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リオのオリンピックが近づいて来ました。

最近複数の質問に回答をして自分の考えにあらためて触れ、また質問文や他の回答者の意見を読んで気が付いたのは、
わたしには「戦う」「闘う」「競争」「勝負」という言葉の意味が、更には「勝つ」「負ける」ということの意味が分からないのではないか、ということです。

例えば、現在、東京都美術館で『ゴッホとゴーギャン展』が開かれていますが、世界中の誰一人として、この二人の画家のどちらが勝(まさ)っていると判定することはできません。

それはバッハとモーツァルトを比べることや、ベルイマンとタルコフスキーを比べることが出来ないのと同じで、「個性」という「唯一無二」のものに「優劣」も「序列」もありません。

アートも、音楽も、文学も映画も、作者の個性を慈しみ、享受することに他なりません。

それでは一方で、戦うとは、なにがなにに対して戦うのでしょうか?
そして「勝負」とは、誰が、誰に対して、どういう状態になった時に「勝ち」と「負け」が決められるのでしょう?

無論スポーツでもその他の勝負ごとにでも、「試合のルール」というものがあって、それに則って勝敗が決められるのですが、同時に「対戦している」個人、両者、両チームなどから離れた、観戦者という第三の目があって、それは「Aは勝ったけど負けたな」「B負けたけど勝ちだ」という(試合・対戦の、内容の濃さ、深み、味わい、緊迫感)など、勝敗を超えた視点・観点が存在して、特にプロの試合などは、「勝ったもの勝ち」とは言えない側面もあるように思えます。

「戦う・闘う」こと、「競争」「勝負」について、様々なご意見をお聞かせください。

質問者からの補足コメント

  • そうまでして、人が欲する「勝ち」とは何か?
    そうまでして人が避けようとする「負ける」とはどういうことか?

    勝ち負け以前に、「いい試合をしよう」という審美的基準は最早なく、「好ゲーム」でなくても、ただ勝ちゃいいんだという考え方から、「勝ち」に意味を見出すことはできるのか?

      補足日時:2016/08/04 01:05
  • 瀬里香さん、ぶらじゅろーぬさんへ、

    『戦場のピアニスト』ならぬ戦場のヴァイオリニストです。1943年のベルリン、
    ヴァイオリンを弾いているのはソ連軍のソルジャーです。

    「戦いとは、「勝敗」を決めることか?」の補足画像2
    No.16の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/08/05 12:58
  • ピアノソナタ第8番 ハ短調  "Grande Sonate pathétique" (大ソナタ悲愴)

    No.19の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/08/05 23:55
  • この質問にわたしが押す前に既に2つのgoodが押されていた。

    いったい誰が、このような個人的なあいさつに好意をもってくれたのだろう?

    フェイスブックのような、"Serika likes your post" 「瀬里香さんがあなたの投稿に「いいね」を押しました」という表示があればいいのにと、時々思います。

    No.22の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/08/06 01:03

A 回答 (22件中11~20件)

平和な国においては、戦いは、公平なルール上でのスポーツ、あるいは、選挙選どまりであると思います。

応援する側でさえ、勝つのは、ただ、嬉しく、気持ちの良いものです。

戦時下では、どんなに汚い手を使っても、相手を下して勝利を手にすると、正義は勝者にあり、ということになります。敗者の言葉は負け犬の遠吠えになりますね。

一方、芸術には、勝者も敗者もいないでしょう。優れた作品が、時を超えて残ってゆくだけです。芸術家が作品をささげる相手は、王侯貴族・宗教団体・一般の小金持ち・庶民・企業。。。と、どんどん変わってきましたが、最終的には、自己の創造力を克服した時点で、芸術家の戦いは終わります。

