親子におすすめの新型プラネタリウムとは?

関が原の戦い後、豊臣秀頼の所領が65万石に減らされました。豊臣家のための西軍でしたが、西軍の総大将は毛利輝元だったと思います。
なぜ豊臣秀頼の所領が減らされたのでしょうか?減らされたとき抵抗はなかったのですか?
家康も豊臣家のために戦うと言う事で味方の大名を集めたのではないのですか?それなのに豊臣家の所領を削れたのはなぜですか?
豊臣秀頼が所領を大幅に減らされてもしょうがないくらい西軍に肩入れしてたからだと思うのですが、そうだとするといろんな事情はあるにせよ、家康に味方した秀吉子飼の大名たちは、自分たちが勝つと秀頼の所領が減らされることは予想できたと思うのですが?
それとも65万石しか相続してなかたのですか?

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A 回答 (6件)

これは、関ヶ原の論功行賞という問題以前から発生していました。


秀吉死後、前田利家死去、石田三成追放などで筆頭大老という肩書きの元、豊臣政権を欲しいままに牛耳っていた家康は、徳川政権成立を狙います。
この時、家康が思い付いた策が、自らの地位を利用して豊臣家の領地を親交の深い大名やこれから懐柔して行く大名にどんどん譲っていくというものでした。
こうして朝鮮出兵で困窮していた豊臣恩顧大名などが一斉に家康を感謝し鞍替えを始めたのです。
豊臣家の力を削ぎ、自らの派閥の協力者を増やし政権交代を狙い、しかも筆頭大老という地位を利用し秀頼があたかも譲ったかのように見せかけ世間の批判を交わせる一石三鳥くらいの謀略というか策で天下取りを家康は狙ったのです。そして、この領地移譲で恩を売られた大名は、家康側として関ヶ原の戦いで奮闘勝利しました。
実は、豊臣家の領地は、関ヶ原前に減らされていたのです。
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豊臣氏が家臣に貸していた土地が、関が原によって没収されてしまった為、結果的に豊臣氏の所領が減っちゃたのです。

まぁー、それ以上に取られちゃってますけど・・。
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秀頼と家康との闘争で終始一貫しているのは最後まで家康が大義名分において「豊臣家」への忠誠をまもっている「ふり」をしている、と言うことです。


それでは、実際に家康の戦略はどうであったのか、というと豊臣家の勢力を減らし続けてゆく、というものでした。もし、自分代でかなわなければ秀忠以下子孫の代で、いつか豊臣家を滅亡させる、というものでした。それは彼の一連の行動を見ればわかります。

そうした「だまし」のもっとも象徴的な事件が大阪冬の陣のとき、和睦の条件として「外堀」だけを埋める、というものがいつの間にか「総ての掘」を埋め立ててしまった、ということです。もちろん淀君をはじめとして豊臣方が憤慨しないわけはありません。それでも家康側はのらりくらりと説得してしまいます。そうした、子供だましのような戦略にひっかかり、簡単に説得されてしまうことろをみると、彼らについてゆこうとする大名はなかなかいなかったのではないでしょうか。

「関が原の合戦」も本質は家康対豊臣の戦いであったにもかかわらず、全くそうした認識が淀君、秀頼になかったのです。これは驚くべき無知、無明といわざるを得ません。おそらく、まともな大名であれば、次の天下が家康のものだということは簡単に分かっていたのではないでしょうか。そうした意味で天下の情勢はかなりはっきりとしていたのですがそこまでこじれてしまったのは秀吉の往生際が悪かったことによります。はっきりと家康の天下を認めるべきだったのでしょう。そこで、昨年、大河ドラマの主人公になった、前田利家を五大老にまで持ち上げて、家康に対抗させたりしますが、彼らも「おまつさん」が機転をきかせて最後には、家康に忠誠を誓います。要するに、「豊臣恩顧」の大名たちも「もはや時代は徳川のものだ」と分かっていたのです。当時、最後まで秀頼にたいして忠誠心を持っていたのは、加藤清正と福島正則のみであったようです。

だから、関が原以降、豊臣側についた真田などの元大名たちも最後の大逆転を狙った「山師」的な人たちであり、決して大名ではありません。ただ、彼らの中にも多くは魅力的な人たちであったようです。

