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一般に今川勢2万5千対する織田勢は3千だったといいますが
後の石高では今川は駿遠三で約75万石、織田は尾張約56万石と
聞きましたがこれだと今川は全軍でも1万8千マイナス領地守備隊、
織田は1万超ぐらいは動員できたと思われるのですが実際の所どう
なんでしょうか?これぐらいなら地の利のある織田勢が少しがんばって
勝利した、後に信長の天才ぶりをアピールする為に誇張した…
という事なんでしょうか??

A 回答 (2件)

慶長の太閤検地の数字は政治的配慮もあったと思われ、あまり正確ではありません。

    信頼できる最初のものは、吉宗がおこなった享保6年のものです。(1721)それでは駿遠三あわせて94.8万石、人口100.5万人、尾張は57.2万石、人口55.5万人、160年後のものですが、仮にそのまま使うと、今川2.4万人、信長は半国として、7千人になります。     40石で一人の計算ですが、慶長、文禄の役では秀吉は25石で一人の軍役(含人夫)を命じているので変動はあります。   さらに信長は交易港を握っていたので、財力はかなり大きかった筈です。軍勢の多くが専従兵士とおもわれます。他方今川軍の多くは急徴集の農民兵といわれており、私は俗にいわれている程戦力は開いていなかったと考えています。  また勝者は少数で大軍を破ったと誇張するのは、木曾義仲の横田川原の合戦、毛利元就の厳島の合戦でもあきらかです。桶狭間の義元本隊と信長の合戦では兵力の差は小さく、精兵の多かった信長が当然の勝利をおさめたとゆう事ではないですか。
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この回答へのお礼

後世に伝わってる程の戦力差はなかったということですね。
ありがとうございます。

お礼日時:2006/02/06 22:22

参考URLは信長公記についての考察のページです。


なるほどと思うことが多々あります。
ただ、今回は歴史を否定せずに史実どおりの場合の理由を回答してみます。
参考までに1560年当時の信長は尾張(半国)17~25万石所有とされています。昔のことなので正確な石数は分かりませんが20万石とすると精々6000人ぐらいの兵数になります。その6000人の兵士ですが、前線の砦に500人ずつ配置して-1000人で5000人。
弟信行シンパや統一してない尾張の勢力にも軍を配置しておかなければいけないので3000~4000人ぐらいが妥当な線では無いですかね?

今回は信長が1560年には尾張を統一してないということを前提に説明してみました。
参考URLはまた違った解釈をしてるみたいです。

参考URL:http://homepage3.nifty.com/yogokun/okehazama.htm
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この回答へのお礼

なるほど、URLの考え方は面白いですね。参考になりました。
ありがとうございます。

お礼日時:2006/02/06 22:19

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Q桶狭間の戦い 本当にあんな差があったのか?

今川義元4万五千(2万五千説もあり)
織田信長3千
なんて言われて、あらまぁ10倍の勢力と戦って、よく勝ったわね。なんて言われていますが、ちょっと待ってね、後年になりますが、太閤検地によれば

http://daiiti-web.hp.infoseek.co.jp/zatu001.htm

今川:駿河、遠江、三河で、約70万石
織田:尾張、57万石

だいたい、100万石で3万程度の動員力ですから、今川の2万五千は、いっぱいいっぱい、甲駿相三国同盟 万々歳の動員力です。
この時点で、信長の尾張統一戦は半ば(確か)上四郡の統一は終わっていたので30万石で一万くらいの動員力はあったはずです。

10,000ー3,000 七千はどこに行ったんだろう?

あるいは、後世にいかに信長がすごいかと、語るために少々少なめに伝えたのだろうか?

