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三浦つとむは、
・「が」は個別的な認識を表わす。
・「は」は特殊性や普遍性を表わす。
と述べている。
ただ、この場合、

・紫式部は源氏物語の作者だ。

という措定文の「紫式部」は特殊性や普遍性を表わしていてるのであって個別的な認識ではないということになってしまう。
これはどうにも納得できない。
「犬は好きだ」は普遍性であり、「この犬は好きだ」は特殊性であると言っているのだと思う。
しかし、「この犬は好きだ」が個別的認識ではなく、「犬が好きだ」が普遍的認識ではない、と言われても、なかなか理解は難しい。
少なくとも「が」と「は」の違いの論拠とするにはそぐわないと言わざるを得ない。

「が」と「は」の違いに直接的には関係ないが、
アスナロウ氏紹介による時枝誠記の、主体的表現・客体的表現という概念は参考になった。

・主体的表現:話者の主観的な感情、要求、意志、判断などを直接表現したものであり、 日本語では、助詞、助動詞(陳述を表す零記号、すなわち肯定判断を表すが、 表現としては省略された助動詞を含む)、感動詞、接続詞、陳述副詞で表される。

・客体的表現:話者が対象を概念化して捉えた表現で、 日本語では、名詞、動詞、形容詞、副詞、連体詞、接辞で表される。 主観的な感情や意志などであっても、 それが話者の対象として捉えられたものであれば概念化し、客体的表現として表される。
三浦つとむは「主体の観念的自己分裂と視点の移動」という観点を述べているようだが、そこまで言わなくとも時枝説で十分であろう。

こうした解説はよくわかるし非常に勉強になった。
言語実体説と言語過程説の違いも、一応わからないではないのだが、それが「が」と「は」の違いに、どんな関係があるのか最後までよくわからず、アスナロウ氏とは最後までかみ合わなかった。
別の場面で、また色々教えていただきたいと感じている次第。

さて、前置きが長くなってしまい恐縮ですが、ここで質問です。

・「が」は個別的な認識を表わす。
・「は」は特殊性や普遍性を表わす。

という三浦説について、みなさんのご見解をお聞かせ願えないでしょうか。
「が」と「は」の違いについてーその1
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11250574.html
の質問本文に、三浦の説をもう少し詳しく(といっても短く)掲載しています。

質問者からの補足コメント

  • 表現に不備があると思うので一部訂正させてください。

    太郎にフォーカスし、太郎について言ってみれば【 [その太郎ーガ(=を)] 好きな主体は 花子‐ダ と特定できる事実がある】という主観的な判断を述べている。

    No.30の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/09/05 00:07
  • #45お礼欄からの続き。

    >つまり 《太郎‐ハ 花子‐ガ 好きだ。》という例文は 文脈を知らなけれ
    ば この文だけでは 意味が定まりません。どっちが主格でどっちが対格か
    が 定まりません。

    こういう問題点があると考えます。

    「使い分け」に関してはお礼欄の1で申し上げたような理由で問題はないかと考えています。
    すでに示されている文を解釈する場合には、これはもう文脈から判断するしかありません。

    No.45の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/09/05 20:09
  • #52お礼欄からの続きです。

    5.
    >そのことは もしそうだとすれば そのハ格にしろガ格にしろ どちらにも ①
    か②かの意味を確定させる機能は ない。――と考えられるのではないでしょう
    か?

    『もしそうだとすれば』という前提についてはすでに否定させていただきました。
    『ハ格にしろガ格にしろ どちらにも ①か②かの意味を確定させる機能は ない。』
    とおっしゃる趣旨を取り違えているのかもしれませんが、次のように思います。
    そうではなく、

    ①か②かの意味を確定させるためにハ格やガ格を使うわけですから、『機能は ない』ということになりようがないのです。

    No.52の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/09/06 22:42
  • #56お礼欄からの続きです。

    >(つ) そして何度も繰り返しますが その①か②かの問題は 同時にハ格が行
    為主格か対格かを確定する問題と 一体です。こちらも 確定していません。

    文脈でガ格の論理的な意味が判明した時点で、自動的に確定します。
    たとえ【わたしハ おまえガ 好きだ。】という全文(だけ)が提示されたとしても、その意味を確定することは不可能でしょう。

    >(か) わたしの理解では 主題格にかんする文法基礎と そして実際の社会生
    活じょうの使用例にかんする意味論を中心とした社会言語学としての研究とを分
    けていない ことから来るのではないか? 

