![](http://oshiete.xgoo.jp/images/v2/pc/qa/question_title.png?e8efa67)
部分的、且つ大雑把にではありますが、素人なりに以下のように解釈しています。
にわか勉強なので間違っている箇所があるかもしれません。
そこで2つお願いがあります。
1.もし間違っているようなら、どこが間違っているか【具体的な箇所】をご指摘いただけないでしょうか。
2.また、その【具体的な箇所】について、どのように表現すれば正しい解釈になるのかも併せてご教授ください。
なお恐縮ですが、この1と2の条件を【両方とも満たすことができる方だけ】ご回答ください。
厚かましいお願いかもしれませんが、見識をお持ちの方がおられることを期待いたしております。
※言語過程説についての大雑把な理解※
すべての言葉は辞と詞に分類できる。
「辞」とは人間の主観(観念)を表わす働きをするもので、助詞や助動詞などのこと。「辞(助詞や助動詞)」による表現を「主体的表現」と呼ぶ。
「庭に二羽にわとりがいる」という文の場合、
(A”)「に」という助詞は、「二羽にわとりがいる」場所が「庭」である(という話者の主観)を表わしている「辞」である。
と言える。
次に「詞」とは、対象を概念として捉えた言葉のこと。「庭」「にわとり」などの有形物のほか「喜び」「悲しみ」などの無形なものも含みます。
これらを客体と捉え、「詞」による表現を「客体的表現」と呼ぶ。
「庭に二羽にわとりがいる」と言うとき、
話者は、まず「庭」「二羽のにわとり」という対象(客体)を捉えている。
次に、《「二羽のにわとり」が「庭」にいる》という認識に移るわけだが、その場合の認識は(上記(A”)で示したように)「に」という助詞によって表現される。
結果として、
「庭に二羽にわとりがいる」
という文の成立に至るのである。
特筆すべきは、
《その【認識】は「に」という助詞によって表現される。》
と申し上げたように、「に」は【話者の主観を表わす】という点。
このように言語表現は、
<対象>☞<認識>☞<表現>
という過程を経て成立する。
よって、これを「言語過程説」と呼ぶ。
A 回答 (58件中41~50件)
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No.18
- 回答日時:
>>あくまでアス坊の場合は、ということね。
(笑)こういう戯れ事で逃げ回っているのが致命的です。
■
ご回答ありがとうございます。
そういう紋切り型の揶揄はそろそろ卒業したまえ。
せめて根拠ぐらいあげられるようになろう。
ここで宿題を出しておくかな。
>機能主義的な言語理解による解釈に言語過程説という名前を結びつけているに過ぎないということです。
:
これもただの紋切り型揶揄のひとつとしてアス坊は言っただけだろう。
しかしですな、偶然が為したこの表現が、実は重大なある事実に対する示唆を含んでおると私は指摘しておこう。
さて、その《重大なある事実》とは何かアス坊もよく考えておくようにな。(笑)
もう少し考察してから開陳したいと思っているが、おそらくすべての問題を一気に解決する視点となるはずだ。
No.17
- 回答日時:
No.13 のお礼に応えて
>>まあまあ・・・。(笑)
いずれ、その件についてお話しすることもあるかと思いますが、今はまだ、その段階ではないでしょうね。
御意!!
それを期待しております!!!
(笑)
■
No.16
- 回答日時:
No.12 のお礼に応えて
>>「辞(助詞や助動詞)」による表現を「主体的表現」と呼ぶ。
まあ、微妙な表現ですが誤りと決め付けるほどでもないと思います。
>>つまり、合っている部分には一切一言も触れずに、違っている部分だけを指摘した、ということですね?
当然ですよね。誤りだから指摘しているということです。正しい部分は特に補足、強調の必要がなければ触れる必要はありませんよね???
>>主観=その人ひとりのものの見方。
この程度の理解であれこれ言われても???
