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こんばんは。帝国陸軍について、教えてください。

書物を読むと、ソ連を仮想敵国としドイツ陸軍に親しみを持つ軍隊の割に、帝国陸軍は機械化・近代化を熱心に進めるというより、精神主義(歩兵の肉弾突撃)に走っていたように書かれていますが、その理由がいまひとつよくわかりません。
ノモンハンの対戦車戦闘の教訓などは、後の戦闘に生かされなかったのでしょうか?
当時は新兵器や新戦術の開発が盛んだったと思いますが、最先端の軍隊と比べるから帝国陸軍の近代化が遅れているように見えたのか、実はそうではなかったのか、当時の日本の国力・工業力の限界だったのか、また精神主義に走る理由(指導?)などがあったのか、どうなのでしょう?

ご教示、ご意見などお願いします。

A 回答 (7件)

>帝国陸軍は、佐官クラスが組織を牛耳ってしまい、その


>人達が手柄を獲ようと、勝手に部隊を動かしていたよう
>に見えます。この佐官クラスが組織を動かす、下克上の
>ような雰囲気は、満州事変以降ではないかと思うのです
>が、なぜこのような雰囲気が出てきたのでしょうね?

まだこの問題については私も充分に調査していないのです
が、先ず1点目は日本陸軍の官僚化ですね。
当時の軍隊というものは戦後の官僚と似たようなもので、
完全な学歴社会となっていました。
陸大卒業時の成績で、その後の出世もほぼ決まっていたよ
うです。
この動きは、特に日露戦争後から顕著になったものと思わ
れます。

2点目は、満州事変の実質的な首謀者である石原莞爾です。
この人物は、私が調べた限り「天才」的な才能を持っていた
と思われますが、彼が上層部を無視しての佐官クラスの独断
による行動、出先機関の暴走といったことを容認する動き
を作り上げました。

満州事変の勃発と勝利、そして事後的に既成事実を本国政府
に認めさせ、政府の方針を転換させたことなどは、ほとんど
が石原莞爾の手腕によるものです。(参考URL参照)

しかも彼は中央の命令を無視し続けたにも関わらず、満州事変
後に栄転します。
これによって、出先機関で騒動を起こしても、結果さえよ
ければ咎められず、かえって出世のきっかけとなる空気が
陸軍内に生じました。

参考URL:http://web.kyoto-inet.or.jp/people/yatsu8hd/Ishi …

この回答への補足

いろいろ考えてみましたが、とりあえず満州事変から日露戦争まで様々な記録を読んでみようと思います。
また、日本陸軍の歴史(長州閥)についても、いろいろ書物を読んでみようと思います。
帝国陸軍の精神主義、近代化の遅れの理由は、自分では、官僚化の弊害=組織の論理が全てという集団に成長した、というところかなと思います。(あくまで現地点でのものですが)
どうも、ありがとうございました。

補足日時:2002/12/08 22:35
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。お礼がおそくなりすみません。

今回の質問は、何人もの詳しい方に回答をいただき、とても嬉しいです。(^^)
すでに的確な回答を、たくさんいただいていると思いますが、回答に対する私の整理が進んでいません。(特にNo.5の方の回答に対しては、「なぜなぜ君」状態になってしまいました)
陸軍1番、国家が2番というような組織集団は、「官僚化」の極みといえますね。それと石原閣下(帝国陸軍風)ですね。型破りの人物ということは知っていますが、詳しいことはよく知りませんので、勉強してみようと思います。
(日中戦争以降は、天才のマネをした秀才たちに、国家が悩まされるといったところですか?)

いろいろ調べてみたいので、今回の質問の締め切りは、12月8日(偶然ですが、「新高山ノボレ一二〇八」です)22:00頃にしようと思います。

余談:最近の日経新聞に、2・26事件時の首相秘書官 迫水氏の証言テープが25日に公開されるという記事が載っていました。
その中に「陸軍内の「皇道派」「統制派」というのは、後世の歴史家が分類したもので、理論ではなく心情的なものやライバル関係からたまたま一つの集団を組んだ」というような文章があったと思います。とても興味深いです。

お礼日時:2002/11/27 06:01

もうこれは回答になっていないので、回答のお礼に対する「お礼」のつもりです。




アメリカが日本と開戦したがっていたというのは、アメリカの指導者が自国民の支持を受けて、ヨーロッパの大戦に介入したかったからだと思います。


まさにその通りだと思います。私もその点を書こうと思いましたが量が多くなるので止めました。でも書く必要はなかったみたいですね^^;