    社会言語学というものがよくわかりませんので、何とも言えませんが、それによって、この問題がシチュエーション抜きで解決できるのだとしたら、非常に興味深いですね。

    No.56の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/09/07 17:32
  • >(イ)「私の持っている万年筆【は】」の「は」が特殊性の認識を表しています。
    >特殊性は対象である万年筆の在り方の認識です。

    とおっしゃいました。
    これは、

    (イ”)「私の持っている万年筆【は】」の「は」が『万年筆』の特殊性の認識を表しています。

    という意味じゃないんですか?
    であるなら、

    (ア)「私の万年筆【は】外国製です。」は、

    (ア”)「私の万年筆【は】」の「は」が『万年筆』の特殊性の認識を表しています。

    ということになりませんか?
    つまり、この場合の「万年筆」は特殊性の認識ですよね?
    それとも、「私の持っている万年筆」の場合は特殊性で、「私の万年筆」の場合は特殊性じゃない、とおっしゃるのでしょうか?

    No.63の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/09/17 15:27

A 回答 (68件中51~60件)

No.17 で観念論的な規範解釈を述べられ、全く科学的な論理を理解されていない寝言を開陳されていますので、参考までに下記に言語規範とは何かを示しておきます。



 言語には語法・文法とよばれるものが伴(ともな)っている。これは表現上の秩序を維持するために、人びとの間の社会的な約束として成立したものであるから、これも一種の規範として扱わなければならない。いわゆる民族語は、民族全体の言語表現を規定するところの言語規範によって、すなわち言語表現についての全体意志によって、ささえられている。さらに、方言その他特殊な地域あるいは特殊な集団の言語表現を規定する特殊な言語規範、すなわち特殊意志も、これらと結びついて存在している。それゆえ、言語理論にあっては、これらの規範の成立過程を明かにするとともに、これらの規範が個々の言語表現においてどのように役立てられるか、その表現過程をも理論的に明かにすることが要求されているわけである。

個々の特殊な規範の具体的な成立過程を明かにすること、いわゆる「語源」を研究することは、それほど困難ではない。困難なのは、規範の成立過程の一般的な・理論的な把握である。これは正しい規範論が確立していないことにも影響を受けていて、言語規範についての理論的な説明はそのほとんどすべてが歪められてしまっているばかりでなく、神秘的な解釈を与えられているものも多い。ソ連の哲学教科書『哲学教程』にも規範論の体系的な展開はなく、言語については「人びと相互の交際の幾世紀にもわたる実践から、諸民族によって確立された約束的な記号である。」といいながらも、つぎに「しかし、言葉がどういう音からできているかということは、約束的で偶然的であっても、これらの言葉と言葉との組合せがまさになにを指示するかということは、約束的でも偶然的でもない。」(強調は原文)とのべて、規範による対象と表現とのむすびつきを事実上否定さえしている(1)。さらに入谷敏男の『ことばの心理学』にいたっては、人間に「文をつくり出すのに必要なルールが先天的にそなわっている」のだと、規範をア・プリオリに生れつき持っているものにしてしまっている。

 われわれは言語規範がどういう性格の規範であるかを考え、規範全体の中に位置づけてみる必要がある。言語規範はいわば精神的な交通に伴って生れた規範であるから、これを物質的な交通に伴って生れた規範すなわち鉄道やバスを運転するための時刻表と比較し、その目的意識的な部分と自然成長的な部分との関係について検討してみることも、決して無駄ではないであろう。

 時刻表は運転の関係者が机に向かって目的的につくり出すものであり、文章の形式をとって表現されている。この点からすれば、時刻表は法律と共通したところがある。現に、全国の国鉄・私鉄・さらには汽船や旅客機などの時刻表が一冊の書物に編集され印刷されて書店で売られているが、同じように法律も一冊の書物に編集され印刷されて六法全書として書店で売られていて、ここにも共通点があらわれている。

乗客としては、その乗りものが特定の時刻に発着してくれないと自分の予定を立てることができず、生活の設計が困難になるし、また乗りものを経営する側としては、乗客がなければ収入がなく経営できなくなるのであるから、時刻表をつくって一般にひろく知らせることは共同利害に基礎づけられた合理的なやりかただということができる。

