部分的、且つ大雑把にではありますが、素人なりに以下のように解釈しています。
にわか勉強なので間違っている箇所があるかもしれません。
そこで2つお願いがあります。
1.もし間違っているようなら、どこが間違っているか【具体的な箇所】をご指摘いただけないでしょうか。
2.また、その【具体的な箇所】について、どのように表現すれば正しい解釈になるのかも併せてご教授ください。
なお恐縮ですが、この1と2の条件を【両方とも満たすことができる方だけ】ご回答ください。
厚かましいお願いかもしれませんが、見識をお持ちの方がおられることを期待いたしております。
※言語過程説についての大雑把な理解※
すべての言葉は辞と詞に分類できる。
「辞」とは人間の主観(観念)を表わす働きをするもので、助詞や助動詞などのこと。「辞(助詞や助動詞)」による表現を「主体的表現」と呼ぶ。
「庭に二羽にわとりがいる」という文の場合、
(A”)「に」という助詞は、「二羽にわとりがいる」場所が「庭」である(という話者の主観)を表わしている「辞」である。
と言える。
次に「詞」とは、対象を概念として捉えた言葉のこと。「庭」「にわとり」などの有形物のほか「喜び」「悲しみ」などの無形なものも含みます。
これらを客体と捉え、「詞」による表現を「客体的表現」と呼ぶ。
「庭に二羽にわとりがいる」と言うとき、
話者は、まず「庭」「二羽のにわとり」という対象(客体)を捉えている。
次に、《「二羽のにわとり」が「庭」にいる》という認識に移るわけだが、その場合の認識は(上記(A”)で示したように)「に」という助詞によって表現される。
結果として、
「庭に二羽にわとりがいる」
という文の成立に至るのである。
特筆すべきは、
《その【認識】は「に」という助詞によって表現される。》
と申し上げたように、「に」は【話者の主観を表わす】という点。
このように言語表現は、
<対象>☞<認識>☞<表現>
という過程を経て成立する。
よって、これを「言語過程説」と呼ぶ。
A 回答 (58件中31~40件)
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No.28
- 回答日時:
No.26 のお礼に応えて
>>君の論理でいくと、三浦は決定的な間違いを犯していることになりませんか?
いいえ。
どの点を言われていますか?
三浦が、時枝の定義を厳密にしたもので、その逆ではありません。君は、詞辞の定義を示していませんが、どこに記述されたどのような定義に基づいて述べているのですか?
まず、それを示して下さい。
三浦の定義は何度も引用していますが!!
>>「詞と辞の根本」がわかっていても
前項の通り、君には「詞と辞の根本」が全く判っていないので当然の誤解、誤読でしかありません。
極めて論理的であると思いますが???■
ご回答ありがとうございます。
>どの点を言われていますか?
>三浦の定義は何度も引用していますが!!
:
《辞とは、「話し手の持っている主観的な感情や意志そのものを客体として扱うことなく直接に表現した語です。」》
と言ってるのですよね?
辞とは「主体的表現」じゃなかったのですか?
因みに、
>「詞と辞の根本」がわかっていても
というのは三浦のことだから。(笑)
これぐらいも読解できんとはねえ・・・。
三浦を読んだというのは嘘だろ?
三浦に対する誰かの評価をつまみぐいしているだけなんだろうな。
ま、そうとしか思えん。
No.27
- 回答日時:
No.25 のお礼に応えて
>>言葉⇒語
とすれば良いのですな。
そういう問題ではありませんね!!