自分は以上のことを司馬遼太郎の「関が原」「城塞」という小説で知りました。
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関ヶ原の合戦によって勝利した東軍側の恩賞として与えられた領地は、没収された領地を上回る石高となり、結局豊臣家に残された直轄領が65万石にしかならなかった。


これは徳川家康が豊臣家の筆頭家老の身分にて画策した、論功行賞なので、豊臣恩顧の大名だって喜んだはずです。
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家康は秀吉没後、豊臣政権内部の対立を利用して、豊臣家から徳川家への政権交代を密かに計画しました。


豊臣政権内部の対立とは、石田三成、小西行長を代表する勢力(文官)と、秀吉子飼いの野戦派、加藤清正、福島正則達の感情的な対立です。
秀吉の死後、2派の対立により政情不安が続き、秀頼が幼いこともあり、家康は豊臣政権下の最大の大名として政情不安を治めるべく期待されるようになり、本人もそれに乗じようとしました。

関ヶ原の戦いの発端は、上杉景勝征伐から始まります。
家康が豊臣家大老として動員した(公戦)兵力を持って米沢の上杉攻撃のため大坂を離れている間に、三成が家康の罪状(秀吉の遺訓破りなど)を持って、秀頼の名前で兵を動員して挙兵します。三成は家康と自分とでは格が違うため、毛利輝元を総大将に担ぎ出します。毛利家では家臣の大半が反対しましたが、直情的な性格の輝元は、三成に説得されており大坂城に入場しました。
これは家康の予想通りであり、豊臣政権2派の対立をあおることにより、1派(野戦派)を味方に引き入れもう1派を倒すこと(豊臣政権を倒すこと)に利用する構想でした。その仕上げが関ヶ原の戦いです。

清正、正則、池田輝政らは豊臣家への愛着はあるものの、三成憎しの思いと、関ヶ原以前の家康の配慮により家康に味方することになります。
家康は当時誰も逆らうことのできない実力があり、豊臣家諸将に対しては味方に引き込むべく親戚関係になるなど既に手をつくしており、関ヶ原の戦い自体も家康が反豊臣の旗をかかげてた起きた訳ではないところが、豊臣恩顧の諸将が家康に味方したポイントだと思います。

関ヶ原の合戦後、家康は大坂城に入り(この時巧みにも、豊臣家大老としての立場で入城し、秀頼に拝謁までしています)論功行賞を行い、大名の配置を家康中心に変更しました。
三成を代表とする反家康勢力が壊滅した後では、邪魔する勢力はありません。豊臣政権を転覆させることが目的ですから、秀頼の所領も削られました。所領だけでなく当時の二大貿易港(堺と博多)を豊臣家の直轄から徳川家の直轄にするなどしました。
家康に味方した秀吉子飼の大名達は、家康が勝つと秀頼の所領が減らされることについて、予想できたかどうかは難しいです。
現在から考えると当然予想できそうなのですが、家康のトリックが巧みでそれに気づかせず、家康は関ヶ原の戦い後に徳川家が天下を押さえる体制を、既成事実として作り上げてしまったというところでしょうか。

関ヶ原の後に秀頼を滅ぼさなかったのは、秀吉没後すぐに秀頼を殺すことは、他の大名の反感を招く恐れもあるため、慎重な家康はまず自分の勢力の拡大を着実に行い、家康の天下が明白になったのちに、豊臣家を滅ぼした(大坂の陣)と言えます。
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たしか「家僚の多くが西軍に荷担したため」が理由だったと思われます。

(実際には、豊臣家の力の軽減及び関ヶ原における論功行賞の配当源確保、金山等の確保といろいろ考えられます。)
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Q関が原の戦い後、なぜ、長宗我部は領地没収で、毛利・島津は領地減となったのでしょうか?

関が原の戦い後、なぜ、長宗我部は領地没収で、毛利・島津は領地減となったのでしょうか?