運転の当事者は、自分たちのつくり出したこの時刻表の示すところに従って行動し、乗りものを動かしていかなければならない。時刻表は観念的に対象化された「外部」の意志のかたちをとって、その時刻を守るように要求しているのである。しかしながら、列車の運転台に時刻表の複製をかかげて、つねにそれを見ながら自分の頭の中に規範を維持している運転手にしても、これから相対的に独立した彼独自の意志を持っている。ある駅で乗客の乗り降りに時間がかかり、おくれて発車したようなときには、つぎの駅へ定時に到着するために意識的に列車のスピードをあげるというように、彼の独自の意志を規範に調和させるのが原則であるけれども、ときには意識的にこの「外部」の意志に従うことを拒否したり、乗客の共同利害にもとづいて自然成長的に規範をつくり出したりすることも、しばしば起るものである。

 たとえば乗客の中に急病人が出て、医師の手当てを受けなければ生命の危険も考えられるような場合、一刻も早く医師の手に渡すことがこの乗客にとっての利益であり、そのために数分停車をしてもそのあとでスピードをあげればおくれはとりもどせるし、他の乗客の利益を傷つけることにはならない。そこで彼は時刻表を無視して、停車しないはずの駅で途中停車し、病人を下車させるのである。新幹線の実状にも見られるように、豪雨や豪雪のときには乗客の生命を守るという共同利害にもとづいて徐行したり運転を中止したりするので、その結果ダイヤが大きく乱れることもしばしばである。乗客があまりにも多すぎてどの駅でも乗り降りに予定以上の時間がとられたために、つぎからつぎへと発車がおくれて時刻表を変更しなければならぬ破目になるのも、自然成長的な規範の修正といえよう。

 乗りものを運転することと、それに必要なものとしてつくられた規範とは、関係があるにもかかわらず別個の存在であるということを、誰もが経験的に認めている。時刻表とは何かと問われた場合に、運転手の人格の「目的的な行為において成立する」という者もなければ、「運転即時刻表で、時刻表即運転」であるというような西田哲学的発想を持ち出す者もない。現に時刻表という規範の示すところに反して、列車が大きく延着したような場合には、急行料金を払戻すと規定した別の規範もつくられている。運転のための規範と実際の運転との間に、くいちがいの起ることを認めているのであって、両者が相対的に独立していることを疑う者は観念論者以外まずあるまい。
(三浦つとむ『認識と言語の理論 第一部』 p.171 )
http://okrchicagob.blog4.fc2.com/?tag=%E8%AA%8D% …
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ヱクトルが質問者さんへではなく 別の方角を向いていますが。




◆ 規範
☆ というのは あるべき姿を表わそうとしています。

倫理規範つまり道徳は――もう今ではふるくなったとも言えるようですが――
公序良俗を守るだけではなくそれに遵(したが)うように要請するところがあ
ります。

学問において特に自然科学にあっては 理論内容の再現性を満たすことが必須
の条件である。という意味では したがうべき規範にも成っているとは言える
のでしょう。



問題は その科学にとっての或る種の規範性を帯びた規則はもとより 道徳に
しても その当事者が自発的に・主体的に――もともと 自分たちが考え合っ
て取り決めたものであることからも 自由に――振る舞うところに 重要性が
あります。

法律にしたところで――罰則があるとしても―― 同じことです。強制性はな
い というより 強制性には なじまないのです。




言語の使用に際しての規則は まさにそのような自由のもとに成り立っていま
す。言語規範は 躾の流派の集まりにおいてなどを別とすれば まったく社会
にっても・言語生活にとっても なじむものではありません。

文章作法というのは 分かりやすく うつくしく書くためのものです。規範と
は 雲泥の差があります。


文法は 言語習慣の自由な過程において成って来たものであり 成り立ってい
くものでしょう。


そのような事態の中にも 一般性を見出し 理論を築くのは 学問の徒の腕の
見せ所です。


規範にだけ従う文章が いくら《立体的な構造を成している》からと言って 
そんな窮屈な言語表現に 美とみづみづしさがあるとは思えません。
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No.14では、形式についてあれこれ述べられていますが、それを支えているのが個々の言語規範であり、これらはそれぞれの特殊性をもつと同時に言語としての普遍性に貫かれていることを正しく理解する必要があります。



この規範による媒介の構造を理解することなく、話のタネとして現象を羅列しても言語本質に対する理解が深まるわけではありません。■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>これらはそれぞれの特殊性をもつと同時に言語としての普遍性に貫かれていることを正しく理解する必要があります。

表現対象は常に個別的存在じゃないでしょうか。
ただ、どんな対象であっても、場合に応じて「特殊性<普遍性」という関係性のいずれかが顔を出すことがある。
特にどちらかの顔が特に強調されるわけでない場合、それは単に個別性という概念で捉えると良い。

と言ったら間違いですかね?