先にも指摘の通り、根本的に誤っています。
「※言語過程説についての大雑把な理解※」と言いながら、言われているのは、単なる「詞辞」の分類の話であって、「言語過程説についての」理解ではありません。
「言語過程説による語の大雑把な理解」と云った内容です。
そして、言葉ではなく語の理解でなければならないので、最初から理解を誤っています。
さらに、<「辞」とは人間の主観(観念)を表わす働きをするもので、>ではありません。
「辞」とは、話し手の持っている主観的な感情や意志そのものを客体として扱うことなく直接に表現した語です。
このように、先にも指摘の通り全くの誤りです。そして、<次に「詞」とは、対象を概念として捉えた語のこと。>という部分だけは正しい表現です。続けて、<「庭」「にわとり」などの有形物のほか「喜び」「悲しみ」などの無形なものも含みます。>も、先に指摘の通り、<有形物のほか「喜び」「悲しみ」などの無形なものも含みます。>が何を云っているのか不明です。
何故こうなるかといえば、最初に《詞辞》の定義がないためです。
結局、質問者自身《詞辞》とは何か自体が理解できていないために、定義を示すことができず、そもそも「言語過程説についての大雑把な理解」自体示されていないので、何を云いたいのか不明な内容ということです。
>>なぜ「客体的表現」と呼ぶのか伝わらないだろ?
《これらを客体と捉え、「詞」による表現を「客体的表現」と呼ぶ。》と言ってみたところで、単なる同語反復で<なぜ客体的表現」と呼ぶのか伝わらない>ことに変わりはありません。
結局、何度も言うように質問者自身が「言語過程説についての大雑把な理解」が全く理解できていないということです。
独りよがりではなく、先ずは「言語過程説について」きちんと理解することが必要です。
それなしに、聞き手がわかりやすい表現などありえません!!!!
ご回答ありがとうございます。
1.
>さらに、<「辞」とは人間の主観(観念)を表わす働きをするもので、>ではありません。
「辞」とは、話し手の持っている主観的な感情や意志そのものを客体として扱うことなく直接に表現した語です。
:
本気で言ってるのだとすれば、君の日本語に対する理解は小学生以下だと断言せざるを得ませんな。
君は、
《「辞」とは人間の主観(観念)を表わす働きをするもの》
という文と
《「辞」とは、話し手の持っている主観的な感情や意志そのものを表現したもの》
という文は「全く違う」と言っていることになるのだが、それで本当に間違いないかね???
2.
>《これらを客体と捉え、「詞」による表現を「客体的表現」と呼ぶ。》と言ってみたところで、単なる同語反復で<なぜ客体的表現」と呼ぶのか伝わらない>ことに変わりはありません。
:
何を言っとるのかね、君は?????
《これらを客体と捉え(るからこそ)》
というフレーズがある点で、天と地ほどの違いがあることは明白だろうが???
大丈夫か???
No.26
- 回答日時:
>>ということはアス坊ではなく三浦が「詞と辞の根本」をわかっていない、ということですね?
《辞とは、「話し手の持っている主観的な感情や意志そのものを客体として扱うことなく直接に表現した語です。」》
と言っているのですから。
これも、先の誤読に起因する意味不明な誤った内容です。
結局、詞辞について何も判っておらず、質問自体が言語過程説とは無縁な世迷い言ということになりますね!!!!
■
ご回答ありがとうございます。
>これも、先の誤読に起因する意味不明な誤った内容です。
:
君は#20で、
主観と主体的表現について、
《主観的・客観的といふことと、主体的・客体的といふこととは、全然別個の概念として使い別けられ、それが詞と辞の根本にも触れることにもなる》
と時枝も言っているように、【決定的な違い】がある。
と言ってますよね?
しかし、三浦は、
《辞とは、「話し手の持っている主観的な感情や意志そのものを客体として扱うことなく直接に表現した語です。」》
と述べている。
ということは、君の論理でいくと、三浦は決定的な間違いを犯していることになりませんか?
という質問です。
「詞と辞の根本」がわかっていても、同じような意味で使うことはあるのであり、主観的と主体的に【決定的な違い】があるとまでは言い難い。
であるから、その点を殊更に主張して、まったく理解していないかのような指摘をするのは論理的とは言えないのではないか?
ということでもあるのですが、どちらですか?
No.25
- 回答日時:
No.24 のお礼に応えて
>>そのように理解するのは困難だということでしょうか?