精神主義について、私が一番問題があったと思っているのは、(すみません、話がすれ違ってなければいいのですが)やむを得ず参戦した戦争について、どのように終わらせるかの議論を「精神主義」が邪魔していたのではないか?ということなのです。


その点は確かにあります。反論の余地はないほどです。しかし、私が許せないのは、マスコミなどがそういったことを「日本の指導者が戦場で兵隊を戦わせておいて身の保身をはかった」という論理の証拠として精神主義的な面を兵隊に押し付けた、というような論法を使っていることです。確かにそう見えなくもありませんが、だからこそ余計に許せないんです。当時の日本の指導者には一部の例外を除いて国を思わない人などいなかっただろうことは容易に想像できます。



山本五十六も講和の可能性を求めて焦り、ミッドウェー海戦で大敗北しました。
戦術で失敗したとしても、講和を求めた作戦の目的自体は評価できると思います。
(負けた理由は、奢りが一番かもしれませんが)


負けた理由は奢りでしょうか?私とは考えがちがいますねぇ・・・。書くと長くなるので書きませんが・・。



doyaさんの回答を見て少し感動しました。あなたのような日本人もいるのだなぁ・・と一人で考えてました(笑)。ありがとうございました。
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この回答へのお礼

またまた回答ありがとうございます。(^^)

特攻機が沈めた空母を調べてみました。とりあえず、3件ありました。
●護衛空母「セント・ロー」(レイテ沖海戦)
●カサブランカ級補助空母(護衛空母)「オマニ・ベイ」(フィリピン沖)
●護衛空母「ビスマーク・シー」(沖縄方面:菊水作戦)
正規空母ではありませんが、確かに3隻沈んでいました。
私の間違いを訂正し、おわびします。

沈没した空母を調べている時に、太平洋戦争仮想戦記物のサイトを多数ヒットしました。日本軍が都合よく連戦連勝というこれらの物語は、好きになれません。見た人が「ひょっとして、勝てたかも…」と安易に思うような気がしますし、「教えて!goo」でも過去にそのような質問がありました。(余談ですが)

今回の質問をする前に、「教えて!goo」で「帝国陸軍」などの言葉で過去の質問を検索してみましたが、検索で出た太平洋戦争に関する質問は、意見が合わない人達同士で攻撃しあっているケースが、かなりありました。そのためか、私はamarudaさんが、冷静にご自身の回答をなさっているのが強く印象に残りました。
(こちらこそ、ありがとうございます)
今後、私の質問、回答などでお世話になる時がありましたら、どうぞよろしくお願いします。(違うテーマでも、意見交換をしてみたいですね)

お礼日時:2002/11/24 00:50

これは回答にはなっていないので蛇足的なものですが、どうしても書きたかったので書かせてください。




当時の冷酷かつ無常で厳しい国際社会が日本に国家防衛たらしめるた方法が、「精神主義」→最後はカミカゼだとすると、いたましい結果ですね。国家総動員の戦争ですから、職業軍人だけでなく(むしろ少数か)兵隊や予備学生まで特攻しています。(特攻で空母は沈んでいないと思いますが?)


特攻で空母は何隻か沈んでます。大破した空母はアメリカ本国かハワイに修理のため帰るので実際に特攻によって当時の日本にしてはかなりの戦力を削減することに成功したといえると思います。




私は、精神主義で勝てる近代戦はないと思います。どうにか、太平洋戦争を避ける方法はなかったのかなと考えてしまいます。

太平洋戦争を避ける方法はありませんでした。なぜなら、アメリカこそ日本を戦争に走らせた張本人なのですから。アメリカがワシントン・ロンドン条約で日英同盟を解消させ、日本の戦力比を低く設定したのはなぜか。なぜアメリカは石油輸出を禁止したのか。受け入れられるはずもないハル・ノートをあえてつき付けたのはなぜか。ルーズベルトはなぜ連合艦隊が真珠湾を攻撃するためにヒトカップ湾に集結しているのを知りつつなにもしなかったのか。  これすべて日本と戦争するためです。日本は余りにも圧倒的な力を持つアメリカと戦争したくなかった。だからどうにかして戦争しないように和平交渉をアメリカとしようとしていました。しかし、それをはねつけたのはアメリカです。アメリカは日本に対して「服従してアメリカにしたがう」か「戦争するか」の選択しかさせないように日本の周りの環境を設定したわけです。もちろん、日本が「戦争」という選択をしても10倍以上の国力を持つアメリカが勝つ自信があるからそういった選択をせまるわけです。