+++++++

偶然にも同じ時を法王庁で過ごし、人類の宝物のようなを仕上げたミケランジェロとラファエロは、全く別の世界を作り上げています。

やがて、ラファエロは若くして亡くなってしまい、ミケランジェロは、その後、最後の審判を仕上げます。ラファエロが葬られたパンセオンに、どうやらミケランジェロもご執心のようでしたが、どうしたわけか、ローマ市内の教会に墓所が決まってしまいます。縁者がかわいそうに思って、亡骸を盗み出し、故郷のサンタ・クローチェに改葬した話を思い出しますと、芸術家もやはり人間であり、その、罪深い人間の愚かさが、名誉を欲しがり、そこから皮肉な、周りの人を巻き込んだ人間喜劇が生まれ出るように感じました。ご存じのことでしょうが、芸術家同士の戦い、と聞いて、思い浮かべたエピソードです。
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この回答へのお礼

こんばんは。

>芸術家もやはり人間であり、その、罪深い人間の愚かさが、名誉を欲しがり、そこから皮肉な、周りの人を巻き込んだ人間喜劇が生まれ出るように感じました。

芸術家に限った事ではないのですが、わたしはどうも美徳とされることよりも、悪徳とされることにより寛容であるように思います。北大路魯山人が、「芸術家に位階は相応しくない」といって、文化勲章を固辞したことはわたしには喝采すべきことで、その一言だけで、「偉大」という形容を冠したくなります。一方で、陋巷の戯作者と自己韜晦しつつ、久保田万太郎に唆されて、文化勲章を受勲し、「天婦羅を喰って旨いと思わないやつがいないように、勲章を貰ってうれしくないやつなどいない」と、嘯いた永井荷風には、うたたウソ寒さを感ぜずにはおれません。

名誉欲と金銭欲、これが一番苦手です。逆に大酒のみであるとか、好色であるとか、ヤク中、アル中、殺人者、売笑婦、乞食、...etc...には非常に寛容だし、そういうことが芸術を損なうとは思えないのです。
ですから芸術家には受勲なんかしてもらいたくはない。同性愛、あるいは変態はいいけど(笑)

ミケランジェロは存在そのものが或いはシスティーナ礼拝堂が、「パンテオン」と言っていいと思います。ラファエロはもちろんですが、フィリッポリッピ、息子のフィリッピーノ・リッピなど、ボッティチェリの系譜が美しく感じます。(ああ、久しくルネサンス絵画にふれていないなあ・・・)

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/05 02:23

本来は、目的を果たすために「戦う」という選択肢が生まれる。



つまり、その「戦い」の勝利とは「目的を達成する事」で勝利となる。
戦いにおいて「何かを倒す」事が必要な場合は、それは目的を達成する「手段」に過ぎない。




しかし、「戦い」そのものが目的化する場合がある。
戦いにおいて「何かを倒す」事が手段ではなく「目的」となる場合がある。



個において「戦いが目的化している」者は、犯罪でない限り好きにすればよいと思う。

スポーツ業界に多いが彼らを批判する気は毛頭ない。中には「この競技で有名になって、自分のある目的を達成する」という者もいるだろうが、むしろスポーツ業界では、競技をする事が目的化した者の方が健全と言える。そういう健全な彼らは、合法的に戦かえる場が欲しいのだろう。その場がたまたまその競技だったのだろう。そこで戦っている時が一番幸福なのだろう。人の幸福は人が決める事。犯罪でない限り好きにするがよいと思う。むしろ、犯罪でない限りは他人から批判も受けず悠々と、自分の好きな「戦い」ができる世の中の方がよい世の中と言えるでしょう。



しかし、組織において「戦いが目的化している」場合は、愚か。
そういう組織はいずれ崩壊する。
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この回答へのお礼

こんばんは。

>合法的に戦かえる場が欲しいのだろう。その場がたまたまその競技だったのだろう。そこで戦っている時が一番幸福なのだろう。人の幸福は人が決める事。犯罪でない限り好きにするがよいと思う。むしろ、犯罪でない限りは他人から批判も受けず悠々と、自分の好きな「戦い」ができる世の中の方がよい世の中と言えるでしょう。

