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高一歴史総合

1921.11から1922.2にかけてのワシントン会議において、問題点として教科書に
中国のナショナリズムの犠牲
と書いてありました。
これはこの後の国際情勢にどのような影響を及ぼしましたか?
このあとの中国の動きがどのように繋がるのでしょうか。
教えて下さると助かります(* .ˬ.)‪ෆ‪.*・゚

A 回答 (1件)

中国のナショナリズムは、義和団事件(1900年)→第二辰丸事件(08年)→辛亥革命(11年)→21カ条の要求(15年)→五・四運動(19年)→五・三〇運動(25年)→八・一宣言(35年)を経て発展する。

当初(義和団事件)は対帝国主義ナショナリズムだったものが、段々(21カ条の要求)と対日ナショナリズムへと変容した。日中戦争において、この対日ナショナリズムの高まりが、国共結束を促し、さらに共産党は抗日民族統一戦線を旗印に、中国全土の支持を集める事を可能にした。35年を境に中国全体がナショナリズム一色となる。

国際的にはパリ講和会議で中華民国北京政府が中国代表として認められていたため、1921.11から1922.2にかけてのワシントン会議にも北京政府が代表を送った。しかし北京政府は軍閥が激しく主導権争いをしている最中であり、当時は直隷派が権力を掌握していた。直隷派北京政府は外交総長顔恵慶を団長とする7人の代表団を送り、ヴェルサイユ条約の時に提出した要求を発展させた10項目を提出した。しかし、北京政府の要求はほとんど成果を得られなかった。 中国に関する九カ国条約では中国の主権尊重・領土保全の原則が認められ、中華民国としての国際的地位は認められたといえるが、同時に中国の門戸開放・機会均等の原則のもとに、中国は半植民地的状態に置かれることになった。九国条約は、「機会均等」の名において軍閥支配下の中国を列強の共同管理下におかれた。中国進出をねらう日本を牽制しようとする体制であったが、中国側にとっては、やはり、対日が最大の問題となって、日中戦争へ進んでいく。
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