時代劇の中で町奉行所門前で六尺棒を持った門番が袴をはいてる事ありますが中で勤めてる同心が袴はけないのになぜ門番が袴をはけてるのですか?時代劇の脚色ですか、それとも門番は中間とかとちがうのですか。

A 回答 (1件)

TVの時代劇なんて 時代考証などしてません



時代劇がその時代を表しているなどと思うことが間違いです
着物を着た現代劇です、風景・家屋敷・通行の様子など現代の状態を少し変えた程度です

詳しいことに興味があるのならば
講談社文庫の「大江戸xx事情」シリーズ(石川英輔著)をお読みになれることです
いかに、歴史で教わったことが実態とかけ離れていたか判ります
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2006/07/21 12:55

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Q奉行所の同心の給料

漢字はわかりませんが「三十俵二人ぶち」とは当時としては安月給なんでしょうか?

Aベストアンサー

 身分が低かったので,安月給だったと思います。
 30俵2人扶持が現在でいくらになるか計算してみます。
 
 1石=2.5俵ですので,30俵は12石となります。

 2人扶持ですが,男性1人につき1日5合,女性1人につき1日3合として計算しました。
 2人扶持を男女各1人として計算してみます。
 
 男:5合×360日×1人=1800合=1.8石
 女:3合×360日×1人=1080合=1.08合
 
 これらを足しますと,12石+1.8石+1.08石=14.88石となります。
 
 14.88石=37.2俵
 
 1俵=56kgとすると,56kg×37.2俵=2,083.2kg。
 
 米10kgを4,000円と仮定すれば,4,000円/10kg×2,083.2kg=833,280円。

 現在価値に換算すると,年収83万強ということになります。

参考URL:http://homepage1.nifty.com/SEISYO/kyuryo.htm

Q町奉行所の与力、同心

町奉行所の与力、同心は御家人なのでしょうか?

Aベストアンサー

町奉行所の与力、同心は幕臣のうちではお目見え以下ですから御家人に属します。
幕府の与力、同心は町奉行所だけではなく、大番、書院番などの番方をはじめ、いろいろな役所にありましたが、ほとんどがお抱え(譜代ではなく、実質的には親子世襲だが、形としては本人一代が雇用される、本人がやめたら縁者が新たに召抱えられる形)でした。
町奉行には与力、同心のほかに内与力というのがありましたが、これは奉行の家臣のなかから町奉行により任命されるものでこちらは幕臣ではありません。
なお、町奉行所の与力、同心は与力は一生与力、同心は一生同心ということで与力、同心の中での役割の移動や席次の上昇はありましたが、閉鎖された世界でした。(これはほかの御家人でも似たようなものではありましたが、他の御家人にはわずかながら転役の可能性はありました。)

Q町奉行の与力や同心の採用資格?

以前本で与力や同心は非正規雇用であった、という記述を読みました。

ということは武士の血筋でなくても、町人などでも採用される可能性があったということでしょうか?

採用される場合は試験や面接を受けたり、現在の警察のように身辺調査を受けたりと、明確な採用基準があったりしたのでしょうか?

ご回答よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

まず、「与力」と「同心」の成り立ちからお話しをすると、

与力

(1)徳川家康が天正18年(1590)に小田原征伐での軍功として、豊臣秀吉から関東(江戸)の地を与えられた際、家臣であった板倉勝重が武蔵国新座郡・豊島郡で1,000石を給され、関東代官、江戸町奉行となり、駿府の地から騎馬武者(約10名位)を呼び寄せ、江戸の治安の維持に当たらせたことが最初と言われています。

当然板倉家の家臣として主人の手伝いをしていたと思われますが、その仕事の性格上、勝重が他役に移動した後も請われて与力の仕事を続けましたが、当然身分は板倉家家臣ですから、奉行にとっては板倉家からの与力(寄力)ということになり、与力職を離れた後は板倉家に戻るというのが決まりであったと考えられます。

しかし、時代の流れとともに与力と板倉家の関係が希薄になり次第に幕臣に取り込まれていきました。元が中級の陪臣ですから、当然将軍への目通りや登城ができる資格がありませんでしたので、完全に幕府に取り込まれたのちも慣例として抱え席(後述)の目通り登城資格なしとなりました。

その後、江戸の市民も増加し、悪事を働く者もでましたので、寛永8年(1631)に家光が北町奉行に加賀爪民部少輔忠澄を、南町奉行に堀民部少輔直之を任命し(Wikiでは逆になっているが、それは間違いです)、板倉勝重の代からの与力と、新たに、関ヶ原の戦いなどで足軽大将を務めた者を与力に任命し、南北に各25騎ずつ計50騎を配置しました。

そして、与力は「御家人」と位置づけられましたが、正確には、「御家人」と「旗本」の中間くらいの位置づけでした。

旗本や御家人は、次の3つに分類されました。

★譜代・・・・・・世襲の家禄の家格。
★二半場・・・・役職(役料)を世襲で認められた家格。
★抱え席・・・・一代限りの役職(役料)の家格。


同心

(1)寛永8年(1631)に南北町奉行所が創設された時、与力の配下として関ヶ原の戦いなどで足軽を務めた者の中から選び出し、南北各60人ずつ計120人を任命しました。


>>以前本で与力や同心は非正規雇用であった、という記述を読みました。

「与力」「同心」は、上記の「抱え席」であったため、自分が死亡した時は、原則的には役職を返上しなくてはならなかったのですが、「不浄役人」と呼ばれて、新たにその役に就く者がいなかったため、一旦は役を返上し、改めて、その子などに同じ役が与えられるのが現実でした。

従って、「非正規雇用」という観点からみれば、原則的には一代限りですので、不安定な立場だったと言えるでしょう。


>>ということは武士の血筋でなくても、町人などでも採用される可能性があったということでしょうか?

