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8月15日は終戦記念日と言われています。
しかし、終戦ではなくて「敗戦」と呼ぶべきだ、という意見をよく見かけます。

例えば、このサイトでも
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=336068
のNo.1(#1)でそのようなことが書いてあります。

敗戦でも戦争が終わったことには変わりないのだから、「終戦」でも別に構わないんではないか、と思ってしまいます。

「敗戦」か「終戦」か議論したいのではないです。
「終戦」ではなくて「敗戦」と言うべきだ、という意見の理由はなんでしょうか。


私は考えてみたんですが、根拠はないですが、例えば、
・8月15日は「ポツダム宣言を受け入れる」(つまり「敗戦」)と国民に伝えられた日であって、実際に戦闘行為は終わっていない(?)から
・国際法上戦争が終わったのは8月15日ではない(?)から
・いつか復讐するために、負けたという事実をよく認識すべき(?)だから
・戦争の影響は後々まで続いた。「戦争が終わった」と言うと、戦争に関係することがすべて片付いたような表現になってしまうから
・・・そういうことなのかなあと想像しますが、どうなんでしょう。

私の調べたところでは
http://www4.plala.or.jp/Bamboo/news/0006to/00081 …
ここで書かれている考えは、私の想像した内の最後のものにやや近いようです。しかし、このサイトの「まだ戦争は終わっていない」という考えを、「敗戦」と呼ぶべきだという人みんながしているのかなあ、と疑問に思いました。

A 回答 (7件)

終戦=戦いの終わり


敗戦=戦いに負ける

勝って終っても終戦、負けて終っても終戦です。
敗戦には、厳密に「終わり」という意味合いは含まれません。
それに、開戦に対する言葉が終戦なのですから、「終戦記念日」でよいと思います。

戦後処理の「戦後」というのも、「終戦」に対しての言葉であって、「敗戦」に対しての言葉ではありません。
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この回答へのお礼

私は、敗戦と呼ぶべきだという考え方が知りたいのですが、ご回答からはその考え方を読み取ることができません。

お礼日時:2002/08/18 08:15

終戦だろうと敗戦だろうと、文字のとおり捉え方の違いだけのことでしょう。

特別な意味を持たせる必要はないと思います。客観的な言い方と敗戦国からの言い方の違い程度のことではありませんか。
私に言わせれば8月15日は停戦が発効した日にすぎません。これがそんなに特別な日なのでしょうか。それならユーゴ紛争やパレスチナ紛争はなんど終戦を迎えたことでしょう。
どうであろうと大東亜戦争(この名称は日本政府が閣議決定した正式な名称です。)が終了したのは、サンフランシスコ講和条約発効の昭和27年4月28日です。
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この回答へのお礼

「8月15日を重視すべきなのかそうでないか」という質問ではないので、残念ながら、これは質問に対する答えではないですね。

お礼日時:2002/08/18 07:38

こんにちは。


私は「終戦記念日」は「終戦」で良いと思っていますので
>「終戦」ではなくて「敗戦」と言うべきだ、という意見の理由はなんでしょう
という問いの答えではないかもしれませんが。

「終戦記念日」は「単に戦争は終わった」のではなく「戦争というものを永久に終わらせる」そのきっかけとなった記念日だと思うからです。
武装解除した日本は憲法により戦争という紛争解決手段を放棄しました。
その記念となる日だと思うのです。
敗戦ならば「記念」にする必要は無いですし、敗戦を理由に特別な日を設ける場合はzzz22zzzさんの書かれたように「いつか復讐するために、負けたという事実をよく認識すべき」とする場合が多い様です。
それでは「戦争放棄」の志に会いませんし、連合軍諸国も納得できないはず。
「第二次世界大戦が終わった」のではなく「戦争によって解決する時代が終わった」記念日であると思うのです。
尤も、昨今の情勢をみると「戦争放棄」の理念は崩れていくかのように感じられるのが心苦しいですが・・・。

もちろん、「第二次世界大戦の敗戦」は紛れも無い事実です。
「終戦記念日」は国民として戦争のあり方と是非をよく考え
「敗戦」という認識は日常の政治外交の中できちっと解決して行くべきです。

>「戦争が終わった」と言うと、戦争に関係することがすべて片付いたような表現
「終戦記念日」を「敗戦の日」と名を変えても解決しない事でしょう。
やはり終戦の意味と敗戦の意味をそれぞれ分けて考え行動・言論すべきだと思っています。
一緒にしてしまうから、余計に訳が解らなくなって泥沼に論争になってしまっている様な気がして成りません。

世界総ての国が「終戦記念日」を持てる様な日が来ることを望みたいですね。
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この回答へのお礼

