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部分的、且つ大雑把にではありますが、素人なりに以下のように解釈しています。
にわか勉強なので間違っている箇所があるかもしれません。
そこで2つお願いがあります。
1.もし間違っているようなら、どこが間違っているか【具体的な箇所】をご指摘いただけないでしょうか。
2.また、その【具体的な箇所】について、どのように表現すれば正しい解釈になるのかも併せてご教授ください。
なお恐縮ですが、この1と2の条件を【両方とも満たすことができる方だけ】ご回答ください。
厚かましいお願いかもしれませんが、見識をお持ちの方がおられることを期待いたしております。
※言語過程説についての大雑把な理解※
すべての言葉は辞と詞に分類できる。
「辞」とは人間の主観(観念)を表わす働きをするもので、助詞や助動詞などのこと。「辞(助詞や助動詞)」による表現を「主体的表現」と呼ぶ。
「庭に二羽にわとりがいる」という文の場合、
(A”)「に」という助詞は、「二羽にわとりがいる」場所が「庭」である(という話者の主観)を表わしている「辞」である。
と言える。
次に「詞」とは、対象を概念として捉えた言葉のこと。「庭」「にわとり」などの有形物のほか「喜び」「悲しみ」などの無形なものも含みます。
これらを客体と捉え、「詞」による表現を「客体的表現」と呼ぶ。
「庭に二羽にわとりがいる」と言うとき、
話者は、まず「庭」「二羽のにわとり」という対象(客体)を捉えている。
次に、《「二羽のにわとり」が「庭」にいる》という認識に移るわけだが、その場合の認識は(上記(A”)で示したように)「に」という助詞によって表現される。
結果として、
「庭に二羽にわとりがいる」
という文の成立に至るのである。
特筆すべきは、
《その【認識】は「に」という助詞によって表現される。》
と申し上げたように、「に」は【話者の主観を表わす】という点。
このように言語表現は、
<対象>☞<認識>☞<表現>
という過程を経て成立する。
よって、これを「言語過程説」と呼ぶ。
A 回答 (58件中51~58件)
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No.8
- 回答日時:
No.6 のお礼に応えて
>>「辞」は話者の主体的表現である、と言えば問題は無い、
ということですな?
この限りでは問題ありません。
その内容を具体的に咀嚼、理解し表現しなければ意味がありません。
それが出来ていません。
>>そもそもですが、あんた、質問文を読みましたか????
こういう理解を拒絶、放棄した暴言を吐く処に質問者の人格、能力の限界が露呈しています。
辞とは、「話し手の持っている主観的な感情や意志そのものを客体として扱うことなく直接に表現した語です。」
なので、単なる主観の表現ではありません。この点が理解できていないため、(A”)という誤った理解が生まれるということです。さらに、
また主観的な感情や意志などであっても、それが話し手の対象として与えられたものであれば「悲しみ」「よろこび」「要求」「懇願」などと表現します。
ということで、格助詞「に」は対象の関係認識を「客体として扱うことなく直接に表現した語」で、それを(A”)のように解釈するのは「客体として」理解し直しているに過ぎない誤りだということです。
そもそもですが、あんた、回答文を読みましたか????
おっと!!!
軽薄な挑発に乗せられるのは当方の限界かも????■
ご回答ありがとうございます。
1.
>辞とは、「話し手の持っている主観的な感情や意志そのものを客体として扱うことなく直接に表現した語です。」
:
それはわかっていますが?
質問文で述べたところの、
《「辞」とは人間の主観(観念)を表わす働きをするもので、助詞や助動詞などのこと。「辞(助詞や助動詞)」による表現を「主体的表現」と呼ぶ。》
という見解も間違いなのですか?
2.
>それを(A”)のように解釈するのは「客体として」理解し直しているに過ぎない誤りだということです。
:
《(という話者の主観)を表わしている「辞」である。》
と書いてあるはずですが?
主観が客体なのですか???