Aベストアンサー

たまたま今日、頼んでいた「愛知県史 資料編11 織豊1」が届きました(参考URL参照)。高いのでボーナス時期でしか購入できません…。この中に「特集 桶狭間の戦い」と題する史料集がありましたので、数字を拾ってみます。

「信長公記」
 ・織田:二千に不足(中島砦を出るとき)
 ・今川:四万五千
「三河物語」
 ・織田:三千
「道家祖看記」
 ・織田:二千あまり
 ・今川:六万余
「定光寺年代記」
 ・今川:一万人被打(討たれた人数)
「享禄以来年代記」
 ・織田:七百余
 ・今川:二万余
「甫庵信長記」
 ・織田:三千(善照寺の東に集結したとき)
 ・今川:四万五千
「足利季世記」
 ・今川:一万余
「家忠日記増補追加」
 ・織田:三千余
 ・今川:四万余

出典によって結構バラツキが大きいです。

織田/今川の大きな格差は、そもそも数字の比較対照が違っていると思います。

今川は総勢。大高城救援に向かった松平元康勢など各地に散らばった全ての兵数。

一方で織田は義元本陣に突入した一部の兵数。鳴海城・大高城を囲んだ丹下・善照寺・中島・鷲津・丸根の砦に陣する兵数は完全に除外されています。

私が思うに、二千・三千といった兵数は信長直轄の精鋭のみの兵数です。弟信勝と争った稲生の戦い(弘治二年・1556)のとき七百だった直轄軍を、永禄三年(1560)には二~三千にまで増強したのだと思います。

参考URL:http://www.pref.aichi.jp/kenshi/information/index.html#02

たまたま今日、頼んでいた「愛知県史 資料編11 織豊1」が届きました(参考URL参照)。高いのでボーナス時期でしか購入できません…。この中に「特集 桶狭間の戦い」と題する史料集がありましたので、数字を拾ってみます。

「信長公記」
 ・織田:二千に不足(中島砦を出るとき)
 ・今川:四万五千
「三河物語」
 ・織田:三千
「道家祖看記」
 ・織田:二千あまり
 ・今川:六万余
「定光寺年代記」
 ・今川:一万人被打(討たれた人数)
「享禄以来年代記」
 ・織田:七百余
 ・...続きを読む

Q戦国大名の最大版図

タイトル通りなのですが、戦国大名の最大版図の石高がどれくらいになったのかが大変興味があります。

関ヶ原後の石高はかなり有名なのですが、その前に最大版図を迎えた武将も多いと思います。

人数が多いですが下に書いてある武将の石高を教えて頂けると幸いです。


・伊達政宗
・北条氏直
・上杉謙信
・上杉景勝
・武田信玄
・徳川家康
・豊臣秀吉
・織田信長
・柴田勝家
・明智光秀
・長宗我部元親
・毛利元就
・毛利輝元
・島津義久


人数が多くて申し訳ありません。

よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせると30万石を越える程度はあったようです。

上杉謙信
越後の半分程度が直接的に支配できているところなんだとは思います。
揚北衆と呼ばれる(本庄、色部、新発田)勢力は北越後の広大な範囲を領地にしていましたが、家臣という感じではなく「協力者」というイメージが近いです。勝手に外交したり人事権も及ばない状態でしたから。
そういう独立勢力を束ねて越後、北関東、越中、能登まで支配している感じです。最大版図は私もどこまで含めて良いのかさっぱりわかりません。
味方と言い切れない独立勢力が大勢いるということです。

信長、秀吉、家康のそれぞれの時代によって最大版図のとらえ方も様々に違っているようには思いますね。

No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせ...続きを読む

Q桶狭間合戦でなぜ今川義元は信長に敗れたのですか?

僕は歴史が苦手(というか全くのど素人)です。ところで、桶狭間合戦は今川勢2万5千、織田勢2千5百の兵力で、なぜ今川義元が敗れたのか理由が分かりません。

そもそも、

(1)織田方は迂回奇襲をしたのですか?それとも正面攻撃をしたのですか?

(2)大将たる今川義元は、鳴海・大高両城付近から敵が掃討された後、沓掛城を出ればよかったのに、なぜ後方に陣取らず、先陣切って最前線に出てしまったのですか?

