プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

人間にとって、被害が困惑するのです。

人生を楽しみたいですね。

質問者からの補足コメント

  • うれしい

      補足日時:2020/08/13 20:59
  • へこむわー

    被害度の高い人々に対して、偏見・差別を持つわけです。

    我々の心の正体が優生思想に毒されているのであれば、永遠に戦い続けなければならぬということです。

    本当に、人間の心の原点に、優生思想はあるのでしょうか。


    俺とあいつは違う。俺の方があいつより上だ。

    偏差値教育(変な値教育)は、内在する、差別と偏見を助長しかねない、危険思想だと思えます。

    正直、私は、偏差値教育を受けた人間ですから。他者を見下ろすところは確かにありました。

    今では、見下ろされる人間?です?

    なんで、そのようなことを想起してしまうのかは、過酷と言うほどの競争を強いられたからです。

    教育は、怖いです。

    教育は人の意識基盤を創り上げることになります。

    相模原障害者連続殺人事件は、我々の社会の闇を浮き彫りにしたのではないでしょうか。

    いずれにしても、傷だらけの人生に他者にはなってほしくないですが。

      補足日時:2020/08/13 21:57




  • 天衣無縫の心が私の目指す心模様です。

      補足日時:2020/08/14 01:28
  • 安倍総理が、怪傑ライオン丸になってしまっては、最悪だ。

    石破さんも小池さんも、稲田さんも防衛大臣経験者です。防衛大臣経験者から総理じゃぁ、血の気が失せるような思いをしますが。

      補足日時:2020/08/14 01:39
  • へこむわー

    困った人たち・・・・・。



    高評価 8505 低評価 940

      補足日時:2020/08/14 01:52
  • つらい・・・

    Jesus!

    御許し下さい。

      補足日時:2020/08/14 01:55
  • つらい・・・

    自然災害は人間の仕業ですが。

    JESUS,どうか、人類の罪をお許しください。

    「被害を最小限度に、抑える良策はありますか」の補足画像7
      補足日時:2020/08/14 01:59
  • HAPPY

    神聖にして犯すべからず

    「被害を最小限度に、抑える良策はありますか」の補足画像8
      補足日時:2020/08/14 02:09
  • つらい・・・

    0:02 / 3:52
    映画『ぬちがふぅ』を観て:金城重明さん

      補足日時:2020/08/14 02:41
  • へこむわー




    ぐは!

      補足日時:2020/08/14 02:45

A 回答 (26件中1~10件)

「備えあれば憂いなし」


先を読み、備えることが大事。 災害は早く情報を入手し備えること。
交通事故は前後左右をチェックし、もらい事故を防止する。 事故に遭った場合は2次的予防をすること。
怪我人が出たら、119番通報し、誘導員を付け、救急措置をとり、いち早く病院に行けるようにする。
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この回答へのお礼

そうですね。

全く、仰る通りだと思います。

お礼日時:2020/08/13 21:07

「相模原障害者連続殺人事件」に関して犯人である「植松死刑囚」のその動機についてスポットを当ててみると彼の動機は彼自身「正しい」とは考えてはいなかった。


そうであはあるが「国家財政」を彼なりに考慮した上で導き出した彼なりの「合理的な結論」だったという事です。
加えて彼はそれを行うのは「個人ではなく国家」だとして政府に対してそれを行うよう政府に伝えていた。
しかしながら政府はそれをしないだけではなく彼のその結論を無視したので彼は国家の為に仕方がなくそれを彼自身が実行したのです
ここで注視すべきは、彼がその考えを「病的に固執」した事です。
その考えに「病的に囚われていた」のです。
よって彼はその考えを捨てることが出来なかった上にその考えに操られて事件を起こしたのです。
この「病的に囚われている状態」こそが彼の精神が病的であったその証です。
しかしながら多くの人たちは「病的に囚われる」という事がなかなか理解し得ないのです。それが問題なのです。
加えて彼が抱いていたその妄想は彼が「大麻誘発性精神病性障害」であるからとされそれの治療の為に彼が強制入院されられてきたとき彼がした妄想を捨てた的なその嘘を彼の治療にあたっていた専門医が見抜けなかった事が問題なのです
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この回答へのお礼

