時代劇の中で町奉行所門前で六尺棒を持った門番が袴をはいてる事ありますが中で勤めてる同心が袴はけないのになぜ門番が袴をはけてるのですか?時代劇の脚色ですか、それとも門番は中間とかとちがうのですか。

A 回答 (1件)

TVの時代劇なんて 時代考証などしてません



時代劇がその時代を表しているなどと思うことが間違いです
着物を着た現代劇です、風景・家屋敷・通行の様子など現代の状態を少し変えた程度です

詳しいことに興味があるのならば
講談社文庫の「大江戸xx事情」シリーズ(石川英輔著)をお読みになれることです
いかに、歴史で教わったことが実態とかけ離れていたか判ります
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2006/07/21 12:55

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このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q江戸時代の旅の手荷物や衣類・食事などは?

お世話になります。

時代劇を見ると、江戸時代の旅装束・手荷物・衣類・食事は、かなり少ない様子です。即ち、

●笠、合羽程度を振り分け荷物で着たきりスズメ

で、手ぶらのようです。その他には、せいぜい杖くらいです。泊りは宿場なので問題なしとしても、こんな軽装で旅が続けられたのでしょうか?

よって、質問です。

Q1.着物の洗濯はしない?(乾かすひまがない・・・)
Q2.朝晩は宿屋で準備された?(食料事情は問題なし・・・)
Q3.昼ごはんはあった?(平安時代は、朝夕の2回だそうですが・・・)

特に、食料事情は重要で飢饉があるくらいですから、食料が不足している可能性がありますが、お金があれば食べるには困らない状況だったのでしょうか。また、荷物が少ないし、着の身着のままみたいで、不思議です。お遍路くらい荷物が限定されたのでしょうか?

ご回答をよろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

東海道を例にとりましょう。
東海道では、男足で15日位。
女足では20日位。
これを念頭において・・・

>>Q1.着物の洗濯はしない?(乾かすひまがない・・・)

着物は1着。下着は2~3着・・・洗濯は道中の小川や池で行いました。そして、良く絞って油紙に包み持ち歩きました。


>>Q2.朝晩は宿屋で準備された?(食料事情は問題なし・・・)

大概は、旅篭での朝夕の食事でしたが、途中の茶屋などで団子や饅頭などで代用しました。


>>Q3.昼ごはんはあった?(平安時代は、朝夕の2回だそうですが・・・)

昼飯はヌキが多かった。しかし、前述のように茶屋などで団子を食べたり饅頭を食べたり煎餅を食べたりしました。


>>特に、食料事情は重要で飢饉があるくらいですから、食料が不足している可能性がありますが、お金があれば食べるには困らない状況だったのでしょうか。

やはり、「銭」が一番でした。
農村部では飢饉などで困ったことでしょうが、旅篭などでは、米の流通を銭の力で優先的に差し押さえていましたので、旅人にはあまり不自由なく往来できました。


>>また、荷物が少ないし、着の身着のままみたいで、不思議です。お遍路くらい荷物が限定されたのでしょうか?

江戸時代書かれた「道中案内記」によると・・・

着替えの衣類(着物1着・下着2~3着)、脇差(道中差、女は懐剣)、頭巾(または笠、女は市目笠)、三尺手拭、扇子、矢立(筆記用具)、鼻紙、草履(草鞋)、財布、道中記・・・などを小物篭に入れて包み、肩から振り分けにして持参すると良いと書かれてあります。

(よもやま話)
江戸時代中期(文化・文政の頃)になると江戸も繁盛するようになり、小旅行がもてはやされました。
箱根の関所手前までなら、「通行手形」もいらなかったので、自由に往来できました。
日帰りまたは1泊2日くらいの旅としては、
箱根七湯、江ノ島詣、鎌倉見物、金沢八景、大山詣、成田山新勝寺詣、秩父三十三箇所詣、日光東照宮参り、
などが人気でした。

また、関所でも「○○講中」と書かれた白い上着を着て、それらしき旅姿であれば、通行手形は不要でした。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

東海道を例にとりましょう。
東海道では、男足で15日位。
女足では20日位。
これを念頭において・・・

>>Q1.着物の洗濯はしない?(乾かすひまがない・・・)

着物は1着。下着は2~3着・・・洗濯は道中の小川や池で行いました。そして、良く絞って油紙に包み持ち歩きました。


>>Q2.朝晩は宿屋で準備された?(食料事情は問題なし・・・)

大概は、旅篭での朝夕の食事でしたが、途中の茶屋などで団子や饅頭などで代用しました。


>>Q3.昼ごはんはあった...続きを読む

Q町奉行所の与力、同心

町奉行所の与力、同心は御家人なのでしょうか?