(3)織田信長は、義元の首を取った毛利新助よりも、簗田政綱を功第一としたそうですが、これでは毛利新助は怒り出してしまわなかったのですか?

Aベストアンサー

> 織田方は迂回奇襲をしたのですか? それとも正面攻撃をしたのですか?

物語を面白くするために『迂回奇襲説』がこれまで有力でした。 しかし、信長の戦い方は終始一貫正面攻撃です。 彼の性格からして、徹底的に情報を収集し、一気に正面攻撃をかけたと思われます。

> 今川義元は、なぜ後方に陣取らず、先陣切って最前線に出てしまったのですか?

今川義元の尾張・三河遠征は旧領を回復するための布石としてのものであった。 既に前哨戦で丸根、鷲津砦を攻略し、当日も織田軍の佐々政次、千秋四朗ら300を短時間で一蹴し終っていた。 目的は半ば達成できた。 義元は戦果に満足し、同時に織田軍を甘く見ていたのかも知れない。 

そこへ昼過ぎから急に豪雨に見舞われ、急遽休憩に入る。 二万五千と言われる部隊も休憩であり、いくつかに分かれて休憩に入り、本体は五千人だった。 しかも、総大将義元の休憩場所を織田軍の梁田政綱に知られてしまう。 この情報を元に信長は作戦を義元の首に絞る。 篠突く雨に乗じて義元本陣に急接近、雨の上がった瞬間正面から撃って出た。 

信長の武将としての先進性を示すもので、近代戦を戦う武将としての高い資質が伺われます。 

> 毛利新助は怒り出してしまわなかったのですか?

従来の戦であれば、敵の対象の首が最高の論功行賞とされた。 しかし、ここに信長の卓越した人間観察と近代武将としての資質の高さが見て取れる。 情報を齎した梁田を最高に評価。 しかし毛利にも応分の褒章は与えています。 彼も信長の類い稀な指導性に信頼しており、評価に不満はなかったと思います。

貴重な情報こそ最高の富である。 これは21世紀の我々にも妥当する超近代的な考え方です。  伝来したばかりの鉄砲採用への先進性と言い、彼の資質の高さには目を見張ります。 まさに天才としか思えません。 

> 織田方は迂回奇襲をしたのですか? それとも正面攻撃をしたのですか?

物語を面白くするために『迂回奇襲説』がこれまで有力でした。 しかし、信長の戦い方は終始一貫正面攻撃です。 彼の性格からして、徹底的に情報を収集し、一気に正面攻撃をかけたと思われます。

> 今川義元は、なぜ後方に陣取らず、先陣切って最前線に出てしまったのですか?

今川義元の尾張・三河遠征は旧領を回復するための布石としてのものであった。 既に前哨戦で丸根、鷲津砦を攻略し、当日も織田軍の佐々政次、千秋四朗ら...続きを読む

Q戦国大名の国力(石高)について

江戸時代の大名については、例えば加賀百万石というふうに石高(表高・実高)によって国力の目安がわかりますよね。ですが、これが太閤検地以前の戦国大名のとなると、全然わかりません。
戦国大名について、あえてその国力を石高で示した資料なりWebサイトをご存知の方がおりましたら、どうかお教え下さい。m(_ _)m

Aベストアンサー

太閤検地以前に、一定の基準で検地が行われてその記録が現代に残っているものはありません。ですので、「太閤検地以前については正確なことは資料がなく不明」と考えるのが妥当です。今後も、正確なことを知ることは不可能でしょう。

ですので、戦国大名の国力を推定しようとすれば、太閤検地のデータを使って判断するのが一番実情に近いであろうことになります。他の方法がない以上、仕方ありません。ただし、太閤検地であっても毛利領や徳川領では、太閤検地で採用された統一基準ではなく、それぞれの大名家のやり方で検地が行われ、そのデータがそのまま豊臣政権に受容されていることに気をつけてください。よって、実際より少なく申告されているはずです。

