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三浦つとむは、
・「が」は個別的な認識を表わす。
・「は」は特殊性や普遍性を表わす。
と述べている。
ただ、この場合、

・紫式部は源氏物語の作者だ。

という措定文の「紫式部」は特殊性や普遍性を表わしていてるのであって個別的な認識ではないということになってしまう。
これはどうにも納得できない。
「犬は好きだ」は普遍性であり、「この犬は好きだ」は特殊性であると言っているのだと思う。
しかし、「この犬は好きだ」が個別的認識ではなく、「犬が好きだ」が普遍的認識ではない、と言われても、なかなか理解は難しい。
少なくとも「が」と「は」の違いの論拠とするにはそぐわないと言わざるを得ない。

「が」と「は」の違いに直接的には関係ないが、
アスナロウ氏紹介による時枝誠記の、主体的表現・客体的表現という概念は参考になった。

・主体的表現:話者の主観的な感情、要求、意志、判断などを直接表現したものであり、 日本語では、助詞、助動詞(陳述を表す零記号、すなわち肯定判断を表すが、 表現としては省略された助動詞を含む)、感動詞、接続詞、陳述副詞で表される。

・客体的表現:話者が対象を概念化して捉えた表現で、 日本語では、名詞、動詞、形容詞、副詞、連体詞、接辞で表される。 主観的な感情や意志などであっても、 それが話者の対象として捉えられたものであれば概念化し、客体的表現として表される。
三浦つとむは「主体の観念的自己分裂と視点の移動」という観点を述べているようだが、そこまで言わなくとも時枝説で十分であろう。

こうした解説はよくわかるし非常に勉強になった。
言語実体説と言語過程説の違いも、一応わからないではないのだが、それが「が」と「は」の違いに、どんな関係があるのか最後までよくわからず、アスナロウ氏とは最後までかみ合わなかった。
別の場面で、また色々教えていただきたいと感じている次第。

さて、前置きが長くなってしまい恐縮ですが、ここで質問です。

・「が」は個別的な認識を表わす。
・「は」は特殊性や普遍性を表わす。

という三浦説について、みなさんのご見解をお聞かせ願えないでしょうか。
「が」と「は」の違いについてーその1
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11250574.html
の質問本文に、三浦の説をもう少し詳しく(といっても短く)掲載しています。

質問者からの補足コメント

  • 表現に不備があると思うので一部訂正させてください。

    太郎にフォーカスし、太郎について言ってみれば【 [その太郎ーガ(=を)] 好きな主体は 花子‐ダ と特定できる事実がある】という主観的な判断を述べている。

    No.30の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/09/05 00:07
  • #45お礼欄からの続き。

    >つまり 《太郎‐ハ 花子‐ガ 好きだ。》という例文は 文脈を知らなけれ
    ば この文だけでは 意味が定まりません。どっちが主格でどっちが対格か
    が 定まりません。

    こういう問題点があると考えます。

    「使い分け」に関してはお礼欄の1で申し上げたような理由で問題はないかと考えています。
    すでに示されている文を解釈する場合には、これはもう文脈から判断するしかありません。

    No.45の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/09/05 20:09
  • #52お礼欄からの続きです。

    5.
    >そのことは もしそうだとすれば そのハ格にしろガ格にしろ どちらにも ①
    か②かの意味を確定させる機能は ない。――と考えられるのではないでしょう
    か?