「与力」や「同心」は常に「不浄役人」と言われ続けてきましたので、家名は残したいが跡継ぎはイヤダと言う者も出てきて、「与力」1,000両、「同心」200両という相場で、町民(商家の次男、三男)などに「御家人株」が売買された例もあります。


>>採用される場合は試験や面接を受けたり、現在の警察のように身辺調査を受けたりと、明確な採用基準があったりしたのでしょうか?

原則的には一代限り、しかし、実態は世襲と同じでしたので、試験も身辺調査もありませんでした。
さらには、嫡子が12~13歳になると、奉行所内での見習いをさせています。


(よもやま話)

(1)町奉行所の歴史
町奉行は、古くは室町時代まで遡ると言われています。また、「徳川実記」などでは、三河で松平氏を名乗っていた頃から、すでに、町奉行の職務が定められていました。しかし、当時は、在所の決まりはなく、町奉行を任命された者が自宅に「お白洲」を作って奉行所としていました。江戸幕府が開幕されても、家康、秀忠のじだいまでは、その形式が続いていました。

(2)町奉行は一人四役?
大岡越前守や遠山の金さんでおなじみの町奉行とは一体どんな役目だったのだろうか。町奉行は旗本から選ばれ、役人の花形であった。仕事は江戸の司法、警察、交通行政、民政の全般にわたった。また、四宿(板橋宿、内藤新宿、品川宿、千住掃部宿)を管理する役目も持っていたので、現在の「東京都知事」、「地方裁判所長」、「警視総監」、「東京駅長」を兼務していたようなものである。

(3)大岡越前守が有名になったわけ
享保16年(1731)、無宿の伝兵衛という者が火付けの罪で、江戸市中引き回しのうえ火焙(あぶ)りの刑を火付盗賊改から言い渡された。しかし、越前守の部下である手付同心が「伝兵衛にはアリバイがある」という噂を聞き、越前守に上申した。そこで、密かに、越前守は証拠集めを指示し、吟味のやりなおしをして無罪を言い渡した。当時は、1審制度だったので、再審まで断行し無罪を言い渡した越前守は、当然、庶民から人気の的となった。

(4)町奉行の管轄
町奉行の管轄は、町地だけに限られていた。つまり、町人だけが対象であった。江戸の街には武家地、寺社地、町地の区別があり、武家地とは大名の上屋敷、下屋敷、(また中屋敷を持っていた大名もいた)、旗本の屋敷などを指し、この地に犯人が逃げ込んだときや神社仏閣地へ逃げ込んだときには、町奉行所はいっさい手が出せなかった。武家地に逃げ込んだときは、目付に犯人の引き渡しを申し入れた。また、神社仏閣へ逃げ込んだときは、寺社奉行に申し入れをして犯人を捕捉してもらった。

(5)奉行所が三つ?
すでに多くの方がご存知の通り、江戸には南北二つの奉行所があった。通常は奉行所のことを「御番所」と言った。南は現在の数寄屋橋内、北は呉服橋内であった。しかし、元禄十五年(1702)に中町奉行所が東京駅八重洲口付近にできた。しかし、この中町奉行所は17年後の享保四年(1719)に北町奉行所に合併させられた。南北二つの奉行所は一ヶ月交代で門を開けて訴えを受け付けた。非番になると大門を閉じていたが、仕事をしなかったわけではない。前月のやり残しの事件処理にあたった。また、両奉行所同士で「内寄会(うちよりあい)」という連絡事項の回覧や相談書を交わしていたが、細部までは協定がされておらず、訴人は有利な扱いをしてくれる御番所へ、その月番を待って願い出ることもあったという。

(6)与力、同心の数
両奉行所にはそれぞれ25騎の与力と120人の同心が配属されていた。そして、与力は南北合わせて50人が一万石の知行地をもらい、200石づつ分けた。そのほかには、諸大名からの付け届けがあった。これは、その藩に属する者が問題を起こしたとき「よろしく頼む」という賄賂の性格があったが、中期以降は公然と奉行所内で受け取るようになっていった。また、馬上で指揮をしたので「騎」と数えるようになった。200石といえばれっきとした「旗本」であったが、罪人を捕らえる手の汚れたという意味で「不浄役人」と呼ばれ、登城もかなわなかった。同心は三十表二人扶持の御家人であった。ちなみに、同心を数える時は「人」。