「戦国大名について、あえてその国力を石高で示した資料なりWebサイト」
とすれば、太閤検地のデータが掲載されている
http://homepage3.nifty.com/ksatake/fkunu1.html
か、その元になった本を見るしかありません。

なお、戦国大名の財力を見る場合に、

「越後の上杉家は、当時の主力繊維である越後青苧の利益、佐渡を抑えたことによる産金の利益を得ていた。その反面、越後でまともに米が取れる地域は今よりかなり狭く、春日山城がある上越地域が中心で、今の新潟市のあたりは氾濫原でしかなかった」

「甲斐と駿河は当時の日本では金がたくさん出る所であり、これらを領した武田家と今川家はその利益を得ていた。北条家が箱根を越えてしょっちゅう駿河に兵を出していたこと、甲斐の南部の金山地帯を領する武田一族の穴山氏の勢力が大きかったのは、産金の影響があると思われる」

「商業が盛んな琵琶湖周辺と淀川流域、京と堺を手中に収めた織田信長は、他の大名とは段違いの経済力を手に入れたはず。尾張の小大名であった時から、商業の盛んな津島を勢力下に置いていた」

「毛利家は、石見銀山を支配下に置いていた。この存在はかなり大きかったらしく、『毛利は日本一の銀持ち』と外人が評した言葉がある」

「九州等で行われた南蛮貿易の輸出品は、主に奴隷が用いられたらしい。人狩りで集めた男女(特に女)の奴隷を輸出して南蛮の高価な品物を輸入すれば、それだけで商売になる」

など、戦国大名の資金源がコメ(農作物)だけではなかったことはさまざまな事実があります。

また、
「研の『図説・戦国地図帳 歴史群像シリーズ』に確か戦国大名の石高がついていました。第1位は陸奥国167万石 第2位武蔵国67万石 第3位尾張国 57万石などでした」
などと言うのは、上記の雑多なデータを寄せ集めただけの可能性が高いですから、眉にツバをつけて読むことです。「江戸時代より前の日本の経済状態は深い霧の中」、これが事実です。

太閤検地以前に、一定の基準で検地が行われてその記録が現代に残っているものはありません。ですので、「太閤検地以前については正確なことは資料がなく不明」と考えるのが妥当です。今後も、正確なことを知ることは不可能でしょう。

ですので、戦国大名の国力を推定しようとすれば、太閤検地のデータを使って判断するのが一番実情に近いであろうことになります。他の方法がない以上、仕方ありません。ただし、太閤検地であっても毛利領や徳川領では、太閤検地で採用された統一基準ではなく、それぞれの大名家...続きを読む

Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Q桶狭間の戦いのあと

織田信長が今川義元を破った桶狭間の戦いは有名です。
しかしそのあとどうなったのでしょうか?
織田軍の軍勢に対して今川軍の方が多勢であったと思われます。
領地に戻って、体勢をとりなおすことはできなかったのでしょうか?
織田軍が今川領にやってきたとき、今川軍は簡単に降参して軍門に下ったのでしょうか?
それとも武士の身分を取り上げられたり、追放されたりしてしまったのでしょうか?

戦国時代の戦には暗黙の了解があって、大将の首をとったら勝敗が決まることになっていたのは本当でしょうか?
そんなことを聞いたことがあります。

Aベストアンサー

確かに今川勢の方が多勢ではありましたが、桶狭間の戦いが起こったのは5月18日で現在の暦では6月になります。
当時の戦国大名というのは兵農分離ができておらず、農民が兵隊として戦っていました。6月は田植えには大事な時期で、その大事な時期にもう一度、大きな戦をする事は今川家の来年の収入に大きく響きます。このため、義元の跡を継いだ今川氏真は敵討ちができなかったのです。

桶狭間の戦いの後、織田軍は今川家の領内には侵入していません。織田家は松平元康と同盟を結び、美濃に侵攻していきます。
織田家と同盟を結んだ元康は名を徳川家康と改め、今川家の領地に攻めかかります。