かの山本五十六もいずれアメリカに服従せねばならないなら、戦うだけ戦って国家の意地を見せてから屈したほうがご先祖に顔向けできると述べています。日本は「アメリカに戦わずして降伏・服従」か「戦争して降伏・服従」のどちらかしかなかったのです。つまりアメリカに侵略されるという選択肢しかとり得ないわけです。当時の日本としてはもちろん「戦争」してわずなかな国家存続の望みをかけるしかなかったと私は思います。戦争するからには勝たねばならない。どんな犠牲を払ってでも。それが数百万の犠牲で国家の独立が保てるなら、やむを得ずそうしたということです。


doyaさんは「精神主義」の結果が神風のようだと痛ましいと書いておられました。確かに痛ましいです。しかし、痛ましいのは神風というよりもそうさせた国際情勢、否。そういった国際情勢を設定したアメリカ合衆国の戦略が痛ましいのです。
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございました。(本当にありがとうございます)

日本が沈めた空母については、「ホーネット」(特攻ではなく、通常の航空攻撃)以降無いと思っていましたので、一度調べてみようと思います。
(正規空母以外では、あるかも知れませんね)

アメリカが日本と開戦したがっていたというのは、アメリカの指導者が自国民の支持を受けて、ヨーロッパの大戦に介入したかったからだと思います。
(アメリカが日本と戦争をして勝つ自信があったというのは、同感です。でもアメリカは戦争全体を通じて、あれだけの被害を受けるとは思ってもみなかったでしょうね)

精神主義について、私が一番問題があったと思っているのは、(すみません、話がすれ違ってなければいいのですが)やむを得ず参戦した戦争について、どのように終わらせるかの議論を「精神主義」が邪魔していたのではないか?ということなのです。貧しい日本には、「精神主義」しかないとしても、「精神主義」に合わせて、一億総玉砕する必要はありません。戦争で一番難しいのは、終わらせ方ではないでしょうか。きれいごとですが、「特攻」に走る前に戦争をなんとか終わらせることはできなかったのかな、と考えてしまいます。
(無条件降伏にこだわった米英も当然問題です。戦争のやりすぎです)
山本五十六も講和の可能性を求めて焦り、ミッドウェー海戦で大敗北しました。
戦術で失敗したとしても、講和を求めた作戦の目的自体は評価できると思います。
(負けた理由は、奢りが一番かもしれませんが)

日本が間違っているなどという意味ではなく、当時の日本について反省する内容(今後は自国がそんな失敗をしないように自分達で反省する)として帝国陸軍の「精神主義」については、考える必要があると思います。
(もう、こんな時間ですねぇ。この回答は削除されないで残して欲しいのですが…)

お礼日時:2002/11/23 04:22

司馬遼太郎氏がこのような事を書いてます。


「防御鋼鈑の薄さは大和魂で補う。それに薄ければ機動力もある。砲の力が弱いと言うが、敵の歩兵や砲兵には有効ではないか。実際は敵の歩兵や砲兵を敵の戦車が守っている。その戦車をつぶす為には戦車が要る、という近代戦の構造を全く知らなかったか、知らないふりをしていた。戦車出身の参謀本部の幹部は一人もいなかったから、知らなかったというのが本当らしい。」

それはさておき。。。

帝国陸軍の戦車隊は大正14年に創設されましたが、当時の陸軍はフランスに学んでいた為、その伝統と考え方を模倣し、「戦車とは歩兵を支援・協調し、その主任務は敵の機関銃撲滅である」と考えていたようです。陸軍はその考えを固執しつづけます。
大戦中の主力戦車である八九式中戦車は、まさにこの考えに基づく歩兵直協戦車で、敵戦車の装甲を打ちぬけない57ミリ短砲身砲と、速射砲には太刀打ちできない17ミリの薄い装甲をもつ、諸外国に比べ余りに非力な戦車でした。
しかし、当時日本国内の狭い軌道の鉄道輸送や国内にあった揚重用のクレーンの性能などを考えると、この大きさ重さが限界だったようです。
また、当時戦車はトン当たり一万円といわれ、八九式だと約九万円。それに対し対戦車砲の砲弾は一発15円。「9万円の戦車と15円の戦車を倒す砲弾のどちらをとるか」といった議論が当時しきりにされていたようです。戦時中の貧しい日本がどちらを選択するかは明らかです。

ノモンハンの教訓については、事件後に陸軍内で「ノモンハン事件研究委員会」が設立されて原因究明が行われたようですが、事件を拡大させた張本人達(服部、辻)がその後参謀本部に栄転したことをみれば、委員会が何の成果も挙げなかったのが分かると思います。
そもそも、ノモンハン事件自体前年の張鼓峰事件(関東軍がソ連機械化部隊に思うがままに蹂躙された)の教訓を全く生かしていないので、「過去の失敗は忘れてしまおう」と言う体質だったのではないかと思いたくなります。