Aベストアンサー

町奉行所の与力、同心は幕臣のうちではお目見え以下ですから御家人に属します。
幕府の与力、同心は町奉行所だけではなく、大番、書院番などの番方をはじめ、いろいろな役所にありましたが、ほとんどがお抱え(譜代ではなく、実質的には親子世襲だが、形としては本人一代が雇用される、本人がやめたら縁者が新たに召抱えられる形)でした。
町奉行には与力、同心のほかに内与力というのがありましたが、これは奉行の家臣のなかから町奉行により任命されるものでこちらは幕臣ではありません。
なお、町奉行所の与力、同心は与力は一生与力、同心は一生同心ということで与力、同心の中での役割の移動や席次の上昇はありましたが、閉鎖された世界でした。(これはほかの御家人でも似たようなものではありましたが、他の御家人にはわずかながら転役の可能性はありました。)

Q江戸時代の食事は

江戸時代の食事は

現在と大差はなく

朝・昼・晩の3食だった様です。

ただ昼食に関しては現代よりも

間食という感じで、ちょっとつまむ程度

だったとの事。

私の場合、昼食は同僚と

外食に出かける事が多く

しっかり食べてしまいます。

その場合、夕食の量を少なくする事で

体重のバランスが保たれる様に

なるのでしょうか?ダイエットに挑戦しているのですが

なかなか体重が減りません。

お酒を控える事と、夕食を少なくする事を

考えているのですが、夕食を抜くというのは

危険で無理のあるダイエットでしょうか?

一日2食だけのダイエットもある様ですが・・・

お酒の件と併せて実際はどうなのでしょうか?

教えて下さい。宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

 「江戸時代の食事は現在と大差はなく」というのは私の認識と大きく違い(3食だったのは同じでしょうが)、現在の食事メニューは欧米化(洋食化)が進んで江戸時代よりも高カロリーになっています。とりわけ「昼食は同僚と外食に出かける事が多く」と言われる外食は、どれもこれも高カロリーですので、注意が必要です。外食(1食)で男性なら600~700kcal、女性なら500~600kcalに収まるメニューは、探すのが困難なくらいです。

 その分、夕食の量を少なくしてカロリーバランスを考えるのはよいことだと思いますが、夕食を抜くと朝食と昼食でカロリーをしっかり体に取り込もうとしますから逆効果です。また食べる行為そのものが代謝(食事誘導性代謝)になりエネルギーを消費しますので、こまめに食べるほうがダイエットには向いています。

 お酒ですが、ビールも日本酒も焼酎も、お酒そのものはカロリーはそう多くありません。ビールならロングサイズ1本(500ml、約235kcal、ご飯お茶碗1杯のカロリーとほぼ同じ)、お酒なら1合半(270ml、285kcal)くらいなら、許せます。お酒(ビール)で太りやすいのは、おつまみなど、お酒(ビール)と一緒に食べるもののカロリーが大きいことによります。おつまみはカロリーの少ない、茎わかめ、ちくわ、かまぼこ、冷奴などがお勧めです。ナッツ類(ピーナッツ、アーモンド、くるみ、カシューナッツなど)、ポテトチップス、から揚げなどはとても高カロリーですから、食べないことです。大豆(枝豆)もカロリーが高いほうです。

 食事の量は、朝:4、昼:3、夕:3 が理想的です。


 これらのダイエットを中心にして有酸素運動と筋トレで14kg減量し、BMI:19.7、体脂肪率:11%をキープしているオジサンより

 「江戸時代の食事は現在と大差はなく」というのは私の認識と大きく違い(3食だったのは同じでしょうが)、現在の食事メニューは欧米化(洋食化)が進んで江戸時代よりも高カロリーになっています。とりわけ「昼食は同僚と外食に出かける事が多く」と言われる外食は、どれもこれも高カロリーですので、注意が必要です。外食(1食)で男性なら600~700kcal、女性なら500~600kcalに収まるメニューは、探すのが困難なくらいです。

 その分、夕食の量を少なくしてカロリーバランスを考えるのはよいことだと思い...続きを読む

Q町奉行の与力や同心の採用資格?