    『もしそうだとすれば』という前提についてはすでに否定させていただきました。
    『ハ格にしろガ格にしろ どちらにも ①か②かの意味を確定させる機能は ない。』
    とおっしゃる趣旨を取り違えているのかもしれませんが、次のように思います。
    そうではなく、

    ①か②かの意味を確定させるためにハ格やガ格を使うわけですから、『機能は ない』ということになりようがないのです。

    No.52の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/09/06 22:42
  • #56お礼欄からの続きです。

    >(つ) そして何度も繰り返しますが その①か②かの問題は 同時にハ格が行
    為主格か対格かを確定する問題と 一体です。こちらも 確定していません。

    文脈でガ格の論理的な意味が判明した時点で、自動的に確定します。
    たとえ【わたしハ おまえガ 好きだ。】という全文(だけ)が提示されたとしても、その意味を確定することは不可能でしょう。

    >(か) わたしの理解では 主題格にかんする文法基礎と そして実際の社会生
    活じょうの使用例にかんする意味論を中心とした社会言語学としての研究とを分
    けていない ことから来るのではないか? 

    社会言語学というものがよくわかりませんので、何とも言えませんが、それによって、この問題がシチュエーション抜きで解決できるのだとしたら、非常に興味深いですね。

    No.56の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/09/07 17:32
  • >(イ)「私の持っている万年筆【は】」の「は」が特殊性の認識を表しています。
    >特殊性は対象である万年筆の在り方の認識です。

    とおっしゃいました。
    これは、

    (イ”)「私の持っている万年筆【は】」の「は」が『万年筆』の特殊性の認識を表しています。

    という意味じゃないんですか?
    であるなら、

    (ア)「私の万年筆【は】外国製です。」は、

    (ア”)「私の万年筆【は】」の「は」が『万年筆』の特殊性の認識を表しています。

    ということになりませんか?
    つまり、この場合の「万年筆」は特殊性の認識ですよね?
    それとも、「私の持っている万年筆」の場合は特殊性で、「私の万年筆」の場合は特殊性じゃない、とおっしゃるのでしょうか?

    No.63の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/09/17 15:27

A 回答 (68件中41~50件)

★ (№23お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


1. ・・・
2.
a:労働の対価として給料をもらっている、と思っているかもしれないが、
給料はもっと大事なものの対価だよ。それは何でしょう?
b:時?
a:ピンポーン。【(他の物ではなく)時(こそ)が金なり】だよ。

どちらの場合も【】内は、
Le temps,  c'est   de l'argent.
と表現するのですか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ (1)のほうは 例文のままですので 引用をはぶきました。

〇 【(他の物ではなく)時(こそ)が金なり】
〔私訳ですが〕: C'est le temps qui vaut de l'argent.
〔英訳〕  : It is time that bears money.



☆ つまり (2)の場合には 別様の表現になると思います。強調文
型でしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>☆ つまり (2)の場合には 別様の表現になると思います。強調文
型でしょうか。

Le temps,  c'est  de l'argent.
が、
時が金なり
と訳されることは決してない、ということが分かれば十分です。

お礼日時:2019/09/04 22:15

#16 のお礼についt



>表現対象は常に個別的存在じゃないでしょうか。

個は特殊と普遍の統一として存在しています。
個としての犬は、犬にとしての普遍性をもつと同時に、茶色であったり、チワワであったりという特殊性を持っています。

チワワという種は又、普遍性でもあり、自然はこのような立体的な構造を持っています。

先にヘーゲルの概念論を引用した通りです。

つまらない提案より、これらの基礎的な概念をまず理解、納得することが第一です。■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>つまらない提案より、これらの基礎的な概念をまず理解、納得することが第一です。

『つまらない提案』ではなく、あなたの説の矛盾を指摘しているわけです。↓

>個は特殊と普遍の統一として存在しています。
個としての犬は、犬にとしての普遍性をもつと同時に、茶色であったり、チワワであったりという特殊性を持っています。

「個別性」はなぜ外しましたか?
「個別性」も含めて説明しないと過去のご発言と一貫性がなくなるでしょう。
都合が悪くなりましたか?

お礼日時:2019/09/04 22:09

#21 のお礼に付いてです。



>言語過程説が極端すぎるという批判を三浦は行なったということですね。
ここが微妙にわからないのですが、つまり、三浦としては言語実体説を全否定するべきではない、と言ったようにも見えるのですが、そんなことはありませんか?

