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1. モリヌー問題とは――きわめて簡略化しますが―― 盲人が開眼したとき その見えるありさまは ふつうの健常な人の場合と同じか? です。

2. カントの先験的な純粋直観なる仮説にからませて言えば 開眼して見える空間は ふつうに健常な人が見ている三次元の構造であり そこにおけるモノどうしの位置関係や距離感をともなったものと同じか? という問いです。

3. つまり 開眼したときというのは 視覚としての感性が なおまだ経験を積んでいない それゆえ たとえば空間の〔知覚および〕認識は 経験に先立ってそなわりはたらくというカント説の当否をうらなうことができる。



4. 白内障の開眼手術の実例からは 《見えても 距離感がともなわれていない》という結果が報告されている。
A ▲ ヰキぺ:モリヌークス問題:3 医師・学者たち ~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%AA …

5. イギリスの医師ウィリアム・チェゼルデン( William Cheselden 1688-1752)〔による〕・・・開眼手術の経過(1728年)・・・

6. 開眼者は13才の先天性白内障の少年だった。

7. 当時の開眼手術は白内障だけで、光が網膜に届くのを邪魔している白濁した水晶体を針で眼球の中(ガラス体)に堕(お)として邪魔ものをなくし眼底まで光を通す、という紀元前から行われている墜下法(couching)だった。

8. ・・・ 少年の手術は成功したが、開眼直後の報告では彼は対象の区別ができず、当然距離も判らず「すべての対象が」「眼にくっついてる」ように感じた。


      *


9. フランスの外科・眼科医ジャック・ダヴィエル(1693-1762)の手術例

10. 彼は22例の開眼症例をまとめ、「手術後、目の前に出された対象に触らず、眼で見ただけでそれとわかった患者はひとりもいなかった」(1762)と報告している。
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11. そのほかに参照しえたところでは:
B ▲ Stanford Encyclopedia of Philosophy:Molyneux’s Problem
First published Thu Jun 30, 2005; substantive revision Wed Oct 11, 2017
https://plato.stanford.edu/entries/molyneux-prob …

☆ この事典では 答えを保留している。



12. 次は 保留せず完全に 先験的な純粋直観による《空間の認識》は 無理だと言う。《空間を座標によってその位置関係を捉えるような認識は 触覚による認識をまじえないと――つまりは手で触れるといった感覚経験に先立って認識することは―― 無理だ》と。

C ▲ Richard David Creek:Kant’s Negative Answer to Molyneux’s Question 2014
https://vtechworks.lib.vt.edu/bitstream/handle/1 …


D ▲ Brigitte Sassen:Kant on Molyneux's Problem  2006
https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/0960 …



13. ところで 次の資料は カント自身が 間接的にモリヌー問題に触れているという紹介である。カントの講義録であるらしい。[12]に言うごとく 触覚をともなわないと 視覚だけでは 空間認識は 無理のようだと言っている。

E ▲ Curtis Lindsay:What would Kant think about Molyneux's problem? 2016
https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/0960 …


E △ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
In his Anthropology Lectures (1792), Kant had the following to say:

 Touch is the main objective sense, and only by means of it can we
 perceive the shape and measure of a body.

 For the eyes present us objects only in a plane, although because we
 have so often previously received by touch the concept of the sub-
 stance of the body, it becomes totally inconsequential for us to believe
 that, by means of the eyes, we can see bodies also in their thickness.

 Experiments undertaken with those born blind adequately prove this:
 they at first saw a sphere only as a circle, and were unable to distin-
 guish dog from cat before they had touched them.

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14. すなわち [4]の開眼者の実例をも 否定も批判もせずに 引いている。




15. それではわれわれは カント説を否定し はっきり《世に言う認識におけるコペルニクス的転回は ウソだ》と言い切ってよいか?


16. それとも 《じつは 触覚において 先験的に純粋直観ははたらいているのだ。感性全体の統覚(あるいは 構想力)として捉えるなら そこに視覚などをもふくめてやれば なお純粋悟性概念は 生きている》・・・と言うだろうか?

17. ◆ (カントの亡霊によるうっちゃり!?) ~~~~~~~~
触覚は むろん経験行為だが その〈触れる〉というコトが あたかも物自体にかかわる〈先験的客観〉を得る作用とそして 実際の感覚とに分かれている。

前者のハタラキが 人間の主体性をあらわす純粋悟性概念の部分である。

物自体ないし先験的客観は 人間には知り得ないというに過ぎない 。・・・
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質問者からの補足コメント

  • №5 てふてふさん ご回答をありがとうございます。

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/01/30 22:09
  • №37


    空間を認識するというのは その三次元のひろがりであるとか あるいはそこなる対象の形やそれとの距離感などなどです。

    それを 刺激を受ける以前に 人間は先験的客観――純粋直観――として察知しているという仮説です。

    No.37の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/02/05 05:16

A 回答 (56件中51~56件)

やはり、アウグスティヌス。

すでに。余りに衝迫する文章ですので、先どりされてる不思議な感覚と、同じような思考の軌跡を辿ってるのかな、と錯覚します。先生、有り難うございます。
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この回答へのお礼

ヘーゲルとしては 無限と有限との一体 ですね。どういたしまして。

お礼日時:2022/01/30 22:11

人が距離や空間を認識するには、視覚ならば右目と左目、触覚ならば右手と左手が必要です。


たぶん、左脳と右脳の働きが必要だと思います。
視覚と触覚、両方が必要であるというのは、疑わしいですね。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

E △ ・・・it becomes totally inconsequential for us to believe that, by means of the eyes, we can see bodies also in their thickness.