以前本で与力や同心は非正規雇用であった、という記述を読みました。

ということは武士の血筋でなくても、町人などでも採用される可能性があったということでしょうか?

採用される場合は試験や面接を受けたり、現在の警察のように身辺調査を受けたりと、明確な採用基準があったりしたのでしょうか?

ご回答よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

まず、「与力」と「同心」の成り立ちからお話しをすると、

与力

(1)徳川家康が天正18年(1590)に小田原征伐での軍功として、豊臣秀吉から関東(江戸)の地を与えられた際、家臣であった板倉勝重が武蔵国新座郡・豊島郡で1,000石を給され、関東代官、江戸町奉行となり、駿府の地から騎馬武者(約10名位)を呼び寄せ、江戸の治安の維持に当たらせたことが最初と言われています。

当然板倉家の家臣として主人の手伝いをしていたと思われますが、その仕事の性格上、勝重が他役に移動した後も請われて与力の仕事を続けましたが、当然身分は板倉家家臣ですから、奉行にとっては板倉家からの与力(寄力)ということになり、与力職を離れた後は板倉家に戻るというのが決まりであったと考えられます。

しかし、時代の流れとともに与力と板倉家の関係が希薄になり次第に幕臣に取り込まれていきました。元が中級の陪臣ですから、当然将軍への目通りや登城ができる資格がありませんでしたので、完全に幕府に取り込まれたのちも慣例として抱え席(後述)の目通り登城資格なしとなりました。

その後、江戸の市民も増加し、悪事を働く者もでましたので、寛永8年(1631)に家光が北町奉行に加賀爪民部少輔忠澄を、南町奉行に堀民部少輔直之を任命し(Wikiでは逆になっているが、それは間違いです)、板倉勝重の代からの与力と、新たに、関ヶ原の戦いなどで足軽大将を務めた者を与力に任命し、南北に各25騎ずつ計50騎を配置しました。

そして、与力は「御家人」と位置づけられましたが、正確には、「御家人」と「旗本」の中間くらいの位置づけでした。

旗本や御家人は、次の3つに分類されました。

★譜代・・・・・・世襲の家禄の家格。
★二半場・・・・役職(役料)を世襲で認められた家格。
★抱え席・・・・一代限りの役職(役料)の家格。


同心

(1)寛永8年(1631)に南北町奉行所が創設された時、与力の配下として関ヶ原の戦いなどで足軽を務めた者の中から選び出し、南北各60人ずつ計120人を任命しました。


>>以前本で与力や同心は非正規雇用であった、という記述を読みました。

「与力」「同心」は、上記の「抱え席」であったため、自分が死亡した時は、原則的には役職を返上しなくてはならなかったのですが、「不浄役人」と呼ばれて、新たにその役に就く者がいなかったため、一旦は役を返上し、改めて、その子などに同じ役が与えられるのが現実でした。

従って、「非正規雇用」という観点からみれば、原則的には一代限りですので、不安定な立場だったと言えるでしょう。


>>ということは武士の血筋でなくても、町人などでも採用される可能性があったということでしょうか?

「与力」や「同心」は常に「不浄役人」と言われ続けてきましたので、家名は残したいが跡継ぎはイヤダと言う者も出てきて、「与力」1,000両、「同心」200両という相場で、町民(商家の次男、三男)などに「御家人株」が売買された例もあります。


>>採用される場合は試験や面接を受けたり、現在の警察のように身辺調査を受けたりと、明確な採用基準があったりしたのでしょうか?