しゅ‐かん【主観】‥クワン
①〔哲〕(subjectの西周にしあまねによる訳語)客観に対する語。語源的には流動する作用・性質・状態を担う自己同一的な実体、基体(subjectum ラテン)を意味する。近世以後意味を転じ、対象の認識を構成する自我や意識の意となった。特にカントでは、主観は生得の、一定の形式・法則に従って、客観的対象を構成する超越論的主観とされた。カント以後は、単に認識主観にとどまらず、実践的能動性と自由の基体として主体とも呼ばれる。↔客観。
【広辞苑】
で、 主観とは脳の機能です。客観はこれに対立する概念で主観と客観とは、対立するとともに切り離すことのできない概念です。けれどもこれは、主観の成立によって、はじめて客観とよばれる実体が成立したことを意味するのではありません。現実の世界それ自体は、主観と無関係に実在していますが、主観の成立によりそれとの関係において客観という既定を受けとります。子供を持たない夫婦を親とは呼べませんが、子供を持つことによって初めて親という既定を受けとるのと同じです。親と子の関係は不可分ですが、この不可分の関係は、子供が生まれたときそれと同時に親と呼ばれる人間それ自体が無からあらわれてきたことを意味するのではありません。主観と客観の関係もこれと同じです。
辞書では「主観=その人ひとりのものの見方」「客観=主観から独立して存在する外界の事物。客体。」【大辞泉】と記していますが、先の内容を機能的に捉えた表現といえます。そして、客観的・主観的というのは、これを属性表現にしたものです。
この誤解は、現在の言語学会、日本語学会の誤解でもあり、このため言語過程説が理解されていないのが現状です。
この客観的/主観的と客体的/主体的は全く異なる内容で、時枝誠記「金田一春彦氏の不変化助動詞の本質を読んで」(『国語国文』第二二巻五号)で、
金田一春彦(1953)「不変化助動詞の本質:主観的表現と客観的表現の別について」
https://hjl.hatenablog.com/entry/2018/09/12/090000
に対し次のように指摘しています。
私の文法学説に於いて、主観的・客観的といふことと、主体的・客体的といふこととは、全然別個の概念として使い別けられ、それが詞と辞の根本にも触れることにもなるのであるが、金田一氏は、私の主体的客体的の別を、無雑作に、主観的客観的の語に置きかえられてしまった。たとへば……//
これと同じ誤りをされているということです。まずは、この時枝の釈明をお読みください。
《この点が全く理解できていません。》ねえ・・・。
呆れ果てますわな。
>>\(-_-;)/
正気ですか???
《対象を概念として捉えた言葉のこと。「庭」「にわとり」などの有形物のほか「喜び」「悲しみ」などの無形なもの》
に決まってますがな???
《対象を概念として捉えた言葉のこと。「庭」「にわとり」などの有形物のほか「喜び」「悲しみ」などの無形なもの》を客体と捉え、「詞」による表現を「客体的表現」と呼ぶのですか?????
\(-_-;)/
正気ですか???
代名詞の使い方を誤っているに決まってますがな???
>>そういうコケ脅しは私には通用せん、ということがまだお分かりじゃないようですな。(笑)
これをコケ脅しとしか理解できないところが質問者の理解力の限界を露呈しているということがまだお分かりじゃないようですな。(笑)
無理せんでいいよ。(笑)
まあ、それ以前にやるべきことが沢山あるのは理解しとるが!!
■
ご回答ありがとうございます。
1.
>>「辞(助詞や助動詞)」による表現を「主体的表現」と呼ぶ。
まあ、微妙な表現ですが誤りと決め付けるほどでもないと思います。
:
へえ~?
では、
<微妙でない表現>というやつをぜひご教授いただきたいものですな。
2.
>誤りだから指摘しているということです。正しい部分は特に補足、強調の必要がなければ触れる必要はありませんよね???
:
「辞」とは人間の主観(観念)を表わす働きをするもので、助詞や助動詞などのこと。「辞(助詞や助動詞)」による表現を「主体的表現」と呼ぶ。
この内容について、後半は合っているが前半は間違っているということですね。
しかし、主観と主体的表現と、それほど【決定的な違い】はないですよね?
>私(=時枝)の文法学説に於いて、主観的・客観的といふことと、主体的・客体的といふこととは、全然別個の概念として使い別けられ、それが詞と辞の根本にも触れることにもなるのであるが、
:
なるほど。
私とて全く同じだなどとは思っていませんが、しかし、繰り返しになりますが、主観と主体的表現と、それほど【決定的な違い】はないですよね?
3.
>代名詞の使い方を誤っているに決まってますがな???
:
《次に「詞」とは、対象を概念として捉えた言葉のこと。「庭」「にわとり」などの有形物のほか「喜び」「悲しみ」などの無形なものも含みます。
これらを客体と捉え、「詞」による表現を「客体的表現」と呼ぶ。》
という文において、「これら」という代名詞は何を指していると判断して、そのように言っているのですか?
4.