困難も何も誤った内容です。
まず、何回も指摘したように「言葉」ではなく語です。
ここが誤読の始まりです。
「対象を概念として捉えた」のであれば、「それは客体を概念として捉えた」ということで、更に「これらを客体と捉え」というのは何なのか不明な表現です。そして、<「喜び」「悲しみ」などの無形なものも含む>と何故云う必要があるのか必然性が不明です。下記にあるように、
主観的な感情や意志などであっても、それが話し手の対象として与えられたものであれば「悲しみ」「よろこび」「要求」「懇願」などと表現します。
と云うのであれば辞との対比で意味がありますが、<「喜び」「悲しみ」などの無形なものも含む>と云うのは名詞の説明の補足として意味のある内容です。
対象と客体の関係が理解できておらず混乱して使用されています。つまり、詞とは何かが理解できていないということです。要は、
いま、一切の語を、語形や機能ではなく、対象→認識→表現という過程においてしらべてみると、次のように二つの種類に分けられることがわかります。
一、 客体的表現
二、 主体的表現
一は、話し手が対象を概念としてとらえ表現した語です。「山」「川」「犬」「走る」などがそれであり、また主観的な感情や意志などであっても、それが話し手の対象として与えられたものであれば「悲しみ」「よろこび」「要求」「懇願」などと表現します。これに対して、二は話し手の持っている主観的な感情や意志そのものを客体として扱うことなく直接に表現した語です。悲しみの「ああ」、よろこびの「まあ」、要求の「おい」、懇願の「ねえ」など<感動詞>といわれるものをはじめ、「……だ」「……ろう」「……らしい」などの<助動詞>、「……ね」「……なあ」などの<助詞>、そのほかこの種の語をいろいろあげることができます。ここに表現されているのは、古い認識論でいわれている意味での概念ではありませんが、言語表現によって感情や意志が普遍的・抽象的なものとしてとらえられるという意味で、新しい認識論ではこれを特殊な概念と認めるのが適当でしょう。
(三浦つとむ『日本語はどういう言語か』77p)
この内容が正しく理解できていないということを露呈しています。■
ご回答ありがとうございます。
言葉⇒語
とすれば良いのですな。
>「対象を概念として捉えた」のであれば、「それは客体を概念として捉えた」ということで、更に「これらを客体と捉え」というのは何なのか不明な表現です。
:
《次に「詞」とは、対象を概念として捉えた語のこと。「庭」「にわとり」などの有形物のほか「喜び」「悲しみ」などの無形なものも含みます。
これらを客体と捉え、「詞」による表現を「客体的表現」と呼ぶ。》
という文について、そのように解釈するわけですか。
そういうこと(そのような読解力)では、おそらくですが、三浦の文を読んでも何を書いているのかまったく理解できないのではありませんか?
読解のしかたを多少なりとも覚えていただくために簡単にご説明いたしましょう。
まず、
《《次に「詞」とは、対象を概念として捉えた語のこと。「庭」「にわとり」などの有形物のほか「喜び」「悲しみ」などの無形なものも含みます。》
という部分。これは、
《次に「詞」とは、対象を概念として捉えた語のことであり、「庭」「にわとり」などの有形物のほか「喜び」「悲しみ」などの無形なものも含みます。》
という構文であることを理解しましょう。
2文になってますが、主題提示の「は」が一度より出て来てないことからも分かるように、これは【「詞」について述べている】箇所です。
続く《これらを客体と捉え、》の「これら」とは、
直前の《「庭」「にわとり」などの有形物のほか「喜び」「悲しみ」などの無形なものも含みます。》を一文として切り離していることから分かるように、
《「庭」「にわとり」などの有形物のほか「喜び」「悲しみ」などの無形なもの》を指している。
そして、一文として、
《これらを客体と捉え(るからこそ)、「詞」による表現を「客体的表現」と呼ぶ。》
という意図であることを理解しよう。
つまり、この最後の文は、《対象を概念として捉えた語》である「詞」による表現をなぜ「客体的表現」と呼ぶのか、という解説でもあるわけ。
君は、
《《次に「詞」とは、対象を概念として捉えた語のこと。「詞」による表現を「客体的表現」と呼ぶ。》
と表現すべきと言っているわけだが、これでは、なぜ「客体的表現」と呼ぶのか伝わらないだろ?