なるほど、面白い見方ですね。合法的に戦える、合法的に敵を倒せる。それはまた観衆にとっても同じですね。
競技者と観衆が一体になっている。ふと、ローマ時代のグラディエーターを思い出しました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%A3%E9%97%98 …

>しかし、組織において「戦いが目的化している」場合は、愚か。
そういう組織はいずれ崩壊する。

国家によるオリンピックも、勝つこと自体が目的化しているように感じます。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/05 00:58

「自分との戦い」について説明します。

自分との戦いに勝利することは、定めた目標に到達することです。これには人間の弱さが前提としてあります。この位でいいかとかもう無理とかの誘惑に負けないという戦いなのです。精神的成長が根底にあるのでしょう。難しい戦いです。
勝敗を決することの出来ない戦いはあります。「勝負に勝って試合に負けた」という言い方もあるように、あらかじめ決めていた点では勝利しても、定めていなかった見方においてはとても勝者とは言えないということだってあるのです。的確な例は示せませんが、例えば大相撲で横綱がルール違反ではないけれど卑怯な手で勝利した場合、などがこれにあたります。
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この回答へのお礼

こんばんは。

なるほど、弱さが前提としてあるから、容易に目標に到達できないということですね。けれどもそういう弱さがまた人間的な魅力という感じもしないでもありません(苦笑)

太宰治の『東京百景』だったかの中に「必ず負けてやる」という言葉があって、強い印象を受けたことを憶えています。
また、映画『アメリ』の中にも、アメリが隣家の老人から要らざる忠言を受けて、「不当な干渉だ!人は不幸になる権利がある!」と憤然としているシーンも印象的でした(苦笑)

>「勝負に勝って試合に負けた」という言い方もあるように、あらかじめ決めていた点では勝利しても、定めていなかった見方においてはとても勝者とは言えないということだってあるのです。

「勝負に勝って試合に負けた」ですか。そういうことは言えるかもしれませんね。

再度のご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/05 00:43

あの透き通った文体の――主観を必要以上には交えず 交えるときには


これは主観だ ここから先は主観だと明らかにして自己表現する文体の
――ぐらす_るーつさんが この質問では何だか〔わたしには〕煮え切
らない感じですね。


★(№8お礼欄) つまり、「競う」ということがよくわかりません。
★ それはまったく鑑賞者の主観、趣味による好き嫌いの判定でよいの
ではないでしょうか?
☆ ということにおいて すでに戦争あるいは競争が始まっています。

将来を共にという思いの子のハートを仕留めたいときや この会社に入
って自分のやりたい仕事に就きたいというとき 煮詰めたかたちでは
その相手における≪好き嫌い≫で結果が決まるのではないですか?

人生はたたかいです。むしろ 同等どうしの間にも 一ぺんにふたつの
仕事に就きがたいからには 順序というものがあり 選択がある。

そういう意味での――なぜなら 意中のひとや就職先をあきらめなけれ
ばならなくなる場合もあるからには――たたかいであり 競い合いでは
ないのですか?




その競争は 否が応でもこの世界に生きているなら出遭わなければなら
ない人間の条件なのだと思います。

その上で(その基礎としての前提の上で) そのために 学業成績にな
るべく多く優を並べるとか 自慢できる得意な分野を身につけるとか 
そういった努力をする人もいれば しない人もいる。

しない場合も 競争であることが否定されたわけではない。主観として
否定してもよいわけですが 世の中の前提となる現実が なくなるわけ
ではない。




★ 「わたし」という一個人の内面の世界では、好きな画家の、好きな
作品の優劣、序列というものが、暫定的であるにせよ、存在しています、
それは先のぶらじゅろーぬさんの意見と同様です。
☆ つまり そのような≪主観〔とほかの主観との関係なる世の中〕≫が 
要素・要因としてすべてであるのだと見ます。

おおやけの発言としては そんな感情決定論はあまり言わないでしょう
が 結果として現われるのは まさしくそのような主観どうしのたたか
いを経て来るものだと考えられます。