精神主義について。
当時の陸軍内では、積極的な意見は歓迎され、消極的な意見は侮蔑される体質がありました。当然、作戦参謀会議などでも同様で、たとえ無謀であっても積極的な作戦が歓迎され、慎重論は卑怯者呼ばわりされます。この体質は人事面でも反映され、積極論者は作戦が失敗しても処罰は大目に見られることが多かったのに対し、慎重論者が失敗すると指揮官・参謀クラスの場合は予備役へ左遷(つまりクビ)、連隊長クラスだと自決を迫られるのが普通でした。従っておのずと陸軍士官は積極論者が大勢を占め、作戦もより無謀なものが増えてくる事となります。
無謀な作戦を、士気の低下をさせずに兵士達に遂行させるには、大和魂など精神主義に走りらざるを得なかったのではないでしょうか。。。

司馬遼太郎氏がこんな事を書いてます。
防御鋼鈑の薄さは大和魂で補う。それに薄ければ機動力もある。砲の力が弱いと言うが、敵の歩兵や砲兵には有効ではないか。実際は敵の歩兵や砲兵を敵の戦車が守っている。その戦車をつぶす為には戦車が要る、という近代戦の構造を全く知らなかったか、知らないふりをしていた。戦車出身の参謀本部の幹部は一人もいなかったから、知らなかったというのが本当らしい。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

戦車については、今でも74式などは橋梁の荷重制限で他国の主力戦車より重量が軽めでしたね。当時からいろいろな制約があったのですね。

「知らなかったというのが本当らしい」というのは、よくわかります。
しかし、過去の失敗は忘れる、無謀な積極論を補うために精神主義へ走る、このような組織は、いずれ大失敗して滅亡すると思います。(回答にケチをつけているのでは、ありません)
なぜ、このような体質になってしまったのでしょうか?(過去の戦争の勝利による自信過剰?)
維新前後は、欧米から最新式の小銃を購入していた日本人が、急に「知らなかった」状態になってしまうのが、不思議です。(私もちょっとこだわり過ぎですが)
戦争が国家総力戦になり、国に実力がないことが露呈してきたのでしょうか。

ところで、司馬遼太郎氏の一文は、なんの書物に書いてあるのでしょう?
(たぶん、初めて聞いたと思います)

お礼日時:2002/11/23 03:54

doyaさんの意見に一部賛成です。

というのは、明治から昭和初期にかけての国際情勢は非常に厳しく、「富国強兵」といっても国家そのものがなかなか豊かになることができませんでした。つまり経済もあまりうまくいかなかったので軍事にかけることのできる資金も他の列強から比べるとわずかなものでした。イギリスや大戦後のアメリカのように輸入より輸出の方が多い期間が何年も持続すれば国家財政にも余裕が出てきて軍備に予算を回せます。しかし、当時の日本は貿易が赤字でした。当然財政もやっとのことでやりくりしていました。陸軍も海軍も資金が欲しくてたまりませんが、そういった状況なので軍を近代化したくても先立つものは「金」だったわけです。金がなければ外国製の新型兵器も高くて買えませんし、自国で開発するのでしたら、それ以上のお金が必要となるからです。


こういった状況ですから、せめて「強化」するとすれば「精神」面しかなかったのだと思います。その効果は抜群でした。特に大戦末期の特攻隊で多数の米空母を大破・撃沈しました。これは当時の日本の力では上げられるはずのない戦果を上げました。アメリカの兵隊は体当たりしてでも特攻機を止めようとする者はいなかったのですから、日本の団結力がいかに優れていたかが分かります。

それは軍が近代化できるならそれに越したことはありませんし、かつての陸・海軍はそれをこそ望んでやまなかったのですが、それができないということになれば、国力に頼らずに戦果を上げられる方法を探すしかないということです。そうしてまで軍が戦果を上げようとするのは、決して人命を軽視しているのではなく、当時の冷酷かつ無常で厳しい国際社会が日本に国家防衛たらしめたという話だと私は思っています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

一部賛成というのは、「日本の国力・工業力の限界」という部分でしょうか?
他の方の回答にもありますが、実際その理由もあるようですね。

当時の冷酷かつ無常で厳しい国際社会が日本に国家防衛たらしめるた方法が、「精神主義」→最後はカミカゼだとすると、いたましい結果ですね。国家総動員の戦争ですから、職業軍人だけでなく(むしろ少数か)兵隊や予備学生まで特攻しています。(特攻で空母は沈んでいないと思いますが?)
最後は帝国陸軍の精神主義が、日本全体を覆ってしまったということですね。(この点は同感です)