独りよがりではなく、聞き手がわかりやすい表現を心がけるべきじゃないかな?
No.24
- 回答日時:
No.23 のお礼に応えて
1
>>因みに~と言ってます
これは、『日本語は~』からの引用ですが??
それも判らぬと云う体たらくなのかの???
>>『「詞と辞の根本」がわかっていても、同じような意味で使うことはあるわい』とか、特に言い訳することはないでしょうか?
又々、意味不明な文じゃのう???
一体、誰が何を云うということなのじゃ???
まだ、お屠蘇気分が抜けておらんのか!!!
2.
>>という構文であると理解するのは困難である、ということなのですね。
先ず、厳密には「言葉のこと。」ではなく、「語のこと。」
「対象を概念として【捉えた】言葉のこと」と述べておきながら、再び「これらを客体と捉え」となって???じゃあ!!
まだ、まだ、お屠蘇気分が抜けておらんのか!!!
というか、所詮その程度ということかな???
■
ご回答ありがとうございます。
1.
>これは、『日本語は~』からの引用ですが??
それも判らぬと云う体たらくなのかの???
:
ということはアス坊ではなく三浦が「詞と辞の根本」をわかっていない、ということですね?
《辞とは、「話し手の持っている主観的な感情や意志そのものを客体として扱うことなく直接に表現した語です。」》
と言っているのですから。
2.
>又々、意味不明な文じゃのう???
一体、誰が何を云うということなのじゃ???
:
いえいえ、《辞とは、「話し手の持っている主観的な感情や意志そのものを客体として扱うことなく直接に表現した語です。」》がアス坊の発言でないのなら無視して結構です。
3.
>「対象を概念として【捉えた】言葉のこと」と述べておきながら、再び「これらを客体と捉え」となって???じゃあ!!
:
《次に「詞」とは、対象を概念として捉えた言葉のこと。「庭」「にわとり」などの有形物のほか「喜び」「悲しみ」などの無形なものも含みます。
これらを客体と捉え、「詞」による表現を「客体的表現」と呼ぶ。》
この文は
《対象を概念として捉えた言葉》について、
《「庭」「にわとり」などの有形物のほか「喜び」「悲しみ」などの無形なものも含みます》という解説を加えているわけです。
つまり、
《次に「詞」とは、対象を概念として捉えた【「庭」「にわとり」などの有形物のほか「喜び」「悲しみ」などの無形なものも含む】言葉のこと。
これらを客体と捉え、「詞」による表現を「客体的表現」と呼ぶ。》
という意味なのですが、そのように理解するのは困難だということでしょうか?
No.23
- 回答日時:
No.20 のお礼に応えて
1
>>と言ってるわけですな。
読解力の無い証左を曝け出していることにお気づき下さい。(笑)
自己の稚拙な理解力と表現力の無さの証左を曝け出していることにお気づき下さい。(笑)
反省!!!!
2.
>>しかし、「詞と辞の根本」がわかっていても、同じような意味で使うことはありますよね?
そういう恥ずかしい言い訳を云っている場合ではござらぬ!!
3.
>>「客体と捉え」ているのは《「庭」「にわとり」などの有形物のほか「喜び」「悲しみ」などの無形なもの》では?
「これら」という代名詞はそれを指している。
この構文が理解できない、ということでしょうか?
君の主観はそうでも、この構文は中途半端でそうは理解できぬということじゃ!!!
まだまだ、修業が足りぬぞ!!!
■
ご回答ありがとうございます。
1.
>しかし、「詞と辞の根本」がわかっていても、同じような意味で使うことはありますよね?
そういう恥ずかしい言い訳を云っている場合ではござらぬ!!
:
そうですか。
言い訳はいかん、ということですね。
わかりました。
因みにアス坊は#10で、
《辞とは、「話し手の持っている主観的な感情や意志そのものを客体として扱うことなく直接に表現した語です。」》
と言ってますが、これに関しても『「詞と辞の根本」がわかっていても、同じような意味で使うことはあるわい』とか、特に言い訳することはないでしょうか?
