紀州徳川家の家臣について調査をしています。
付け家老の「水野」「安藤」「久野」の三家は有名なところですが、
その他にどういった方がいたのでしょうか?

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A 回答 (1件)

紀伊家の家臣団は大きく分けて3つ、



1つ目は「お附衆」と呼ばれる、家康から付与され紀伊家の家臣になった者。
2つ目は新規召抱えされた浪人。
3つ目は地士です。地士とは郷士の事で領地内の名族や旧家から選ばれ召抱えられた者を指します。

家臣団の中核となったのは「お附衆」で全家臣の5.5%に当たります。
お附衆の中で特に有力だったのが安藤直次、水野重央、三浦為春、久野宗茂の各家で
禄高も群を抜いていました。
それに水野太郎作家を加えて「紀州藩五家」と呼ばれ代々家老を世襲していました。

召抱えられた浪人は後北条氏、福島氏、尼子氏の旧臣や武功の浪人などがいました。
中でも福島正則の旧臣・大崎長行が家禄1135石で筆頭格とされました。

地士は家禄50石の「六十人者地士」30石の墨田党の子孫を中心とした「墨田地士」などがいました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2009/05/18 13:41

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全社で共通した読み方で統一したいと考えております。

Aベストアンサー

IFRSの読み方は、現時点の日本では様々です。
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http://ifrs-yomikata.cocolog-nifty.com/blog/

ご参考に。

参考URL:http://ifrs-yomikata.cocolog-nifty.com/blog/

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Aベストアンサー

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Q家老の家臣

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Aベストアンサー

藩の中での武士の身分は、概ね「その禄高」で測られたと考えます。即ち、大名の直臣で禄高100石の者と、陪臣で禄高100石の者では、概ね扱いは同じだったでしょう。

例えば、上杉家の重臣の直江兼続は、上杉家が会津120万石の時は30万石の「日本で一番禄高の多い陪臣」であり、上杉家が関ヶ原後に米沢30万石に減石された後も数万石の禄と家臣団を持っていました。兼続には嗣子がなかったので、彼の死後は兼続の家臣団は上杉家の直臣に直り(、その上級者は)「与板組」として「上杉家の上級家臣」と位置づけられました。

「与板組」でWeb検索して頂ければ分かるでしょうが、
http://www7a.biglobe.ne.jp/~soutokufu/boshinwar/hokuetu/main2.htm

「米沢軍の編成について/米沢藩上杉家の軍制は「組」によって区分される戦国時代から続く家臣団の編成により構成され、大まかに分けると米沢移封後に成立した侍組・三手組・三扶持方・扶持方並・足軽組の基本5組による編成で戊辰戦争に突入する事になります。このように基本5組による編成で戊辰戦争を戦った米沢藩ですが、以下に米沢藩の家臣団の編成を簡単に説明させて頂きます。

侍組
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手元には2種類のPC用語辞典しかないのですが、2種類が違う読み方をしています。「ファーク」と読む場合とあとは恥ずかしい読み方をする場合とです。正しい読み方はどちらなんでしょうか?

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私は、後者の『エフ・エー・キュー 』と読んでおります。

> とあとは恥ずかしい読み方をする場合とです。

『ファック』とは、読まないですよ。 ご安心を。。。

http://yougo.ascii24.com/gh/49/004900.html


ではでは☆~☆~☆

参考URL:http://yougo.ascii24.com/gh/49/004900.html

Q徳川綱豊(徳川家宣)がいるのに徳川綱教が6代将軍候補になっていた理由は?

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綱吉には徳松と言う子がいました。当初、綱吉は徳松に将軍職を譲りたいと思っていました。
水戸光圀の反対を押し切り徳松を江戸城に入れたものの、徳松は5歳で死去してしまいます。
順当に行けば綱豊が将軍継嗣となってもおかしくは無いのですが、
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綱吉の「自分の血筋を将軍にしたい」と言う願望から、娘婿の綱教を将軍候補に擁立しようとしたのです。

しかし宝永元年、綱吉の娘で紀伊綱教の正室の鶴姫が亡くなってしまい、
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Aベストアンサー

紀州(和歌山)は、藩主が幼少の頃は山梨近くに幽閉されていたということでその後、紀州に任じられていったという。(辞典より)
どうも領地の位置理由は、今のところ不明です。
閉じられなければ3日間でできるだけ調べてみます。


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