読解力に乏しいようで議論になりませんな。
No.7
- 回答日時:
瘤さんおはようございます。
辞が働きをするもので主体を表現します。詞が言葉で客体を表現します。辞がもので詞が言葉なのがおかしいです。辞も言葉です。言葉と言語の違いが分かりません。言語表現は主体の表現か客体の表現か分かりません。
頭の中に先に全体があってどれか1個を切り出して詞を口にします。初めの詞から続けて全体を示し終わるまで辞と詞を繋げます。大体言えたら終わります。名詞と形容詞と動詞は詞です。助詞は辞です。詞や辞は各々いくつかの意味を持っています。文は詞と辞が組み合わさってできています。文に組み合わせた時に並んだ詞と辞が互いに関わり合って各々の詞や辞の持つ意味を一つにします。にが庭と二羽のにわとりとがといるによって意味が1つに決められます。1つに決められた意味が連なって足し合わされて文の意味になります。二羽とにわとりの間に助詞ののを入れて二羽のにわとりとしたいです。最初にたまたま口にした詞がにわとりだったとき次にくる辞ががです。その次に二羽が出るか庭が出るか迷います。とにかく最後まで言います。にわとりが二羽いるのが庭です。詞と詞の間に必ず1個以上の辞を入れたくなります。『現代の言語道具説批判――言語規範とは何か(4/5)』http://dialectic.seesaa.net/article/391100837.htmlさんは「しかし言語道具説では、アタマの中の辞書から言語を取り出してきて、それを並び替えるだけですから、三浦さんの言う「意義」だけしか存在しないことになります。言語の「意味」を辞書的な「意義」に解消してしまっているのです。」と言います。
ご回答ありがとうございます。
非常に興味深いサイトをありがとうございます。
筋の通った文章で読みやすいので、じっくり読んでみたいと思います。
《言語の「意味」を辞書的な「意義」に解消してしまっているのです。》などは、以前から当方も主張している点です。
三浦に親近感が湧きそうですね。(笑)
No.6
- 回答日時:
No.5 の補足と訂正です
先の引用で、
一、 主体的表現
二、 客体的表現
は、逆で、
一、 客体的表現
二、 主体的表現
が正です。お詫びし訂正させていただきます。このため、誤解を招いたのであれば申し訳ありません。そして、辞である主体的表現の語は、
二は話し手の持っている主観的な感情や意志そのものを客体として扱うことなく直接に表現した語です。悲しみの「ああ」、よろこびの「まあ」、要求の「おい」、懇願の「ねえ」など<感動詞>といわれるものをはじめ、「……だ」「……ろう」「……らしい」などの<助動詞>、「……ね」「……なあ」などの<助詞>、そのほかこの種の語をいろいろあげることができます。ここに表現されているのは、古い認識論でいわれている意味での概念ではありませんが、言語表現によって感情や意志が普遍的・抽象的なものとしてとらえられるという意味で、新しい認識論ではこれを特殊な概念と認めるのが適当でしょう。//
なので、<助詞などの「辞」が《話者の主観)を表わしている。>などというのは、この内容を全く理解できていない、ほとんど無意味な誤りだということです。■
ご回答ありがとうございます。
>なので、<助詞などの「辞」が《話者の主観)を表わしている。>などというのは、この内容を全く理解できていない、ほとんど無意味な誤りだということです。
:
「辞」は話者の主体的表現である、と言えば問題は無い、ということですな?
そもそもですが、あんた、質問文を読みましたか?????
No.5
- 回答日時:
No.4 のお礼に応えて
>>《言語表現は、<対象>☞<認識>☞<表現>という過程を経て成立する。》
という認識は《「言語過程説」に基づく理解》になっていない、とおっしゃるわけですね?
この文自体は「言語過程説」の基本的な考え方を述べたものですが、具体的なその内容を理解した説明になっていないということです。単なる題目を唱えているに過ぎません。
>>まず「言語」と「語」の違いを明らかにしてください。
それをきちんと理解せずに詞辞の正し理解はできないので、最初からの説明を良く理解し、その理解内容を提示して正否を質問して下さい。
>>あくまで《大雑把》と断っているので、それは別に良いでしょう。
そもそも大雑把な理解ができていないということです。
>>助詞などの「辞」が《話者の主観)を表わしている。
という点なのですよ。
これは間違っているのですか?
「いま、一切の語を、語形や機能ではなく、対象→認識→表現という過程においてしらべてみると、次のように二つの種類に分けられることがわかります。~」とわざわざ引用した内容を理解すれば誤りであることが理解できるはずですが?
それが理解できないようでは困ったものです。
>>現段階での理解を述べて、大体の見当をつけてもらいたかっただけです。
なので、「言語過程説」の内容が具体的に理解できていないため、素朴な言語道具説よる誤った詞辞の理解を示されていますという大体の見当を、具体的な定義を提示し回答したのですが?