☆ 視覚の経験のなかったひとは 触覚のたすけがなければ 距離感や形が 初めて見る目の機能だけでは 分からない・・・ということだと思いますよ。

お礼日時:2022/01/30 22:07

改めて、無限=神と有限=人、世界の関わり。

この両者のせめぎあい、あるいは神からの働き 、あるいは包摂 blessings /gracewの観点から、哲学の点検をするのは興味深いですね。
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この回答へのお礼

次の書物からのパクリです。

▼ (R.A.マーカス:『アウグスティヌス神学における歴史と社会』〕〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
Robert A. Markus : Saeculum : history and society in the theology of St. Augustine 1989

△ (アウグスティヌス:『神の国について』 19・17) ~~~~
それゆえに この天の国は地上の国を寄留している間に あらゆる民族からその市民を召し出し あらゆる言語の寄留者の社会を作る。

そして 地の国の平和をもたらして保存している習慣や法律や制度の相違には何ら意を用いず それらのうちの何ものも廃止したり 破壊したりせず むしろそれらは異なる民族においてさまざまではあっても 地上の平和という一つの目的をめざしている限り もしも唯一の最高の真なる神が崇拝されるべきだと教える宗教が阻止されないならば これを保持したり追求したりするのである。
   
 ☆ 《宗教》は 嫌いですので 《信仰》と読み替えます。

それゆえに 天の国すら地上において寄留している間は地上の平和を用い 死すべき人間の本性に属する事物に関しては 敬虔と宗教とを妨害せぬ限り 人間の意志の結合を保護しかつ欲求し 地上の平和を天上の平和にもたらす。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
・・・〔この地上の国の〕政治の領域は相対的となり 制限され〔ている〕。

その制限された領域内でそれは自律している。しかしまさにその自律の中では それ(政治の領域)は天の国の市民の深い関心事である。

この・・・強調は 人間の生の世俗的部分に対するアウグスティヌスの極めて円熟した考察の一部であり 二つの国の間にある無人地帯( no man's land )ではなく それら二つが互いに絡み合い もつれて ただ終末論によってしか分離できない現実におけるそれらの時間的生としての彼の《サエクルム(この時世 saeculum )》に対する理解からみちびかれている。
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お礼日時:2022/01/30 21:30

ヘーゲルですね。

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この回答へのお礼

無限と有限との一体――無限からのハタラキカケによる有限の包摂――でしょうか。


神の国と地上の国とは――人知にとって絶対の隔たりがあるにも関わらず―― 互いにあたかも非武装中立地帯( no man's land )などはないかのごとく国境を見えなくしたようにすでに入り組んでいる。

認識の主体性は このふたつの国の入り組んだ現実世界において発揮されるものと思われます。

お礼日時:2022/01/30 21:00

学者さんがカントを哲学史の観点から、コペルニクス的転回と、カントアーカイブを整理しています。


学者さんたちが、近代哲学の認識論の始まりとして整理するほどに、コペルニクス的な転回と言い切れるものなのでしょうか。
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この回答へのお礼

そうですね。

おそらく――ニーチェのアンチ・クリストなる指向性にも関連するのでしょうが―― 《文字はころし 霊は生かす》と聖書が言っているのに オシへを倫理規範としさらには神へとみちびかれる補助線としてではなく神そのものだと見なす道徳主義派の問題が やり玉に挙がっているということかも知れません。


なぜなら 対象が認識を規定するという天動説は 文字で書かれた聖書のオシへが神であると見なされることに対応すると思われるからです。


この天動説を批判することが どうして地動説へと――つまり 人間〔の知性なる能力として〕の認識に対象は依存するという対極へと――振り子が百八十度回転するのか? と思われます。


人間は 自然や社会という世界なる場にあってそれらと同じ過程をたどっている。同時一体であり 相互に対応している・・・と思われます。

お礼日時:2022/01/30 20:44

先生、一つの読ませる章になってますね。

読みごたえあり、ですね。有り難うございます。
この時空間を捉える直観。人固有の能力なのでしょうか?仮にそうだとして、この固有の能力があるからこそ、人は物語や歴史=his story =history 黙示録に至るまでの神の創造の物語の紡ぎ手、語り手に成れるのでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ この時空間を捉える直観。
☆ いや わたしはカント説にくみしませんね。

天地同時一体起動説です。カントの地動説と同じく 証明するすべは ないですね。

モリヌー問題は カント説に不利だとは思っていますよ。

お礼日時:2022/01/30 20:04
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