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私は高校2年生です。
進路のことで悩んでいます。

私は小学生から中学生までソフトボールをやっていました。しかし私が入った高校にはソフトボールがありませんでした。
将来のことを全く考えていなかった高校1年生の私は、小学生のころ少しやっていた書道部に入りました。
しかし書道部に入ると、とても運動がしたくなり、やっぱり運動部に入っておけば良かったと後悔しました。

そしていざ、将来のことを真面目に考えはじめると、私はスポーツ以外に興味がもてません。なのでスポーツに関わる仕事がしたいと思いました。
それを担任に言うと、その学部にいくには実技試験もあるから、高校生の3年間は運動部じゃないと厳しいと言われました。

でもどうしてもスポーツに関わる仕事がしたいです。
体力テストではA判定、成績では体育で80点をとっています。
無理なら諦めますが、文化部からでもスポーツの学部に入ることはできますか?

A 回答 (2件)

いけますよ。


未経験からトップレベルになった例。探せばもっとあると思います。
確かにサッカーやバスケットボールなどの球技は競技人口も多く、また技術的なことを幼少時に身に着けていないと未経験者が15歳以上で始めてハイレベルでプレイするのは難しいと思われます。けれどスポーツによっては下記のように成人前後で始めてトップレベルになる例も結構あります。あなたの気持ちと努力次第で大学の実技試験ぐらいは余裕だと思います。むしろ中高をトップでやってると大学以降で「たるむ」人も多いので(勉強ばかりしてるはずの東大生、京大生がスポーツ特待生の多い私学に時々勝てるのはそういうのが理由です))ひたむきに出来るなら強みになると思いますよ。

ホリー・ホルム・・・元UFC世界女子バンタム級王者。ボクシング時代は18度世界王者に輝いた世界3階級制覇王者で、長年パウンド・フォー・パウンドのトップに君臨した。格闘技を始める前は、サッカー、水泳、体操などをやっていた。ダイエット目的でエアロビクスダンスを行うために通っていたジムで、キックボクシングのクラスを見かけ”凄くイケてる”やってみたいと一目惚れ、エアロビクスダンスを習っていたインストラクターがキックボクシングも教えていたこともあり、キックボクシングをすぐに始めた

武井 壮・・・日本のタレント、元陸上競技選手。陸上競技・十種競技元日本チャンピオン。タレントとして活動し、「百獣の王」を目指している。東京都葛飾区出身。修徳中学校・高等学校を経て、神戸学院大学法学部に進学。中学・高校では成績がトップで入学金も学費が免除され、奨学金が支給されていた
中学では野球、高校ではボクシングに取り組んでいたが、大学時代に短距離走を始め神戸学院大学3年時に十種競技へ転向する。中央学院大学にスカウトされ、神戸学院大学卒業後に進学。1997年の第81回日本陸上競技選手権大会十種競技において、競技歴2年半で優勝する。100m走ベスト記録の10秒54は2015年まで、十種競技・100mの日本最高記録だった。中央学院大学卒業後に陸上をやめ、1998年から2000年までアメリカにゴルフ留学。2001年1月から2月にかけて、台湾プロ野球リーグ・中信ホエールズの冬季キャンプ特別コーチを務めた後、同年3月からはスポーツトレーナーとしての活動を本格的に始め、2010年までの間、陸上選手はもとより、競輪選手・プロゴルファー・プロ野球選手の個人トレーナーも務めていた。

尾崎将司は、日本のプロゴルファー、元プロ野球選手。本名およびプロ野球時代の登録名は尾崎 正司(読みは同じ)。徳島県海部郡宍喰町(後の海陽町)出身。「ジャンボ尾崎」(ジャンボおざき)の別名でも知られる。公式ゴルフランキングでも“Masashi Jumbo Ozaki”と表記された。世界ランキングの自己最高位は1997年ブリヂストンオープン優勝後の5位。
日本ゴルフツアー通算94勝、賞金王12回、メジャー大会20勝(日本プロ6勝、日本マッチプレー1勝、フィランソロフィー1勝、日本オープン5勝、日本シリーズ7勝)は歴代最多記録。通算優勝回数113回は世界プロツアー最多記録。元は野球で世間にその名を知られた人物である。高校時代には徳島県立海南高等学校(現在の徳島県立海部高等学校)で投手として出場した1964年春のセンバツで決勝戦に進出し、小川邦和のいた広島県立尾道商業高等学校に勝利して初出場初優勝を成し遂げた。
1965年にプロ野球の西鉄ライオンズへ入団。投手として活動していたが、同期入団した池永正明の投球を見た際「こんなピッチャーがいたんじゃ、俺なんかピッチャーで飯が食える訳が無い」と打者(外野手)に転向。二軍では4番を張るものの、一軍では目立った活躍もなく、1967年12月23日に当時西鉄の監督だった中西太に退団を申し出る。期待した選手が僅か3年での退団申し出に激怒した球団社長から越年で慰留されるも、「池永に勝ちたいという気持ちが野球を辞める理由だった球では負けたけど、違う世界ではあいつを追い抜く。そんな気持ちだった」という尾崎は翻意せず、結局西鉄を退団する。打撃コーチの花井悠にゴルフ転向を進められプロゴルファー転向を決意するが、退団時の騒動のため、西鉄の息のかかった九州では活動できなくなり、プロを目指して修行していたカントリークラブを突然クビになった尾崎は、婚約者を残して独り千葉のカントリークラブへと旅立っていった。1970年4月にプロテスト合格。正式にプロゴルファーに転向した。この時に名前も心機一転、本名の「正司」から「将司」に改名した。

河野明子・・・アナウンサー、慶應義塾幼稚舎、慶應義塾中等部、慶應義塾女子高等学校、慶應義塾大学法学部法律学科卒業後、2001年4月テレビ朝日に入社。高校までバスケットボール部に所属。根本美緒とは幼稚舎から大学まで同級生である。大学ではラクロス部に入部。テレビ朝日入社後もしばらくはラクロス競技を続ける。日本代表経験者で、2001年の第6回女子ラクロス・ワールドカップに出場[2]。『朝日新聞』(東京本社管内、2002年1月17日付夕刊)や写真週刊誌『FLASH』(2003年7月8日号)などが取材する。2002年7月から2004年3月までは『ニュースステーション』のスポーツコーナー(木・金曜日)を担当するほか、各種スポーツ中継を行う。
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学校の部活でなくても、他のスポーツクラブに所属して、結果を残せばいいのでは?面接でも話せるし、推薦書にも書いてもらえばいいんじゃな

いかな?
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