(7)南北奉行所・・・どっちが偉い?
南町奉行所の方がやや格が上だったのである。遠山の金さんでおなじみの遠山左衛門尉景元は、天保11年(1840)、はじめ北町奉行に任命されたが、数々の手柄をたてたため、上役(老中)の引き立てもあり、嘉永年間(1846~)に南町奉行に「出世」した。しかし、役高はどちらも3000石だった。

(8)定町廻り同心の範囲
次のサイトの「墨線(ぼくせん、黒線とも呼ばれた)」範囲でした。しかし、時代とともに奉行所としての管轄範囲は広がりをみせています。
定町廻り同心の範囲  http://bungetsu.obunko.com/newpage507.html

(9)割合平穏
与力と同心は世襲制で、加増も栄転もまったくなかった。住まいも八丁堀の官舎住まい。「不浄役人」と言われ、一般の旗本や御家人などとの交際も「まれ」だった。縁組も同じ役職者に頼るほかはなかったので、幕末までに、ほとんどの与力、同心は親戚関係になったといわれている。また、凶悪犯罪は、多くて年に数回だったことと「火付盗賊改」がいたので、町奉行所は割合平穏な日々だった。

(10)奉行所付近の火事
奉行所または奉行所近辺で火事があると、髪結床が駆けつけた。「梅床」だとか「亀床」などという印のある提灯を持ち、「駆けつけ、駆けつけ」と大声で叫びながら奉行所に向かった。もちろん、この声を聞くと(現代の救急車みたいなもので)皆、道を空けたという。奉行所の書類は普段から箱に詰めて、麻縄が掛けてあったので、どんどん運び出したという。なぜ、髪結床だったのか?実は、髪結いの仕事は大変な力仕事だったのだ。武士の髪を結うには、髪を束ねて、鬢(びん)付け油を塗って、手首に力を入れて・・・と、かなりの力が必要だった。だから、男の髪結いが多かった。したがって、奉行所の火事には力のある髪結床が選ばれたのだ。では、大工も力仕事ではないか・・・。確かに、しかし、大工は仕事場がバラバラで結束しにくい。そこへいくと、髪結床は店を構えていて一箇所にいてくれたので集合しやすかった。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

まず、「与力」と「同心」の成り立ちからお話しをすると、

与力

(1)徳川家康が天正18年(1590)に小田原征伐での軍功として、豊臣秀吉から関東(江戸)の地を与えられた際、家臣であった板倉勝重が武蔵国新座郡・豊島郡で1,000石を給され、関東代官、江戸町奉行となり、駿府の地から騎馬武者(約10名位)を呼び寄せ、江戸の治安の維持に当たらせたことが最初と言われています。

当然板倉家の家臣として主人の手伝いをしていたと思われますが、その仕事の性格上...続きを読む

Q時代劇での町奉行

時代劇で悪役人として藩の町奉行がよく出てくるのですが町奉行は藩としても町人の模範になるような人を選んでるのではないですか?それとも城下はずれの郷町奉行かな?まあお芝居だからうるさく言えないのだけれど。代官は確かに悪い人が多かったとは聞いてますが。

Aベストアンサー

時代劇では町奉行は能吏・良吏、代官は悪役人というイメージが多いですが、実際にはそういうことはありません。
だいたい、町奉行にしろ代官にしろ領民にたいして絶対権限をもっているわけではなく、責任に対して権限は少ないという役職でした。
特に代官にはその傾向が強く、年貢収納のノルマがあり達成できないと自分で補填しなければならないので財産を増やすどころか借金だらけで解任されるという例すらまれではありませんでした。
そのため取り立ても厳しくなりどうしても悪役になりがちでした。
コレに対して町奉行は、城下をおさめる立場で冥加金を集めることはあっても、そのノルマというほどのものはなく、町奉行に就任する藩士は代官に比べれば価格も高いために世評からは代官より有利でした。

Q江戸時代の勘定奉行、寺社奉行

江戸時代に、お奉行様と言った時は、普通に時代劇の警察署のボス兼知事のような方を思い浮かべてしまうのですが、
他の○○奉行、△△奉行というのには、どういうものがありますか?

また、とりあえず思い出せた勘定奉行と寺社奉行の具体的な職務について、
ご存じの方がいらっしゃいましたら、教えてください。

Aベストアンサー

一口に奉行といっても、寺社奉行のような大名が就任する格式の高い役職から、下は牢屋奉行(町奉行配下)や畳奉行など様々だったようです。

重き奉行職としては他に、町奉行・普請奉行・作事奉行・小普請奉行・遠国奉行(伏見奉行・日光奉行・伊勢山田奉行・大坂東町奉行・長崎奉行など)などがあります。
槍奉行・旗奉行といった平時には閑職の奉行職もありました。

勘定奉行は幕府の財務担当で天領の支配・訴訟なども担当していたようです。郡代や代官も勘定奉行支配の職です。
寺社奉行は幕府の寺社の担当で大名が奏者番と兼務して就任。
共に評定所のメンバーです。

参考にならなくてすみません。

参考URL:http://homepage1.nifty.com/kitabatake/edojob.html


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