>これをコケ脅しとしか理解できないところが質問者の理解力の限界を露呈しているということがまだお分かりじゃないようですな。(笑)
:
いやいやコケ脅しであることはすでに十分見抜いておるから、無理をせんでよろしい。
あれ読めこれ読めと言う前に、まともな会話のやりとりをまずしたまえ、ということを申し上げているだけなのでな。(笑)
No.15
- 回答日時:
No.11 のお礼に応えて
>>《言語表現は、<対象>☞<認識>☞<表現>という過程を経て成立する。》という発言内容を指します
いいえ。
「この」が指しているのは前段の内容で、後続の述語内容ではありません。
《言語表現は、<対象>☞<認識>☞<表現>という過程を経て成立する。》は、この限りでは正しい内容ですが、これを語だなどという言語過程説に反する理解の下に使用されているので内容としては誤っており、言葉遊びになっているということです。
>>【<対象>☞<認識>という過程を経て<表現>に至るという内在的要素を備えた】という点をお見逃しなく。
<対象>☞<認識>☞<表現>という過程は【内在的要素】などではありません。これは過程自体を実体視する誤りで、言語表現は弁証法の論理でいうところの、この過程の止揚であり「要素」などという形式論理的な実体の関係ではありません。このように、本質的な理解なしに言語過程説の用語を散りばめただけの粗雑な理解、表現になっています。
>>言語実体観が<対象>☞<認識>という過程を経て<表現>に至るのですか?
前述の通り単なる言葉遊びに過ぎません。
■
ご回答ありがとうございます。
1.
>いいえ。
「この」が指しているのは前段の内容で、後続の述語内容ではありません。
:
「これ」のタイプミスですだと思いますが、本当にそういう解釈しかできないとすれば、もはや小学生レベル以下ですな(笑)
同意する人は一人もいないでしょう。
《《言語表現は、<対象>☞<認識>☞<表現>という過程を経て成立する。》は、この限りでは正しい内容》という自分の発言との矛盾にすら気づいていないようで。
弁証法やら認識論などを読む前に小学校の国語からやり直してください。
2.
>これを語だなどという言語過程説に反する理解の下に使用されているので内容としては誤っており、言葉遊びになっているということです。
:
言語は「語」ではないのですか???
《言葉遊び》をしてるのはアス坊のほうでしょう?
3.
><対象>☞<認識>☞<表現>という過程は【内在的要素】などではありません。これは過程自体を実体視する誤りで、
:
「要素」が《実体》だと言いたいわけですかね?
用語がお気に召さなければ、
言語とは、<対象>☞<認識>という過程的構造を経て表現される語のことである。
と言ってもよいですが、これなら正しいですか?
4.
>>言語実体観が<対象>☞<認識>という過程を経て<表現>に至るのですか?
前述の通り単なる言葉遊びに過ぎません。
:
イエスかノーか、と尋ねているのですが、そのお答えは???
No.14
- 回答日時:
>>にわか勉強なので間違っている箇所があるかもしれません。
これまで説明してきたように、「間違っている箇所」云々以前に、言語過程説という言語本質観、理論体系が全く理解できていないために言語過程説に基づく解釈ができる状態ではありません。
せっかく興味をもたれたのであれば、先ず『日本語はどういう言語か』という大衆的な本を最初から読み通し全体を理解して下さい。
但し、『日本語は~』の解説を書いている吉本隆明が、
「この著書は啓蒙的なスタイルをとった小冊子だったが、内容はきわめて高度で、画期的なものであった。」
と評しているように、生易しい内容ではないので理解のためにはそれなりの覚悟と努力が必要で、学術書として理論展開された『認識と言語の理論 1/2』他を参照しないと本質的な理解はできません。
質問者の理解力、表現力を見る限り、「にわか勉強」などで理解できる内容ではありません。
この点、誤解なきよう!■
ご回答ありがとうございます。
>質問者の理解力、表現力を見る限り、「にわか勉強」などで理解できる内容ではありません。
:
回答者の理解力、表現力を見る限り、「どれほど勉強しても」理解できる内容ではなさそうと考えるが妥当なようですね。(笑)
あくまでアス坊の場合は、ということね。(笑)
No.13
- 回答日時:
>>「ご飯を食べてこないでください。
」⇒この「くる」は「~しおわる」という用法の補助動詞。
このような、補助動詞などという機能的な品詞分類をしているようでは言語過程説という言語本質観が全く理解できていないことを露呈しています。『国語学原論』も『日本語はどういう言語か』も全く読んでいないことを白日の下に晒していますが!!!
機能主義的な言語理解による解釈に言語過程説という名前を結びつけているに過ぎないということです。■
ご回答ありがとうございます。
まあまあ・・・。(笑)
いずれ、その件についてお話しすることもあるかと思いますが、今はまだ、その段階ではないでしょうね。
No.12
- 回答日時:
No.10 のお礼に応えて
人間の主観(観念)を表わす
>>《「辞」とは人間の主観(観念)を表わす働きをするもので》という点が間違いだという意味ですか?