仮に言い訳することがないなら、「詞と辞の根本」がわかってないということになってしまいますが、どちらですか?
2.
>>「客体と捉え」ているのは《「庭」「にわとり」などの有形物のほか「喜び」「悲しみ」などの無形なもの》では?
「これら」という代名詞はそれを指している。
この構文が理解できない、ということでしょうか?
君の主観はそうでも、この構文は中途半端でそうは理解できぬということじゃ!!!
まだまだ、修業が足りぬぞ!!!
:
わかりました。
《次に「詞」とは、対象を概念として捉えた言葉のこと。「庭」「にわとり」などの有形物のほか「喜び」「悲しみ」などの無形なものも含みます。
これらを客体と捉え、「詞」による表現を「客体的表現」と呼ぶ。》
という文において、
《「客体と捉え」ているのは《「庭」「にわとり」などの有形物のほか「喜び」「悲しみ」などの無形なもの》であり、「これら」という代名詞はそれを指している。》
という構文であると理解するのは困難である、ということなのですね。
No.22
- 回答日時:
>>ただ、何事もチャレンジ精神が大事だろ?(笑)
であれば「にわか勉強」や、下らない与太話ではなく『日本語はどういう言語か』の読破にチャレンジするのがまず第一でござる!!!!
No.20
- 回答日時:
No.16 のお礼に応えて
1.
>><微妙でない表現>というやつをぜひご教授いただきたいものですな。
「辞(助詞や助動詞)」は主体的表現の語である。
2.
>>しかし、主観と主体的表現と、それほど【決定的な違い】はないですよね?
私(=時枝)の文法学説に於いて、主観的・客観的といふことと、主体的・客体的といふこととは、全然別個の概念として使い別けられ、それが詞と辞の根本にも触れることにもなるのであるが、
ということですが???
>>それほど【決定的な違い】はないですよね?
「全然別個の概念として使い別けられ」ているということです。
この点が理解できないと、「それが詞と辞の根本にも触れることにもなるので」極めて重要なポイントです。
3.
>>「これら」という代名詞は何を指していると判断して、そのように言っているのですか?
何を「客体と捉え」ているのか意味不明な文脈になっています。
4.
>>まともな会話のやりとりをまずしたまえ、ということを申し上げているだけなのでな。(笑)
正に、その通りです。
深く反省を求めるものです!!!
■
ご回答ありがとうございます。
1.
>「辞(助詞や助動詞)」は主体的表現の語である。
:
珍しく論点を外さない回答が返ってきて驚いておる次第じゃ。(笑)
やればできるじゃん。
今後のその姿勢を忘れずにな。(笑)
余談はさておき、ということは、
《「辞(助詞や助動詞)」による表現を「主体的表現」と呼ぶ。》
は不完全な表現だが、
《「辞(助詞や助動詞)」は主体的表現の語である。》
は完璧な表現である。
と言ってるわけですな。
読解力の無い証左を曝け出していることにお気づき下さい。(笑)
2.
>「全然別個の概念として使い別けられ」ているということです。
この点が理解できないと、「それが詞と辞の根本にも触れることにもなるので」極めて重要なポイントです。
:
しかし、「詞と辞の根本」がわかっていても、同じような意味で使うことはありますよね?
3.
>>「これら」という代名詞は何を指していると判断して、そのように言っているのですか?
何を「客体と捉え」ているのか意味不明な文脈になっています。
:
《次に「詞」とは、対象を概念として捉えた言葉のこと。「庭」「にわとり」などの有形物のほか「喜び」「悲しみ」などの無形なものも含みます。
これらを客体と捉え、「詞」による表現を「客体的表現」と呼ぶ。》
という文において、「客体と捉え」ているのは《「庭」「にわとり」などの有形物のほか「喜び」「悲しみ」などの無形なもの》では?
「これら」という代名詞はそれを指している。
この構文が理解できない、ということでしょうか?
No.19
- 回答日時:
No.15 のお礼に応えて
>>言語は「語」ではないのですか???
