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 心について科学哲学の立場で勉強していますが、壁にぶつかってしまいました。
それは、心について、哲学の立場で説明することと、科学の立場で説明することの違いが判らなくなってきたのです。

 哲学では、心に関する「概念」を論理分析していくことだ。科学では、「仮定」と「実験」で理論を実証していくことだ。との説明がありました。しかしながら、哲学での「概念」は当然のこととして科学理論をも踏まえたものであります。

 そうすると、哲学の概念の中にも科学理論が内包されているわけで、そのような概念とは、科学理論とどのような違いがあるのだろうか、という疑問に突き当たってしまったわけです。

 これは、哲学するとはどのように思考展開していくのかという疑問にも通じることです。アドバイスと参考文献の紹介をお願いします。

A 回答 (83件中41~50件)

halka様:


>fwappyさまが、どう返すかなとかおもいまして



>先ごろよりクオリアエイジェントの方がいらしているようなので

エイジェントって何でしょうか?

>クオリアについてひとこと。
>上記の例でいえばクオリアとは事実命題の主観的判断ということがいえます。

全ては主観的判断でしょう。

>水平線上の月と空中の月のどちらが大きいかということで、賭けをしました。
>「水平線上の月のほうが大きい」は質感を伴う実感であり主観的判断です。
>結果、計測器を用いて視野角度は同じ、命題Fは客観的判断において
>偽となりました。

計測器を用いたのは誰でしょう?
視野角度の「視野」とは誰のものでしょう?
計測者自身の主観が、命題Fを自ら反駁した
というべきでしょう。

>ここで主観的判断F=1は有意味性を持つのでしょうか?

先の反論において、大きさを視野角度としましたが、
その判断が「正しい」かどうかは疑われるべきでしょう。
実際に二つの月を見てから、大きさを判断する過程を
調べる必要がありましょう。

したがってクオリア(というよりも主観的経験)は
十分に意味を有します。
意味がないのは”客観(的真理)”でしょう。
Q.E.D
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fwappyさま、お相手頂きましてありがとうございます。


ちょっと強引だったことお詫びします。
あなたとのお話がsatonohukurouさまの疑問解消に役立ちますように・・・。

おふたりとのお話の中で懸念事項があります。
(serpent_owlさま)
>なお、ニーチェの言う「価値転換」と、halkaさんの言われる「価値変換」とは、何の関係もありません。老荘思想も同様です。
(fwappyさま)
>全ては主観的判断でしょう。

これらは言葉の定義段階での問題のように思われます。
serpent_owlさまはわたしに1~6の質問に答えさせた上で有り余る知識に基づき
その不備を指摘して過去の先人の権威のもとに無意味さを指摘するものと思い
ます。もちろん先人の有益な主張は省みてより有効に使われるべきでしょう。
わたしがこうしてお話できるのもそうした先人たちの知識をもとにいくばくひねくり
まわしたものを提示しているに過ぎないと考えます。
しかしそのひねくり回したものが意味を持つためには、すくなくても三者の間では
基礎となる合意部分が必要ではないでしょうか?
基本的に使用している術語に付き、合意に達するかどうかそこからはじめたいと
おもいます。まず私が提示しますので合意調整ができればと思います。

1.概念:対象を名辞したもの。内包と外延より形成される。

2.命題:概念と概念が結ばれたもの。この結合の仕方に「すべての」と「ある」がある。「AはBである」A:人間 B:哺乳類として 厳密には「(全ての)人間は(ある)
哺乳類である」と記述される。このときAはBの外延でありBはAの内包である。
結合の仕方には
a.(全ての)-(全ての)
b.(全ての)-(ある)
c.(ある)-(全ての)
d.(ある)-(ある)         の四区分がある。

3.意識は概念を生み出し命題を判断するものである。判断には真と偽がある。
真の否定が偽であり、偽の否定が真.である。
2-aのサンプルとして「東京は日本の首府である」が真のとき「東京は日本の
首府でない」は偽。個者は(全ての)において適応される。

4.存在:命題の表示形式である。
「AはBである」を命題の繋辞表示という。
「BにAがある」を命題の存在表示という。両者は同値である。

5.存在表示における前件を議論領域という。
代表的なものに事実(時空)、可能、価値がある。
「棚の上にコップがある」のような命題は、これら三区分の命題の中で語られる。
この命題をFとしたとき
・Fが事実であれば感覚がこれを判断する。
「棚の上にコップがあるのが見える」「棚の上のコップをつかんで確かめた」
・Fが可能であれば推測がこれを判断する。
「コップは棚の上かもしれない」「棚の上のコップがあるはずだ」
・Fが価値であれば意識自身の満足度においてこれを判断する。
「コップは棚の上に置くべきである」「コップは棚の上において置いておきたい」
これらの命題は2-dの形式である。
「机の上にコップがある」が事実において真である場合、時空の部分である
「いま、机の上」(ある時空)に対して「あるコップ」が結びついたものである。