はい。
また主観的な感情や意志などであっても、それが話し手の対象として与えられたものであれば「悲しみ」「よろこび」「要求」「懇願」などと表現します。
ということで、「辞」だけが、人間の主観(観念)を表わすのではありません。
この点が全く理解できていません。
2.
>>そんなことはわかっていますが?
わかっていたら、1.のような誤解、誤読はありえません。
3.
>>そんなことはわかっていますが?
であれば、1.のような誤解、誤読はありえません。
>>これらを客体と捉え、「詞」による表現を「客体的表現」と呼ぶ。》
この、「これら」とは何ですか?
「客体的表現」を「客体と捉え」るのですか????
基本的な用語の意味が理解できていないため種々混乱した理解、表現になっています。
こういう粗雑な理解では言語過程説を理解することはできません。
もう少し、厳密に論理的に思考し、用語を正しく理解するところから始めて下さい。
言語過程説が批判したソシュール言語論くらいは理解しないと用語の内容の相違が理解できません。■
ご回答ありがとうございます。
>>>《「辞」とは人間の主観(観念)を表わす働きをするもので》という点が間違いだという意味ですか?
はい。
>わかっていたら、1.のような誤解、誤読はありえません。
:
では、質問本文にある
「辞(助詞や助動詞)」による表現を「主体的表現」と呼ぶ。
という部分は合っているのですね?
つまり、合っている部分には一切一言も触れずに、違っている部分だけを指摘した、ということですね?
主観=その人ひとりのものの見方。
ですから、主体的表現と、どれほどの違いがありますかね?
そんな、殊更に取り上げて、《この点が全く理解できていません。》とはねえ・・・。
呆れ果てますわな。
>>これらを客体と捉え、「詞」による表現を「客体的表現」と呼ぶ。》
この、「これら」とは何ですか?
「客体的表現」を「客体と捉え」るのですか????
:
\(-_-;)/
正気ですか???
《対象を概念として捉えた言葉のこと。「庭」「にわとり」などの有形物のほか「喜び」「悲しみ」などの無形なもの》
に決まってますがな???
>言語過程説が批判したソシュール言語論くらいは理解しないと用語の内容の相違が理解できません。
:
そういうコケ脅しは私には通用せん、ということがまだお分かりじゃないようですな。(笑)
無理せんでいいよ。
No.11
- 回答日時:
No.9 のお礼に応えて
>>時枝の言語過程説についての話に決まってるじゃないですか。
時枝の誤った理解を持ち出してどうするのですか?
>>《「これ」の内容は「言語過程説」に基づく理解》である、ということでよいのですね?
詞辞を正しく理解できていない誤った内容だと指摘していますが??
詞辞を正しく理解できていれば、「ある」「ない」に動詞(詞)、助動詞(辞)の二種類があり補助用言などという品詞区部が誤りであることを時枝が指摘していますが、この点が全く理解できていませんよね。
これでどうして詞辞を正しく理解できているといえるのですか。そして言語過程説の語、文の位置付けも理解出来ず、
言語とは、<対象>☞<認識>という過程を経て<表現>に至るという内在的要素を備えた語のことである。
などという全くの誤りを披歴しているのでは、言語過程説を全く理解できていないという他ありません。■
ご回答ありがとうございます。
>詞辞を正しく理解できていない誤った内容だと指摘していますが??
:
「これ」とは、《言語表現は、<対象>☞<認識>☞<表現>という過程を経て成立する。》という発言内容を指しますが、《「これ」の内容は「言語過程説」に基づく理解》ではない、ということですか???
時枝が正しいかどうかは関係ないでしょ?現段階では。
>言語とは、<対象>☞<認識>という過程を経て<表現>に至るという内在的要素を備えた語のことである。
などという全くの誤りを披歴しているのでは、言語過程説を全く理解できていないという他ありません。
:
【<対象>☞<認識>という過程を経て<表現>に至るという内在的要素を備えた】という点をお見逃しなく。
言語実体観が<対象>☞<認識>という過程を経て<表現>に至るのですか?
No.10
- 回答日時:
>>「辞」とは人間の主観(観念)を表わす働きをするもので、助詞や助動詞などのこと。
「辞(助詞や助動詞)」による表現を「主体的表現」と呼ぶ。次に「詞」とは、対象を概念として捉えた言葉のこと。「庭」「にわとり」などの有形物のほか「喜び」「悲しみ」などの無形なものも含みます。
これらを客体と捉え、「詞」による表現を「客体的表現」と呼ぶ。
という説明は間違いですか?