義元の子・今川氏真は有能な人物で、仇討ちこそできなかったものの家康に寝返った井伊氏や飯尾氏などを粛正していましたが、同盟者であった武田信玄が家康と結び、両方から駿河に攻め込まれると、遠江の掛川城に籠城し、半年近くも家康を相手に奮戦し、今川家の意地を見せています。
氏真の戦いぶりに苦戦した家康は和睦を持ちかけ、氏真は掛川城を開城して妻・蔵春院早川殿の実家である北条氏康の所に移ります。
その後も氏真は駿河を取り戻す工作を行い、後には上洛して織田信長に蹴鞠を披露して、長篠の戦いでは信長、家康に次ぐ大将として出陣しています。
しかし、信長は氏真に駿河を返す約束を破り、氏真は家康のもとで晩年を過ごしました。
氏真の死後、今川家は旗本として幕府に仕え、長男の範以(のりもち)の子・今川直房が高家となり、氏真の二男・高久の家系は品川氏を称しました。

大将の首を取ったとしても、戦いの勝敗が決まるとは限りませんでした。家来達だけでも戦いを続けた例もあります。しかし、多くの場合が大将が討ち死にすると志気が低下したり混乱したりして、総崩れとなり敗北となっています。

確かに今川勢の方が多勢ではありましたが、桶狭間の戦いが起こったのは5月18日で現在の暦では6月になります。
当時の戦国大名というのは兵農分離ができておらず、農民が兵隊として戦っていました。6月は田植えには大事な時期で、その大事な時期にもう一度、大きな戦をする事は今川家の来年の収入に大きく響きます。このため、義元の跡を継いだ今川氏真は敵討ちができなかったのです。

桶狭間の戦いの後、織田軍は今川家の領内には侵入していません。織田家は松平元康と同盟を結び、美濃に侵攻していきま...続きを読む

Q大名の家臣数

大名家の家臣数を知りたいので教えて下さい。
家々によって違うと思いますが、一万石・五万石・十万石・三十万石クラスの大名の大まかな家臣数・陪臣数を知りたいです。宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

大名家の家臣数は時代によりかなり異なります。
戦国期、江戸初期、末期で実態が変わっています。
戦国末期で軍制が定まってきたときは大体一万石につき200名以上の人数、に武器、乗馬、旗などの数が決められていました。
しかし実態は戦闘時、戦闘員の数がものをいうので軍制以上の人数を動員するのが常でしたし陣場借りといってアルバイトのような人員も抱え込みふくらんでいました。

江戸初期にはこの名残で大体一万石につき200名位に落ち着きましたがそれ以上の家臣をかかえる藩もありました。
米沢藩上杉家は謙信以来の家風があり大幅な減封を受けたのですが家臣団のリストラはせず、一律減封で対処したので有名です。
この為米沢藩士の窮乏はひどく、藩財政の建て直しを図った上杉鷹山の事績は有名で、内職が特産になった位です。

太平が続いた江戸中期では経済の発達、実収入の変動も影響しリストラ、給与の削減(借り上げ)などが常態となり軍制は形ばかりで多くは渡り中間など臨時の人数で揃えることが多くなり馬を備える事もままなりませんでした。
従って実数は半分以下位に下がっていたでしょう。
幕末長州攻めなどに動員された時武器鎧も質にいれていたので請け出すのに借金して間に合わせたといいます。
勿論内実の裕福な藩や尚武の念の厚い藩などはこの限りではありません。
それぞれの藩の古文書などに頼るしかないと思います。

大名家の家臣数は時代によりかなり異なります。
戦国期、江戸初期、末期で実態が変わっています。
戦国末期で軍制が定まってきたときは大体一万石につき200名以上の人数、に武器、乗馬、旗などの数が決められていました。
しかし実態は戦闘時、戦闘員の数がものをいうので軍制以上の人数を動員するのが常でしたし陣場借りといってアルバイトのような人員も抱え込みふくらんでいました。

江戸初期にはこの名残で大体一万石につき200名位に落ち着きましたがそれ以上の家臣をかかえる藩もありました。
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Q徳川家康が旧武田家を優遇した理由について

お世話になります。

家康公が甲斐武田家の遺臣を優遇し江戸幕府の中枢として取り立てたことは有名ですが、

これは何故でしょうか?