Aベストアンサー

その話はかなり有名ですよ。

基本的には西軍に属した大名は領地没収・改易になるところが、
毛利に関しては、吉川広家に対して
毛利家の所領安堵の約束をしていたのに、
それを反故にして領地削減させたわけです。
この経緯は、直接、家康が言質を与えずに
井伊直政を介して調略を行ったために、
正確には約束したわけではないというトリックがあったのですが、
吉川は最初の約束と違うと猛抗議します。
それで吉川家の所領を減らす代わりに
なんとか毛利家の存続だけは勘弁してもらった格好になりますが
毛利家ではこの一件の恨みをずっと持っていて
年始だったいつだったか忘れましたが、
毎年、徳川家に恨みを晴らす、討ち入るという儀式を
幕末までやっていて、それが倒幕の原動力となったのは
かなり知られてますよね。

島津家の場合は、大幅削減のはずだったのが
隠居していた島津義久などが内外で粘り強く抵抗をして
領地返上に抵抗して、外交交渉の結果、
薩摩・大隈という言葉も違う辺境ということもあって
島津だけは所領安堵・お咎めなしどころか、
琉球貿易の窓口という立場も容認されます。
これは無能な毛利家と違って、島津家の有能かつ交渉上手が
活きた格好です。
ただ関ヶ原前後で島津家内部では多少、内紛なるのですが
なんとか詰め腹でまとまるのがまさに島津式です。

この二国が幕末の主勢力になるのはあながち偶然ではないでしょう。

あとちなみにですが、
関ヶ原で西軍についたものでは、立花宗茂は唯一、改易後に
所領を新たに与えられてます。大名に復活したのは彼だけです。
理由は、武人の鑑として、徳川秀忠に気に入られたからです。

その話はかなり有名ですよ。

基本的には西軍に属した大名は領地没収・改易になるところが、
毛利に関しては、吉川広家に対して
毛利家の所領安堵の約束をしていたのに、
それを反故にして領地削減させたわけです。
この経緯は、直接、家康が言質を与えずに
井伊直政を介して調略を行ったために、
正確には約束したわけではないというトリックがあったのですが、
吉川は最初の約束と違うと猛抗議します。
それで吉川家の所領を減らす代わりに
なんとか毛利家の存続だけは勘弁してもらった格好になりま...続きを読む

Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Q関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた

関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた

小早川秀秋がもし東軍(家康側)に寝返らなかったら関ヶ原の戦いは西軍(石田三成側)の勝利となっていたのでしょうか。
小早川秀秋は家康から寝がいりを要求する手紙をもらっていたらしいのですが。
もし寝が入り、の決断をできなかった、もしくは家臣に反対されて西軍を裏切らす東軍と戦ってた場合

関ヶ原の戦いの結果はどうなっていたのでしょうか
あと裏切りという作戦を家康が立てていたのですが
裏切ってくれなかったとしたときのために
家康は何か策でも立てていたのでしょうか

皆様の考えをどうかよろしくお願いします。

Aベストアンサー

 関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
 そうして濃尾平野の重要部分を徳川方に押さえられて
関ヶ原を迎えます。
 もひとつは、島津義弘の軍が、正規の部隊でないことだと思います。島津軍が、1万人くらいの戦力で司令官になって作戦指揮していたら家康も無謀な関ヶ原の野戦にでることはなかったでしょう。義弘の朝鮮の役の活躍や関ヶ原以後の対島津の扱いから見ても誰もが納得できるでしょう。
 後一つは、立花宗茂がいたらです。小早川を大津に残し立花を関ヶ原につれてきていたら、宇喜多と立花、島津と並んでいたら、西軍の勝ちになるでしょう。
 といっても、石田は、小早川に(関白)を約束していたので決戦場にいないわけにはいきませんね。結局これも実現の可能性はゼロです。
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 いろいろな書籍を読んでみてもホントにうまく進めた物です。家康という人物の戦略眼と組織作りは見事です。最終勝利者というのでしょうね。参考になります。

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Q戦国大名の最大版図

タイトル通りなのですが、戦国大名の最大版図の石高がどれくらいになったのかが大変興味があります。

関ヶ原後の石高はかなり有名なのですが、その前に最大版図を迎えた武将も多いと思います。

人数が多いですが下に書いてある武将の石高を教えて頂けると幸いです。


・伊達政宗
・北条氏直
・上杉謙信
・上杉景勝
・武田信玄
・徳川家康
・豊臣秀吉
・織田信長
・柴田勝家
・明智光秀
・長宗我部元親
・毛利元就
・毛利輝元
・島津義久