植松死刑囚の頭脳は、優生思想で運営されている社会そのものの矛盾に気付かなかったのでしょうね。

だれも傷つけたくないのに、勝つためには、相手を敗北させなければならぬ、そういった、心の痛みを彼は汲み取ることが何故か出来なかった。

競争社会の是非を問うても仕方のないことなのかもしれませんが、自分の胸の痛みを感じる事で、他者も同じような胸の痛みを抱えているに相違ないとは、彼氏には思えなかったのでしょう。

合理性を重んじるがための社会の矛盾、何故、疲弊するまで戦い続けるのか、その悲痛さが彼氏には分からなかった。

お礼日時:2020/08/13 22:42

質問者さんが仰っている内容の是非は置いといて問題なのは「自己制御不能」なのです。


これは私も実際に経験しているからわかりますが「自己制御不能状態」に陥ってしまうと自分ではどうにもならないのです。
このことを彼自身気が付いていなかった事が問題なのです。
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この回答へのお礼

何故、植松氏は凶行に及んだのでしょうか。

社会は矛盾そのものであり、善悪という概念、生産性の向上の是非を問うているだけが社会ではないのです。

もっと、人間とは、生臭い生き物であり、竹を縦に割ったような合理性を追求するだけが労働ではなく、非労働性もあるわけです。

人間が合理性を追求するのは、人間の本来性からして、非合理的な生命体であり、それが生活だからです。

お礼日時:2020/08/13 23:13

「自己制御不能」即ち「衝動制御障害」は脳機能障害よって生じます。


行為そのものはその行為の動機付けと深く関わっている事からその内容やそれらに関わる環境上の事柄も合わせて対処しなければならないのは確かです
ですが「脳機能に障害」が生じてるからこそ起きるわけでそれを当人が自覚しそれの治療をしない事には「衝動制御障害」は克服出来ないと言うことです
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この回答へのお礼

いかなる正当性も通用なく、民間人は、民間人同士で殺害してはならない、という箍が外れたのでしょう。

本人の病的とも思える、殺人に対する合理性を追求することは、即ち、平時に於いてのホロコーストとも思えます。

優生保護法は、平成八年まで合法だったのです。

お礼日時:2020/08/14 00:10

人生を楽しみたい。


全く同意です。価値判断基準として、楽しいか楽しく無いかは人生を歩むにあたって結構精度の高い判断を下せると思います。

例えば、人殺しは楽しいか?→NO
戦争で前線に出て殺し合いをするのは楽しいか?→NO
哲学は楽しいか?→YES
悩みは楽しいか?→NO


楽しいことをして、楽しくないことはしない。
何事も楽しさを逸しないように進めてゆくのが良い人生を歩むコツだと思います。
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この回答へのお礼

私の心の傷は一生涯続くと思えます。

自分の痛みは、他者への痛みへの共有

ペインは、否定したくとも、否定できぬ、人生の苦楽。

情というのは、加齢を経るごとに益々、増すのですね。

お礼日時:2020/08/14 01:25

それを言われると私にもどうすれば良いかわかりません。

80億人いて、一人を除く全ての人が幸せになっても、その除かれた一人が不幸なら、残りの人々の幸せは本物にはならないでしょう。

だからここでは、精神の独立が必要になると思います。一人を除く全ての人々が不幸であったとしても、除かれた一人が幸せならば、その一人は幸せであるべきなのです。
それが、正しく生きると言うことなのだと私は考えます。
その一人は希望になる。
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この回答へのお礼