■
ご回答ありがとうございます。
>>この文自体は「言語過程説」の基本的な考え方を述べたものですが、
:
#4では、
《言語表現は、<対象>☞<認識>☞<表現>という過程を経て成立する。よって、これを「言語過程説」と呼ぶ。》
という私見に対して、
【「これ」の内容が何ら「言語過程説」に基づく理解にはなっていない】という理由で否定してますが、
どちらなのですか???
>具体的なその内容を理解した説明になっていないということです。単なる題目を唱えているに過ぎません。
:
どの箇所を指して、そう断定しているのですか?
質問文にも書いてますが、【具体的な箇所】を示してもらわないと、単なる言い掛かりになってしまいますよね?
>「いま、一切の語を、語形や機能ではなく、対象→認識→表現という過程においてしらべてみると、次のように二つの種類に分けられることがわかります。~」とわざわざ引用した内容を理解すれば誤りであることが理解できるはずですが?
:
ですから、
「辞」とは人間の主観(観念)を表わす働きをするもので、助詞や助動詞などのこと。「辞(助詞や助動詞)」による表現を「主体的表現」と呼ぶ。
次に「詞」とは、対象を概念として捉えた言葉のこと。「庭」「にわとり」などの有形物のほか「喜び」「悲しみ」などの無形なものも含みます。
これらを客体と捉え、「詞」による表現を「客体的表現」と呼ぶ。
と質問本文でも述べていますよね???
それを否定したわけですから、では、
《助詞などの「辞」が《話者の主観)を表わしている。》というのは間違いなのですか?
と聞いたのです。
どうなんですか???
No.4
- 回答日時:
No.2 のお礼に応えて
1.
>>まず、言語過程説とは何かを正しく理解しましょう。
:そのために質問しているのですが??
言語過程説とは何かを正しく理解するためには単に概説に依拠するのではなく、それを支えている認識論、規範論、意味論などを理解する必要があります。
それなしに、言語過程説とは何かを正しく理解することはできません。それは、数式を用いないで物理学を理解できるというと思い込みと同じです。
これを提起した時枝誠記はソシュール言語論という自然科学の原子論的理解という不可知論に基づく言語論の誤りの批判から始めています。こうした歴史的背景や、それを支える論理も併せて理解する必要があります。
2.
>>《言語表現は、<対象>☞<認識>☞<表現>という過程を経て成立する。よって、これを「言語過程説」と呼ぶ。》
という私見を否定しておられますが、どこが違うのでしょうか?
No.3 で補足したように、「これ」の内容が何ら「言語過程説」に基づく理解にはなっていないためです。
「言語過程説」とは<言語表現は、<対象>☞<認識>☞<表現>という過程を経て成立する>という言語本質観に基づく言語表現全体を解明、説明する科学的な理論体系で、それに基づく語の意義の解釈を基に<これを「言語過程説」と呼ぶ>というのは論理が逆転しています。
>>《すべての語は辞と詞に分類できる。》なら正しいのですね?
この限りでは正しい文ですが、その後の説明は誤っています。
>>「に」は、《話者の主観)を表わしている「辞」である》と申し上げているはずですが?主観が客体なのですか?
言語そのものが話者の主観の表現で、「詞辞」について説明するためには先ず語とは何かを明らかにした上で、「一切の【語】を、語形や機能ではなく、対象→認識→表現という過程においてしらべてみると、」という論理展開が必要です。
5.
>>何を言ってるか意味不明ですね。
まず、この意味が理解できるようになることが必要です。
>>「辞」については、《話者の主観)を表わしている》と既に述べていますがお読みにならなかったのですか?
前項で指摘のとおり、何ら.「辞」の説明にはなっていません。先に引用した三浦の書『日本語は~』では、最初に、表現としての絵画などと言語の相違を取り上げ、認識論を概説し、言語道具説の誤り、言語過程説に基づく意味論、概念認識などについて説明した後に語とは何かを明確にし、その語の分類である「詞辞」について説明しています。
この認識のありかた、概念と意味、語の本質などの理解を飛ばし、いきなり質問者の素朴な言語道具観に基づき、語の意義と文の意味の相違に対する理解もないままに、混乱した「詞辞」の説明を展開しています。
6.