人数が多くて申し訳ありません。

よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせると30万石を越える程度はあったようです。

上杉謙信
越後の半分程度が直接的に支配できているところなんだとは思います。
揚北衆と呼ばれる(本庄、色部、新発田)勢力は北越後の広大な範囲を領地にしていましたが、家臣という感じではなく「協力者」というイメージが近いです。勝手に外交したり人事権も及ばない状態でしたから。
そういう独立勢力を束ねて越後、北関東、越中、能登まで支配している感じです。最大版図は私もどこまで含めて良いのかさっぱりわかりません。
味方と言い切れない独立勢力が大勢いるということです。

信長、秀吉、家康のそれぞれの時代によって最大版図のとらえ方も様々に違っているようには思いますね。

No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせ...続きを読む

Q加藤清正と福島正則はのちに石田三成に着いたほうが良かったと思ったのか?

石田三成は民にはやさしい男であったが、頭が切れて気真面目すぎるために、加藤清正と福島正則のやり方と相容れることはできず仲は悪かった。
関ヶ原の戦いのとき、清正と正則は三成を気に入っていなかったので、豊臣政権の未来を徳川家康に託して東軍に着いた。しかしそれは家康の勢力拡張政策に貢献することになってしまい、家康は天下を手に入れるために豊臣家を滅ぼしてしまった。清正と正則はあとで関ヶ原の戦いのときに、気に入らないが三成に味方したほうがよかったと思ったのだろうか。

こんな疑問が浮かんだのは理由があります。
今まで清正と正則は家康の勢力拡張政策に貢献するかたちを取ってしまったので、こいつらは馬鹿だと思っていた。三成が頭が切れて気真面目すぎてうまがあわないといっても、冷静に考えたら三成のほうが秀頼を大切にする可能性が高いので、なぜわからないのだろうと思っていた。
しかし僕の目の前に石田三成に近い人間が現れたとき、最初は良かったのですが、最終的に
「この人のやり方が合理的に合っていても、僕のやり方を無視しているものなので、心情的にこの人に賛成できない」
と強く思うことになったのです。僕の今の心情から思うと、清正と正則も似たような心情になり、三成が死んで家康が勢力が増大しても、「三成に味方したほうがよかった」なんて思っていないと考えています。清正と正則もどうしようもなかったのかなあと思うようになりました。

●みなさんは清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

石田三成は民にはやさしい男であったが、頭が切れて気真面目すぎるために、加藤清正と福島正則のやり方と相容れることはできず仲は悪かった。
関ヶ原の戦いのとき、清正と正則は三成を気に入っていなかったので、豊臣政権の未来を徳川家康に託して東軍に着いた。しかしそれは家康の勢力拡張政策に貢献することになってしまい、家康は天下を手に入れるために豊臣家を滅ぼしてしまった。清正と正則はあとで関ヶ原の戦いのときに、気に入らないが三成に味方したほうがよかったと思ったのだろうか。

こんな疑問が...続きを読む

Aベストアンサー

>清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

思わないでしょう。
加藤清正や福島正則は、他の回答にあるように尾張時代からの秀吉の子飼いの武将であるとともに戦国の世を生き抜いた武闘派の武将です。
これに対して石田三成は秀吉の近江時代からの部下であり、有能な官僚タイプの人です。

群雄割拠の戦国期を生き抜いた武将たちにとっては、例え敵味方に別れて過去に戦った相手だったとしても共に同じ部類の仲間としての意識があるようです。
そういう意味では、徳川家康に対しては同じ武将として自分たちと同類の仲間という意識であり、さらに『東海一の弓取り』といわれるように尊敬する大先輩といえる存在だといえます。

これに対し官僚である石田三成に関しては全く共感できない存在であり、『偉そうにしているイヤな奴』という認識でしかなかったようです。

豊臣恩顧といっても、加藤清正や福島正則にとっては秀吉と北の政所への忠誠心が主であるのに対し、石田三成にとっては淀の方や秀頼などを含んだ豊臣家に対する忠誠心だったようであり、各々の感覚が異なると思います。

