ける」ということの意味が分からないのではないか、ということです。
例えば、現在、東京都美術館で『ゴッホとゴーギャン展』が開かれていますが、世界中の誰一人として、この二人の画家のどちらが勝(まさ)っていると判定することはできません。
それはバッハとモーツァルトを比べることや、ベルイマンとタルコフスキーを比べることが出来ないのと同じで、「個性」という「唯一無二」のものに「優劣」も「序列」もありません。
アートも、音楽も、文学も映画も、作者の個性を慈しみ、享受することに他なりません。
それでは一方で、戦うとは、なにがなにに対して戦うのでしょうか?
そして「勝負」とは、誰が、誰に対して、どういう状態になった時に「勝ち」と「負け」が決められるのでしょう?
無論スポーツでもその他の勝負ごとにでも、「試合のルール」というものがあって、それに則って勝敗が決められるのですが、同時に「対戦している」個人、両者、両チームなどから離れた、観戦者という第三の目があって、それは「Aは勝ったけど負けたな」「B負けたけど勝ちだ」という(試合・対戦の、内容の濃さ、深み、味わい、緊迫感)など、勝敗を超えた視点・観点が存在して、特にプロの試合などは、「勝ったもの勝ち」とは言えない側面もあるように思えます。
「戦う・闘う」こと、「競争」「勝負」について、様々なご意見をお聞かせください。
No.15ベストアンサー
- 回答日時:
blueさん。
お誕生日おめでとうございます。https://www.youtube.com/watch?v=Ot26w1QQJ7E
https://www.youtube.com/watch?v=746v_877dzI
これはどうも、バースデイ・グリーティングをどうもありがとうございます。
拓郎はいつもいいですねえ。素晴らしい。
『マドンナたちのララバイ』も懐かしいですね。
『リゲインのテーマ』!(爆)こんなにいろんなヴァージョンがあったのですね。
最後の2つは「24時間戦えますか?じゃぱにーず・びじねすま~~ん!!!」とは違って、随分とおとなしく=面白みが無くなって(?)いますね(苦笑)
このセレクションは、質問の「戦う」「戦士」といったキーワードから選ばれたのですね。
相変わらずセンスの良さを感じます。
けれども、わたしは問うているように、「戦うこと」や「勝負」ということが、単にわからないだけではなく、
そこからすでに降りている人、というポジションです。(苦笑)
◇◇
今、手もとにあるのは、前にも質問で使った、エミール・シオランの本で、フランス語の原題を直訳すると、
『生まれてきたことの不都合について』
そこからいくつか引用します
『台座の上に立つくらいなら、下水にまみれる方がまだよい』
『長く生きれば生きるほど、生きてきたことが有益だったと思えなくなる』
『存在するとは、その逆と同じくらい、いや、冗談ではない、その逆より遥かに了解しにくい一状態である』
『生まれたという事実を、未だに消化しかねている』
よくもまあここまで、ビターに、シニカルに世の中と生を眺められるものだと思うけれど、そういう一面は確かにわたしの内面にもあるんですね。
https://www.youtube.com/watch?v=No5FkAmTaJY&inde …
- Who Will Sing Me Lullabies - Kate Rusby (ケイト・ラズビー)
No.21
- 回答日時:
blueさん。
僕の勘違いや錯覚だったら申し訳ないのだけど。
___________
世間から隠居していると
言い張るblueさん。
嘘をついてはいけない。
あなたはこうして人と話し合うことを
欲しているではないか。
そうであろう?しかもこうして
人の意見を受け付け
立派に戦っているではないか。
実はあなたは自分の
【勝ち】【幸福】などを
怖れているのではないか。
【勝ち】【幸福】など
自分にはふさわしくない
と思ひ込んでいるだけではなかろうか。
そしてそれは錯覚ではなかろうか。
曲解ではなかろうか。
___________
僕はあなたが【勝ち】【幸福】から
逃げないことを望みます。
どうか逃げないでください。
勝者の席、幸福の椅子から
逃げないでください。
ちゃんとそこに座ってください。
なぜならそのテーブルと椅子が
あなたを待っているからです。
これは僕からあなたへの宿題です。
少しあなた自身と
戦っていただくことになりますが。
もちろん放棄OKですが、
僕はあなたがそこまでヤワだとは