>>そのために質問したのですが、ほとんど噛み合わないご回答しか得られなかったのは残念です。
言語過程説による言語観を正しく理解するための前提となる理解が欠けているため、ほとんど話が噛み合わないことを御理解いただけないのが非常に残念です。
数学や物理、素粒子論などの概説書を読んで応用問題が解けるなどと思い込むことはないと思いますが、言語論についてもその前提となる理論、論理の理解が必須です。
一つの理論体系を理解するためには関連する全体の総合的な理解が必要で、それを自家薬籠中の物とすることが他者との説明、議論をするための前提事項です。■
ご回答ありがとうございます。
>>《言語表現は、<対象>☞<認識>☞<表現>という過程を経て成立する。よって、これを「言語過程説」と呼ぶ。》
という私見を否定しておられますが、どこが違うのでしょうか?
No.3 で補足したように、「これ」の内容が何ら「言語過程説」に基づく理解にはなっていないためです。
:
なるほど。
では、
《言語表現は、<対象>☞<認識>☞<表現>という過程を経て成立する。》
という認識は《「言語過程説」に基づく理解》になっていない、とおっしゃるわけですね?
>言語そのものが話者の主観の表現で、「詞辞」について説明するためには先ず語とは何かを明らかにした上で、「一切の【語】を、語形や機能ではなく、対象→認識→表現という過程においてしらべてみると、」という論理展開が必要です。
:
そういうことを言うのであれば、まず「言語」と「語」の違いを明らかにしてください。
辞が話者の主観的表現で、
>この認識のありかた、概念と意味、語の本質などの理解を飛ばし、いきなり質問者の素朴な言語道具観に基づき、語の意義と文の意味の相違に対する理解もないままに、混乱した「詞辞」の説明を展開しています。
:
あくまで《大雑把》と断っているので、それは別に良いでしょう。
肝心なのは、
助詞などの「辞」が《話者の主観)を表わしている。
という点なのですよ。
これは間違っているのですか?
>一つの理論体系を理解するためには関連する全体の総合的な理解が必要で、それを自家薬籠中の物とすることが他者との説明、議論をするための前提事項です。
:
何か勘違いしてますね。
現段階での理解を述べて、大体の見当をつけてもらいたかっただけです。
議論できるぐらいなら、このような質問は立てません。
ただ、その説明内容としての日本語自体に矛盾や論理破綻があれば、そこは指摘してさらなる説明を求めるのは当然のことでしょう。
No.3
- 回答日時:
No.2 の補足です。
「庭に二羽にわとりがいる」という文の場合、
(A”)「に」という助詞は、「二羽にわとりがいる」場所が「庭」である(という話者の主観)を表わしている「辞」である。
と言える。
は、「庭h二羽にわとりがいる」という文の場合、
(A”)「h」という助詞は、「二羽にわとりがいる」場所が「庭」である(という話者の主観)を表わしている「辞」である。
と言える。
とも云える説明で、「辞」としての「に」の意義の説明ではなく、「庭に二羽にわとりがいる」という文の意味を言い替えただけに過ぎません。
こうした単なる意味の解釈は言語過程説とは何の関係もありません。
言語過程説は科学的言語本質観で、表現過程とともに聞き手、受け手の理解過程をも説明するもので、単に表現結果としての文の意味解釈のような現象論ではありません。■
ご回答ありがとうございます。
>「辞」としての「に」の意義の説明ではなく、「庭に二羽にわとりがいる」という文の意味を言い替えただけに過ぎません。
:
そうですか。
それでは、
「庭に二羽にわとりがいる」という文における《「辞」としての「に」の意義》とはどういったものなのか、教えてもらえますか?