加藤清正や福島正則は戦国期を生き抜いてきた武将として、力のある武将(徳川家康)が天下を取ることになっても致し方ないという感覚があったと思われますが、石田三成はあくまでも天下は豊臣家のものだという考えのようですからこういう基本的な考え方が違うと思われます。

>清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

思わないでしょう。
加藤清正や福島正則は、他の回答にあるように尾張時代からの秀吉の子飼いの武将であるとともに戦国の世を生き抜いた武闘派の武将です。
これに対して石田三成は秀吉の近江時代からの部下であり、有能な官僚タイプの人です。

群雄割拠の戦国期を生き抜いた武将たちにとっては、例え敵味方に別れて過去に戦った相手だったとしても共に同じ部類の仲間としての意識があるようです。
そういう意味では、徳川家康に対し...続きを読む

Q大阪の陣のとき、豊臣方は負けずにすんだのでは?

大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、
真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。

兵力としても徳川方20万だったのに対して、豊臣方は10万で、絶望的な差ではありません。

そこで活躍したのが、大砲だったと聞きます。
昼夜を問わず、4キロから6キロ先まで届く大砲を打ち、指揮官である淀の方を精神的に
追い詰め、和睦に持ち込んだと聞きます。
大砲はめったに当たることがなかったものの、運悪く居間に落ちたものが次女数人をバラバラにして、淀の方を恐怖させたとか、柱が折れたとか。

しかし、大砲が何発撃たれようが無限ではないのだし、滅多にあたらないため大阪城の防御力を下げたり、落城させたりするような威力まではなかったと思うので、私としては、最後まで戦っていれば豊臣方が勝っていたのではないかと思うのです。。
(運悪く、淀の方のいるところに弾が落ちて、命を落とす可能性もありますが、その確率は低いと思います。精神力の戦いだったと思います)

jこの考え方について、どうでしょうか?
ご意見等、お願いします。

大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、
真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。

兵力としても徳川方20万だったのに対して、豊臣方は10万で、絶望的な差ではありません。

そこで活躍したのが、大砲だったと聞きます。
昼夜を問わず、4キロから6キロ先まで届く大砲を打ち、指揮官であ...続きを読む

Aベストアンサー

>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
期待されていた豊臣恩顧の大名の多くは徳川方につき、味方は劣勢。その上、大砲を一方的に打ち込まれていては…
そもそも徳川方は真田丸での敗北後に神経戦を仕掛けるようにしています。
夜に鬨の声を上げたり、鉄砲をうちかけ大阪方を眠らせないようにし、さらに大砲での攻撃です。
兵の士気をどうやって維持するのか…

一方、徳川方は兵糧不足に悩まされた事もあるようですが、これは一時的な混乱という説もあります。京を遠く離れた遠方ならともかく大阪近辺は堺など港も多く商業地帯としても発展していましたから、兵糧の確保も一旦、道筋をつければそう難しくないかと思います。

ただし、豊臣方が籠城で持ち堪えるのは難しくても、作戦によっては勝てたのではないかと思います。

そもそも「夏の陣」でさえ、真田幸村と毛利勝永らの活躍により徳川方は叩かれ、家康本陣は崩れ、三方が原の敗戦以来、初めて馬印が倒され、家康も敗北を覚悟し切腹をしようとしたという話があるくらいです。
もし豊臣秀頼が出陣し全ての予備兵力を戦線に注ぎ込んでいたら…
もし明石全登の別働隊の作戦が成功していたら…
豊臣方は家康の首をとり状況は大きく変化し勝利する事ができたかもしれません。

そういう事を勘案すると、もし「冬の陣」においても、籠城するばかりでなく機を見て南の家康本陣に対し攻撃に出ていたらどうなったか…
徳川方は大阪城の四方を囲みました。
浅野、蜂須賀、鍋島、上杉、佐竹等は東、西、北に配置されており、南に徳川方の全軍がいたわけではありません。
確かに南の家康本陣は厚いです。前衛には前田、伊達、藤堂らもいました。
しかし、兵力の減った「夏の陣」でさえ正面攻撃で家康を追い詰めたのです。
ならば「夏の陣」より兵力の多い「冬の陣」において乾坤一擲の突撃を茶臼山の家康本陣に向け行えば、あるいは家康の首をとれたかもしれません。
ちなみに真田幸村は12月20日に家康本陣への奇襲を進言しましたが採用されませんでした。