お礼日時:2019/09/04 16:55

No.13で、概念は現実の立体的な構造に対して、やはり立体的な構造をとることが明かにされていますが、この現実の持つ立体的な構造のどの側面を話者が捉えるかが、「が」と「は」の違いに反映されます。



この程度の理解なしに、「が」と「は」についてあれこれ曖昧な感覚的戯言を並べても意味がありません。■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>概念は現実の立体的な構造に対して、やはり立体的な構造をとることが明かにされていますが、この現実の持つ立体的な構造のどの側面を話者が捉えるかが、「が」と「は」の違いに反映されます。

前段は、まったくおっしゃるとおりで、その意味でおっしゃるところの個別・特殊・普遍という概念は有意義であろうと思います。
しかし、
#13お礼欄への返信をまだ見ていない状況ですが、

「が」と「は」を使ったどちらの表現にも反映されます。

ということにはなりませんか?

お礼日時:2019/09/04 16:49

この際 あとから小出しにするのは かえってよくないでしょう。

という口実を
もうけて もう一件 話のタネにでもなればと思い 書き込みます。

エスキモーのみなさんの話です。

1. イヌイット語では 《男‐ガ ボート‐ヲ 買う》という他動文は 次のよ
うに言い表わす。

〔Eskimo-a 〕 angut-em  angya-φ     kiputaa.
  分 析:  男 ‐ ガ   船‐(ゼロ標識) 買う

2. 述語動詞は 次のように構成されている。

〔Esk.-b 〕 語幹 kipuc- : 買ウ

    ⇒ kiputaa =[彼ガ(S)‐それヲ(O)‐買う(V)]

3. つまりまづ kipuc- に -aa がつくと 末尾子音 -c- が 発音の便宜上
 -t- に変わる。

4. -aa は 最初の -a- が 動詞のふつうの用法である。つまり 直説法・
平叙法と言える。
あとの -a- は 主格( 3 sg.. )および対格( 3 sg. )を表わす接辞である。代
名詞のような役目を果たし ただし接辞でしかないので 代名接辞と言う。


5. したがってこの kiput-a-a の全体で:

〔Esk.‐b1 〕 kiput-a-a :
     《買ウ( kipuc- )‐彼ガ( -φ- )‐デアル( -a- )‐ソレヲ( -a )》

の如くなっているという。


6. 分かりやすいように日本文にたとえてみる。

〔Esk.-a1 〕  angut-em  angya-φ    kiputaa.
 分 析 : 男 ‐ ガ   船‐ハ(⇒ヲ) 買う
                     (彼ガそれヲ買う)

7. ハ格とガ格の順序を入れ換えてみる。そして 動詞述語の部分をむしろ
英語にしてみる。

〔Esk.-a2 〕 angya-φ  angut-em   kiputaa.
 分 析:  船 ‐ハ   男 ‐ガ   〈 he-buys-it. 〉


8. したがって 英文の語順による直線的な意味連絡の形式は
 
 ・ kiputaa = 〈 he-buys-it. 〉

が突出するかのように独立して出来た。のではないか? もちろん代名接辞は 
元の名詞が当てられる。すなわち:

〔 a- English 〕 The man buys the boat.

9. つまり ハ格やガ格が承けるような主題をすべて取り去ったのだと。



10. そういう推理のもとに 言語一般における《主題の提示》という形で
の文の生成(作り方)を考える手も あり得るのではないかと。ハ格・ガ格の
成り立ちや性質について考えて行けるのではないか。


11. たとえば 次のような実際の現象も指摘され得ます。:

 基 礎 構 文: Aハ  Bガ   Cナリ。
________________________________
〔c‐Japanese 〕: 時ハ  〔それガ〕 金なり。

〔 c-French 〕 : Le temps,  c'est  de l'argent.
       (The time,   it-is  〔some of〕 money.)
       (時ハ    それガ  金なり。)

〔c‐English 〕: Time  is  money.
       ( S - V - Comp. )

☆ すなわち 仏文は 現在でもなお 主題の提示という・文の成分をのこし
ており これを形としても保っている。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

色々と興味深い話をありがとうございます。

>☆ すなわち 仏文は 現在でもなお 主題の提示という・文の成分をのこし
ており これを形としても保っている。

素人の初歩的質問で申し訳ありませんが、
Le temps

時ガ
の意味になることはないのですか?