★ 一方で、戦い、勝負というものには、明白な勝敗というものがある
ようで、そこでは、「AはBに勝った」という判定がなされます。
☆ そのような結果の以前に おのおのの主観における・すでに好き嫌
いやそれによる序列づけが始まっていたのですし おおよそその主観が
それぞれ世の中という舞台において主役を担います。(むろん 選抜の
試験をしたりする勝負そのものの舞台もあるわけですが)。

★ そのこと(勝敗というものがあること)の意味、というか面白みと
いうものへの感受性がわたしには欠けているようなので、お聞きしてい
ます。
☆ 面白味も何も 初めにすでに主観がそれぞれスタート地点に立った
ところで 競争は始まっています。意味も何も それが世の中です。



★ 審美的な「好ゲーム」を超えた「勝ったもの勝ち」の世界観がいけ
ないのではなく、わからないということです。つまり、「競う」という
ことがよくわかりません。
☆ もちろん そのような主観を持ちそれを保ちそれを通すことも 自
由です。

問題は 世の中の主観レースから外れる自由は とうとばれるも その
身は広くレース一般の中に依然として存在していると見なされるという
ことだと思います。

無人島へ旅立ったとしても 同じように見なされ 自由人の一種だとし
て扱われるのだと思います。

★ アートやオリンピックをひとまず離れて、人生のなかで、ひろく
「競う」ことについてご意見を伺えればと思います。
☆ 世の中の出来事すべてにわたって 同じことだと思うんですけれど
ねぇ。

誰もが認めざるをえない普遍的な真実も もとはひとりの人間の主観真
実として成ります。

世界は 主観戦争です。ほかに現実はありません。

こうやってやり取りしているのも 競い合いですよね。透き通った認識
のあり方を文章として淡々とつむいで行く文体は 戦争状態をいやして
くれます。
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この回答へのお礼

こんばんは。

このご回答では、主観による「選択」というものが、「競う」ということと同義であるということのようです。

つまり個人の内面での序列化、好き嫌いという選択が、恋人を選び、伴侶を選び、仕事を選ぶという「競争」、ひいては、「自分の人生を選ぶ」ということに結びついているということ。

なるほど、確かに芸術や文学の鑑賞については、好きなものを自由に観る、聴く、ということができますが、
Aという仕事より、Bの方が自分には適しているという選択・判断をしたときに、そのために競うこともあれば、少なくとも何らかの努力はしなければならない。与えられるもので、或いは目の前に並べられたものの中から選ぶのであれば、必ずしも競争はしなくてもすむけれど、人として確固とした好みがあるほど、それを確保・獲得することは必ずしも容易ではない。

Aさんが好きだという主観的選択、BではなくAという仕事がしたいという想い。それが外在化したものが、主体的な人生を選び取ることだということなのでしょう。

ただ、一方で、「隠者」=「世捨て人」的な生き方、帝政ロシア末期の没落貴族のような、金に不自由はしないけれども、何事にも無気力、無関心、特に何も欲しないという「生き方」もあります。これは、わたしは比喩としてではなく、自分の身に重ねてお話ししているのですが、そのような生き方をも、尚、競争の渦中にいると言えるでしょうか?言い換えれば、全き受け身の生にも、なにかを競うという要素があるのか?

いや、しかしこのような頽廃した、いわば「廃墟としての生」についての贅言は無用なことかもしれません。

わたしは朽ちた城跡に住み着いた隠者のように世界を眺め、人はいったいなにを求めているのだろうと、
首を傾げているだけなのかもしれません。

貴重なご意見をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/05 00:27

やっぱ何となく据わりのよくないようなヘンな感じを このご質問には


感じます。

だって 良し悪しや勝ち負けの判断は すべておのおのの主観によるも
のなのですから。

すべての評価は 次のようだと理解します。:
★(№6お礼欄) 非常に主観的な判断です。 / わたしにも「好き嫌い」
はあります。 / 「趣味の問題」に帰結します
☆ ひとりの人の主観 これがさらに一般性を持つか。普遍性を持つに
到るまでの内容もがあるのか。――ということではないのでしょうか。



★ わたしにとってのベストアンサーは、良し悪しや勝ち負けの判定で
はなく、自分の知らなかったことを教えてもらったとか、ユーモアのセ
ンスに富んでいたといった非常に主観的な判断です。
☆ 判定の内容もそして基準も 主観的なものであるということなので
は?

