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初めて質問しており、しかも外国人なので、変な文書だったらお許し下さい。
写真は、2016年の熊本地震で崩壊した熊本城の土台であると思います。土(叉は砂?)の上に石が置かれているという、非常にシンプルな構造であるという事が覗われます。しかし、強い地震は無かったが雨水などで数百年に渡って2016年まで崩壊しなかったのは、科学的に説明できるのでしょうか。また、敷かれている石は、自然の石ですか、それとも、コンクリートみたいな人工的な石ですか。不謹慎で申し訳御座いません。宜しくお願いします。

「日本の城の土台について」の質問画像

質問者からの補足コメント

  • そうですね、日本の城は領主の住まいとして実用されていたので、定期的に修理されており、数百年は持っていても可笑しく無いと思います。1874年に富重利平が撮った写真では、壁がちょっと崩壊している様子が見受けられます(赤く囲んた部分)。しかも、崩れた部分の下には既に草が生えています。多分、明治維新で城が不要となり、数年間にわたって誰も手入れしていなかったという事ですね。

    「日本の城の土台について」の補足画像1
    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/04/15 06:05

A 回答 (8件)

>敷かれている石は、自然の石ですか~


自然の石のようです

数年前に撮った、青森は弘前城の画像がありましたので参考になればいいのですが...
城の石垣がぽっこりとメタボ状態になっており、放っておけば石垣の崩壊に繋がるようです

幸いにして、ただいま石垣の修復中でございます(修復に約10年)
「日本の城の土台について」の回答画像1
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この回答へのお礼

実は、古代世界の建築は全部18世紀後半以降からコンクリート技術を使って作られていたという、陰謀論みたいな説を主張している、建設業にかなり詳しいネット知人と議論中です。(例えば、これは古代ギリシャについてです。ロシア語ですが写真を見ればコンクリートだそうですhttps://gorojanin-iz-b.livejournal.com/82785.html)
彼曰く、万里の長城も1950年代に作られた、コンクリートの壁に土を入れただけの代物だそうです。万里の長城が崩壊した写真も見せてもらいました。私は建築にあまり詳しく無いので反論していなかったが、好きな日本の歴史的な建物まで全部、19世紀以降に建設されたという意見にはにわかに賛成出来ないので、自分で少しずつ調べていく事にしました。皆様の親切なご回答をどうも有難う御座いました!これからも、宜しくお願い致します。

お礼日時:2018/04/09 18:33

先ず「間知石擁壁」で他の資料を当たってみて下さい。


現在でも同じような構造の擁壁技術があります。
現代の知見を持って制限を加えてますが熊本城築城時でも
それまでの経験から蓄積した技術で築造しています。
崩壊した石積みの地面下にはさらに礎石が組まれているはずです。

雨水は現在では間知石間をモルタルで埋める為に別途水抜き穴を
設けますが石積みでは隙間が全般に適度にあるため自然に抜けると思います。

今回崩壊したのは地震が築造時の経験値を超えたか今迄の地震と
経年によるダメージの蓄積が崩壊を招いたのではと思います。
尚、石は自然石を加工して積上げてますし裏込め砕石もあるようです。

私見ですが現在の間知石やコンクリートによる擁壁が熊本城石垣ほどの
年数持つとはとても思えません、やはり昔の技術は侮れません。
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自然の石です。



約2000年前に造られたローマ帝国の石組の道路や水道が、そのまま現代でも使われていることから、大きな災害がないかぎり、崩壊しないと推察できます。
中国、万里の長城もそうですね。
石組みの技術は、すごいです。雨水は想定内だったみたいです。
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ローマ街道は、作った技術者が「100年間は持つ」と豪語した石の建造物です。


しかしそれは、普段のメンテナンスがきちんと行われればの話です。
日本の建造物にも同じことが言えます。
江戸時代の武家諸法度に「石垣の修理は幕府への届け出が必要」という項目があります。
つまり、地震や水などで石垣はしょっちゅう崩れていた、ということです。
崩れないまでも、日常のメンテナンスが必要な程度にはゆがんでいた、ということになります。

あと、写真の石垣は「基礎」ではありません。
基礎はその地下に、固い岩盤や岩をもって構成されています。
写真の石垣や盛り土はその上に盛られたものです。

最後に、写真の石垣の石は自然の石ではありません。
日本で自然の石を使うのは「野面積み(のづらづみ)」という方法に限られます。
これは自然のままの丸い石をそのまま積み上げていくものです。
なので、石の形を見ると分かります。
写真の石は方形をしています。
削ったもの、つまり加工したものです。
「算木積(さんぎづみ)」や「穴太積(あのうづみ)」などという積み方です。
この回答への補足あり
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当時は自然石を使った、多少はノミを入れてるかな。