原則的には一代限り、しかし、実態は世襲と同じでしたので、試験も身辺調査もありませんでした。
さらには、嫡子が12~13歳になると、奉行所内での見習いをさせています。


(よもやま話)

(1)町奉行所の歴史
町奉行は、古くは室町時代まで遡ると言われています。また、「徳川実記」などでは、三河で松平氏を名乗っていた頃から、すでに、町奉行の職務が定められていました。しかし、当時は、在所の決まりはなく、町奉行を任命された者が自宅に「お白洲」を作って奉行所としていました。江戸幕府が開幕されても、家康、秀忠のじだいまでは、その形式が続いていました。

(2)町奉行は一人四役?
大岡越前守や遠山の金さんでおなじみの町奉行とは一体どんな役目だったのだろうか。町奉行は旗本から選ばれ、役人の花形であった。仕事は江戸の司法、警察、交通行政、民政の全般にわたった。また、四宿(板橋宿、内藤新宿、品川宿、千住掃部宿)を管理する役目も持っていたので、現在の「東京都知事」、「地方裁判所長」、「警視総監」、「東京駅長」を兼務していたようなものである。

(3)大岡越前守が有名になったわけ
享保16年(1731)、無宿の伝兵衛という者が火付けの罪で、江戸市中引き回しのうえ火焙(あぶ)りの刑を火付盗賊改から言い渡された。しかし、越前守の部下である手付同心が「伝兵衛にはアリバイがある」という噂を聞き、越前守に上申した。そこで、密かに、越前守は証拠集めを指示し、吟味のやりなおしをして無罪を言い渡した。当時は、1審制度だったので、再審まで断行し無罪を言い渡した越前守は、当然、庶民から人気の的となった。

(4)町奉行の管轄
町奉行の管轄は、町地だけに限られていた。つまり、町人だけが対象であった。江戸の街には武家地、寺社地、町地の区別があり、武家地とは大名の上屋敷、下屋敷、(また中屋敷を持っていた大名もいた)、旗本の屋敷などを指し、この地に犯人が逃げ込んだときや神社仏閣地へ逃げ込んだときには、町奉行所はいっさい手が出せなかった。武家地に逃げ込んだときは、目付に犯人の引き渡しを申し入れた。また、神社仏閣へ逃げ込んだときは、寺社奉行に申し入れをして犯人を捕捉してもらった。

(5)奉行所が三つ?
すでに多くの方がご存知の通り、江戸には南北二つの奉行所があった。通常は奉行所のことを「御番所」と言った。南は現在の数寄屋橋内、北は呉服橋内であった。しかし、元禄十五年(1702)に中町奉行所が東京駅八重洲口付近にできた。しかし、この中町奉行所は17年後の享保四年(1719)に北町奉行所に合併させられた。南北二つの奉行所は一ヶ月交代で門を開けて訴えを受け付けた。非番になると大門を閉じていたが、仕事をしなかったわけではない。前月のやり残しの事件処理にあたった。また、両奉行所同士で「内寄会(うちよりあい)」という連絡事項の回覧や相談書を交わしていたが、細部までは協定がされておらず、訴人は有利な扱いをしてくれる御番所へ、その月番を待って願い出ることもあったという。

(6)与力、同心の数
両奉行所にはそれぞれ25騎の与力と120人の同心が配属されていた。そして、与力は南北合わせて50人が一万石の知行地をもらい、200石づつ分けた。そのほかには、諸大名からの付け届けがあった。これは、その藩に属する者が問題を起こしたとき「よろしく頼む」という賄賂の性格があったが、中期以降は公然と奉行所内で受け取るようになっていった。また、馬上で指揮をしたので「騎」と数えるようになった。200石といえばれっきとした「旗本」であったが、罪人を捕らえる手の汚れたという意味で「不浄役人」と呼ばれ、登城もかなわなかった。同心は三十表二人扶持の御家人であった。ちなみに、同心を数える時は「人」。

(7)南北奉行所・・・どっちが偉い?
南町奉行所の方がやや格が上だったのである。遠山の金さんでおなじみの遠山左衛門尉景元は、天保11年(1840)、はじめ北町奉行に任命されたが、数々の手柄をたてたため、上役(老中)の引き立てもあり、嘉永年間(1846~)に南町奉行に「出世」した。しかし、役高はどちらも3000石だった。

(8)定町廻り同心の範囲
次のサイトの「墨線(ぼくせん、黒線とも呼ばれた)」範囲でした。しかし、時代とともに奉行所としての管轄範囲は広がりをみせています。
定町廻り同心の範囲  http://bungetsu.obunko.com/newpage507.html