★ ~~~~~~~~~~~~~~
わたしにも「好き嫌い」はあります。ゴッホよりゴーギャンが好きであ
るとか、
モーツァルトよりはバッハであるとか。でもそれはわたしという一個人
と、バッハやゴッホの作品との関係であって、普遍性を持つ価値判断で
はあり得ません。

「趣味の問題」に帰結します。(笑)
~~~~~~~~~~~~
☆ そういうものではないのですか?

わたしにとっては ゴッホが 100で ゴーギャンは 10。ピカソ
は -100です。

音楽は 点数にはならない感じで バッハが いちばん心地よく モー
ツアルトは 心地よいけれどそのまま心が落ち着くわけではない。ベー
トーベンは アクセントがわが心に与えられる感じです。
そうして エリック・サティが好きです。

★★(趣旨説明欄) アートも、音楽も、文学も映画も、作者の個性を
慈しみ、享受することに他なりません。
☆ そうですよね。そして その結果 わたし自身の主観は ピカソに
ついては その作品を享受し得るところがないと感じ 作者の個性をい
つくしむことが出来ないと思っています。ゼロではなくマイナス100
です。

そうしてむろん ほかの人たちの主観はそれぞれ 別の評価を持ちます。




自己表現の成果を 公共の場に出すということは ほかの人がどう受け
留めるかをめぐって 戦争をしているのではないのですか? 人生は 
たたかいです。

勝ち負けも 主観ごとに決められてくるのでは?

もちろん すべてのおこないは 相対的なものです。
でもそれゆえ 選択があり得ますし ものには順序がおのづからつけら
れるようになる。こう思います。

勝ち負けにはこだわらずそれぞれがよく闘ったという≪好ゲーム≫の場合
にも そういう基準による順序と選択があります。

≪勝った者勝ち≫という物指しで世界を生きる人もいるはずです。でも 
その主観をも 存在がひととして互いに共通であるという土台をとうと
ぶ限りで まづは受け容れなくてはならない。

その上で いやいや そういう価値観は おかしい・間違いだという見
解も 自由に出されて来る。こういった世界を生きているのでは? わ
れわれは。

メダル争いについて それをも甘んじて受け容れる場合もあれば それ
ではダメだ
★ 「いい試合をしよう」という審美的基準
☆ が大事で必要だ これを持とうとうったえる場合もある。



という地図を踏まえて この質問というバスは どこ行きなのでしょう
か?

★ アスリートたちは勝つことを義務付けられた戦士=ソルジャーであ

☆ だから そんなんではダメだ。という見方について論評せよという
ことでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

この質問の趣旨がよくわからないというのは、わたし自身が、問いのキーワードである「戦い」や「勝ち負け」という概念をよく理解していないせいではないでしょうか?

>わたしにとっては ゴッホが100で ゴーギャンは10。ピカソは -100です。

>音楽は 点数にはならない感じで バッハが いちばん心地よく モーツアルトは 心地よいけれどそのまま心が落ち着くわけではない。ベートーベンは アクセントがわが心に与えられる感じです。
そうして エリック・サティが好きです。

それはまったく鑑賞者の主観、趣味による好き嫌いの判定でよいのではないでしょうか?
「わたしはピカソは嫌いだ。どこかいいのかまるでわからん」その意見は尊重されるべきで、何者もピカソを判定することはできないといっているのではありません。ただ、わたしにとってのピカソと、あなたにとってのピカソはまったく違うということです。ですからゴッホの方がピカソより遥かに優れているという意見・感想を述べることはできても、(当たり前のことながら)それは普遍的な事実ではないということです。

>自己表現の成果を 公共の場に出すということは ほかの人がどう受け留めるかをめぐって 戦争をしているのではないのですか? 人生はたたかいです。

このあたりはよくわかりません。「そうではないだろう」ということではなく、最初に述べたように、わたしにとって親しみの薄いキーワードが並べられているからです。「人生はたたかいです」の意味を知りたいと思います。