「わしの人生で3人の大きな師がいた。一つは信長公よ。
なんと恐ろしい方であったろう。だがわしのことを最後まで信頼して下さった。
一つは太閤殿で、わしに天下の何たるかを知らせて下さった。
最後には武田信玄公だ。この方はわしに戦の仕方を教えてくれた」

と隠居してからの言葉にあります。(小説なので脚色あると思いますが)

大久保長安などを今で言う財務大臣に取り立てたり、
八王子千人同心など、地域ぐるみで保護した経緯もあるようです。
また、のちの水戸藩(茨城)に2~3年、武田家を復活させたこともあったようです。

いろいろな説があると思いますが、なぜ家康はそこまでして武田を保護したのでしょうか?

Aベストアンサー

まずは国を治めるうえで、信玄のやり方というものが
かなり家康の手本になったということでしょう。
農業、治水、治山、軍事などあらゆる部分を参考としたはずです。

昔の場合であれば、単なる仕組みややり方を盗めばよいという
ものではなく、大方の場合、それらは人によって伝承されていたと
考えてもよく、武田遺臣を厚く遇することで、
信濃経営を順調に行うことと、それらの技術やしくみを取り込むことに
成功させたといえるのではないでしょうか。

信長のように歯向かったものは殺してしまえより、
秀吉のように昨日の敵もうまく使えば今日の味方という
ようなやり方が家康にはあっていたということもいえるでしょうが。

そういう意味では、家康が特別に武田遺臣を遇したというより、
それなりの扱いでうまく利用・吸収したというのが当たっていると思います。
ただ、信濃を吸収したことで家康の領土は当時では倍になったわけですから、
かなり神経を砕いたとも思えますし。

大久保長安については、彼が特別、異能の才をもっていたからだと思います。

Q兵站軽視、食糧を現地で調達するという帝国陸軍の考えはどこから出てきたの

兵站軽視、食糧を現地で調達するという帝国陸軍の考えはどこから出てきたのでしょうか。
太平洋戦争敗戦まで、その考えに固執したのには、よほど強烈な思想があったのではと、愚考しています。
日清戦争で、早くも「因糧於敵」の方針が示されています。
穿った見方をすれば、陸軍創設を指導した西欧のどこかの国が、わざと軽視するべしと教えたのではないかと、つまらぬ妄想をしています。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 たしかに日本軍は兵站に関しては評判は良くはありませんでしたが、それは程度の差はあってもどこの国の軍隊でもそれなりに問題はありました。それでも「マレー侵攻作戦」に見られるように、兵站準備の周到さによって作戦を成功に導いた例があります。

 兵站自体の陸軍内部の立場は事実として軽んじられていましたが、それでもその兵站畑の中から将官も出ていますし、あの石原莞爾のように兵站に関しての重要度を常に周りに説いていた人物もいます。

 ではなぜ日本の兵站思想の貧しさの好例として常に挙げられる、「インパール」や「ガダルカナル」のような悲劇が起こったのでしょうか。

 一つにはとにかく日本軍が貧しかったということがあります。「日清日露戦争」や「日中戦争」に見られるように、銃剣突撃や白兵戦を常に攻撃の主体においていたのには、この貧しさが大きな原因となっています。

