人生最悪の忘れ物

韓国に旅行し、青磁、白磁の窯元を訪れたのですが、その際ガイドさんが「秀吉が朝鮮人陶磁器芸術家を拉致して行ったため、先端的な陶芸技術が日本に流出した」といった説明をしました。


秀吉が愛したのは整った様式美の青磁や白磁ではなく、生活雑器として使われていた、無骨で安価なすえ器のようなものだったようです。彼はそんな物を法外な高値で買いあさったと呉善花などは書いています。

日本に連れ帰った陶工にしても、当然芸術家レベルの人々ではなく、当時の朝鮮社会で最底辺をなしていた労働者であり、彼らをよい条件で召抱え、窯を築かせ保護育成したというのが真相ではないかと思うのですが・・・

また今なら「強制連行」「拉致」と言われるかもしれませんが、当時、戦利品?として連れ帰ったと言えるのではないでしょうか?現代の尺度で考えるべきではないと思うのですが。

帰国は許されなかったようで、彼らが抱いた望郷の念を思うと悪いことをしたのでは・・・とも考えますが、文化の伝播とはいつでもそんなことから始まり、現地化して花開くと思っています。

陶工が連行されて技術を日本に盗まれたという言い方は不適切なのでは?それに、肉体労働を極端に卑しめる儒教社会で厳しい差別を受けつつ、貧しい暮らしをするより、それなりに職人を待遇してきた日本に生きる方が結果として
良かったのではと考えたりします。

歴史の解釈はいろいろですが、韓国が公式にとっている歴史解釈は何であれ、あまりに手前味噌といった感じを受けます。

朝鮮人陶工に関して意見を聞かせてください。

A 回答 (7件)

こんにちは。



丁度今、「新版雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り」(藤木久志著 朝日新聞社刊)と言う本を読んでいた所ですが、この本に拠ると戦国時代の日本では、戦場になった村々での略奪や奴隷狩りは日常的に行われており、手柄を立てても主君から恩賞を貰える訳ではない雑兵・下人達の重要な収入源になっていたようです。これらの雑兵・下人達も大抵貧困層で、戦場での略奪を当てにして生活していた訳で、戦争には出稼ぎの側面が濃厚にあった訳ですね。
九州などでは日本人の奴隷売買業者が日本人の奴隷をポルトガル船に売り飛ばしたりしていたようです。
これが当時の社会の現実であり常識です。倫理感覚などという物は時代によって全く変わるので、一々それを過去の歴史に当てはめて断罪する事は歴史を理解する上で無意味だと思います。日本にも水戸史観と言うものが有りましたが、あれも相当陳腐ですね。
質問者様の言われる通り、日本に連行された陶工達は相当優遇され且つ尊敬されています。薩摩などでは立派な士分として扱われ、その子孫は西南戦争で西郷軍に参加する等、最も武士らしい武士になってさえいました。彼等は自分の立場に誇りを持っていたのですから、我々日本人も恥じる必要は全く無いと思います。
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この回答へのお礼

薩摩焼きの沈寿官氏ですね。結果とは関係ないかもしれませんが・・・

あまりにも昔のことをしかも現代の感覚で断罪されては
却ってナショナリズムを招く結果になるのではと思います。

この頃の韓国の過去掘り出しはおかしなものだと思っています。故朴大統領の令嬢追い落とし、自らの失政から目をそらさせようというのでしょうかね?

丁寧なご回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/08/31 23:36

#3です。

#5の方が誤解してしまったようなので捕足を(笑)

>復活できる力がなかった

一時的に途絶えたのです。後に職人を育て、頑張って技術は復活してます。

>ドイツのカメラ工業

有名なカール・ツァイス社の話ですよね。私も興味が
あったので調べてみたら・・・。
参考になるサイトがあったのでURLを貼っておきます。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC% …
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この回答へのお礼

私も3番の回答の真意を誤解したかもしれず、すみません。
カールツアイスのURLも貼ってくださり有難うございました。滞欧時に丁度ブランドの帰属をめぐって東と係争中でしたので思い出しました。
いろいろ有難うございました。

お礼日時:2005/09/01 14:13

朝鮮の文化は


「新しい文化が出来ると古い文化は滅亡する。」
朝鮮にロクな文化遺産が無いのは朝鮮自身の文化に対する軽視です。
で。朝鮮の陶工にとっては有り難い話だったんです。
儒教精神で労働者は白い目で見られ、文化交代があれば破壊される。
自分の技術が滅亡するくらいなら自分の技術を必要としてくれる所にいくものです。
朝鮮は秀吉出兵で混乱しました。こんな文化の国で無法地帯が出来れば文化人たちは混乱の中抹殺されます。
ならば日本に行くほうがまだ生存の可能性があったわけです。
むしろ国が文化に対してそんな態度ですから、誰も陶工を守ろうとしなかったので滅んだんですよ。

どちらかというと「亡命」だったんじゃないでしょうか。敵の敵は味方・・・。
もしくは連れて来られたら、釜やら資金やら朝鮮では考えられなかった待遇を受けたので感化したのではないでしょうか。
誰が蔑視された国にかえりたがりますかね?