幸不幸で割り切るのであれば、

此の世に誕生することは、決して、喜ばしいわけではありません。

キリスト教ならば、原罪の払拭はできず、仏教ならば、前世の因縁のために生まれるという思想です。


キリスト教で、人民救済に尽くした人は、天国へ。

仏教ならば、涅槃の境地に立てれば、二度と輪廻転生されないとしています。


来世がないと言い切るかたも多いですが。

私はそうは思っていません。

お礼日時:2020/08/14 01:43

《原罪》は 誰もにかかわるということ〔が 妥当な判断だと考えて


その言葉〕を打ち出したのだけれど それは すでにあがなわれたと
言おうとしたゆえである。

矢は抜かれたが 患部はなお癒えるのを俟たなければならない。


後遺症は ありません。蒙古斑などの母斑や しみ・そばかすなどの
痕は残るかも知れません。



【Q:イエスとアクマ】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11566687.html

キリスト・イエスは 要するに 人間のチカラで戦わなかったのだと
考えられます。
 
だから 十字架上に去って行ったあと 人びとの心に復活した。





話の都合じょう悪魔という言葉を出せば 悪魔は その十字架じょう
の死の淵までは よう ついて来なかった。
 
それまでは イエスと同じ足取りで同じ軌跡をたどっていた。
 
イエスが何をするか その行動を追跡していた。
 
ハリツケの寸前にまで影のごとく寄り添って来ていた。


 


ところが 死の淵にまでは そのみづからの能力によってついて行く
ことが出来なかった。


 

それでこそ悪魔であった。
 
すでに死んでおり あらゆるものを否定し死にみちびく親分である悪
魔も 自分がふたたび死ぬことは 出来ない相談であった。

もしそうすれば 即座に一たんよみがえって ふつうのまともな存在
となる。と思ったとたん 中から炉心溶融を起こして溶けて行ってし
まうとちゃんと知っていた。

ゆえに イエスの死の淵にまではもう よう来なかった。



去って行ったイエスに度肝を抜かれた。

あらゆるものを否定し死にみちびく仕事に耐えられなくなった。

よって それまでに罪を犯した者どもを自分の胃袋の中に抱え込んで
いたのが すべて吐き出さざるを得なくなった。
 
文字通り アクマは 腑抜けになったのである。



☆ お考えをどうぞ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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この回答へのお礼

神の出生と最期は、神聖にて、犯すべからず。


人間イエスでは困り果てます。


受胎告知に依って、生誕成された、救世主です。

お礼日時:2020/08/14 02:56

死後のことを目で見える範囲や考えてわかる範囲で判じる事はできないと思います。


私は死後のことは基本的には分からない。
ですが感覚としては、幽体のようなものがある気はします。錯覚かも知れませんが。
例えば腕を失った人に、無いはずの腕が痛むと言う現象が起きます。これは、脳が無くなった腕を未だ認識しているからです。
脳も含めて身体が離散した後、身体以外の指揮系統がこの世に存在している場合、その指揮系統が離散した私という存在を知覚している場合があり得ます。その知覚は人間の脳の知覚とは質的に異なるかも知れませんが、その知覚を元に再生されるのかも知れません。

ところで、生まれる事は不幸であると言う考えは大昔からあります。それは人類の生きる力が弱く、社会も未成熟で生き難い時代だったからでしょうか?私はそうは考えません。文明の生まれる以前から、力強く賢く生きてきた祖先が存在していたと思います。グレートジャーニーによって世界に散らばった祖先達は、生まれた事が不幸だとは考えていなかったとおもいます。キリスト教や仏教が生まれる前の話です。私はその時代の人々の精神性を尊敬しています。人類の過去にこだわるわけではありませんし、未来的な考えが私は好きですが、彼らは勇者であったと思っています。

闘わないので敗れる。敗れるとその時は不幸になります。敵と闘うだけのことを言っているのではなく、自分自身や、自然、或いは見えない敵とも闘わなくてはいけない。

キリスト教では、原罪はキリストによって贖われ、信じる者は救われると説いた。
ブッダは、解脱する事で一切の苦を滅してしあわせになれると説いた。

でも私は思います。
他人にすがって得た幸せは幸せと言えるか?
一切の苦を滅して得た幸せは幸せと言えるのか?
そのような疑問がある。
イエスキリストが居なければ幸せになれないのか?
他人の苦しみを思いやり、自身も共感して憂うことは、果たして滅するべき苦しみと言えるだろうか?と。
青春や老いの苦しみは、否定されるべき苦しみなのだろうか?と。