お礼日時:2019/09/04 16:44

個別/特殊/普遍について分かり易い解説がありましたので、引用しておきます。



ヘーゲルは『大論理学』の第三部、主観的論理学または概念論において、判断をつぎのように類別している。

 A 定有の判断 (Urteil des Daseins)(個別性の判断)
 これは判断のもっとも単純な形式であり、直接的な判断である。この判断においては、個々の事物についてある一般的な属性が肯定的もしくは否定的に立言されるから、「内属の判断」でもある。「述語はその基礎を主語に有(も)つところの非自立的存在という形式を持つ」のである。それは三つに分類される。 a 肯定判断――バラは赤い。 b 否定判断――バラは青ではない。 c 無限判断――バラは象ではない。

 B 反省の判断 (Urteil der Reflexion)(特殊性の判断)
 これは主語について一つの関係規定が立言される。述語は主語に内属するものではなく、「包摂の判断」である。 a 単称判断――この人間は死すべきものである。 b 特称判断――若干の人間は死すべきものである。 c 全称判断――人間なるものは死すべきものである。

 C 必然性の判断 (Urteil der Notwendigkeit)(特殊性の判断)
 これは主語についてその実体性が規定される。 a 定言判断――バラは植物である。 b 仮言判断――もし太陽がのぼれば、昼である。 c 選言判断――肺魚は魚であるか、又は両棲動物である。

 D 概念の判断 (Urteil des Begriffs)(普遍性の判断)
 これは主語が「一つの真実の判定」として、一般的本性にどの程度に一致するか否かが立言される。 a 実然判断――この家は悪い。 b 蓋然判断――家がこれらの性状を有するなら、良い。 c 必然判断――これこれの性状の家は、良い。
 エンゲルスはこのヘーゲルの判断論をとりあげて、つぎのように書いている。

 これを読めばいかにも無味乾燥ではあるが、また一見したところ判断のかかる分類はところどころいかにも勝手気ままにつくりあげたように見えるところがあるかも知れないが、かかる類別の内面的な真理性と必然性とは、ヘーゲルの『大論理学』における天才的な展開を徹底的に研究する者には、誰にとっても明白となるであろう。しかしながら、かかる類別が思惟法則においてのみでなく、自然法則においてもまたいかに立派に基礎づけられているか、ということに対して、われわれはいまここに別の領域からごく有名な一つの例を掲げよう。

 摩擦が熱を創(つく)り出すということ、このことは、すでに有史前の人類によって、彼らがおそらくは十万年もさらに以前に摩擦火を発見したとき、またさらにそれより以前において冷えた身体の局所を摩擦によって温めたときから、実際的に知られていた。しかしながら、このときから、摩擦は一般に熱の一源泉であるということが発見されるまでに、幾千年を経て来たことかは誰がこれを知ろうか。ともあれこうして、かかる時代、すなわち人間の頭脳の充分な発達の結果、摩擦は熱の一源泉であるという判断、いいかえれば定有の判断を、しかも肯定判断を下しうる時代が到来した。

 さらに幾千年を経て、ついに一八四二年にマイエル、ジャウルおよびコールディングはこの特殊な事象を、このときまでに発見されたこれと類似の他の諸事象との関係に基いて、すなわちそれのもっとも手近かな一般的諸条件に基いて研究し、そして判断を下のように定式化した――一切の力学的運動は摩擦を媒介として熱に転化せしめうるものである。われわれが対象の認識においてかかる定有の肯定判断から、かかる反省の全称判断にまで進みうるには、かくも多くの時間と膨大な経験的認識を要したのであった。

 しかしながらいまや事情は急速に発展した。すでに三年後にはマイエルは、すくなくとも本質的な点では反省の判断を、それが今日もなお妥当性を有する段階にまで高めることができた。すなわち――

 いかなる形態の運動も、それぞれの場合に特定された諸条件の下において直接もしくは間接に他のあらゆる形態の運動に転化することが可能でもあり、必然でもある、と。――これは概念の判断、しかも必然判断であり、判断一般の最高形式である。