「冬の陣」では籠城策よりも、籠城策からの野戦への転換ならば豊臣方にも勝利の希望はかなりあったのではないかと思っています。

>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
期待されていた豊臣恩顧の大名の多くは徳川方につき、味方は劣勢。その上、大砲を一方的に打ち込まれていては…
...続きを読む

Q徳川家は八百万石なのに、どうして江戸の面積は狭いのでしょうか。

こんにちは。

私の手元に、「江戸(嘉永)時代大名紋章及び城郭図」という地図があり、それを見ていて疑問に思ったのですが・・・。
徳川家は八百万石という力を持っていたにも拘わらず、江戸と呼ばれる範囲はあまりにも小さいと気が付きました。
他の裕福な藩は(加賀など)広々とした領土なのに、どうして徳川家の領土(城下町?)はこんなに狭いのでしょうか。
江戸以外にも、直の領土があったのでしょうか。
それとも、広い城下町を持つ必要がなかったのでしょうか。

教えていただけたら、ありがたいです。

Aベストアンサー

徳川家は八百万石なのに、どうして江戸の面積は狭いのでしょうか。

日本全国の総石高が3000万石といわれている中、幕府直轄領の石高が400万石(13%)~450万石(15%)、旗本領が約400万石、合わせて800万石(27%)を上回り、全国の30%近くを占めます。面積について乱暴な言い方をすれば、同じ様な比率で直轄領及び旗本領を持っていたものと考えられます。ですから、全国の1/4近くの支配地を持っていたことになります(直轄領だけでいえば1/7程度)。
直轄領は、江戸時代には御料、御領、御料所などと呼ばれ、明治以降は天領と呼ばれますが、天領と呼ぶのが一般的です。全国に散在し、直轄地がなかったのは蝦夷地くらいのものでした。ただ、蝦夷地も、寛政11年1799に東蝦夷地を直轄領とし、文化4年1807には西蝦夷地も直轄領にします。この処置は、文政4年1821に東西共に松前氏に返却しています。
大きな直轄領としては、九州の日田地方、石見東部、愛媛東部、備中西部、播磨西部、但馬西部、大坂・堺・京都周辺、近江南部、大和南部、飛騨一国、中期以降の甲斐一国、三河・遠江・駿河・伊豆の過半、武蔵・安房・下総・上総の過半、常陸南部、会津西部、山形北部、秋田南部など全国に及んでいます。
一般に10万石以上の地域を支配する場合は郡代を、それ以下は代官を派遣して支配をしています。また、一部では譜代大名などに預けている場合もあります。
この他に全国の主要都市を、江戸・京都・大坂以外に、伊勢神宮門前町の山田、貿易港長崎、金山の佐渡、旧貿易港堺、他に奈良、伏見を直轄地として、遠国奉行を派遣しています(幕末には神奈川、下田、兵庫、新潟、函館などの開港地も直轄領化し、奉行を派遣)。
佐渡、伊豆、生野、大森などの主要鉱山も直轄地ですから、全国展開していました。

以上、参考までに。

徳川家は八百万石なのに、どうして江戸の面積は狭いのでしょうか。

日本全国の総石高が3000万石といわれている中、幕府直轄領の石高が400万石(13%)~450万石(15%)、旗本領が約400万石、合わせて800万石(27%)を上回り、全国の30%近くを占めます。面積について乱暴な言い方をすれば、同じ様な比率で直轄領及び旗本領を持っていたものと考えられます。ですから、全国の1/4近くの支配地を持っていたことになります(直轄領だけでいえば1/7程度)。
直轄領は、江戸時代に...続きを読む