思えないのですよ。
あとはお任せします。
それでは消えます。
このような問いかけは過去に何度も瀬里香さんから投げかけられてきたような気がします。
そして今に至るも何ら答えらしい答えを見出すことが出来ていません。
2008年頃、わたしが当時のOKwebから「逃げ出した」後、そして、「あちらのブログ」も放置しっぱなしになっているときに、あなたは、たしかに大変な時期だったのだろうけれど、わたしのブログに書き込みを残してくれましたね。フェイスブックにいます、と。わたしがそれを見たのは、半年後、いや、ひょっとしたら、一年以上過ぎた後だったかもしれません。それにわたしがブログを書いていた頃、(わたしがOkwebにいたころがいつだったのか思い出せませんが)2008年に集中して書かれたブログに、あなたはほぼまんべんなく、面白く、かつ鋭いコメントを残してくれていましたね。いまでもそのいくつかは鮮明に憶えています。
あなたは別にわたしのように誰も友達がいなくて仕方がなくわたしのところに書き込みをしてくれたわけではない。それでも、なお、わたしがブログを中断し、Okwebを去った後にも、なお、あなたが繋がりを持とうとしてくれていることに驚き、感謝しています。
>世間から隠居していると
言い張るblueさん。
嘘をついてはいけない。
あなたはこうして人と話し合うことを
欲しているではないか。
そうであろう?しかもこうして
人の意見を受け付け
立派に戦っているではないか。
実はあなたは自分の
【勝ち】【幸福】などを
怖れているのではないか。
【勝ち】【幸福】など
自分にはふさわしくない
と思ひ込んでいるだけではなかろうか。
そしてそれは錯覚ではなかろうか。
曲解ではなかろうか。
難しい問いかけです。そしてそのヒントになるかもしれないのは、ここでのやり取りです。
今後ここでのやり取りがどのように推移してゆくのかを見定めてゆきたいと考えています。
先ずはしばらく、ここでのわたしの姿を見守っていてください。そして必ずいただいた宿題の中間報告はいたしますから(苦笑)
どうもありがとう。
No.20
- 回答日時:
誰にともなく年寄りの繰り言。
僕は勝負自体は嫌いではありません。カラオケで点数を競うのも実は好きです。僕と娘とどちらが精確かつ表現力豊かに美しく喇叭を吹けるかを競うのも実は好きです。僕と息子とどちらが多くサッカーボールでリフティングができるかを競うのも実は好きです。女性の友達と飲むときは張り切って着飾りお化粧をします。僕が楽しいからです。かういう戦いは、自分が負けたからといってそれで僕が傷ついたり凹んだり絶望したりするものではありません。僕の人間性に【勝ち負け】を付けるものではないからです。あくまで【枠の中】で戦ったのだから。サッカーは【ピッチ】という【枠の中】での戦いです。【枠の中】で戦うにはいろいろなものが必要です。グラウンドが必要です。ボールが必要です。センターラインやハーフラインやサイドラインそれにゴールポストが必要です。審判が必要です。プレイヤーを応援する人たちが必要です。たとえばプレイヤーの親とか。たとえば仲間とか友達とか。たとえばチームを支えてくださっている近隣住民とか。たとえばボランティアでコーチをしている近所の大人とか。でも何より必要なのが【対戦相手】です。対戦相手がいなければ試合をすることはできません。だから対戦相手には心から感謝したくなるのです。blueさんはサッカーの試合が終わった後、選手同士が相手チームの全員とシェイクハンドするのをご覧になったことがありますか?儀式的に行われている場合もありますが【僕と戦ってくれてありがとう】という心からの身体表現です。別の言葉で表現するなら【僕の対戦相手としてあなたが存在してくれることに感謝します】とでもいいましょうか。
しかし、相手の人格人格自体を否定したり、相手をこき下ろしたり侮辱したり嘲笑したり誹謗したり中傷したり恨んだり蔑んだり攻撃したり見下したり威嚇したりするのは、【戦い】とは呼びません【マスターベーション】つまり【自慰行為】と呼びます。
ははっ。誰にともなくとか言っちゃって、
実は主に19番へ。(*´▽`*)/☆
こんばんは。
ご回答で述べられているのは、戦いというより、むしろゲームといった感じですね。
そして「相手」がいるということは、本当に素晴らしことです。あほなさんの言われた「ライバル」という関係に憧れます。仮に相手がわたしの存在を知らなくても、勝手にライバルを設定することで、自分自身の切磋琢磨が行われる。それでもやはり生身のライバルがいた方がいいに決まっています。
