プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

長州藩はなぜ会津藩を襲う羽目になったのでしょうか?

A 回答 (5件)

長州藩はテロリストの巣窟でした、天皇と京都の街を守る為に、


誰も成り手が無かった、京都奉行所の要職に会津藩が就任しました。
役目柄、当然、テロリストを取り締まります、その先鋒になったのが、
新選組で、京都を火の海にして、天皇を長州に連れ去ろうとしたのを
未然に防いだのが池田屋事件です。
池田屋事件ではテロリスト達が多く、殺されたり捕縛されました、
長州出身者が一番多く居ました、逆恨みから会津藩憎しになったのです。

萩市が会津若松市に友好都市に、成りましょうと数度、持ち掛けても
会津若松市はOKしていません。
    • good
    • 1

新撰組のスポンサーだったことが大きい。


いちおう京都守護職だったけど、途中からは新選組に丸投げモード。

東北征伐の時は、藩の創立時の思想、会津だけは無条件で幕府の側に付くということで、会津側が徹底抗戦の姿勢だったから。
    • good
    • 0

会津藩は徳川側で京都守護職だった。

徳川側の最右翼と反徳川の最右翼が戦いになるのは、当然といえば当然。
    • good
    • 0

会津は徳川なので、薩長連合は会津は敵なので


狙うでしょう。
    • good
    • 0

幕末の京都の話だったら、京都守護職を会津藩主松平容保、所司代を容保の弟が努めていたからでは?


 新撰組も京都守護職配下だったし…。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A