>「終戦記念日」は「単に戦争は終わった」のではなく「戦争というものを永久に終わらせる」そのきっかけとなった記念日だと思うからです。
>武装解除した日本は憲法により戦争という紛争解決手段を放棄しました。

終戦派というのは憲法の戦争放棄の理念を高く評価する考え方ですね。


>敗戦を理由に特別な日を設ける場合はzzz22zzzさんの書かれたように「いつか復讐するために、負けたという事実をよく認識すべき」とする場合が多い様です。

私の想像も違ってはなかったわけですね。


>>「戦争が終わった」と言うと、戦争に関係することがすべて片付いたような表現
>「終戦記念日」を「敗戦の日」と名を変えても解決しない事でしょう。

それはそうですね。

お礼日時:2002/08/18 07:31

ナショナリズムの高揚と言う点で「終戦」より「敗戦」と呼ぼうとしてるのかもしれませんね。



確かに日本を中心に物事を考えると「敗戦」と言うことに成りますが、(勝った訳ではないですしね)
一般的に「終戦」で通っているところに、「敗戦」と言う言い方に変えるべきであると言う方は、言葉の言い方以上の意図を持っておられると思います。
それが、ナショナリズムの高揚なのでしょう。

 ただ、日本では、戦前にナショナリズムが、行きすぎたことから、戦後、ナショナリズムを否定する風潮が強いですが、有る程度のナショナリズムが無いと国は成り立たなくなることも、事実ですので、こう言った問題を考える時は、表面に現れない隠れた意図も含めて個人個人が、冷静に判断する事が肝要ですね。
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この回答へのお礼

>ナショナリズムの高揚と言う点で「終戦」より「敗戦」と呼ぼうとしてるのかもしれませんね。

>確かに日本を中心に物事を考えると「敗戦」と言うことに成りますが、(勝った訳ではないですしね)


端的にいうと、敗戦派はナショナリズムなんですね。

お礼日時:2002/08/18 07:13

例えば付き合っていた彼女と別れた事を友達に言う場合、「ふられた」というのと「別れた」というのと大分イメージが違いますよね。


それと同じで「戦争が終わった」と「戦争に負けた」でもかなり聞いた感じが変わります。
事実から見ると「戦争に負けることで、戦闘行為を止めることができた」が正解だと思います。
従って、「終戦」と言いたい人は、マイナスの過去をできるだけ認めたくない、正確に過去を伝えることよりも外見(強い日本のイメージ)を気にする人々で、「敗戦」と言う人は過去を正確に伝えたい、ストレートで開けっぴろげな人々ではないかと思います。
個人的には「敗戦(ふられた)」と堂々と言える、こだわりのないオープンな姿勢に共感します。
zzz22zzzさんはどうでしょうか?
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この回答へのお礼

>個人的には「敗戦(ふられた)」と堂々と言える、こだわりのないオープンな姿勢に共感します。
>zzz22zzzさんはどうでしょうか?

質問に書いたとおり、議論したくないので、わたくしの考えは述べません。



>事実から見ると「戦争に負けることで、戦闘行為を止めることができた」が正解だと思います。
>従って、「終戦」と言いたい人は、マイナスの過去をできるだけ認めたくない、正確に過去を伝えることよりも外見(強い日本のイメージ)を気にする人々で、「敗戦」と言う人は過去を正確に伝えたい、ストレートで開けっぴろげな人々ではないかと思います。


なるほど、そうすると、終戦派(終戦だと言いたい。)は外見重視・国家としての体裁重視であり、敗戦派は事実重視ということになりますね。

お礼日時:2002/08/18 07:05

詳しく説明できませんが・・・。


悲惨な辛い戦争が終わったという点では終戦。
今まで勝ってきた国が負けた、という点で敗戦。

先日も終戦記念日で例により靖国参拝で騒がれましたが(毎度毎度バカバカしい・・・特に石原都知事・・・以上にバカバカしい。)
「バカなこと聞くんじゃないよ!」の次には、どんな名言をいうのかな?と思ってましたが相変わらず・・・ですね。しかも記帳に都知事 石原慎太郎と書いたみたいだし・・・。

これだけは強くいいたいのですが。
私人として参拝するのは大いに結構です。なんら文句はいいませんが公人としては大問題です。

・・ですが悲しいかな、こんなことは石原さんも小泉総理も自民党の一部の先生方も、どうでもいいのでしょう。参拝して何が悪い!といわんばかりです。
誰も悪いとはいってません。自分にも国のために尊い命をなくされた方への哀悼の気持ちはあります。いや日本の国民のほとんどが多かれ少なかれあると信じたいです。

