dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

平安時代末期に源平合戦で平氏(平家)軍が日食が起きるのを知っていたと日食が起きたときに天気予報での気象予報士の日食の雑学話でやっていたのを見ました。
平安末期の日本で日食が起きることが解るほど天文学が進歩していたのですか?
※私は理系ですけど、中世や近代のヨーロッパのガリレオ=ガリレイやコペルニクスなどで発達したもので、日本では室町末期から江戸時代ぐらいに進歩したというイメージが強いです。

A 回答 (2件)

進歩していたでしょう。


中国では古代から天文学が発達していました。とくに日食は「天の警告」とされたため為政者は関心を持っていたようで、古くから予測も行われていました。
(ソースが見つからなかったのですが、昔読んだ本に漢代の日食予測の話が載っていました。予測していない日食が起こると担当官は斬首される決まりだったが、ある者が担当官が予測していない日食を予測した、という話です。)
その成果は飛鳥~奈良時代には日本にももたられ、以降も中国から新しい暦が導入されています。源平の時代には宣明暦という暦が使われていましたが、これにも日食の予測が含まれています。
中国暦 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD% …
宣明暦 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A3%E6%98%8E% …
(宣明暦は日本で823年間も使用されたために誤差が蓄積し、日食予測がずれていた、というのはウソだそうです。実際には精度は劣化していないとか。次の論文の6ページ。
http://th.nao.ac.jp/~tanikawa/eclps/chusei.pdf

実際、次の論文によれば
『中国・日本の古代日食から推測される地球慣性能率の変動』
http://th.nao.ac.jp/~tanikawa/eclps/moment.pdf
”東洋の古代日食記録の解析は多分小倉(1916) が最初であろう. 小倉はOpppolzer の月位置を採用し, 628年–1183 年の期間の日本の日食記録の検証を行い, 数多くの日食・月食について観測事実でなく予測により執筆されていることを指摘している.”
だそうです。

ところで、平家が知っていた理由は、
”~暦の編纂は本来は朝廷が独占して行うものであり、暦の算出法に関する書物は陰陽寮以外には秘書とされていた~”(Wikipedia:宣明暦)からでしょうかね?
    • good
    • 0

メトン周期は紀元前に発見されました。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%88% …

これを知れば太陰暦に
19年に7回閏月を入れれば200年で1日の狂いとなります。

むしろ、
平安時代の暦は夏に雪が降る。
この記述の方に疑問を持っています。

太陰暦では、嫌でも1の日に太陽と月が重なります。(新月)
予測ではありません。
日食ってこの1の日に必ず起きるんです。
(これはちょーラクダ。)^_^;

でも、毎月起きるのではありません。
太陽と月の軌道のズレや観測地がネックになります。

後は、何月の
太陽の角度。
月の角度。
重なる月と言う、観測的な天文学の結果による予測です。
思いの他、簡単にあたしにも出来ちゃうかも?^_^;
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!