 つまり、攻撃前の十分な準備射撃には膨大な弾薬が必要となりますが、これを用意できなかった(あるいは惜しんだ)ため、結果的に肉弾による最後の決戦に挑んだということです。旧日本陸軍では日清日露戦争当時から、戦闘時における砲弾や銃弾の不足に常に悩まされていましたが、これは製造能力が無かったというよりは、やはり弾を惜しんで一発必中的を推奨する軍内部の精神的な悪癖がありました。

 もうこれは日本の文化といっても良いもので、現在に至るも自衛隊での訓練における弾薬の一人当たりの消費量は、南米の小国であるニカラグアのそれよりもはるかに少ないということも、なんだか笑ってしまうほどの哀しい文化だというしかありませんし、警察や海保なども似たり寄ったりの状況です。

 質問にある「糧が敵に因る」や「現地調達」という思想は元々旧日本軍からでた発想で、外国から強いられた発想ではありません。旧日本陸軍に大きな影響を残し、陸軍参謀本部の生みの親でもあるドイツ軍人メルケル少佐は、つねにその講義の中で兵站や補給の重要性を説いていました。

 旧日本軍が兵站戦でも敗北した理由のもう一つに、戦線での制空権と制海権の喪失があります。いくら補給をしたくとも、途中でその輸送艦船が壊滅させられればどうしようもありません。それでも「ガ島」の例にあるように、「ネズミ輸送」とか「アリ輸送」などのように揶揄されながらも、必死に補給を続けようとしていましたし、「インパール」にしても輜重出身であった第15軍参謀長の小畑少将が、その兵站無視の無謀な作戦に最後まで抵抗をしていました。

 よくアメリカ軍の補給能力の高さが取りざたされますが、それも相対的な戦局の有利があってのことです。そのアメリカでさえ細かな戦闘を取り上げれば、それなりに補給に苦しめられた戦線が多々ありました。ただアメリカのすごいところは、一旦これは必要不可欠なものだと理解したら、官民上げての協力体態勢を即座に構築し、一丸となってことに当たる覚悟の良さです。
 倒的な物量、言い換えれば国内での大量生産体制があってのことでもありますが、アメリカの思考方法の柔軟さは今でも見習うべきところがあります。

 第一次湾岸戦争(イラクを第二次と呼ぶならばですが)で見せた、あの圧倒的なロジスティック能力と物量を見るにつれ、この国はやはり戦争の時になればなるほど生き生きとするんだなとあきれるばかりでした。

 閑話休題 

 今に至る日本軍兵站思想の貧しさを非難する風潮は、たしかに事実として部分的には当たってはいます。旧陸大の輜重科を卒業し輜重将校になったのは、全卒業生の1パーセントにも満たないし、その中から大将までに登りつめたものもいません。それは明治維新の幾多の戦闘において、新政府側がその輜重業務を当時の地域の博徒(つまりはヤクザですね)達に任せていたことが、後々までに輜重に対しての悪いイメージを遺していったという面もあるかもしれません。

 旧日本海軍にしても輸送関係の部署を「ボロ士官の捨て所」とよんで侮蔑していましたので、この前近代的な伝統は根深いものがありました。

 しかし前述したように、軍部内部にも心ある人物はいて兵站に関する重要性を常に説いていましたし、大きな犠牲を払いながらも補給を継続しようとする意思と行動を続けていたことも事実です。しかしあまりにもその数が少なく、兵站に関しての人材不足はやはりどうしようもなく、旧日本軍の大きな欠点でした。

 それに軍内部に大きな発言力を持った、輜重畑出身の高官がいなかったことも日本にとっては不幸なことだったと思います。

 たしかに日本軍は兵站に関しては評判は良くはありませんでしたが、それは程度の差はあってもどこの国の軍隊でもそれなりに問題はありました。それでも「マレー侵攻作戦」に見られるように、兵站準備の周到さによって作戦を成功に導いた例があります。

 兵站自体の陸軍内部の立場は事実として軽んじられていましたが、それでもその兵站畑の中から将官も出ていますし、あの石原莞爾のように兵站に関しての重要度を常に周りに説いていた人物もいます。

 ではなぜ日本の兵站思想の貧しさの好例として常に挙げら...続きを読む

Q長生きしてたら武田信玄は信長に勝てたと思いますか?