 したがってヘーゲルにあっては判断それ自体の思惟形式の展開として現れたところのものが、われわれにおいてはこの場合、運動一般の性質に関する・われわれの経験的基礎の上に立つ・理論的知識の展開として現れている。このことたるやまさしく思惟法則と自然法則とは、それらが正しく認識されさえすれば必然的に相互に合致するものであることを示している。

 われわれは第一の判断を個別性の判断として理解しうる。すなわち摩擦が熱を創り出すという個別的な事実が記録される。第二の判断を特殊性の判断として理解しうる。すなわち運動の特殊な形態、たとえば力学的運動は、特殊な事情の下において(摩擦によって)ある他の特殊な運動形態、たとえば熱に転化するという性質を示している。第三の判断は普遍性の判断である。すなわちいずれの運動形態も他のあらゆる運動形態に転化する可能性を有し、かつまた転化せざるをえないものとして示された。この形態をもってこの法則はその最高の表現に到達したわけである。(エンゲルス『自然弁証法』)


 概念は個々の事物の持っている共通した側面すなわち普遍性の反映として成立する。すでに述べて来たように、個々の事物はそれぞれ他の事物と異っていてその意味で特殊性を持っていると同時に、他の事物と共通した側面すなわち普遍性をもそなえているので、この普遍性を抽象してとりあげることができる。

たとえば私の机の上に文字を記すための道具が存在するが、軸は黒いプラスチックでつくられ尖端に金属製のペンがついていて、カートリッジに入っているインクがペン先に流れ出るような構造になっている。このような道具は多くのメーカーでそれぞれ異ったかたちや材質のものを生産していて、私の持っているものにも他のものとは異った個性があるけれども、それらは共通した構造にもとづく共通した機能を持っていて、ここからこれを「万年筆」とよぶわけである。それゆえ、概念にあっては事物の特殊性についての認識はすべて超越され排除されてしまっている。だがこのことは、特殊性についての認識がもはや消滅したことを意味するものでもなければ、無視すべきだということを意味するものでもない。特殊性についての認識は概念をつくり出す過程において存在し、概念をつくり出した後にも依然として保存されている。私が「万年筆」を持っているというときのそれは、私の机の上にあるそれであって、文房具店のケースの中にあるそれではないし、もし必要とあらばその概念の背後に保存されている特殊性についての認識をもさらにそれ自体の他の側面である普遍性においてとらえかえして、「黒い」「万年筆」とか「細い」「万年筆」とか、別の概念をつけ加えてとりあげるのである。

 この場合の「万年筆」は、机の上に個別的な事物として存在している。私はこの事物の普遍性を抽象して概念をつくり出したにはちがいないが、その対象とした普遍性はこの個別的な事物の一面として個別的な規定の中におかれている普遍性にすぎない。普遍性をとりあげてはいるものの、問題にしているのは個別的な事物それ自体なのである。

しかしわれわれは、個別的な事物ではなく、この普遍性をそなえている事物全体を問題にすることも必要になる。このときにも同じように普遍性が抽象され概念がつくり出されるが、その普遍性はもはや個別的な規定を超えた存在としてとらえられるのであり、類としての普遍性が対象とされているのである。「万年筆はますます普及している」というときの「万年筆」は、個別的な存在ではなくて全体を問題にしている。先の私の「万年筆」が個別的概念であるのに対して、この全体をとりあげた「万年筆」は普遍的概念あるいは一般的概念とよぶべきものである。これと同じことは、鉛筆やボールペンについても成立するのであって、「鉛筆」「ボールペン」などの概念にも、個別的な事物をとりあげた個別的概念もあれば、全体をとりあげた普遍的概念もあるわけである。

 つぎに、類としての普遍性を考えてみると、これは個別的な事物のすべてをつらぬいているという面から見て、たしかに普遍性であるにはちがいない。けれども類とよばれる存在はきわめて多種多様であって、その意味で類としての普遍性それ自体はいずれもひとつの個別的な存在としてあつかわれることになる。「万年筆」という類、「鉛筆」という類、「ボールペン」という類など、個別的な存在としての類が多種多様にあって、さらにこれらに共通した普遍性を対象とする「筆記用具」というヨリ高度の普遍的概念も成立している。そしてこの普遍性に対しては「万年筆」「鉛筆」「ボールペン」などの個別的な存在としての類はそれぞれ特殊性をそなえた類としてとらえかえされることになり、これらは特殊的概念の性格を与えられることになる。さらにこの『筆記用具」も、「文房具」という普遍的概念に対しては特殊的概念であるというようにヨリ低い類からヨリ高い類へと対象の立体的な構造をたどって認識が発展し、抽象のレベルが高くなっていく。そしてそれにもかかわらず、これらの概念は超感性的な点で共通しており、言語表現でも同じ語彙が使われるのである。