そんなことはありません。三浦が指摘しているのは、時枝には規範という概念がなく、習慣を規範と勘違いし、過程を提起したのは画期的であるが、規範による媒介の構造を理解できずに過程自体を言語とした点が誤りで、機能主義的な発想を抜け切れていない点を指摘しています。
『日本語は~』の111pを良く読みましょう。

>つまり、意識しようがしまいが言語規範というものがあることは厳然たる事実として認めてよいと思うのですがねえ。そもそもですが、なんの規範もなく「語」が創造されることはあり得ないのでは?

規範は認識の特殊な在り方です。意識しなければ言語規範は習得できません。エチオピア語が話せますか。

規範は言語共同体で自然成長したものです。■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

時枝は言語規範を個人の能力に求めた点を、三浦は批判したわけですか。
時枝は、なぜそんな無茶なことを言ったんですかね。
それであれば規範は無いも同然になってしまうかと。

お礼日時:2019/09/04 22:02

No.24 について




>文法というのは ほとんどの部分で言語生活としての自然史過程として成り立ったものです。つまり 人間の手はほとんど加えられていない。文法は後付けです。

規範つまり、文法なしに後付けなどできますか。
自然史過程であれば犬も猫も言葉を話すでしょう。

言語規範はいわば精神的な交通に伴って生れた規範であり、社会生活の必然性から生まれ自然成長したものです。

根本的に規範とは何かが理解できていませんね。

>スポーツのゲームのルールを 規範とは言わないでしょう。

典型的な規範だと言っているのが分かりませんか。■
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№21などの《文法=規範》論についてです。



◆ 規範 / 拘束:法律からして みんなで取り決めたものなのですが
        一部においては 理念だとか目的だとかが絡んでい
        て それを意識すると 人びとの行動は必要以上に
        縛られることになる――と見ます。


☆ 規則:みんなで取り決めたものそのものです。
     したがって 先人が決めたものでも そのいま・つねにあ
     たらしい内容へと変更することができる。

     しかも 文法というのは ほとんどの部分で 言語生活と
     しての自然史過程として成り立ったものです。つまり 人
     間の手はほとんど加えられていない。
  
     文法は 後付けです。

     新造語をひねり出したという場合でも 既成の用語や用法
     から 別様の意味合いへと移し落とし込んだというくらい
     の加工部分でしかないと見られます。


☆ スポーツのゲームのルールを 規範とは言わないでしょう。


☆ レッテル貼りがゆるされるなら 三浦つとむは あたかもポルポ
トみたいな思想なんですね。
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№14です。



☆☆ (回答№14) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 〔 c-French 〕 : Le temps,  c'est  de l'argent.
        (The time,   it-is  〔some of〕 money.)
        (時ハ    それガ  金なり。)

★ (№14お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
Le temps

時ガ
の意味になることはないのですか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ この語句は 文頭におかれ また 続く節とはコンマで区切られ
ています。


よって ふつうに自然に この語句は 後続とは離れている。そして
意味じょうから推理すると そのコンマでの区切りによって言わば 
絶対格で文中に――文頭ですが――投げ入れられ そのまま放置され
ている。と見られます。


次のように解釈したほうがよいようです。:

〇 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 〔 c-French 〕 : Le temps,  c'est   de l'argent.
        (The time,   it-is    〔some of〕 money.)
        ( 時。  それハ 〔それ‐ガ〕  金なり。)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ と考えています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

しち面倒臭い質問に答えていただきありがとうございます。
2つのシチュエーションを想定してみます。

1.遊び惚けてばかりいないで勉強しなさい。【時は金なり】と言うだろ?
2.
a:労働の対価として給料をもらっている、と思っているかもしれないが、給料はもっと大事なものの対価だよ。それは何でしょう?
b:時?
a:ピンポーン。【(他の物ではなく)時(こそ)が金なり】だよ。

どちらの場合も【】内は、
Le temps,  c'est   de l'argent.
と表現するのですか?