Q関ヶ原以降の豊臣石高について

関ヶ原以前豊臣家の石高は二百万石ですよね。
で関ヶ原以後の石高は家康によって六十五万石になりましたよね。で不思議に思うのですが関ヶ原の戦いは豊臣家対徳川家の戦いではなく豊臣家の内部争いでそれを東軍の総大将家康が豊臣をまとめたわけでこの時点では少なくても形式上は家康は豊臣家の家臣なわけで関ヶ原の戦い後家康が豊臣家を二百万石から六十五万石したけどなぜ家臣である家康が豊臣家を二百万石から六十五万石にできるのですか?
普通出来ないですよね。
そこらてへんがよくわからないので教えてください。

Aベストアンサー

豊臣家に逆らった、石田三成などの逆臣を倒した、徳川家康を始めとした、忠臣に、豊臣家の大老である徳川家康が恩賞を出すのは当たり前であります。

忠臣に報いるために厚く恩賞を出すべく、豊臣直轄領を減らすことなど、当たり前のことです。

というようなロジックです。

Qどうして豊臣秀吉は、関白。徳川家康は征夷大将軍

になったのでしょう。

官位につくには出自が重視されるので、豊臣秀吉は近衛家の養子になり、征夷大将軍に任ぜられようとしますが、これを自ら断り関白を任ぜられます。

関白は、天皇と協議して合意を取りながら政務を行う職として、慣例として天皇の代理人として天皇と太政官の政治的なやりとりについて事前に把握したり関与する権利があり、実質上、統制権をもつものと認識しています。

一方、徳川家康は清和源氏と称し、征夷大将軍に任じられます。征夷大将軍は、天皇勅令のもと、武家政権の長とする地位に任ぜられます。

当時は、武家の勢力が強く、朝廷は権威を保ってはいたけれど実質的な政権は武家勢力が握っていたものと推測しています。
そのため、官位については表向きは朝廷が任じようと、実は武士側の方で公家の養子になったりして出自を高貴なものにすれば選べたのではないかと考えています。
どうして、豊臣秀吉は、征夷大将軍職を断り、関白を選んだのでしょう?
そして徳川家康は関白ではなく征夷大将軍職を選んだのでしょう?
結局、その後の徳川家は幕府を設立し、禁中並公家諸法度を作成して朝廷を統制し、政治における実権を握ったことを考えると徳川家康は、武家の棟梁としての位を望んだのも頷けます。
しかし、豊臣秀吉も関白として同じことができたのではないかと思います。
自分の考えでは、豊臣秀吉は幕府を作ることは考えておらず、平安時代からあった摂関政治を狙っていたのではないかと推測します。
逆に徳川家康は武士の時代と考え、朝廷からの実質的な政権を奪うことをもくろみ征夷大将軍職についたのかと考えています。
自分には歴史の知識があまりないため、このあたりの政治的な部分に興味があり、いろいろ文献を読んだのですが、なかなか答えがだせません。
そのため、皆様のご高説を賜りたい次第です。

になったのでしょう。

官位につくには出自が重視されるので、豊臣秀吉は近衛家の養子になり、征夷大将軍に任ぜられようとしますが、これを自ら断り関白を任ぜられます。

関白は、天皇と協議して合意を取りながら政務を行う職として、慣例として天皇の代理人として天皇と太政官の政治的なやりとりについて事前に把握したり関与する権利があり、実質上、統制権をもつものと認識しています。

一方、徳川家康は清和源氏と称し、征夷大将軍に任じられます。征夷大将軍は、天皇勅令のもと、武家政権の長とする地位に...続きを読む

Aベストアンサー

kuwantan さん、こんばんわ。


平安時代からあった摂関政治を狙っていたのではないかと推測します。
その通りです。秀吉は日本を統一し、さらに朝廷から関白の官位を受けることでその権威をもって日本全国の大名を支配しました。
実は秀吉は小牧長久手の役の終わった時に朝廷から征夷大将軍の称号をうけるかどうか打診されていましたが、断りました。これはまだ、足利義昭が将軍の在職中であったため、遠慮したのだという説があります。また、一説に義昭の養子となるように工作したのですが、義昭が嫌ってうまくいかなかったという説があります。
ちなみに彼が辞職するのは天正16年になってからです。私も知りませんでした。
関白も棚から牡丹餅でなったのです。それについては関白相論を見てください。
どのみち、実力で天下の覇者になった秀吉としては官位が高いほど自分の権威が高まって行くと考えているだけで、それほど執着はしなかったのでしょう。