ご【語】
(呉音)
①ことば。ことばづかい。はなし。「―をかわす」「24万―収録の辞典」
げん‐ご【言語】
(漢音ゲンギョ)
①人間が音声または文字を用いて事態(思想・感情・意志など)を伝達するために用いる記号体系。また、それを用いる行為。ことば
【広辞苑】
これを同じというのは粗雑な用語理解、使用ですね!
>>「要素」が《実体》だと言いたいわけですかね?
用語がお気に召さなければ、
根本の発想、理解の誤から生まれた発言であることを自覚、反省する必要があります。
>>前述の通り単なる言葉遊びに過ぎません。
:
イエスかノーか、と尋ねているのですが、そのお答えは???
「過ぎません」は、動詞(詞)「過ぎ」+判断辞(辞)「ます」+否定の助動詞(辞)「ぬ」
です。これが、イエスかノーか理解できませんか???
基本的に詞辞の相違と意義が理解できていませんね???
そういう方との応答は躊躇せざるを得ませんが!!■
ご回答ありがとうございます。
>これを同じというのは粗雑な用語理解、使用ですね!
:
ただ、何かいちゃもんを付けたいだけなのが見え見えですな。(笑)
>根本の発想、理解の誤から生まれた発言であることを自覚、反省する必要があります。
:
《言語とは、<対象>☞<認識>という過程的構造を経て表現される語のことである。》
と言ってもよいですが、これなら正しいですか?
と尋ねたはずですが、これも間違っている、ということですね。
>「過ぎません」は、動詞(詞)「過ぎ」+判断辞(辞)「ます」+否定の助動詞(辞)「ぬ」
です。これが、イエスかノーか理解できませんか???
:
出来ませんね。
それが、
《言語実体観が<対象>☞<認識>という過程を経て<表現>に至るのですか?》に対する答えなのですか?
イエスかノーでお願いします。
>そういう方との応答は躊躇せざるを得ませんが!!
:
矛盾の核心を突かれて、いよいよ逃げに入ったということですな。(笑)
だから、無理せんでよろしいと申し上げておる次第。
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言語過程説(げんごかていせつ)とは、日本の国語学者・時枝誠記が唱えた「言語=(主体による聯合の)継起的過程」という言語観である。
この説明も間違っている、ということですね。
#4のお礼内容が一部中途半端だったので書き直します。
>言語そのものが話者の主観の表現で、「詞辞」について説明するためには先ず語とは何かを明らかにした上で、「一切の【語】を、語形や機能ではなく、対象→認識→表現という過程においてしらべてみると、」という論理展開が必要です。
:
そうですか。
ところで、
「辞」とは人間の主観(観念)を表わす働きをするもので、助詞や助動詞などのこと。「辞(助詞や助動詞)」による表現を「主体的表現」と呼ぶ。
次に「詞」とは、対象を概念として捉えた言葉のこと。「庭」「にわとり」などの有形物のほか「喜び」「悲しみ」などの無形なものも含みます。
これらを客体と捉え、「詞」による表現を「客体的表現」と呼ぶ。
という説明は間違いですか?
辞とは主観的ではなく主体的表現だと言いつつ
《辞とは、「話し手の持っている主観的な感情や意志そのものを客体として扱うことなく直接に表現した語です。」》
と平気でのたまう。
↓
しかも、矛盾を指摘されると、それは自分の言ったことではなく
《これは、『日本語は~』からの引用ですが??
それも判らぬと云う体たらくなのかの???》
と逆切れする。
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へえそうですか。
《『日本語は~』からの引用》ということは、三浦の言ったことなんですね?
と指摘すると、
↓
《どこでかな???
それこそ、具体的に挙げて下さい。》
ととぼける。
↓
散々矛盾の証拠を突き付けられて、やっとこさ、
《その通りです。》
と認めるが、矛盾を曝け出し続けた点について一切の釈明もしない。
おまけに
《で、君は誰のどこに示された言に基づいているのですか?》
と論点をずらして逃げようとする。
この件での釈明は一切なしかね?(笑)