(9)割合平穏
与力と同心は世襲制で、加増も栄転もまったくなかった。住まいも八丁堀の官舎住まい。「不浄役人」と言われ、一般の旗本や御家人などとの交際も「まれ」だった。縁組も同じ役職者に頼るほかはなかったので、幕末までに、ほとんどの与力、同心は親戚関係になったといわれている。また、凶悪犯罪は、多くて年に数回だったことと「火付盗賊改」がいたので、町奉行所は割合平穏な日々だった。

(10)奉行所付近の火事
奉行所または奉行所近辺で火事があると、髪結床が駆けつけた。「梅床」だとか「亀床」などという印のある提灯を持ち、「駆けつけ、駆けつけ」と大声で叫びながら奉行所に向かった。もちろん、この声を聞くと(現代の救急車みたいなもので)皆、道を空けたという。奉行所の書類は普段から箱に詰めて、麻縄が掛けてあったので、どんどん運び出したという。なぜ、髪結床だったのか?実は、髪結いの仕事は大変な力仕事だったのだ。武士の髪を結うには、髪を束ねて、鬢(びん)付け油を塗って、手首に力を入れて・・・と、かなりの力が必要だった。だから、男の髪結いが多かった。したがって、奉行所の火事には力のある髪結床が選ばれたのだ。では、大工も力仕事ではないか・・・。確かに、しかし、大工は仕事場がバラバラで結束しにくい。そこへいくと、髪結床は店を構えていて一箇所にいてくれたので集合しやすかった。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

まず、「与力」と「同心」の成り立ちからお話しをすると、

与力

(1)徳川家康が天正18年(1590)に小田原征伐での軍功として、豊臣秀吉から関東(江戸)の地を与えられた際、家臣であった板倉勝重が武蔵国新座郡・豊島郡で1,000石を給され、関東代官、江戸町奉行となり、駿府の地から騎馬武者(約10名位)を呼び寄せ、江戸の治安の維持に当たらせたことが最初と言われています。

当然板倉家の家臣として主人の手伝いをしていたと思われますが、その仕事の性格上...続きを読む

Q江戸時代の(上層階級の)食事と脚気治療について

よろしくおねがいします。

昨日、TVで将軍家茂や皇女和宮が脚気で死亡したということが流れていました。

ウィキペディアなどで調べると、江戸病とも言われ、白米を多く食べる都市部で多くおこる病気であったそうですが、この「白米を多く食べる人がなった」という知識は、後年ビタミンB1の欠乏症ということが明らかになってからのものでしょうか? B1という特定物質が原因であることを江戸の人が分からないのは当然として、「病気は栄養不足が原因」、「病人には栄養をとくに考えて食事を与える」という至極当たり前のことは考えつかなかったのでしょうか?


脚気が発症しても、病人に対して、様々な食材を与えるようにすれば、現在の私達とそう変わらない食環境になっていき、死に至ることはないようにも思いますが、相変わらず白米ばかり食べていて、病人に必要な様々な食材のものを食べさせるということは、江戸や明治初期にはなかったのでしょうか?

将軍や皇女ともなれば、おかずも多いと思ってましたからビタミンの不足分はその他のもので補えるのでは?と思ったのですが、欠乏症で死んでしまうほどの食事だったのでしょうか?

よろしくおねがいします。

昨日、TVで将軍家茂や皇女和宮が脚気で死亡したということが流れていました。

ウィキペディアなどで調べると、江戸病とも言われ、白米を多く食べる都市部で多くおこる病気であったそうですが、この「白米を多く食べる人がなった」という知識は、後年ビタミンB1の欠乏症ということが明らかになってからのものでしょうか? B1という特定物質が原因であることを江戸の人が分からないのは当然として、「病気は栄養不足が原因」、「病人には栄養をとくに考えて食事を与える」という至...続きを読む

Aベストアンサー

こんにちは

脚気の原因は、主にVB1不足があげられますが、動物性タンパク質の不足、偏食などもその要因としてあげられますね。

皇族の食事はよくわかりませんが、将軍、大名クラスの食事でも「一汁三菜」が基本で、かなり質素なものでした。
五代将軍綱吉の寵愛をうけて権勢をふるった柳沢吉保にしても、「朝は一汁三菜、夕御前は一汁五菜、御夜食は一汁三菜、朝夕共に随分軽き品被召上候」ということです。