以上の三区分の根拠となるのは我々の使用する言語の助動詞の区分である。
助動詞の添える意味として
イ.使役(せる、させる) ロ.受身(れる、られる) ハ.可能(れる、られる)
ニ.自発(れる、られる) ホ.尊敬(れる、られる) へ.希望(たい、たがる)
ト.打ち消し(ない、ぬ) チ.推量(らしい)     リ.様態(そうだ)
ヌ.伝聞(そうだ)    ル.比況(ようだ)     ヲ.断定(だ)
ワ.ていねい(ます、です)カ.過去完了(た)   ヨ.推量・意志(う、よう)
ツ.当為(べき、べし)
のような分類に対して尊敬のような特殊なもの、意志の絡むものを除いて
(それは行為の宣言であり判断ではない)振り分けられたものである。
なお、価値を表す助動詞として希望、当為があるが前者は自分自身の満足度
をもとめるものであり、当為はこの満足度を自己の所属する仲間内、社会ないし
行動基準の信念に投影したものである。

6.判断は時空内部での意識によって命題に対して行われる。
(1)全ての時空において一致する判断が客観的判断である。
(2)ある時空において特異である判断が主観的判断である。

fwappyさまぜひあなたの定義をお示しください。

棚の上のコップを取る,という一連の動きを観察してみよう。
その観察事実はtmよりtnにおいてあったとしよう。
コップをとる腕の筋肉運動量、速度、変化率、筋肉内の化学反応、あるい
はそれを操作する脳との関連において時間tmよりtnに至るまでのそれらの
測定値を観察することにより得られるのが客観的判断である。
観察によって記述された記録は全ての時空に対して真理値1をもつものと
する。これに対して時空に他者を認め、
水が飲みたいので棚の上のコップをとったのだろう
とするのが主観的判断である。
「だろう」というのは他者の「たし」は観察不可能であるゆえ断定できない。
tmよりtnにおいて発生した一連の運動の感覚観察に対して、二つの知覚
観察を持つことが出きる。これはルビンの図形に対して向き合った人を見る
か酒盃を見るかのごとく、感覚情報を処理する際におこなわれるふたつの
モジュールのうちのいずれかの適合である。
・因果論的判断モジュール ・目的論的判断モジュール
前者のモジュールにおいては助動詞「たし、べし」を含む命題は介入せず,
後者のモジュールにおいて介入する。


幾つか議論の中心となる概念に付き定義してみました。
意見の違う部分および未提出の概念について追加をお願いします。
(serpent-owlさま)
以上の各概念の合意の上に以下の質問回答へのご批判をお願いします。

>質問1:「人間の心は命題論理や述語論理で記述できるとお考えですか?」
>それは「できる部分もある」ことを認めるという程度のことです。

前回も示しましたとおり価値可能に対して主観的判断を含む論理学でひとの
心は記述可能と思われます。たとえばキリスト教や一部仏教の死後の生活
を説く宗教は例の真理表の2行目から1行目への脱却を狙うものです。
すなわち、幸せな生活は死後の意識という可能性のうちに約束されるのです。
奇跡を見せる宗教は可能性のレベルを0→1に変換せしめるものです。
前回も申しましたが老荘思想は真理表3行目から1知行目への移行をねらう
ものです。これは価値へのアプローチです。

>質問2:「事例分析(1)について。厳しい教育に対して鬱憤晴らしをする子としない子とのちがいは、お示しの論理式のどこに表現されていますか?」

>質問3:「事例分析(2)について。自分を磨くか周囲のせいにするかに関する本人の選択は、お示しの論理式のどこに表現されていますか?」

>質問4:「事例分析(3)について。他の子どもがいなければよいという論理的推論の結果、幼児を殺害したのなら、なぜ一人で終わったのですか? また、幼児殺害が逆に『地域社会における我が子の肯定』を阻害する可能性の考慮は、被告女性の論理的推論には入らなかったのですか?」

わたくしはこの三つの質問を同レベルで捉えておりましたserpent-owlさまには
ご不満かもしれません。
イソップの「すっぱいブドウの論理」をご存知かと思います。
意識は環境を知覚して「ブドウがある」を確認した次に「ブドウを食べたい」それに
は「ブドウを取る」と推論するのかもしれません。
VF「ブドウを取るは良い」 PF「ブドウをとることが出きる」 VS「ブドウを食べて
わたしは満足」となるわけです。
ここでまず「ブドウを取る」という可能性へのアプローチがあるでしょう。
ここで機軸となる論理式は、公理系Lの選言取りかと思われます。
目的的活動は最終目標Cに至れば良いわけですので
「A∨BかつA⊃C、B⊃CよりCを導出して良い」となるわけです。
すなわち目的にいたることが可能ならば、棒で持って取っても良いし、
石を投げて落とすというてもあるわけです。取りうる可能な手段を持ってPF=1
を達成するわけです。
残念なことに寓話はPF=0のまま推移しました。取りうる可能性はVF=0を
願い真理表の4行目への以降を狙って「あのぶどうはすっぱい」という未確認
の情報であり真とはなり難いので不合理とされたのでしょう。
しかしながら受験などの競争に敗れたとき、伴侶獲得に失敗した時、家族
に死なれた時など、それは一度は高い価値を設定したわけですから、その
変更は容易なものではありません。しかしながらVS=1は実現されねばなら
ないとおもいます。そのためには気にしない,わすれる、きりかえる・・・などで
対象価値の削減は実行せざるを得ません。