お礼日時:2019/09/04 17:42

№11です。



私見をしるすまでとしたいと思いますが。

★ (№11お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
つまり、
>日本文におけるハ格やガ格と同じように 《主題提示層と論理表示層》との
二層構造を成している

のだとしても、

 和訳: 主なる神ハルヂに この楯は エリメナ王の子・ルサ王が 長寿を願って 捧げた。(措定文)

 和訳: 主なる神ハルヂに この楯を エリメナ王の子・ルサ王が 長寿を願って 捧げた。(指定文)

のように、文意が明らかに異なるわけで、「は」・「が」の違い という問題
とは別に考えたほうがいいのかな、と思った次第です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ つまり 二層構造としての文の分析になります。


〔UR‐a1- Japanese 〕 この楯‐ハ  ルサ王‐ガ   捧げた。

【主題提示層】: A(中心主題)‐ハ B(関係主題)‐ガ C(論述)。
【論理連絡層】: A‐ヲ       B‐ガ       C‐シタ。
        ( O(対格)ー---S(主格) ---V(述格).)




☆ つまりわたしは――白状しますが―― 措定文か指定文かの区別とか あ
るいは 主題について主題が普遍性か特殊性か個別性かいづれかを帯びるとい
った分析は ピンと来ておらず まなびが進んでおりません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。


【主題提示層】: A(中心主題)‐ハ B(関係主題)‐ガ C(論述)。
【論理連絡層】: A‐ヲ       B‐ガ       C‐シタ。
        ( O(対格)ー---S(主格) ---V(述格).)

ハ・ガの始原としては、別質問冒頭にも記しましたが、
【 VOL.1ー使い分けの要点 】
(A)人間というものは、ある物事にフォーカスし主観的な判断や断定などを述べたい生き物である。【〇〇は△△】
(B)人間というものは、また、何らかの現象・属性などを主観的な判断を加えずに(事実として)そのまま伝えたい生き物である。【〇〇が△△】
のように現時点では決めつけております。

なので、ご提示いただいた、
【主題提示層】
【論理連絡層】
が同一文に適用されることは、私の中では(今のところ)無いわけです。

>まなびが進んでおりません。

いえいえ、それはこちらのセリフです。

お礼日時:2019/09/04 17:27

分からんことをのたまう方がいるので、規範について、もう少し補足しておきましょう。



 規範は「外界」の意志としてわれわれの行動を規定してくる。それゆえこれは他からの拘束(こうそく)ということもできるが、この拘束に対して必ずしも不満や抵抗を感じるわけではないし、またいつでも拘束を意識しているわけでもない。娯楽やスポーツの規範は、この拘束で楽しむことが可能になったという意味で、歓迎すべき拘束だといってよい。ポーカーや花札なども、特殊な札をそろえることによって多くの点数を獲得できるという、特殊な規範が設定されていることによって、楽しみは一層大きなものになる。ただし、たくさんの金をかけたが敗けてとられた者にとっては、規範の拘束から受ける苦痛をいやというほど感じるかも知れないし、一回で連続安打をあびせられ八点もとられたチームにとっては、九回戦うという拘束をやりきれないものと感じるかも知れないが、これらにしても、勝った側が拘束をありがたいものうれしいものと感じていることを無視して論じるわけにはいかない。法律がわれわれの行動をつねに拘束していることは疑いないが、その拘束をつねに意識しているのは犯罪者くらいなものである。

言語規範もたしかに表現上の拘束として存在するし、外国語を学習するときには規範を意識して身につけようと努力するのだが、やがては規範を意識せずに表現できるようになる。これは嫁に行った女性がその家の家風を教えられ、はじめはこれを意識して気をつかうが、そのうちに意識することなしに行動できるようになるのと似ている。規範は意識して規定されるばかりでなく、無意識のうちに規定されるように変化していくのであって、意識しないから存在しないとか拘束されていないとかいうことはできない。それは自分の外部でつくり出された規範による規定であっても、外部から直接に行動が規定されるのではなくて、自分の頭の中に複製された意志が「外界」となってこれから媒介的に規定されるという、観念的な対象化のありかたを検討してはじめて理解できる問題である。