それにやはり応援してくれる人、プロのスポーツなら「ファン」の存在です。元広島カープの衣笠さんは、ファンが選手を育てると言っていましたね。
>blueさんはサッカーの試合が終わった後、選手同士が相手チームの全員とシェイクハンドするのをご覧になったことがありますか?儀式的に行われている場合もありますが【僕と戦ってくれてありがとう】という心からの身体表現です。別の言葉で表現するなら【僕の対戦相手としてあなたが存在してくれることに感謝します】とでもいいましょうか。
ありますよ。随分前に、フランスがワールドカップで優勝したときには結構中継を観ていました。わたしはあの時にはアルゼンチンを応援していました。ベッカムの時代だったかな。
いずれにしても、対戦相手がいる、ライバルがいる、ファンがいるという中での試合は、勝ち負けを超えた喜びを与えてくれるのではないかと思います。
ビートルズが他のバンドに与えた影響というのは、純粋にその音楽の面だけではなく、同時代の、例えばストーンズのミック・ジャガー&キース・リチャーズ、そしてアメリカのビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンに、「彼らよりもいい曲を!」という気持ちを与えたことじゃないかと思うのです。こういう場面での「負けられない」という気持ちは大事だなと感じています。
(*´▽`*)/ ←これ、かわいいね。
昔よくこういう絵(かお)をやり取りした人がいます。
ご回答をありがとうございます。
No.19
- 回答日時:
Grass_Rootsさん、あなたは頭を、すなわち思考を激しく働かさないほうが良いですよ。
そうすることにつれて、あなたの脳細胞は破壊されていく。
私は善意で述べているのです。
おちついて、ゆっくり。これを死ぬまで行いなさい。
おちついて、ゆっくり。これを死ぬまで行いなさい。落ち着くのです。
ショパンのPIANO CONCERTO NO.1は非常に美しい。
ショパンは悲しみに酔うのではなくて、誰からも教わっていないのに悲しみにあがらって、
解決の努力を行う。これが人の美なのだと、述べているのです。
これは人に述べてはいけないのだが、あなた方は必ず忘れる。
>Grass_Rootsさん、あなたは頭を、すなわち思考を激しく働かさないほうが良いですよ。
そうすることにつれて、あなたの脳細胞は破壊されていく。
私は善意で述べているのです。
おちついて、ゆっくり。これを死ぬまで行いなさい。
わたしのあたまはわたしが自分で制御できるものではなく、不随意運動として思考しています。
それにわたしは昔からあれこれ考えることが好きなのです。
「下手の考え休むに似たり」は承知していますが、これはもう三つ子の魂百まで、のようです。(苦笑)
残念ながらわたしは19世紀ロマン派の音楽にはあまり親しみがありません。
ショパンはアルゲリッチであり、ルービンシュタインであり、バッハはいちもにもなくG.グールドです。
キース・ジャレットのバッハもなかなかいいけれど。
音楽に限らず、アートや文芸作品でも、心に欠乏と飢餓感があるからこそそれが魂に染み入るのだと思います。
わたしは悲しみの美をこそ愛します。
ご回答をありがとうございます。
補足蘭にわたしの好きなベートーベンのピアノ・ソナタを添付します。
ピアニストはエミール・ギレリス。情熱の中の悲しみの美です。
No.18
- 回答日時:
ショパンとモーツアルトが違うのは常識です。
バッハとも違うのは常識です。
最も美しい曲はベートーヴェンの第九の第二楽章、歌唱付ならばジャコモ・プッチーニ作曲のNessun Dormaです。
本当の音楽はバッハであり、その対極は米国のモトリー・クルーです。
ショパンのPIANO CONCERTO NO.1は非常に美しい。
だから、悲しみこそ、美であるという愚か者が後から後から産まれてくる。
そこまで、思い込みではなく理解できるように成れたら、本人にとって楽しいことです。
>本当の音楽はバッハであり、その対極は米国のモトリー・クルーです。
ははは(笑)
「悲しみこそ美である」と思いますよ。ですからモーツァルトやフォーレなどのレクイエムは美しく、
「マタイ受難曲」やハイドンの「十字架上の七つの言葉」が美しく、オラトリオが美しく感じられる。