したがって、空腹を満たすためには「米飯」を多く食すことになるわけで(当時の基準が成人1日五合)、元禄期ころから精米食が普及すると、いきおいB1不足になりますね(綱吉も脚気になります)。特に、白米を多く食する上級武士には多かったみたいです。ですから、皇族も同じではなかったかと。

江戸時代には、病気と栄養不足の因果関係はわかっていなかった、と思います。病人に滋養のあるものを与える、という考えはあっても「予防医学」という考えは、なかったのではないでしょうか。

明治に入ってからも軍隊で脚気が流行りますが(兵の20%ちかく)、陸軍では環境激変によるものと考え、「治療」としては転地療法をとっていたようです。
海軍では「食改善」(パン食、米麦混合)を採用し、脚気の激減に成功します。(陸軍は日露戦争で兵の半分が脚気に罹るという事態に到り、ようやく明治38年に米麦混合色を採用)

明治41年に、「臨時脚気病調査会」が鳴り物入りで発足しても、「細菌説」が有力でした。明治43年には、鈴木梅太郎が米糠からVB1を抽出しますが、この不足が脚気の原因として認められたのは、大正14年のことです。

横道にそれすぎた嫌いがありますが、ご参考までに。

こんにちは

脚気の原因は、主にVB1不足があげられますが、動物性タンパク質の不足、偏食などもその要因としてあげられますね。

皇族の食事はよくわかりませんが、将軍、大名クラスの食事でも「一汁三菜」が基本で、かなり質素なものでした。
五代将軍綱吉の寵愛をうけて権勢をふるった柳沢吉保にしても、「朝は一汁三菜、夕御前は一汁五菜、御夜食は一汁三菜、朝夕共に随分軽き品被召上候」ということです。

したがって、空腹を満たすためには「米飯」を多く食すことになるわけで(当時の基準が成人...続きを読む

Q奉行所の同心の給料

漢字はわかりませんが「三十俵二人ぶち」とは当時としては安月給なんでしょうか?

Aベストアンサー

 身分が低かったので,安月給だったと思います。
 30俵2人扶持が現在でいくらになるか計算してみます。
 
 1石=2.5俵ですので,30俵は12石となります。

 2人扶持ですが,男性1人につき1日5合,女性1人につき1日3合として計算しました。
 2人扶持を男女各1人として計算してみます。
 
 男:5合×360日×1人=1800合=1.8石
 女:3合×360日×1人=1080合=1.08合
 
 これらを足しますと,12石+1.8石+1.08石=14.88石となります。
 
 14.88石=37.2俵
 
 1俵=56kgとすると,56kg×37.2俵=2,083.2kg。
 
 米10kgを4,000円と仮定すれば,4,000円/10kg×2,083.2kg=833,280円。

 現在価値に換算すると,年収83万強ということになります。

参考URL:http://homepage1.nifty.com/SEISYO/kyuryo.htm

Q最も、平和だった(失われる命が少なかった)江戸時代の時期っていつらへんですかね?? もし、好きな過

最も、平和だった(失われる命が少なかった)江戸時代の時期っていつらへんですかね??

もし、好きな過去の時代で生きられるなら、と言う問いに対して、江戸時代と答えたのですが、江戸時代には飢饉も有りましたし………

Aベストアンサー

大まかに江戸時代でいいよ。
今の戦後の70年多少の栄枯はあっても大してさはないでしょう。
その程度の差なんです。
控えるとすれば戦後の短い期間、江戸末期の混乱くらいかな。

Q町奉行同心の捕縛姿

時代劇で町奉行所の同心が捕縛で出回るときに日頃はかない袴をはいて出て行くTVがあるのですがこれは脚色ですか?また別のTVでは同心は上半身までの胴衣と下は専用の股引みたいなのをはいて捕縛に出回ってます。いろいろありますが後者が正しいのですか?