 このように、概念は現実の立体的な構造に対して、やはり立体的な構造をとることが要求されているのである。
(「ことば・その周辺 ―― こころとことば」より)■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

興味深く拝見しました。
これはアスナロウさんのブログですか?
端的に一点だけお伺いします。

>「万年筆はますます普及している」というときの「万年筆」は、個別的な存在ではなくて全体を問題にしている。先の私の「万年筆」が個別的概念であるのに対して、この全体をとりあげた「万年筆」は普遍的概念あるいは一般的概念とよぶべきものである。

『先の私の「万年筆」が個別的概念』である場合を文例にしてあげていただけませんか?

お礼日時:2019/09/04 16:36

別様のおぎないです。

コーヒー・ブレイクふうです。


その前にアスナロウ氏に応答します。:

◆ (回答№9) 格は活用ではなく、活用と屈折を混同した誤りである。
☆ 格変化とも呼びます。活用が どうしていけないのか? 


◆ (同上) そもそも英語に助詞などなく、単に形式を比較する根本的な誤り
を露呈している。
☆ 前置詞は 助詞(格活用)ではないのか?





さて ハ格とガ格の始原をたずねる旅です。われわれに――そして はこぶる氏
にはよりいっそう――身近だと思われるアイヌ語を見てみます。ほんの一端です
が。


▼ (ヰキぺ:アイヌ語) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4 …

§ 6 文法
・・・たとえば1つの例として、

 ・ usa - oruspe  a - e - yay - ko - tuyma - si - ram - suy - pa

これを直訳すれば(☆ 逐語訳でもある)

 ・ いろいろ-うわさ  私(主語)-について( e )-自分( yay )-で-遠く-自分の( si )-心( ram )-揺らす( suy )-繰り返し

つまり「いろいろのうわさについて、私は遠く自分の心を揺らし続ける=思いをめぐらす」
という意味になる。

これは単語としては2つしか含まないが長い文に相当する意味を表している。

2番目の動詞は語根 suy (揺らす)に主語などを示す接辞、副詞、さらには目的
語やそれを限定する接辞がついて1つの長い単語になっている。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ 《いろいろ-うわさ  私(主語)-について-・・・》の《-について e 》は 
《うわさ oruspe 》を承けている。

言わばそれを先行詞として 《 those rumors about which I meditate ・・・》
というかのごとく 関係代名詞をおぎなって捉えると分かりやすい。


のではあるが 別様にも捉えられる。例によって Aハ Bガ Cスルの構文に当て
はめてしまうならば・・・:

〇 いろいろ-うわさ【A】〔‐ハ〕  私(主語)【B】〔‐ガ それ〕-について-自
分( yay )-で-遠く-自分の-心( ram )-揺らす( suy )-繰り返し繰り返し【以
上がCスル】。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>さて ハ格とガ格の始原をたずねる旅です。

始原は、別質問冒頭【 VOL.1ー使い分けの要点 】で記しましたように、アプリオリな表現欲求として片づけています。
それ以上立ち入るほどの言語学知見は持ちませんし、その後の「違い」に重点を置いていくつもりです。

ただし、
>「いろいろのうわさについて、私は遠く自分の心を揺らし続ける=思いをめぐらす」
という意味になる。

のであって、
「いろいろのうわさについて、私が遠く自分の心を揺らし続ける=思いをめぐらす」
意味にはならない、という切り口(の有無は別にして)での解説なら大いに興味を惹かれますが。

お礼日時:2019/09/04 15:25

№10の説明は 横着に端折ってしまったものでした。

すみません。つぎのようにお
ぎないます。


1. 次の例文で 無標の主題語句( ini aŝe = この楯)が どうして日本文の
ハ格に相当すると言えるのか? むしろすでにヲ格=対格だと採るべきではないのか?

〔UR- a1〕: ini aŝe  Rusa-ŝe  uŝt-u-ni
 直 訳:  コノ楯   るさ-ガ   贈ッタ-ソレ
 構 文:  A〔ハ〕  B-ガ    C-A’〔ヲ〕

2. 別の例文をふたつ掲げます。

〔UR- a2〕: ini aŝe-ni     Rusa-ŝe  uŝt-u-ni ・・・・他動詞文
      コノ楯‐ハ(?)/‐ヲ(?)