https://www.youtube.com/watch?v=chKZ9TsFri8
トスティの「La Serenata」わたしの好きな曲です。
No.17
- 回答日時:
「頭が悪い」ということの定義がよくわかりません、と述べておいて犯罪を犯した場合に、
「頭が悪いからだ」と言われたのならばそれは否定しません、と述べる。訳が分からない。
あほなはこう述べた。
「人は、自身の抱える習性によって、同じ過ちを繰り返すことがあります。あー、またやってしまったなと気がつくのは良い方で、大方は、過っているのに、自分では上手くできたなどと思っています。」。
中国では急須の中を洗う奴、という言葉ある。
とかく、頭が悪い奴はしなくても良いことをする、しなくても済んだことなのに自己の手柄にする。
あほなのほかの文はさっぱり分からないが、一句、良いことを述べた。
こんにちは。
>「頭が悪い」ということの定義がよくわかりません、と述べておいて犯罪を犯した場合に、
「頭が悪いからだ」と言われたのならばそれは否定しません、と述べる。訳が分からない。
なるほど。わたしとしては、頭が悪いことと、犯罪を犯すこととの関係がわからなかったので「頭が悪い」ということの定義をお聞きしました。一方で、わたしは、自分自身のことですから、頭が悪いことを充分に自覚していますが、第三者が、「頭のわるいやつは犯罪を犯す」と、一般的法則のように語ることについて、ではその頭のわるさの一般的定義とはなんですか?という疑問を持ちました。
で、あほなさんの言われた、
>「人は、自身の抱える習性によって、同じ過ちを繰り返すことがあります。あー、またやってしまったなと気がつくのは良い方で、大方は、過っているのに、自分では上手くできたなどと思っています。」
これが頭のわるいやつの典型であると。
>とかく、頭が悪い奴はしなくても良いことをする、しなくても済んだことなのに自己の手柄にする。
「急須の中を洗う」ことが、「頭が悪い」とはおもしろい表現ですね。たしかに「良かれと思って」というのは、往々にして、大きなお世話になりがちであることは同感です。
「厚意」と「善意の押し付け」との区別がつかない=センスがないということは、「頭の悪さ」の大きな特徴であるかもしれません。
ご回答をありがとうございます。
No.16
- 回答日時:
お誕生日 おめでとうございます。
先日 ≪故き墓地にて≫なる詩で
八月五日の
灼熱の 陽の神の射る
光の矢
というくだりがありました。これは 偶然も偶然だったことに
なります。
八月六日を避けて 一日前にしたものでしたが 驚かれたかも
知れません。
そういう事情ですので。
ぶらじゅろーぬさん、どうもありがとうございます。
フェイスブックでは、友達の誕生日がわかるようになっていますので、瀬里香さんも、また海外のフレンドたちも、それで、グリーティングを下さっているのですよ^^
もちろんそれを「パブリックにしない」という設定もできるのですが、なんだか、それも寂しい気がして、現実には何もない、誰とも会うことのない、いつも通りの一日ですから。
今日がオリンピックの開催日というのも皮肉です(苦笑)
そう、明日は広島に、人類史上初めて原子爆弾が投下された日ですね。
そして9日には長崎に。この月は戦いの月でもあり、戦いが終わった日でもあります。
しかし日本人の戦いは、少なくともこの国にとって「戦争という戦いは」1945年のこの月に、永遠に終わったのか?
おそらくそのような楽天主義を持つ人は少ないでしょう。
そして長崎は人類最後の原爆投下地か?それもどうやら違うように思えます。
ではそのように思うことは悲観的に過ぎるのでしょうか?わたしは人類の将来を悲観も楽観もしていません。
単に人間は、戦いを止めること能わざる存在なのだと思います。
しかしそんななかで、ぶらじゅろーぬさんが、わたしの文章に、戦いのさ中での束の間の涼風を感じて下さったことに喜びを感じています。
今日一日、平和な一日でありますように。
改めて、ありがとうございます。
No.14
- 回答日時:
★ (№9お礼欄) わたしは朽ちた城跡に住み着いた隠者のように
世界を眺め、人はいったいなにを求めているのだろうと、首を傾げて
いるだけなのかもしれません。
☆ そんなことはありません。事実 こうやってみなさんと――縁側
の理論においてでしょうか―― 話し合いをおこなっているという理
由からです。
≪首を傾げている≫だけなら ご自分は参加しないのではないでしょう
か?