Aベストアンサー

町奉行所の同心が捕物出役するときは、鎖帷子、篭手、脛当、半纏、鎖入り鉢巻を着用し、刃引きの長脇差、房つき十手をもつのが正式の服装でした。
捕物には袴ははきません。

Q江戸時代の酒場

時代劇に登場する居酒屋は、現在の蕎麦屋にあるような木製のテーブルや腰掛が出てきますが、ああいうテーブルに腰掛けて食事をするというスタイルは、実際には大正時代のカフェという酒場が出来てからだそうですね。
また、酒樽に腰掛けてカウンターのような席の酒場も見たことがありますが、これも江戸時代には有り得ない光景だったようです。
江戸時代の実際の酒場は、ほとんどが今で言う座卓だったのでしょうか?
また、こうした時代劇の誤りを指摘した本などがあれば教えて頂けると幸いです。宜しくお願いします。

Aベストアンサー

酒を飲むお店はいろいろありますけど、酒屋が店先で酒を飲ませる形、屋台の店、そして居酒屋は「煮売り屋」からの発展系と思います。
この煮売り酒屋ですけど、

http://www.cleanup.co.jp/life/edo/03.shtml



http://homepage3.nifty.com/shokubun/izakaya1.html

を見ても、お盆の上の皿に料理を盛って畳に置いて食べていますから、座卓もなかったと思いますよ。

Q「必殺」シリーズの悪役と言えば、老中・江戸町奉行・江戸町奉行所与力と内

「必殺」シリーズの悪役と言えば、老中・江戸町奉行・江戸町奉行所与力と内与力と同心・勘定奉行・代官・大奥女中・火付盗賊改・乱行大名・悪徳商人などが定番ですが、長崎奉行・京都所司代・京都町奉行・京都六角牢屋敷の雑色・禁裏附・大坂城代・駿府城代・大坂町奉行・日光例幣使・御数寄屋坊主・大目付・御目付・高家(今川氏・織田氏・六角氏など)・参勤交代した旗本=交代寄合(本堂氏・生駒氏・山名氏など)・関東取締出役・御三家・御三卿・五摂家・勅使・武家伝奏・議奏・御三家付家老五家・対馬藩倭館館守・薩摩藩琉球在番奉行・松前藩主・大藩の万石級の大名家臣(徳島藩の稲田氏・薩摩藩の種子島氏・仙台藩の片倉氏・加賀藩の長氏・奥村氏・佐賀藩の諌早氏・高知藩の伊賀氏・広島藩の上田氏・彦根藩の木俣氏など)・寺社奉行・勘定吟味役・甲府勤番支配・山田奉行・飛騨郡代・西国郡代(九州日田)・美濃郡代・奈良奉行・佐渡奉行・御鉄砲百人組頭・大番頭・書院番頭・小姓組番頭・中川番・天文方・阿蘭陀商館長・商館員・清国人商人(唐人)・門跡寺院坊官・公家(土御門氏・日野氏・綾小路氏など)・公家侍・寺侍・大身旗本(横田氏・本多氏・安藤氏など)など、他にも悪役で登場すると面白そうな素材がたくさんあると思うのですが、何故同じ様な悪者ばかり出るのでしょうか?ご回答よろしくお願い致します。

「必殺」シリーズの悪役と言えば、老中・江戸町奉行・江戸町奉行所与力と内与力と同心・勘定奉行・代官・大奥女中・火付盗賊改・乱行大名・悪徳商人などが定番ですが、長崎奉行・京都所司代・京都町奉行・京都六角牢屋敷の雑色・禁裏附・大坂城代・駿府城代・大坂町奉行・日光例幣使・御数寄屋坊主・大目付・御目付・高家(今川氏・織田氏・六角氏など)・参勤交代した旗本=交代寄合(本堂氏・生駒氏・山名氏など)・関東取締出役・御三家・御三卿・五摂家・勅使・武家伝奏・議奏・御三家付家老五家・対馬藩倭館...続きを読む

Aベストアンサー

>何故同じ様な悪者ばかり出るのでしょうか?

単純な理由ですね。
必殺シリーズは、TBS放送から始まりテレビ朝日で終了しました。
つまり、ローカル番組でなく全国放送番組なんです。
ですから、視聴者の誰もが理解できる江戸時代の役所といえば限られるのです。

もし、関西ローカルキー局(朝日・毎日・よみうり・関西・大阪)が関西地方向けに必殺を手がけていれば、京都所司代・大阪城代・京都奉行所・大坂奉行所などが主流になったでしようね。


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