苦しみを否定する者は学ばない者だと私は思います。敢えて苦労しろ、苦しめとは言わないが、苦しみに意味を覚って人生の味とする人が、本当に生きている人だと思います。

病気は苦しい。しかしその忍耐に学び、人生の意味を覚るべきです。
もし、苦しみを否定してしまったら、現に傷病にあって苦しんでいる人は、なぜ苦しまなければならないのかとその不幸を嘆くことになる。嘆きに呑まれてしまってはその傷病と闘う事はできない。闘えなければ人生に意味を見出すことも難しい。
闘う姿勢は人生の根本姿勢として、推すべき事です。闘い、苦しみ、誇り、楽しみ、満足、威厳、貴さ、やさしさ、情け、哀しみ、そのようなものは人生の中に織り込むべきものであって、また織り込まれているものなのです。否定すべきでは無い。

私も病気に罹患した時は、もうダメだと思いました。要するに病に一度は敗北したと言ってよいでしょう。しかしどう言うわけか甦った。それは諦めなかったからだと思います。人生を。病に罹患する前は勝者だった。罹患した後は挑戦者です。勝者の時は闘ってなかった。勝れていたが、闘ってはなかった。その頃は気持ち良く生きていた。そして、病に一度敗れた今は、気持ち良くは無い。楽しくもない。しかしだからこそ、闘う気持ちを覚えたのです。闘う気持ちを覚えたので、誇りが生まれて来た。誇りが生まれたので自信が生まれた。自信が生まれたので、意志が芽生えた。意志が芽生えたので自分が立って来た。自分が立って来たので、熱くなって来る。やる気が出て来たので、人生に味が出て来る。人生に意味がつくので、気持ち良くもない、楽しくもない、幸せでもない人生を、大事に思えるようになる。自分を大事にするようになるので、他者と対等に振る舞える。諂わず、媚びず、貶めず、見下さず。
他者と正常な関係を築けるので、世界が広がる。世界が広がるので、歩く道が生まれる。道を歩くので肩肘張らない自由な振る舞いが出来るようになる。自由に生きるので、楽しい。
苦は楽しみに結びつく。それは病んだ身であっても、そうなのです。

生まれた事が苦しみであるならば、それを楽しみに転じてこそ意味がある。
私はそう考えます。
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この回答へのお礼

苦は否定されるものではありません。

他者との絆を強くするために、必須な苦・・・・。

苦を滅することもできませんし、苦は自然と又やってくる。

人生は、若いうちは、苦に耐えられず、他者や組織のせいにして、暴走しがちです。

よくよく、考えてみれば、

業欲とは、己の成す業です。

他者に責任転嫁するのではなく、我が身を振り返ることが重要です。

お礼日時:2020/08/14 03:06

★ (№7お礼欄) ~~~~~~~~~~~~


神の出生と最期は、神聖にて、犯すべからず。


人間イエスでは困り果てます。


受胎告知に依って、生誕成された、救世主です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ 見解を――というより 表現の妙であって その表現の仕方を
――異にします。


回答にかかげました質問趣旨は 次の《但し書き》を必要とするか
と考え あらたに設問しました。

〇 (【Q:イエスとアクマ】へのおぎない) ~~~~~~~~~

ただし イエスは その振る舞いを自分勝手にやったのだ。

しかも 自分は神の子であるという大嘘をついた。

人びとは なんら恩に着る必要はない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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この回答へのお礼

イエスは、神の御子です!

私の知り合いが洗礼を受けるそうです。

鬱病に身体も難病に冒されていらっしゃいます。学校教育も禄に受けていらっしゃらない方ですが。

自助努力に依って、三島由紀夫、宮沢賢治、などなど、をお語りになられると、超一流の方です。

今も病状が悪く苦しんでいらっしゃいます。

お父様もお母さまもカトリック教徒です。

そんな方の来世は、天国に決まっています!

でも、イエスが人だったら、どうしようはありますが・・・・・。

お礼日時:2020/08/14 03:16

《苦》は ふつう一般に言うくるしみと そしてブディズムに


言う《ドゥッカ:思うようにならないこと》とを区別したほう
がよいと思います。

否定・排除の問題ではありません。




そして 問題点は 四苦すなわち生老病死というとき 《生》
が ドゥッカに当たるかだと思われます。
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この回答へのお礼 お礼日時:2020/08/14 03:20

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