「わたし」という一個人の内面の世界では、好きな画家の、好きな作品の優劣、序列というものが、暫定的であるにせよ、存在しています、それは先のぶらじゅろーぬさんの意見と同様です。一方で、戦い、勝負というものには、明白な勝敗というものがあるようで、そこでは、「AはBに勝った」という判定がなされます。そのことの意味、というか面白みというものへの感受性がわたしには欠けているようなので、お聞きしています。
審美的な「好ゲーム」を超えた「勝ったもの勝ち」の世界観がいけないのではなく、わからないということです。つまり、「競う」ということがよくわかりません。

アートやオリンピックをひとまず離れて、人生のなかで、ひろく「競う」ことについてご意見を伺えればと思います。

お礼日時:2016/08/04 12:47

こんばんは。

blueさん。


僕は先日もお伝えしたやうに、人自体に【優劣】を付けるのはおかしいと思ってをります。また人自体に【勝敗】などありません。大事なことなので2回しゃべります。人自体に【勝敗】などありません。けっしてありません。なぜなら生きている時点で全員に【価値】があり全員が【勝ち】だからです。人が人を裁く?人が人に優劣を付ける?そんなのはちゃんちゃらおかしい。へそが茶を沸かすやうなものです。めづらしく今回は質問内容が錯綜しているやうに感じます。


前置きが長くて澄みません。



具体例を話します。僕は息子といふ人間と【戦争】をしません。僕は息子といふ人間と、人としての【優劣】【勝敗】を競ふことは一切ありません。しかし、息子とオセロやカードゲームやビリヤードでの真剣勝負をするときは、いくら相手が小学生であろうと僕は決して手抜きをいたしません。そうでないとお互い楽しくないからです。真剣勝負をするからこそ○○が楽しいからです。
そもそもオリンピックは戦争をやめるために開催されました。戦争よりマシな方法はないだろうかと考えられた結果、それなら【スポーツで決着をつけよう!それなら文句あるまい!】という発案のもと開催されたのが始まりです。オリンピックの起源は、野蛮な戦争から、スポーツでの勝負という文化への移行です。


ちなみに【スポーツ】の語源はラテン語の【deportare】で、「ある物を別の場所に運び去る」転じて「憂いを持ち去る」「港から離れる」という意味です。僕は【ケ】から離れた【ハレ】でありつまり【遊び】だと解釈しています。【ケ】の日常で闘うことを嫌ひ支配者や奴隷になることを嫌った人間が、【ハレ】の世界で思う存分【闘うことを楽しみましょう】という機会を作ったのだと理解しています。


僕は僕のために【ケ】も【ハレ】も大切にしています。配分は僕の状態によって変化しますが、どちらも削除することはできません。今は【ケ】が9.9で、【ハレ】が0.1ぐらいかな。


お読みいただきましてありがたうございました。僕の回答に間違いがあれば、どなたか訂正してくださると喜びます。また僕に対するご意見ご叱責ご批判などはいつも通りどなたさまからでも受け付けます。
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この回答へのお礼

昨日、瀬里香さんの古い質問、『怒りという感情はありますか?』を読んで、考えさせられました。
機会があれば、また著作権の許可が下りれば、リメイクして質問しようかと思っています。(笑)

このように、わたしには、わからない感情や情動というものがいくつかあります。
「戦う」というのは、あほなさんの『意味のある闘い』という問いがよく理解できなかったこと、またyy8さんの『ブラック部活』の質問での、「参加すること」より「勝つこと」に意義を見出すということもわかりませんでした。上記のようなことから、改めて、「趣味の問題」=テイストを超えた、戦いと勝敗ということについて、考えてみたいと思いました。

>オリンピックの起源は、野蛮な戦争から、スポーツでの勝負という文化への移行です。

そもそもはそうなのかもしれませんが、現在は、単にメダルの争奪戦、メダルをいくつ取れるかが最優先課題で、いい試合をしようという本来のスポーツマンシップからはほど遠くなってしまっていると感じるのです。