世捨て人としてでも すでに主観ははたらいていて 世界の把握とそ
こにおけるものごとの順序づけ・そしてさらに選択が始まっています。
じっさい
★★ アスリートたちは勝つことを義務付けられた戦士=ソルジャー
である
☆ というひとつの世界認識を得て その主観でほかの主観と競い合
おうという魂胆がうごいているのでは?
別の見方をするならば:
★ 「隠者」=「世捨て人」的な生き方、帝政ロシア末期の没落貴族
のような、金に不自由はしないけれども、何事にも無気力、無関心、
特に何も欲しないという「生き方」もあります。
☆ ここで大事なことは ≪金に不自由しない≫という事実です。
没落しても なおまだ地主であり小作人のはたらきで食べていけるの
だかどうだか知りませんが そこには≪社会性≫が――社会的動物たる
ことが――見て取れます。
生きる糧を得ることをつうじて そういう人も ほかの人びとと互い
に社会を成して共に生きています。人生ゲームに参加しています。
主観戦争の波は押し寄せて来ていて むしろその余波を喰って没落し
たという社会性の中にいます。
おれはこの社会性の世界から外に出たんだとか わたしだけは社会性
をまぬかれているんだとか 言えましょうか。
★ これは、わたしは比喩としてではなく、自分の身に重ねてお話し
しているのですが、そのような生き方をも、尚、競争の渦中にいると
言えるでしょうか? 言い換えれば、全き受け身の生にも、なにかを
競うという要素があるのか?
☆ ≪ほかの人たちと――なお同じ世の中の空気を吸って共に生きて
いるのだけれど――競うということをしない≫という競い合いの要素
があります。
そういう見解を提出して問うているのだからです。話し合いを持つか
らにはです。
チカラには 能動的なチカラとそして受動的なチカラとがあります。
アース役となって受け身のチカラを養い・時にはそのチカラを発揮す
る。あるいは傍観者としてでも 世界を観ている。
すべては 主観戦争であり 主観ゲームです。
間主観性( Intersubjektivitaet )なる世界です。
★ いや、しかしこのような頽廃した、いわば「廃墟としての生」に
ついての贅言は無用なことかもしれません。
☆ というふうに傍観者としてでも 世の中の人びとの意見を忖度し
て じつは対話をおこなっている。
★ わたしは朽ちた城跡に住み着いた隠者のように世界を眺め、人は
いったいなにを求めているのだろうと、首を傾げているだけなのかも
しれません。
☆ いいえ。そういう道をおのれの主観において一番として順序づけ
それをえらんだひとりの≪ソルジャー≫です。
でも:
★ 「ライバル」というキーワード
☆ なんてあるんですかね。
主観ゲームをおもしろくしたいという或る主観がはたらいたのか そ
のゲームに余分な≪意味≫を飾りつけただけだとは思います。
だから 社会性にもとづく競争が 社会分断性を帯びて来て――格差
がなければ あほらしいというヘンな主観が生まれ(ライヴァルどう
しが共に お二階にアマアガリし そこで一階との違いを≪享受する≫
ようになる――社会が社会ではなくなる。
この世界観としての一主観をぶつけたい。
そういう趣旨の問い求めであるのではないのですか?
勝ち負けというものが 二次的・三次的に派生した上っ面の≪意味づ
け≫とその飽くなき追求に成り下がってしまった。――こう言いたい
ということではないのですか?