豊臣秀吉
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89
足利義昭
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%98%AD

関白相論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%99%BD%E7%9B%B8%E8%AB%96

kuwantan さん、こんばんわ。


平安時代からあった摂関政治を狙っていたのではないかと推測します。
その通りです。秀吉は日本を統一し、さらに朝廷から関白の官位を受けることでその権威をもって日本全国の大名を支配しました。
実は秀吉は小牧長久手の役の終わった時に朝廷から征夷大将軍の称号をうけるかどうか打診されていましたが、断りました。これはまだ、足利義昭が将軍の在職中であったため、遠慮したのだという説があります。また、一説に義昭の養子となるように工作したのですが、義昭が嫌ってうまく...続きを読む

Qなぜ秀吉は織田家の跡継ぎを殺しても織田家が滅びたわけでもなく織田家を裏切ったわけでもなく政権をとっていたのか?

歴史の本などを見ると本能寺の変以後 山崎の戦、柴田勝家との戦いをえて
秀吉に政権が行きましたが疑問があります。なぜ織田家に跡継ぎ(名目だけのさんぼうし)がいるのに織田政権が続ずにあっさり秀吉の政権に行ったのですか。形だけでも秀吉は織田の家臣なのにさんぼうしが生きてる間もさんぼうしより高い地位にいました。(信孝との戦いはありましたが、彼は織田家の跡継ぎではありません)そりゃあ家臣が主人を裏切って殺したらそうなるかもしれませんが、秀吉はさんぼうしを殺したわけではありません。歴史の本では秀吉VSさんぼうしの戦いもないのにあまりにもあっさりと秀吉に政権が行ったので疑問です。

Aベストアンサー

秀吉が織田家中で実権を握れたのは、明智光秀を討ったこと、
三法師を抱えた事。この2つです。
もしもこれが無ければ、清洲会議の主導権も取られる事無く、
柴田・滝川の諸将も秀吉の言葉に敢然とつき返していたでしょう。

この時点で秀吉の織田家政権の実権を得ることが出来るのです。

この後、信雄・家康連合を小牧長久手で勝利し、
織田家中、同盟国である徳川も従えた秀吉は完全に信長の後継者に。

この後、世の中の趨勢は織田家よりも秀吉個人に傾く。
その証拠に朝廷が秀吉の存在を認める。
翌年、関白に就任し、長宗我部氏、佐々氏を降伏。
この背景には黒田孝高などの暗躍があったとも思うが。
だからこそ天下人になった秀吉は最大の片腕の黒田の
力を恐れて南に追いやったと言われている。

秀吉の場合は、あだ討ちをしたことと三法師を抱えて
清洲会議を支配した事が何よりの勝因。
出自の問題もあり大衆受けが良かったことが、時の流れを得る結果に。
更に家康と仲が良かった事もその要因。
家中に敵も多かったが仲の良い者も居たこと。前田・丹羽など。

途中から天下人になる流れは秀吉の配下の人間が動いた可能性が
高いと私は推測しているが…
織田家は柴田・滝川が失墜したためにその勢いを失ったことによって
時勢の波に乗れなかったため、秀吉の後塵に帰す事になったと思う。
数歳の三法師を頭首とし場合は、配下が団結しなければ、
上手くまとまらないのは必然。更に世の動きは、戦国時代の早期終結を
願う風潮もあり自然と秀吉に、信長の後継を願う気風があったことも原因だと思う。

どんな時代でも庶民の世論は意外と絶大的な効果を持っているのかも。

秀吉が織田家中で実権を握れたのは、明智光秀を討ったこと、
三法師を抱えた事。この2つです。
もしもこれが無ければ、清洲会議の主導権も取られる事無く、
柴田・滝川の諸将も秀吉の言葉に敢然とつき返していたでしょう。

この時点で秀吉の織田家政権の実権を得ることが出来るのです。

この後、信雄・家康連合を小牧長久手で勝利し、
織田家中、同盟国である徳川も従えた秀吉は完全に信長の後継者に。

この後、世の中の趨勢は織田家よりも秀吉個人に傾く。
その証拠に朝廷が秀吉の存在を認める。
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