私は、精神主義で勝てる近代戦はないと思います。どうにか、太平洋戦争を避ける方法はなかったのかなと考えてしまいます。
(いろいろな意見を聞きたいですね)

お礼日時:2002/11/23 01:47

ソ連の機械化部隊の情報にたいして陸軍の将軍が「いかにソ連軍戦車が多いと言ってもわが軍の歩兵の数にはおよぶまい」と答えたそうな。


明日のみえない幹部ってのは困ったもんです。
でも世界中どの国でも陸軍てのは比較的保守的みたいですよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

そんな将軍はイヤですね。兵隊達がかわいそうですよ…。
Nо.1の方のお勧めの本でも出てくると思うのですけど、ノモンハンではソ連の戦車に対して、日本兵は火炎瓶で戦ったと聞いていますので。

軍隊というのは、実際保守的らしいですね。アメリカ軍も、けっこう保守的で官僚的なところもあるらしいです。

お礼日時:2002/11/23 01:19

わからなくて当然です。


ノモンハン事件の段階で、既に日本陸軍軍人の官僚化によ
る弊害が蔓延し、理性的・合理的な判断が下せる状態では
なかったのです。
後世の私たちが冷静に分析すればするほど、不合理な彼ら
の行動ばかりが浮き彫りになります。

ifの歴史になりますが、ノモンハン事件の真相究明を徹底的
にやっていたとしたら、関東軍参謀たちの暴走・いたずら
な精神主義による弊害が明らかになっていたでしょうが、
そうすることもできずに日中戦争拡大から太平洋戦争へと
破滅の道を歩み続けたのです。

『ノモンハンの夏』(半藤一利/文春文庫)を一読して下さい。
読んでもわからなければ、追加で回答します。

参考URLに『ノモンハンの夏』のレビューのHPを紹介します。


ちなみに、評論家の長谷川慶太郎氏の本で知ったのですが、
第二次世界大戦で日米の明暗を分けたのは、第一次世界大戦
でヨーロッパ戦線に派兵したかどうかにあるそうです。
第一次世界大戦でヨーロッパに軍隊を派遣したアメリカは、
戦車・飛行機・毒ガスなどの近代兵器の威力に驚き、以後
急速度で自国の陸軍の改革を成し遂げます。(どうもこれ
を実際にやったのはマッカーサーみたいです)

しかし日本は第一次世界大戦で連合国側に参戦するものの、
イギリスのヨーロッパへの派兵要求を断ったため、機械化
された軍隊の戦争体験をすることができませんでした。ゆ
えに陸軍の改革はほとんど行われず、日露戦争の頃と大差
のない装備で、満州事変以降の戦争を戦い、やがて太平洋
戦争で高度に機械化されたアメリカ軍に圧倒される結果と
なります。

参考URL:http://www.j-cave.com/03bunko/bk60.html
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この回答へのお礼

丁寧な回答をありがとうございました。

帝国陸軍は、佐官クラスが組織を牛耳ってしまい、その人達が手柄を獲ようと、勝手に部隊を動かしていたように見えます。この佐官クラスが組織を動かす、下克上のような雰囲気は、満州事変以降ではないかと思うのですが、なぜこのような雰囲気が出てきたのでしょうね?
参謀達はみんな勲章が欲しかったのか、それとも他に何か利権でもあったのでしょうか?(ムネオちゃんのような?)
参考URLのように、参謀たちは眼がくらんだエリートという気もしますが、この人達がなぜ合理的な判断や状況分析が出来なかったのか、とても疑問に思っていました。
理由は、回答のように官僚化による腐敗が進んだためかもしれません。
陸軍内部の出世競争は、周りを見る余裕がなくなるほど厳しかったのかという気もしますが、よくわかりません。
陸軍士官学校は、優秀であれば誰でも入れたと思うのですが、「貧乏からの脱出」→「組織内での出世競争」→「お互い足を引っ張りあって回りを見る余裕など無し」などは、どうでしょうか。(適当ですけど、なんか今の官僚に似ている気もします)

参考の本は、なかなか興味深いですね。図書館で探してみようと思います。
(ありがとうございます。辻政信なんかが出てきますか?)

第一次大戦を経験していないから近代化が遅れた、というのは納得!です。
それについて、今日こんなものを見つけました。
  ↓
http://www.nids.go.jp/kiyou/kiyou.html
(防衛研究所紀要 第3巻 第3号)
けっこう読むのが大変でした。もしご存知でしたらすみません。

お礼日時:2002/11/23 01:05

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