全国1億2千万信玄ファンの皆さん、こんにちは。

自宅で資料整理をしていたら、往年の名作「信長の野望 戦国群雄伝」のガイドブックが出て来てしまいました。仕事で忙殺されてるというのに、思わずよみふけりですよ!(嗚咽

生来の里見家フリークな私は、別に武田信玄に対して悪意を抱いているわけではないのですが。
果たして信玄が長篠の戦いまで存命であったなら、信長に勝てたのでしょうか?

どう考えても、無理ゲーと申しますか、馬で柵は突破できないだろ的な考えを抱いてしまいました。

甲斐の虎、戦国最強の呼び声も高い武田信玄のファンの皆さまからの熱いご意見をお待ちしております。
(煽っているわけではありませんので念のため。徹夜明けでテンションが高いだけです)

Aベストアンサー

 他の回答者の方々が指摘していない点について

・織田軍と武田軍の性格の違い
 織田軍は、専業兵なのに対して、武田軍の兵力の主体は農民兵です。

 織田軍は、戦闘を専業とする兵を主体としており、兵糧をはじめとする兵站部門を持っていました。
 それに対して、武田軍は騎馬が多く、他の戦国大名と比べて物資輸送能力は高かったものの、織田軍のような兵站と言うレベルの軍需物資輸送ではありませんでした。特に物資の海上輸送能力は織田軍の方が格段に高かったようです。
 これには、内陸を領地としていた武田家に対して、木曽・揖斐・長良の河川運送と伊勢湾の海上輸送に基礎を置いた津島や熱田の商業都市から始まって、琵琶湖の水運に基礎を置く近江商人の活動域、瀬戸内海運と淀川の水運に基礎を置く商業都市である堺を支配することにより、織田領では平時にも大規模な物品流通が確立しており、徳川領も織田経済圏の東の部分を形成していました。


・武田軍の戦い方について
1、三方ケ原では、武田軍は圧倒的に有利な位置に陣を構えながらも、徳川軍との戦端をなかなか開こうとは  しなかった。
  結局開戦は、午後4時ごろから始まったようだ。
2、武田軍は、有力な領主の連合体によって形成されている。
3、織田軍のような高度の兵站能力は持っていない。

 1・2・3から見て、信玄の場合、「上洛」とは、甲斐・信濃から西に向かって、有力な戦国大名を傘下に収めて領土を拡張して京に至るというやり方であるようだ。

 三方ケ原の戦いでは、信濃を領地化した時と同じように、遠江・三河を領地に編入することが第一目的であって、その結果上洛できる条件が整うなら、実行に移すという考えではなかったかと思う。

 つまり、信玄の上洛は、徳川軍が武田軍の軍門に下り、その戦力が武田軍に加わるということが条件であったのではないかと推測している。
・三方ケ原の戦いでは、両軍の対峙が長く、開戦時間が夕刻と言っても良い頃になった。
・敗戦の程度の割に、徳川軍の武将の死者が少ない。
・三方ケ原の戦いの後、浜松城に対して包囲攻城戦が行われていない。
この様な疑問に対する答えとして、信玄が家康を武田軍に組み込むことを考えていたと見ている。



 

 他の回答者の方々が指摘していない点について

・織田軍と武田軍の性格の違い
 織田軍は、専業兵なのに対して、武田軍の兵力の主体は農民兵です。

 織田軍は、戦闘を専業とする兵を主体としており、兵糧をはじめとする兵站部門を持っていました。
 それに対して、武田軍は騎馬が多く、他の戦国大名と比べて物資輸送能力は高かったものの、織田軍のような兵站と言うレベルの軍需物資輸送ではありませんでした。特に物資の海上輸送能力は織田軍の方が格段に高かったようです。
 これには、内陸を領地としてい...続きを読む


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