 それゆえ、法律や道徳や時刻表や言語規範の存在を、よく知っていながら従わない場合があるという経験的な事実から、その拘束力を否定したりこれに規定された行動を単なる習慣に解消させたりすることはできない。われわれが日常の会話において規範を意識しないという経験的な事実から、直ちに規範やその拘束力を否定することはできない。この点で時枝の主張はあやまっていた。
(三浦つとむ『『認識と言語の理論 第一部』 p.186 』)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>われわれが日常の会話において規範を意識しないという経験的な事実から、直ちに規範やその拘束力を否定することはできない。この点で時枝の主張はあやまっていた。

言語過程説が極端すぎるという批判を三浦は行なったということですね。
ここが微妙にわからないのですが、つまり、三浦としては言語実体説を全否定するべきではない、と言ったようにも見えるのですが、そんなことはありませんか?
つまり、意識しようがしまいが言語規範というものがあることは厳然たる事実として認めてよいと思うのですがねえ。
そもそもですが、なんの規範もなく「語」が創造されることはあり得ないのでは?

お礼日時:2019/09/04 17:09

早速の応答をありがとうございます。



>文法とは 実際には形式なんです。いかに主体的表現を表わすためのものだと言っても その助詞や助動詞は けっきょく形式なんです。

分からん人ですな~。
誰が、「主体的表現を表わすためのものだ」などと言っていますか。

顔を洗い直して。もう二度三度、いや拾度ぐらい、読み直して下さい。

これは表現上の秩序を維持するために、人びとの間の社会的な約束として成立したものであるから、これも一種の規範として扱わなければならない。いわゆる民族語は、民族全体の言語表現を規定するところの言語規範によって、すなわち言語表現についての全体意志によって、ささえられている。

という内容を理解し、以下の文章を理解して下さい。

それゆえ言語規範全体はやはり自然成長性にゆだねられているものといわなければならない。ある集団が、その中で通用する特殊な語法をつくり出し、いわゆる隠語を使うことも自由であり、これがその集団の枠をはみ出してひろく国民全体に使われるようになったとしても、別に禁止されるわけではない。テレビのコメディアンが、アドリブで「新語」をつくり出すと、それがたちまちに流行したりしている。これらを見ると、まったく恣意的(しいてき)につくり出せるもののようにも見えるのである。

思い込みで、誤読するようではどうしようもありません。

規範ということが全く理解されていませんね。■
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▼ (回答№18所収)(三浦つとむ:文法論?) ~~~~~~~~~


(末尾)
運転のための規範と実際の運転との間に、くいちがいの起ることを認めて
いるのであって、両者が相対的に独立していることを疑う者は観念論者以
外まずあるまい。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ このくだりで 少しは柔軟性があったようだと安心しましたが それ
でも いったい何のこっちゃ?

文法とは 実際には形式なんです。いかに主体的表現を表わすためのもの
だと言っても その助詞や助動詞は けっきょく形式なんです。

ツールは 数も決まっており それらの中から選ぶという自由度しかない
と言っても まちがいではない。


主体性を表現するための道筋は きわめて限られているのです。

そのような形式をいかに使いこなせるか。ここに 言語表現における自由
の問題があります。



だから 《規範の制約性と言語の語彙や用法を使いこなす自由とのあいだ
に 〈食い違い〉がある》のではなく もともと《可能性の限られた条件
のもとで しかも形式をいかに――うつくしく――使いこなせるか》の問
題になるはずです。

規範性やその制約は 初めから分かっていることです。それを言っても始
まらない。





あとは はこぶるさんが 批判してくれることでしょう。
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