またたかだか2週間の開催期間のために、オリンピックを催す国々が血眼になって都市を乱開発するのは何故か?それはつまり、オリンピックというもののそもそもの出自が、「戦争」という母体であったからではないか?などと思うのです。ですからわたしはアスリートたちは勝つことを義務付けられた戦士=ソルジャーであるといったのです。

「憂いを持ち去る」、「遊び」、「ハレ」であるのなら、メダルや勝ち負けよりも、グッドゲームをこそ目指すのではないかと思います。それは決して「勝ったもの勝ち」の世界や価値観ではないはずです。お互いをたたえ合うような好試合こそが・・・などというのは青臭い主張で、要は、勝ってくるぞと勇ましく誓って国を出たからは手柄立てずに死なりょうか!ですか?

どうしても、「好ゲーム」の上位に「勝利」があるということが、互いの健闘を讃え合うことではなく、相手を負かし、メダルの数を数えることの浅ましさを理解できません。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/04 01:46

こんばんは。



でも 投稿者が闘っているのかどうかは知りませんが
質問者が BAをえらんでいますので 良し悪し・勝ち負けの
評価はしていると思われます。よ。
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この回答へのお礼

こんばんは。ぶらじゅろーぬさん。

>質問者が BAをえらんでいますので 良し悪し・勝ち負けの評価はしていると思われます。よ。

他の方たちはどうかわかりませんけれど、わたしにとってのベストアンサーは、良し悪しや勝ち負けの判定ではなく、自分の知らなかったことを教えてもらったとか、ユーモアのセンスに富んでいたといった非常に主観的な判断です。

わたしにも「好き嫌い」はあります。ゴッホよりゴーギャンが好きであるとか、
モーツァルトよりはバッハであるとか。でもそれはわたしという一個人と、バッハやゴッホの作品との関係であって、普遍性を持つ価値判断ではあり得ません。

「趣味の問題」に帰結します。(笑)

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/04 00:50

勝負とは決められたルールの下でどうなったものを勝者とするという、あらかじめの決まりがあって行われるものうを指します。

したがってそういう決めの無い戦いには勝者はありません。例えば戦争などはどちらかがギブアップして相手方を勝者と認めることで勝敗が着くのです。いつまでもギブアップしなければ、殺し合いですから、最後の一人がいなくなるまで勝敗は着きません。単なる戦いには必ずしも勝者という概念は必須ではありません。
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この回答へのお礼

こんばんは。

>勝負とは決められたルールの下でどうなったものを勝者とするという、あらかじめの決まりがあって行われるものうを指します。したがってそういう決めの無い戦いには勝者はありません。

なるほど、その辺りがわたしがわからないところかもしれません。例えば「自分とのたたかい」などということがどういうことであるのかがわかりません。

>単なる戦いには必ずしも勝者という概念は必須ではありません。

ということは、勝敗を決することのできない戦いもあるということでしょうか。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/04 00:43

例えば、現在、東京都美術館で『ゴッホとゴーギャン展』


が開かれていますが、世界中の誰一人として、
この二人の画家のどちらが勝(まさ)っていると
判定することはできません。
  ↑
そんなことはありません。
画商は値段で優劣をつけています。


それはバッハとモーツァルトを比べることや、ベルイマンと
タルコフスキーを比べることが出来ないのと同じで、
「個性」という「唯一無二」のものに「優劣」
も「序列」もありません。
   ↑
優劣を決めるのは人間です。
どんなモノでも優劣を決めることはできます。
個性に優劣がつけられないのなら、ワタシの
