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室町時代の関所には関銭を徴収するという習慣がありましたが、それは信長・秀吉の時代に廃止されたというのは歴史の本などにありました。
江戸時代の関所は「入り鉄砲」「出女」の取り締まりのための関所で通行手形がある人が通れたというようなことかと思いますが、そこでは「関銭」「VISA発行料」のようなものがあったのでしょうか?

A 回答 (4件)

No3です。


「江戸の宿―三都・街道宿泊事情」 (平凡社新書)
深井 甚三 (著)
http://www.amazon.co.jp/dp/4582850529/

の第三章に、江戸時代における、関所に近い宿場と関所の関わりについて記述があります。かなり詳しい内容ですので、上記の本を図書館等で探してください。

なお、
「関所を(円滑に)通るために、関所の役人に袖の下を払う必要があった」
などという記述はありません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
アドバイスをもとにいくつかの本を見つけたのですが、こちらの本についてはたどりつけませんでした。早速手配いたしました。

こんなにおもしろいテーマがあるとは気がつきませんでした。
現代でも「L/G」なる信用状で経済が成り立っていたりする仕組みがある関係性とか、海外のtool gateの歴史などなど興味が尽きなくなってきました。
これを機会に調べたものをまとめてみることにします。

貴重なアドバイス本当にありがとうございます。

お礼日時:2009/05/12 21:39

江戸時代より前の「関所」というのは「ここを通るには通行料を払え」というために地元の支配者が設置したものです。

いわば「有料道路の料金ゲート」です。関銭=通行料を徴収しなければ設置している意味がありません。

江戸時代の、例えば箱根の関所というのは「通行手形を持たない者が通らないようにする」というために幕府が設置したものです。いわば「検問所」です。関銭を徴収するのが目的ではなく、不審者を摘発するのが目的です。

江戸時代の関所を通るには「通行手形」が必要でした。これは、武士であれば所属する藩が発行し、平民であれば居住地の名主・庄屋などが発行するものです。今で言う「パスポート」です。
伊勢参りをする農民が、通行手形を名主さんに書いて貰う際に謝礼を払うことは当然あったでしょうが、それは幕府の関知しないことです。これは「パスポートの発行手数料」のようなものです。

なお、「お尋ね者ではないが、あいにく通行手形を持っていない」旅人のために、関所の近くの宿場で通行手形を発行し、それを示せば関所を通れるなどアバウトな点もあったようです。

ただし、関所はお尋ね者が役人に賄賂を払えば通れるような甘い所ではなかったようで、有名なヤクザの国定忠治が碓井の関所を破った罪により磔になったという例もあります。

なお、ウィキペディアの記述は誰でも編集できるものですので、出典も示していない記述はあまり信じない方が良いです。
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この回答へのお礼

適切なアドバイスありがとうございます。
wikipediaの記述を色々想像するに、関所の設置は幕府が行っていたが実際の運営は委託先の地主(大名等)がやっていたということで、その人たちの運営費稼ぎなどの名目で「謝礼」という制度が黙認されていたのかと思いましたが、上記のようなお話は非常に納得いくものです。

ちなみに、その通行手形の発行料というのはいかほどのものなんでしょうか?また、その発行料は居住地、出先でどの程度の料金の差があったものなのでしょうか?

そのような文献をどこらへんで参照したらいいかご示唆いただけますと幸いです。

お礼日時:2009/05/12 16:09

江戸時代には、江戸幕府や諸藩が、軍事・警察上の必要から再び関所を設置した。

主な関所には、東海道の箱根関や新居関や鈴鹿関、中山道の碓氷関や福島関、甲州街道の小仏関、日光街道の栗橋関などがある。 これら関所は幕府直営では無く近隣の大名や旗本などに業務委託されていた。 関所の番人は陪臣身分ではあったが幕府の役人であっても祝儀名目の通行料を支払わされるなど大変な権勢を誇った。

by wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%89%80
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
このページまでは私も見かけたのですが、細かいニュアンスが分からなかったもので・・・。
祝儀名目の通行料は通行人全員が支払う必要があったという認識でよろしいのでしょうか?
その通行料はどの程度のものだったのでしょうか?

お礼日時:2009/05/09 00:20

関所や海で通行税を取っていたのはそこを領地とする地侍です。



大名の下に地侍がいて更に地主がいる。
百姓はこれらに税を納める。

二重三重の名義の土地が横行していました。
これを認めず百姓1名の名義にしたのが検地です。

良く見えますが、
百姓が土地に縛られるのはこれからです。

土地や収入源を失った地侍は検地役人を殺したりしましたが
秀吉は厳しく取り締まり検地を成し遂げます。

これにより百姓になるか、侍になるかの選択を余儀なくされます。
(刀狩り)大名に仕えていないで領地を持ち、半農半兵のような地侍は姿を消します。

これにより、通るだけで通行料を取っていた地侍いなくなるのです。
(武装自体が違法になる)

家康の関所と室町時代の関所、秀吉、信長の政策
は区別すべきだと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
すると江戸時代には「関銭徴収」はなくなったという認識でよろしいのでしょうか?

お礼日時:2009/05/09 00:16

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