☆ (あ) つまり  uŝt-u-ni の -ni という代名接辞を ini aŝe にもつけるこ
とができると参考書には書いてあります。⇒ ますます ヲ格相当なのではないか?


〔UR‐ b 〕: uŝt-a-bi     (I)Menua-ni    ・・・・・・自動詞文
      出向いた‐彼〔ガ〕 王めぬあ‐ハ( or ガ) 
       
 和文翻訳: メヌア王は 遠征に出た。

☆ (い) というように じつは いま問題の接辞 -ni は 自動詞文における主題
語句――ここで (I)Menua(王メヌア)――にも用いられます。意味を採れば 日本
文のハ格かまたはガ格を当てるのが 妥当だと見られます。


3. すなわち ここからどういう結論に帰着するか? 

(う) ウラルトゥ文における主題語句を承ける標識――必ずしも ハ格ならハ格と
いったように一定しているのではありませんが それでも―― 日本文におけるハ格
やガ格と同じように 《主題提示層と論理表示層》との二層構造を成している。と考
えられ
る。

(え) つまり 英文のように論理表示の単一層( S-V-O 文型)としての用法だと
は考えられない。



☆ こういった事情からの判断でした。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>(う) ウラルトゥ文における主題語句を承ける標識――必ずしも ハ格ならハ格と
いったように一定しているのではありませんが それでも―― 日本文におけるハ格
やガ格と同じように 《主題提示層と論理表示層》との二層構造を成している。と考
えられ
る。

まず、表記の点で私見ではですが、
主題=「は」
主格=「が」
とされるのが一般的ではないかと思われます。
ただし、
主語=「は」・「が」
と捉えることはできるでしょう。

つまり、
>日本文におけるハ格やガ格と同じように 《主題提示層と論理表示層》との二層構造を成している

のだとしても、

 和訳: 主なる神ハルヂに この楯は エリメナ王の子・ルサ王が 長寿を願って 捧げた。(措定文)

 和訳: 主なる神ハルヂに この楯を エリメナ王の子・ルサ王が 長寿を願って 捧げた。(指定文)

のように、文意が明らかに異なるわけで、「は」・「が」の違い という問題とは別に考えたほうがいいのかな、と思った次第です。

お礼日時:2019/09/04 14:58

№8です。

コメントをありがとうございます。

★ (№8お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>① ハ格のハに相当する格が 無い。

のに、
>つまり 無標で 主題提示を
していると見られる

と判断されたのはどういった根拠からですか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ 例の絶対格という――原始的な・あるいは 始原の――語法からです。

あるいはつまり 文全体の意味からです。



そう言えば そこでは 《中立格》と書いていますね。つまり これは
話し手が 格を決めないで裸のまま(絶対格で)主題としての語を提示し
た。その中立の相を 受け取った聞き手が 具体的な格へと推理する――
という恰好になっているのだと見られます。




口語では――けっこう話題になっている《パロル》ですね―― 絶対格で
の主題提示は 頻繁に現われますよね。昔の習慣でも使っていたかも。

・ 映画 見に行く?
・ あのテレビ〔番組〕 見た?
・ あいつ すげえな。
・ 矢折れ 刀尽きる
・ 卯の花の 匂う垣根に時鳥(ホトトギス)〔φ=無標〕 早も来鳴きて
忍音(しのびね)〔φ=無標←ヲ格〕もらす 夏は来ぬ
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#8 について。



言語実体観に捉われ、語と文の媒介関係ではなく、語が集まり変化して文になるという誤った発想に囚われており、基本的な誤りである。

格は活用ではなく、活用と屈折を混同した誤りである。

したがって、下記文の訳を誤っている。

☓和訳: 主なる神ハルヂに この楯は エリメナ王の子・ルサ王が 長寿を願って 捧げた。

は正しくは、

和訳: 主なる神ハルヂに この楯【を】エリメナ王の子・ルサ王が 長寿を願って 捧げた。

KIng Rusa dedicated this shield ( to Haldini God ).

も当然、「this shield」は目的語であり、「ルサ王が盾【を】神ハルヂ【に】捧げた。」

である。

そもそも英語に助詞などなく、単に形式を比較する根本的な誤りを露呈している。■
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