推しミネラルウォーターはありますか?

開拓初期は函館が北海道内で最大の人口を持つ都市で、
その後さらに奥地へと開拓が進んでいったということらしいですが、
拠点都市を造成するエリアとして
降雪量の比較的少ない勇払平野が選ばれずに
そこより降雪量の多い石狩平野が選ばれたのは
何か理由がありますか?

A 回答 (4件)

 降雪量に注目されているということは、おそらく雪が降らない


地方の方かと推察します。シベリアのように雪が一年中溶けない
ところなら話は別ですが、世界的に見ても、降雪が都市の発展を
阻害するという例はほとんどありません。降雪が影響するなら
カナダなんて国づくりできないし、シカゴは大都市になれません。

 また、農業にはむしろある程度降雪のあるほうが適しています。
冬を越す作物は雪に覆われることで零下数度を維持し、冬眠でき
ます。苫小牧や釧路など雪が降らないのに気温だけ下がる土地は、
越冬農業には最悪の条件なのです。ウクライナなど冬小麦の穀倉
地帯では、暖冬で雪の降らない年のほうが収穫量が下がるんです。

 また勇払平野は勇払原野とも呼ばれるように、広大な湿地帯
でもあります。明治の開墾技術では、ここに都市を開くことは
まず不可能だったことでしょう。それより扇状地の下に広がっ
た氾濫原で、開拓の容易な札幌周辺を選ぶのは当然の帰結です。

 あと、勇払原野では水資源が得られません。湿地帯は生活に
必要な水の供給源とはなりませんからね。それに対し大雪山系
から豊富な水が供給される石狩川は水資源に恵まれています。

 開拓初期に拓けた函館は、30 万人都市では異例なほど河川が
貧弱で、それが大規模農業や工業化の妨げにもなっています。
よって将来の開拓を考えた場合、函館よりも札幌周辺に目を
付けるのは当然と言えましょう。
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広大な平野と石狩川という大きな川の存在。

そして当時、南下してきたロシアへの防備(樺太の領有問題が緊迫化していました)に西海岸が重要視されていた事があげられます。

まず、幕臣で蝦夷地探索を五度行った幕臣の近藤重蔵が1806年に「蝦夷地を治めるには石狩筋が一番」と報告を行い、北方警備の具体策も提案しています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%97%A4% …

後に蝦夷地探索を行った松浦武四郎も「札幌に府を置けば石狩は近いうちに大阪のように繁盛し・・・さらに札幌は京のように発展する」と報告しました。

明治政府は、こうしたこれまでの探索の結果から石狩平野に府を置く事にします。特に松浦武四郎の最新の報告が決め手になったようです。

広大な石狩平野の中で実際に札幌に府を置く決定したのは、開拓使主席半官に任命された島義勇との事です。彼は石狩平野に京のような大きな都市を建設する事を夢見ていたと言われます。
その石狩平野の中で幾つか候補地はあったようですが、円山に立って札幌の地を見下ろした時、その京に似た地形を見て「三面山に囲まれて一面開く。天造まさに期すべし・・・」と府を置く事を決めたと言われます。(京の都も、北山、西山、東山と三面を山々に囲まれた盆地にあります)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E7%BE%A9% …

開拓をする為の建設資材や食料、物資の輸送において、小樽港は札幌の外港としての機能を果たし、石狩川も輸送路にでき、生活、農業、工業用水を提供します。
そうした石狩平野の事情に比べれば、勇払平野は一段劣ります。
これは私の私見ですが、勇払平野は石狩平野より面積が小さく、石狩平野より発展が望めません。
また開拓の為の重要な要素である大きな港が当時はありませんでした。
今でこそ苫小牧は港として発展していますが、当時の海岸は遠浅で大型船が入れませんでした。当時の築港技術では水中掘削が難しかったのです。
こうした事も拠点を石狩平野に置く事にした一因ではないかと推測します。
ちなみに分領支配制度によって勇払平野を開拓する事になった土佐藩の開拓団(明治3年)の船は函館に着けています。
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札幌を蝦夷地の拠点都市とするべきと説いたのは、北海道の名付け親としても知られる松浦武四郎だそうです。


松浦武四郎は、幕末期に蝦夷地をくまなく歩き、蝦夷地を国郡に分ける際など、維新後も北海道開拓の当初において非常に重きを置かれた人です。
開拓使の本庁を設置する場所を決定する際にも、意見が重視されたのでしょう。
著書の「西蝦夷記」において、後志から石狩へと峠を越えて入った際に札幌付近を見たくだりで、ここに都市を築くべきだと書かれているそうです。
たぶん、地勢的に見て都市を築くに適した地形であること、当時の石狩川河口である現在の銭函付近(すでに漁港として栄えており、小樽の前身にあたる)まで近いことからだと思われます。
また、松浦武四郎は、未開であった蝦夷地を川に沿って移動した部分が多いため、内陸部奥深くまで遡上できる石狩川が開拓にあたって重要なルートになると考えたのではないかとも推察されます。
ただ、何故に札幌なのかということを明確に示す資料は見当たりません。
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記憶が怪しいので、間違っている場合があります。


江戸時代、江戸幕府とアイヌ民族との戦があり、このご締結された条約によると、
和人(江戸幕府)は、積丹半島以遠に定住しない。
このことに、和人の女は積丹反騰以北に移動しない、ということが含まれていました。
この条約を、「女が積丹半島を超えるとたたりがある」として伝承されました。

積丹反騰を超えた場所、つまり、小樽が明治政府による北海どう開発の拠点港だったのです。
付近の川の奥地に、札幌が都市として築かれたことになります。
条約がなかったらば、太平洋岸から開発が始まったかもしれませんが、日本海側のほうが気温が高く、すみ易い事(気温が高く食料の調達が容易で、開拓民の居住がしやすい)もあります。
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