勝ち負け自体は 基礎の――人間の条件としての――社会性につきも
のです。
No.13
- 回答日時:
この初夏に、生命大躍進だったかな、生命史の展覧会に行ってきました。
そこでネアンデルタール人絶滅の理由に、次の様な説が唱えられているのを聞きました。ネアンデルタール人は、クロマニヨン人と交雑したことにより二つの種は同化したと。我々の遺伝子を調べれば、アフリカの一部地域を除くほぼ全ての人類に、数%、ネアンデルタール人の遺伝子が混じっていることを確認できるそうです。
さて、表題にある闘いや勝敗について少し言及します。
克己のこころについて少し。
人は、自身の抱える習性によって、同じ過ちを繰り返すことがあります。あー、またやってしまったなと気がつくのは良い方で、大方は、過っているのに、自分では上手くできたなどと思っています。
克己の心とは、その様な制し難い自身の悪癖を改める、あるいは直すことなどを言います。その事を、慣用句的に自分との闘いなどと言います。
或いはスポーツ選手が、より良い結果を出すために様々な努力を重ねて自身を改革し、遂に高みに到達するとき、彼は過去の自分を超えて来たなどと言えるのです。
また一方、ライバルなどがいた事によって、一人では決して到達できなかったであろう地点に到達することもあり得ます。ライバルとの切磋琢磨によって、相手も自身も成長させることができるのです。同じ志を持った仲間がいる事も同じ様な効果を生みます。競い合うことはこの様な良好な関係を持つ機会そのものと言えるかもしれません。
これらは全て、意味のある闘いと言えます。また、スポーツにおいてファインプレーが出た時、それは、相手の素晴らしい動きがあったからこそそれに呼応して自らも素晴らしいプレーを為すに至ったのであり、ここで称えられるのはその試合自体であったりするわけです。
一方、意味のない、自己や他者を損なうだけの闘いもあります。悪い事はみな他人の所為で、あいつが悪いこいつが悪いとか言ったことを互いに投げかけあって亀裂と衝突を生じ、相手を打つ事に快感を生じるような、我執に塗れた闘いがあります。
或いは、生徒の成長を阻む様な反教育的なブラック部活などでは、極端な我慢を強いられる不自由な活動が作り出されています。こう言うのも、自分や他人を損なう無い方が良い闘いと言えるのでは無いでしょうか。人間の悪意に慣らされる、そんな我慢はする必要はないのですが、ただそれらを堪えるのもまた闘いと言えるでしょう。
こんばんは。
あほなさんの古い質問に、「オール・シングス・マスト・パスト」という、ジョージ・ハリスンのアルバムに関連しての質問がありますね。
アメリカのビーチ・ボーイズなどは、ビートルズの、「サージェント・ペパーズ」等に影響を受けて、「ペット・サウンズ」というレコードを出しましたが、山下達郎などは、「ポップ・ミュージックは、思索的になること、病的になることが進歩とは決して言わない。初期のビーチ・ボーイズこそが真のBB5だ」というようなことを言っていたと思います。そういう見方をすれば、進化ー深化とはどういうことか?という疑問も生まれます。
しかし、一般にスポーツなどでは、努力が直線的に進歩に繋がっていると言えるのでしょう。
>ライバルなどがいた事によって、一人では決して到達できなかったであろう地点に到達することもあり得ます。ライバルとの切磋琢磨によって、相手も自身も成長させることができるのです。同じ志を持った仲間がいる事も同じ様な効果を生みます。競い合うことはこの様な良好な関係を持つ機会そのものと言えるかもしれません。
そうですね。これはまったくその通りだと思います。戦う、ということはわかりにくいけれども、ライバルとの競い合いということは、よくわかるし、じつに羨ましい関係であると思います。
ライバルというのは「友」とは言えないし、「敵」でもない。そういう存在を持てる人間は羨ましいです。
>これらは全て、意味のある闘いと言えます。また、スポーツにおいてファインプレーが出た時、それは、相手の素晴らしい動きがあったからこそそれに呼応して自らも素晴らしいプレーを為すに至ったのであり、ここで称えられるのはその試合自体であったりするわけです。
そういう意味では、ひとつの試合とは、対戦する両者が共につくりあげるもの、といえるのかもしれません。
「競う」ということで、ひとつ、「ライバル」というキーワードが現れたようです。
参考になりました。
ご回答をありがとうございます。
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この質問にわたしが押す前に既に2つのgoodが押されていた。
いったい誰が、このような個人的なあいさつに好意をもってくれたのだろう?
フェイスブックのような、"Serika likes your post" 「瀬里香さんがあなたの投稿に「いいね」を押しました」という表示があればいいのにと、時々思います。