No.2
- 回答日時:
まず、言語過程説とは何かを正しく理解しましょう。
詞辞の区分自体が言語過程説ではなく、言語を過程的構造を背後に持つ表現そのものと捉える下記のような言語本質論が言語過程説です。
>>このように言語表現は、<対象>☞<認識>☞<表現>という過程を経て成立する。よって、これを「言語過程説」と呼ぶ。
のではありません。
言語とは人間が相互に精神的なコミュニケーションを図るため、話者が対象の認識を物質的な模造として作り出し、これを他の人間の認識の対象として提供するため概念を用いて行う表現のことです。
感性による認識を、そのまま感性的に表現するのが、絵画、音楽表現であり、機器を用いた表現には写真、映画等があり、又演劇表現等があります。言語もこれら表現の一種を指す言葉です。言語は音声、文字として存在するが、物理的な存在としての音声、あるいは文字それ自体が言語なのではありません。
言語表現は、話者による対象の認識、表現という過程的構造を持ち、対象を概念と呼ばれる普遍性を抽象した認識により、規範を媒介し語、文として音声や文字に表現します。写真や絵画では客体的表現と主体的表現が一つの画面に不可分的なものとして存在しますが言語表現では、概念による表現として対象の感性的な模写から脱することによって主体的表現と客体的表現が分離して発展する可能性を与えられ、さらにはひとつの語彙がその双方に用いられる可能性を与えられます。この言語表現の過程的な構造を捉えた言語本質論を言語過程説と呼びます。
この言語観に基づく、語の品詞の基本となる分類が詞と辞という二大別です。
>>すべての言葉は辞と詞に分類できる。
ここで、「言葉」というのは誤りです。
言語過程説では個別の認識の表現である言葉と、言葉を媒介する規範としての語は区別しなければなりません。詞辞は語、つまり単語の分類で、次のようになります。
いま、一切の語を、語形や機能ではなく、対象→認識→表現という過程においてしらべてみると、次のように二つの種類に分けられることがわかります。
一、 主体的表現
二、 客体的表現
一は、話し手が対象を概念としてとらえ表現した語です。「山」「川」「犬」「走る」などがそれであり、また主観的な感情や意志などであっても、それが話し手の対象として与えられたものであれば「悲しみ」「よろこび」「要求」「懇願」などと表現します。これに対して、二は話し手の持っている主観的な感情や意志そのものを客体として扱うことなく直接に表現した語です。悲しみの「ああ」、よろこびの「まあ」、要求の「おい」、懇願の「ねえ」など<感動詞>といわれるものをはじめ、「……だ」「……ろう」「……らしい」などの<助動詞>、「……ね」「……なあ」などの<助詞>、そのほかこの種の語をいろいろあげることができます。ここに表現されているのは、古い認識論でいわれている意味での概念ではありませんが、言語表現によって感情や意志が普遍的・抽象的なものとしてとらえられるという意味で、新しい認識論ではこれを特殊な概念と認めるのが適当でしょう。
(三浦つとむ『日本語はどういう言語か』77p)
この、「一、 主体的表現」の語が辞で、「二、 客体的表現」の語が詞です。したがって、
>>(A”)「に」という助詞は、「二羽にわとりがいる」場所が「庭」である(という話者の主観)を表わしている「辞」である。
と言える。
は誤りで、「に」は、<「二羽にわとりがいる」場所が「庭」である(という話者の主観)>などという個別の対象認識ではなく、対象である「庭」を空間的に位置付けるという、話し手の持っている主観的な関係認識そのものを客体として扱うことなく直接に表現した語です。
>>「庭に二羽にわとりがいる」と言うとき、
話者は、まず「庭」「二羽のにわとり」という対象(客体)を捉えている。
のは確かですが、これは個別の対象を客体として捉えた「庭」「二羽のにわとり」という詞と格助詞「に」による文によって表された意味の解釈でしかなく、意味を媒介する規範概念である辞の「感情や意志が普遍的・抽象的なものとしてとらえられ主観的な感情や意志そのものを客体として扱うことなく直接に表現した語」である格助詞「に」の概念の説明ではありません。
まずは、言語過程説による言語観を正しく理解し、過程的構造に反映される対象と認識の構造を正しく理解する必要があります。
そのためには、認識論、規範論の理解が重要です。■
ご回答ありがとうございます。
1.
>まず、言語過程説とは何かを正しく理解しましょう。
:
そのために質問しているのですが??
2.
>この言語表現の過程的な構造を捉えた言語本質論を言語過程説と呼びます。
:
端的にお伺いします。
《言語表現は、<対象>☞<認識>☞<表現>という過程を経て成立する。よって、これを「言語過程説」と呼ぶ。》
という私見を否定しておられますが、どこが違うのでしょうか?
《言語表現は<対象>☞<認識>☞<表現>という過程を経て成立する》というのは言語の本質ではない、という意味でしょうか。
色々教えていただくのは有難いですが、まず最初にイエスノーで答えてからにしてください。
3.