曲とバッハの曲との間に、優劣は無いことに
なります。


「Aは勝ったけど負けたな」「B負けたけど勝ちだ」
    ↑
こんなのは、負け惜しみか、言葉遊びを
しているだけです。


「戦う・闘う」こと、「競争」「勝負」について、
様々なご意見をお聞かせください。
   ↑
典型的なモノとそうで無いモノ、
適するモノと適しないモノの
区別があるだけです。
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この回答へのお礼

「優劣をつける」というのは芸術作品の真価のことで、画商が決められるのは「売れるか売れないか」だけで、作品そのものの価値ではありません。もし画商が作品の真価を決められるなら、何故ゴッホの絵は生前に1枚しか売れなかったのでしょう。もちろん、「売れるもの」すなわち「価値あるもの」「優れたもの」である、というご意見であれば、それでいいのですが。

>優劣を決めるのは人間です。
どんなモノでも優劣を決めることはできます。
個性に優劣がつけられないのなら、ワタシの
曲とバッハの曲との間に、優劣は無いことになります。

理論的には、そうではないですか?ピカソは「子供はみな芸術家だ」と言っていますが、ピカソの絵と、幼稚園の女の子が描いた絵を比べて、子供の絵の方が好きだという人があったとしても、別にその人は頭がおかしいわけではないと思います。

>「Aは勝ったけど負けたな」「B負けたけど勝ちだ」
    ↑
こんなのは、負け惜しみか、言葉遊びをしているだけです。

例えば観客も、解説者も、「今日はいい試合でしたね」という場合がありますが、それは「勝ったほう」だけの功績でしょうか?本当のファンであれば「今日は勝つには勝ったが、面白みのない試合だったな」という見方もあるのではないでしょうか?

>「戦う・闘う」こと、「競争」「勝負」について、
様々なご意見をお聞かせください。
   ↑
典型的なモノとそうで無いモノ、
適するモノと適しないモノの
区別があるだけです。

あ、このあたりは意味が読み取れませんでした。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/04 00:35

ネアンデルタール人は道具を道具として使っていたし、弔いの心も持っていた。


なにが、現代人と変わりがあるのだろうか。
ネアンデルタール人を現代小学校からまなばさせていたら、ほかの人とかわらなかっだだろうに。
頭が悪いんじゃないのか。
日本人でも頭が悪い、または頭が悪いと、凶悪な犯罪を起こしている。
他人を傷つけることは頭が悪いと分からないのである。冗談ではないが大方は理解できない。
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この回答へのお礼

再びのご回答をありがとうございます。

>頭が悪いと、凶悪な犯罪を起こしている。
他人を傷つけることは頭が悪いと分からないのである。冗談ではないが大方は理解できない。

「頭が悪い」ということの定義がよくわかりません。また犯罪は、頭の良しあしをどのように定義したところで、Aは犯罪に走る(走り得る)がBは犯罪を犯し得ないということは言えません。
「犯罪を犯すこと能わざる人(存在)」というものを想定されているのでしょうか?

少なくともわが身を振り返り、自分が決して「凶悪犯罪を犯すことはない」と断言はできません。
それはお前が「頭が悪いからだ」と言われるかもしれませんし、それは否定しません。

けれども誰かが、人を傷つけたり、殺めたりするような犯罪を犯すことなく生涯を終えることが出来たとすれば、それは単に「幸運だった」のだ、としか言いようがありません。
何故なら、多くの、ほとんどの人間=(後に犯罪者だ人殺しだと言われるようになった)は、ごくふつうの人としてこの世に生を受けるからです。
環境が全て、とは言いません、けれども、誰しも自分の「精神・身体」といった内的環境を選択・整備して生まれてくるわけではないのです。

お礼日時:2016/08/04 00:12

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