参拝を危惧するのは靖国神社=国家神道の復活という懸念、心配もあると思います。聞いた話ですが戦後すぐは靖国神社にはA級戦犯は奉られてなかったと。

ましてや国を引っ張る、舵を取るリーダーが、その程度とはお粗末というか勉強不足というか?
呆れる面もありますね。

話がズレるのですが靖国神社は本来、勝者のみを奉るための神社なのにA級戦犯を奉るから問題がありそうです。

・・・また、この話をするとたくさんの反対意見がここに舞い込み議論の場と化し嫌なのですが・・・。

もともと(時代的な経緯はあるにしても、過去の歴史をみても)負け戦をしたことに変わりないです。
どだいアメリカはじめ先進国に日本のような物資、燃料・・・などが乏しい国が戦争することがおかしいのです。では何故したのか?ここが問題です。戦後ある意味でマッカッサ-元帥(アメリカ)は戦中の日本を徹底的に分析・研究(日本人の文化・宗教・天皇制・国民性・・・)して戦後、信教の自由を確立させましたが同時に背景には信教の自由(結構なことですが)をもたらしキリスト教を普及しやすくしました。

事実、日本は戦争当時。国家神道を名乗りありとあらゆる宗教を統一したのです。これこそ狂信的ではないでしょうか?それまでにも戦争に勝ってきた日本は、なにか特別な?という錯覚。驕り高ぶり。盲目に(宗教に。神風が吹く!今思えば、あまりに幼稚で非科学的なことが好きだった印象もうけます。)なっていたに違いありません。実際に協力しないと治安維持法違反。不敬罪で逮捕。投獄された時代です。
今から考えると想像もつきませんが暗黒時代で酷かったと思います。

靖国神社に奉るのではなく国が経営(非経営でも)他に新たにつくり、そこに奉るのが一番いいと思います。

予算がどうのこうの、自民党にその気持ちがなくても前向きに考えるべきこと。早急に実現してもらいたいものです。

仮にに日本が先の大戦で勝っていたら皮肉を込めて、いいますが石原都知事のような傲慢・尊大・ロクすっぽ政教分離もわからぬ(勉強しない)国民が増大していたでしょう。
そのくらい、この国は宗教や政治に無神経・無頓着・無関心な国だとも思ってます。

(自分は天皇制は否定しません。国の象徴としてはいいのではないでしょうか?昭和天皇はちょっと罪かな、とは感じてます)

この問題は、簡単には解決しないでしょうが、いい方向にいく事を願いたいです。

終戦か敗戦か?ですが、その場合場合で使い方が違ってくるのでないでしょうか?
言葉のもつ意味合い如何で、どうにでもとれるので両方を使い分けてかなければいけないのも難しいですが、仕方がない面もありそうです。
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この回答へのお礼

No.2

質問に対する答えは以下の通りですね。

>詳しく説明できませんが・・・。
>悲惨な辛い戦争が終わったという点では終戦。
>今まで勝ってきた国が負けた、という点で敗戦。
>
>終戦か敗戦か?ですが、その場合場合で使い方が違ってくるのでないでしょうか?
>言葉のもつ意味合い如何で、どうにでもとれるので両方を使い分けてかなければいけないのも難しいですが、仕方がない面もありそうです。


 ということは、「敗戦」と言うべきだという人や考え方(敗戦派と呼ぶことにしましょう。)は、「今まで勝ってきた国が負けた」という点を重視する(勝ち負け重視)ということになりますね。
 この考え方に結びやすいのは、「日本は頑張って戦ってきたけれど、力及ばず負けてしまった。しかし、連合国側を相手に戦いをしたのは無茶だったかもしれない。しかし、戦争自体が悪いのではない。」という考えかたですね。

逆に、終戦派は「勝ったって負けたって戦争は戦争に変わりはない」という点を重視するということですね。「悲惨な辛い戦争が終わって国民は軍国主義から解放された」という考え方に結びつきやすい。

お礼日時:2002/08/18 06:54

復讐するためかどうかはともかくとして、負けたことがあったという事実は国民や政府にとって将来の大事な判断材料にもなるものですから、そ

れを糊塗するような姿勢は賢明でないと思います
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この回答へのお礼

【みなさんにお断り】
みなさんそれぞれご自分のお考えを述べているので、点数をつけると私の考えで点数をつけたような印象を与えてしまうと思いました。それで、点数はつけませんでした。
あと、「終戦」と「敗戦」という二つの言葉を対比する関係で、終戦派・敗戦派と私は呼びます。


>負けたことがあったという事実は国民や政府にとって将来の大事な判断材料にもなる

そうですね

お礼日時:2002/08/18 08:29

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