>>すべての言葉は辞と詞に分類できる。
ここで、「言葉」というのは誤りです。
:
《すべての語は辞と詞に分類できる。》なら正しいのですね?
4.
>話し手の持っている主観的な関係認識そのものを客体として扱うことなく直接に表現した語です。
:
「に」は、《話者の主観)を表わしている「辞」である》と申し上げているはずですが?
主観が客体なのですか?
5.
>これは個別の対象を客体として捉えた「庭」「二羽のにわとり」という詞と格助詞「に」による文によって表された意味の解釈でしかなく、意味を媒介する規範概念である辞の「感情や意志が普遍的・抽象的なものとしてとらえられ主観的な感情や意志そのものを客体として扱うことなく直接に表現した語」である格助詞「に」の概念の説明ではありません。
:
何を言ってるか意味不明ですね。
「庭」「二羽のにわとり」という客体の説明箇所を指摘して、《格助詞「に」の概念の説明ではありません。》と言われてもねえ・・・困ってしまいますな。(笑)
「辞」については、《話者の主観)を表わしている》と既に述べていますがお読みにならなかったのですか?
6.
>まずは、言語過程説による言語観を正しく理解し、過程的構造に反映される対象と認識の構造を正しく理解する必要があります。
:
そのために質問したのですが、ほとんど噛み合わないご回答しか得られなかったのは残念です。
上で申し上げた点をよくご確認の上、適切な回答が可能なようでしたらまたお願いします。
No.1
- 回答日時:
言語活動を「認識過程」と「表現過程」の連続したものと考える、「言語課程説」の説明になっていると、思います。
(さて、アスナロさんがどういう判断を下されるか楽しみですね。)ご回答ありがとうございます。
>さて、アスナロさんがどういう判断を下されるか楽しみですね。)
:
という以前に、まともな日本語文を書いてくれるかどうかが心配です。(笑)
なぜ月は空から落ちないのですか?
という質問に対して、まず相対性理論を理解することが先決じゃ! 的なことを言うのが十八番のようなので。
たぶん、本当は何もわかっていないのではないか、と思っている次第。
本当にわかっているなら、具体的疑問に対して具体的な説明ができるはずでしょう。
理解できるか否かは別にしてね。
いずれにせよ、わかったようなふりをすることが一番危険。
相手も図に乗るし悪循環ですぞ。
矛盾点は徹底的に追及する方針です。
閲覧者のためにもね。
あなたは基本的にコケ脅しに弱いですな。(笑)
もっと突っ込みましょう。
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この説明も間違っている、ということですね。
#4のお礼内容が一部中途半端だったので書き直します。
>言語そのものが話者の主観の表現で、「詞辞」について説明するためには先ず語とは何かを明らかにした上で、「一切の【語】を、語形や機能ではなく、対象→認識→表現という過程においてしらべてみると、」という論理展開が必要です。
:
そうですか。
ところで、
「辞」とは人間の主観(観念)を表わす働きをするもので、助詞や助動詞などのこと。「辞(助詞や助動詞)」による表現を「主体的表現」と呼ぶ。
次に「詞」とは、対象を概念として捉えた言葉のこと。「庭」「にわとり」などの有形物のほか「喜び」「悲しみ」などの無形なものも含みます。
これらを客体と捉え、「詞」による表現を「客体的表現」と呼ぶ。
という説明は間違いですか?
辞とは主観的ではなく主体的表現だと言いつつ
《辞とは、「話し手の持っている主観的な感情や意志そのものを客体として扱うことなく直接に表現した語です。」》
と平気でのたまう。
↓
しかも、矛盾を指摘されると、それは自分の言ったことではなく
《これは、『日本語は~』からの引用ですが??
それも判らぬと云う体たらくなのかの???》
と逆切れする。
↓
へえそうですか。
《『日本語は~』からの引用》ということは、三浦の言ったことなんですね?
と指摘すると、
↓
《どこでかな???
それこそ、具体的に挙げて下さい。》
ととぼける。
↓
散々矛盾の証拠を突き付けられて、やっとこさ、
《その通りです。》
と認めるが、矛盾を曝け出し続けた点について一切の釈明もしない。
おまけに
《で、君は誰のどこに示された言に基づいているのですか?》
と論点をずらして逃げようとする。
この件での釈明は一切なしかね?(笑)