でも人身売買も含まれてましたよ。なんたって中世ですから。世界で人身売買されてたんですから、文句はないですよ。
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この回答へのお礼

そうですね、中国も朝鮮も新しい王朝が興ったら、前王朝のすべてを否定し、破壊し尽くしたと言われていますものね。だから文化も歴史も分断だらけとか。

黄文雄や呉善花は極右と思われているかもしれませんが、正当なことを言っていると思います。

ご回答有難うございました。

お礼日時:2005/09/01 14:27

秀吉に従って参戦した島津、鍋島などの大名が陶工を大量に連れ帰ったのは事実です。

朝鮮の陶磁器にとって大打撃だったのは間違いありません。
しかし、参考になる例があります。ドイツのカメラ工業です。ソ連は第二次大戦に勝って、戦利品としてドイツのカメラ工場を根こそぎ自国に持ち帰りました。その後はどうでしょうか。ソ連でカメラ工業は全く育たず、ドイツのカメラ工業は力強く復活しました。持ち去られたから全く後が途絶えてしまった、というのは復活できる力がなかった、ということです。
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この回答へのお礼

復活する力がなかったということですか。技術者が払底したということでそうなったのでしょうか?
ドイツのカメラ工業のことは知りませんでした。新しい知識を有難うございます。

お礼日時:2005/08/31 23:20

朝鮮人陶工について。



土をはじめ、材料一式かっさらってきましたが、
かなり質の悪い職人(?)を連れてきたようです。

初期の頃の作品は「全盛期の朝鮮白磁」
よりはるかに劣る「景徳鎮の劣化コピー」
状態でした。

が、数十年もすると飛躍的に進歩して、
やがて「景徳鎮」が日本の「有田焼き」の
コピー商品を作るようになります。

朝鮮通信使の折に朝鮮陶工は帰国を許され
ましたが、自ら望んで帰る者はいませんでした。

ちなみに、日本で最初に磁器を作ったのは、
李参平という朝鮮からの帰化人です。

彼は陶工でもなければ、拉致された人でもなく、
加藤清正に従い、日本に(自らの意思で)
来た人です。

日本では「陶芸界の神様」の扱いですが、
韓国では「裏切り者」かもしれません。
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この回答へのお礼

そうでしたか!李参平はノ・ムヒョンテートンニョン閣下の「親日リスト」入りレベルなのですね。知らなかったことを教えていただき、有難うございました。

お礼日時:2005/08/31 23:17

>「…先端的な陶芸技術が日本に流出した」



どころか、韓国国内の粉青沙器や白磁の技術が一時的に途絶えた!と聞きました。

戦国時代は盗った盗られたは当たり前の時代ですから、むしろ現代の変な愛国心フィルターで歴史的事実を歪めないほうが良いのではないですか?
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この回答へのお礼

「現代の変な愛国心で歴史的事実を歪め」ようというわけではありません。事実は事実でしょうが、ガイドさんが大昔のことを持ち出していかにも「反省しろ」と言わんばかりの言い方だったので、ツアー客から苦情が出たのです。

他の方が書いていらっしゃるように当時は戦勝者の当然の行為だったのですから。

また光復節を戦勝と言って「勝った、勝った」を繰り返したのもちょっと・・・勝ってはいませんから。

やられたほうからするとnemosanの見方になりますね。とりあえず、反対意見を有難うございました。

お礼日時:2005/08/31 23:12

当時の日本には青磁、白磁などの製造技術はありませんでしたから、今日のダイヤモンドのようにあこがれの的で高価に取引されました。



従って秀吉の唐入りはこの技術を手にいれる絶好の機会でした。  この為参加した各大名は争って磁器製造技術者を捜し出して日本に連れ帰ったのです。
そして各地に朝鮮式窯をつくり製造をはじめようとしたのですが、磁器の製造は「土」に依存するので、最適な「土」を求めて各地に拡散していつたのです。

秀吉が愛好したのは高価な陶磁器で、千利休は「茶」の精神から飾りの少ない粗末な茶器を薦め、茶室も狭い構造にし、秀吉の豪華さを非難したと見られて切腹させられました。 従って質問者のごかいではないかと・・・

技術者というものは技術に誇りを持つものです。
創造の喜びはそれを評価されるところにあります。

先端的技術が流出した事は事実で、平和的手段ではなかったのも事実です。
それ以後の経過が良いとか悪いとかは別の問題です。
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この回答へのお礼

そうですね、秀吉は成金趣味だったので、粗末な器を高値で・・・というのは勘違いですね。でも「徳川家康」で読んだような・・・秀吉ではなかったかもしれませんが・・・

事実は事実で、平和的手段でなかったのでしょうが、当時
はそれが当然だったのですよね。

負けるほうが悪いと。ご回答有難うございました。

お礼日時:2005/08/31 23:27

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