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日本史についてです。
平安時代です。財政難に陥った政府は、有力農民を直接指定して土地を耕作させ、そこからの財を財源とする、いわば、「直営方式」に変えて行ったのです。この方式は「班田収授」のルールに反しますが~

とありますが、どういう意味ですか?直営方式とはなんのことでしょうか?

土地の大きさで管理するのではなく、この土地をあなたにさずけるからここを責任もって耕して、納税してください。ということですか?これは班田収授と同じではないのですか?

A 回答 (3件)

> 平安時代です。

財政難に陥った政府は、有力農民を直接指定して土地を耕作させ、そこからの財を財源とする、いわば、「直営方式」に変えて行ったのです。この方式は「班田収授」のルールに反しますが~

これは、どこにあった記載でしょうか。

山川出版の詳説日本史改訂版だと、次のように書かれています。
「8世紀後半から9世紀になると,農民間に貧富の格差が拡大したが,有力農民も貧窮農民もさまざまな手段で負担を逃れようとした。そして戸籍には,兵役・労役・租税を負担する成人男性ではなく女性の登録を増やす偽りの記載(偽籍)が増え,律令の制度は実態とあわなくなった。こうして,手続きの煩雑さもあって班田収授は実施が困難になっていった。
桓武天皇は班田収授を励行させるため, 6年ごとの戸籍作成にあわせて6年1班であった班田の期間を12年(一紀) 1班に改めた。また,公出挙の利息を利率5割から3割に減らし,雑徳の期間を年間60日から30日に半減するなど,負担を軽減して公民たちの維持をめざした。しかし効果はなく, 9世紀には班田が30年, 50年とおこなわれない地域が増えていった。
調・庸などの未進によって中央の国家財政の維持が困難になると,政府は国司・郡司たちの租税徴収に関わる不正・怠慢を取り締まるとともに,823(弘仁14)年には大宰府において公営田を, 879(元慶3)年には畿内に官田(元慶官田)を設けて,有力農民を利用した直営方式を採用して収入をはかるなど,財源の確保につとめた。しかし,やがて中央の各官庁はそれぞれ財源となる諸司田をもち,官人たちも墾田を集めて国家財政に対する依存を弱めた。天皇も勅旨田と呼ぶ田をもち,皇族にも天皇から賜田が与えられた。」
三省堂の詳解日本史Bだと、次の説明もありました。
「一方,没落した百姓らのなかには,課役を逃れるために,浮浪や逃亡を行って富豪百姓の墾田などで働く者や,上級官人や寺院などの下働きになる者などがあらわれ, その数はしだいに増大していった。また,調・庸の負担が女性にはかからなかったことを利用して戸籍の記載を女性として偽る偽籍が行われた。 そのため,調・庸の不足や品質の低下がいちだんと進み,あらたな調・庸の確保を求めざるをえなくなった。
そこで朝廷は, 823(弘仁14)年,大宰府管内の良田1万町の経営を富豪百姓にまかせる方式を採用した(公営田制)。さらに,天皇家の財源確保のための勅旨田や,官人の給与にあてる官田など,国家の財源を確保するための直営方式の田を設け, その経営も富豪百姓にまかせるようになっていった。」

口分田は、一人が耕作できる、一人が耕作しなければならない田を指定する方式で、単純にいえば、耕作できるように開拓してある土地を区切って、ここはお前、こっちはきみ、そっちは○○、と土地に一人一人を耕作者として縛り付ける制度です。 直営田は、広い土地の経営を個人の直営地にして、その経営者に他の農民下僕を使役させるのを認める制度です。 

班田収受も、直営田も、土地の基本所有権は朝廷のものという位置づけなのでしょうが、荘園制や田堵という(実質の土地使用&収益権者)を認める方向になったのが直営の意味でしょう。
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平安時代の班田収授の問題点は2つで


1班田を耕す農民がいない(農民の逃亡などによる)
2配るべき班田がない(公地の不足)
しかも有力農民が寺社や貴族豪族の財力等を借りて「墾田永年私財法」を根拠に土地の私有地化を始めます。(初期荘園)中には「租」すら払わない農民が現れます。そこで政府(具体的には国司)は政府の土地(国衙領)を地元の有力農民に耕作させ必ず「税」を納めさせる約束をさせたわけです。これが、「直営方式」です。そうなると、「班田」ではなく「半永久的に有力農民が耕作できる土地(実際は、隷属農民が耕作した)になってしまいます。「班田収授」が行われなくなるわけです。従って「班田収授」のルールに反するわけです。さらに有力民はそうした土地を有力者に「寄進」して税を免れるようになります。これが寄進地系荘園です。
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班田収授法みたいに、国家が農民の名簿(戸籍)を管理し、農民を使役させて農民から直接税を取る事が不可能になったので、公田(公領)を名という単位に分けて、豪族や富農にその運営を委託して、彼らに税を納めさせたのです。


名義上は国の土地でしたが、年月が流れると委託を受けていた人たちの耕作権が強くなり、実質的な所有者となりました。
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