大きなものは運搬のため採集地で割って運びました。
こちらはもう少し後の時代かな。
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特段詳しくはないが、その”コンクリート”と称する物は、おそらく”人工的に作られた建築素材”のような意味だと思う。


下記の書き込みにもあるように、こういったところで使われる石は、形を整えるために手を加えることはあっても、とてもじゃないがコンクリートとは言えないと思う。

 日本の築城で使われる石というのは、堆積岩として長い間い強い圧力をかけられ続けた砂礫の塊ですから、当然城郭といった重い構造物を支えられることが期待されているわけです。ですから少々硬い程度のコンクリートでは難しいでしょう。

 なにかでヨーロッパの築城の映像を見ましたが、曲線の配置などで互いに力を支えあうような組み合わせが目につきました。もちろん規格化されたコンクリートの方が使いやすいため、いまさら石を組み上げるということはあまり聞いたことがありませんが。

 ですから、その昔使われていた”コンクリート”なるものの成分や定義などをしっかりと示してもらってからの話でしょう。
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この回答へのお礼

私はコンクリートなど建築業には詳しく有りませんので、成分は良く分かりません。曖昧に、「液体状建築材を硬化させた人造石」を意味しました。
例えば、15世紀にインカ帝国によって建てられたとされている「古都クスコ市のサクサイワマン」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%AF …は実際、加工された自然石では無く、液体状建築材を型枠で硬化させた人造石」で作られたと主張する者がいます(ロシア語ですが、2010年の豪雨による同施設の崩壊状況が分かる写真、1907年に撮影された施設の最初の白黒の写真を見る事が出来ます)。https://911tm.livejournal.com/25156.html
石の形は整いすぎて、石同士は何故かぴったり合っています。また、布等が張られた型枠で固まった建築材のように、殆どの石の表面が少し丸くなっています。しかし、自然石と違って、昔に作られた人造石は何百年も持てないそうです。(因みに、エジプトや中東等の古代施設は、所々鉄骨も見えたりする、明らかに人造石なので、何千年前に建てられたという事は有りえないそうです。鉄骨入りの人造石が使用され始めた18~19世紀頃だと思います。それについては、同じくロシア語ですが、興味深い写真が多いブログがあります。
https://gorojanin-iz-b.livejournal.com/80010.html)

お礼日時:2018/04/11 07:48

日本の建造物、城も、昭和の観光ブームのときにほとんどゼロから復元されたものの中には、コンクリートと鉄骨入りのものがいくつかあるそうです。

よく知られている城に関しては、昔のままのはず。

万里の長城に関しては、20世紀の半ばに、コンクリなど近代の建築技術で復元した処もあるそうです。昔から残ってる部分がそのままなのに、最近造られた部分のほうが崩れたってオチもあります。それかな?
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この回答へのお礼

本当に古い城と、鉄骨入りコンクリートで作られた城を区別するのは凄く大事だと思います。万里の長城にはあまり詳しく有りませんが、こちらでは、「全部、20世紀の半ばに作られた、元々無かったもの」という意見が数年前にネットで流行っているようです。昔から有った万里のの長城の部分の、19世紀後半~20世紀当初の写真とかは存在しているのでしょうか。因みに、ロシア(ソ連)の著名な中国学者ヴシーリイ・アレクセイブ(1881~1951)https://en.wikipedia.org/wiki/Vasily_Mikhaylovic …の著書には全く言及されてないそうです。
日本の城の話題も「万里の長城は偽物」という話題と共に浮上しました。例えば、http://malevichart2.blogspot.ru/2016/11/australi … (ロシア語ですが、崩壊した両方の建築物の見た目による類似性が主張されています。)

お礼日時:2018/04/11 06:11

万里の長城は、紀元前に秦の始皇帝により造られたもので、実際は、それ以前から一部の城壁はあり、その後、何百年もかけて完成されてます。


予算的にも、物理的にも、20世紀の半ばに全部というのは、不可能です。
 文献的には、宋の時代、金や遼の国と、長城=国境で、いろいろな問題が記されてます。長城の内側を他国が占領し、それを奪還するための争い。
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