種々間違っています。
いつもながら、曖昧な用語を使用しています。
「働きを」問題にするのは間違いです。
辞とは、「話し手の持っている主観的な感情や意志そのものを客体として扱うことなく直接に表現した語です。」
「言葉」というのも曖昧です。「詞」とは、
話し手が対象を概念としてとらえ表現した語です。「山」「川」「犬」「走る」などがそれであり、また主観的な感情や意志などであっても、それが話し手の対象として与えられたものであれば「悲しみ」「よろこび」「要求」「懇願」などと表現します。
です。■
ご回答ありがとうございます。
1.
>「働きを」問題にするのは間違いです。
:
《「辞」とは人間の主観(観念)を表わす働きをするもので》という点が間違いだという意味ですか?
2.
>辞とは、「話し手の持っている主観的な感情や意志そのものを客体として扱うことなく直接に表現した語です。」
:
そんなことはわかっていますが?
どこに《客体として扱う》と書いているのか、その箇所を示してください。
3.
>「言葉」というのも曖昧です。「詞」とは、
話し手が対象を概念としてとらえ表現した語です。「山」「川」「犬」「走る」などがそれであり、また主観的な感情や意志などであっても、それが話し手の対象として与えられたものであれば「悲しみ」「よろこび」「要求」「懇願」などと表現します。
:
はあ???
そんなことはわかっていますが?
質問文に、
《次に「詞」とは、対象を概念として捉えた言葉のこと。「庭」「にわとり」などの有形物のほか「喜び」「悲しみ」などの無形なものも含みます。
これらを客体と捉え、「詞」による表現を「客体的表現」と呼ぶ。》
と書いてあるはずですが、これとどの点が異なるのか教えてください。
No.9
- 回答日時:
>>言語過程説(げんごかていせつ)とは、日本の国語学者・時枝誠記が唱えた「言語=(主体による聯合の)継起的過程」という言語観である。
この説明も間違っている、ということですね。
時枝誠記は、
私は、言語の本質を、主体的な表現過程の一の形式であるという考えに到達したのである。言語を表現過程の一形式であるとする言語本質観の理論を、ここに言語過程説と名付けるならば、言語過程説は、言語を以て音声と意味との結合であるとする構成主義的な言語観或は言語を主体を離れた客体的存在とする言語実体観に対立するものであって、言語は、思想内容を音声や或は文字を媒介として表現しようとする主体的な活動それ自体であるとするのである。
(『国語学原論』;序)
と述べていますが、三浦つとむにより、言語を「主体的な活動それ自体であるとする」のは誤りであることを指摘されています。■
ご回答ありがとうございます。
>三浦つとむにより、言語を「主体的な活動それ自体であるとする」のは誤りであることを指摘されています。
:
そんなことはわかってますよ。
時枝の言語過程説についての話に決まってるじゃないですか。
#4では、
《言語表現は、<対象>☞<認識>☞<表現>という過程を経て成立する。よって、これを「言語過程説」と呼ぶ。》
という私見に対して、
【「これ」の内容が何ら「言語過程説」に基づく理解にはなっていない】と否定したはずですが、
《「これ」の内容は「言語過程説」に基づく理解》である、ということでよいのですね?
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言語過程説(げんごかていせつ)とは、日本の国語学者・時枝誠記が唱えた「言語=(主体による聯合の)継起的過程」という言語観である。
この説明も間違っている、ということですね。
#4のお礼内容が一部中途半端だったので書き直します。
>言語そのものが話者の主観の表現で、「詞辞」について説明するためには先ず語とは何かを明らかにした上で、「一切の【語】を、語形や機能ではなく、対象→認識→表現という過程においてしらべてみると、」という論理展開が必要です。
:
そうですか。
ところで、
「辞」とは人間の主観(観念)を表わす働きをするもので、助詞や助動詞などのこと。「辞(助詞や助動詞)」による表現を「主体的表現」と呼ぶ。
次に「詞」とは、対象を概念として捉えた言葉のこと。「庭」「にわとり」などの有形物のほか「喜び」「悲しみ」などの無形なものも含みます。
これらを客体と捉え、「詞」による表現を「客体的表現」と呼ぶ。
という説明は間違いですか?
辞とは主観的ではなく主体的表現だと言いつつ
《辞とは、「話し手の持っている主観的な感情や意志そのものを客体として扱うことなく直接に表現した語です。」》
と平気でのたまう。
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