酒鬼薔薇、バスジャック、お受験はこうした価値判断レベルの変換にまでは
行きついていないサンプルかと思います。彼らは可能性にかけていたと思い
ます。しかしながら病的な手段我々の持つ倫理に触れる結果となる手段を
不幸にも選択してしまったと考えます。もしかれらが戦国時代の権力者なら
罰則は加えられなかったでしょう。彼らは満足を得るのです。

>質問5:「フラクタル現象学の見地からの一般論導出とは、どのようなことですか?」
今日の脳化学であればやはり物理学や化学を前提とするものと思います。
カタストロフィーやカオスにしても基本的に現象に対して因果論モジュール
を適合するわけです。ここには「たし、べし」はありません。
ゆえにそうした複雑な因果論モジュールをフラクタル現象学の一般論導出と
表現しました。

>質問6:「単純な統計的手法が哲学の方法だとお考えですか?」
わたしの示した目的論モジュールは、たとえば他者の痛みは観察できない
としながらも現実には表情や反応で自分を投影して解釈を与えています。
そこから不都合が出るケースは蓋然的にはほとんどないでしょう。
私はファジィないし統計で目的論モジュールは観察可能と判断します。
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果てしなき議論?を追っていって・・・さて素朴な疑問。



「学」とは何かというと、ヘーゲルを齧った私には『精神現象学』序文に見える「教えうるし学びうる、方法的かつ体系的なもの」という定義が思い浮かぶわけです。
>大学生だった頃の私は「そお~だよなぁ」と同感したものです。そして、そういうものではない諸学を「いいかげんな学問」と思っていました。が…

私もそう思っていました。

 ヘーゲルって、江戸時代の人です。(…何人か、ズッコケました?)
 その「体系」が崩壊していることは論を待ちません。彼は『歴史哲学』を体系に包摂することで世界精神が歴史の中に現象する必然性を記述し、「歴史を知として所有」したつもりだったかもしれませんが、現実の歴史では現実的なものは理性的になってるとは限りませんし、理性的なものは現実的になっているとは限りません。
>お~い世界精神、どこ行ったんだ~? てなもんです。

これには異議あり。
ヘーゲルが主張しているのは「世界精神がどこかにある、ないしどこにあるか?」ではなくまして「歴史を所有する意思」でもありません。あくまで彼の主張は「電光石火で私(ヘーゲル)が世界精神である」としているに過ぎない。


 「現実」は永遠に完結しない。「知」は現実を「所有」できない。原理に回収しきれない新たなものを生み出しつづける。「完結した体系」にはまとめられない。…社会学という学問は、まさにそういう現実に直に立ち向かうフロンティアなのだと思うのです。「学として」まとまるはずなどない。そして、
>それは恥ずべきことではなく、むしろ誇るべきことである、と。

社会学は「フロンティア」などではあり得ない。
社会学を専攻するものが謙虚なのはあれが経済学と同じく個々の「立場」上の記述以外にないことを思い知らざるを得ないからです。
こいつは笑止!
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pikittoさんへ


>社会学は「フロンティア」などではあり得ない。
>社会学を専攻するものが謙虚なのはあれが経済学と同じく個々の
>「立場」上の記述以外にないことを思い知らざるを得ないからです。
>こいつは笑止!
serpent-owlさんが
>「百人の社会学者がいれば、百通りの社会学がある」などと。
と書いた上で
>まさにそういう現実に直に立ち向かうフロンティアなのだと思うのです。
>「学として」まとまるはずなどない。
と書いてることを読み落としてますね。
つまり、serpent-owlさんは
「個々の立場の上でしか成立しえず、『学』としてまとめようもないものを、
必死で『学』としてまとめようともがく行為はフロンティアというに値する
険しく厳しい道のりである。」
と言っておられているのではないかと解釈するが、あなたはいかに解釈する
「立場」によりこれを「笑止!」と言い捨てるのでありましょうか?
(serpent-owlさん身勝手なる解釈を付け加えることをお許しください。)

人をけなし、罵倒する行為はその人の言わんとすることを理解し、
その矛盾点をついたうえでするものです。
そうでなければ、あなたはあなたの思考停止を露呈し、
あなたが「笑止!」どころか「失笑」をされる「立場」になる結果を
呼びます。

さて、まず、あなたは「立場」をなんと規定するか説明願いましょうか。
人は生まれながらに「立場」を有するものではなかろうか?
しかるに、あなたの弁ではあなたは「立場」を有さぬように言われている。
しかし、「立場」を有さぬ者が議論などするだろうか?
できれば、下劣な罵倒、中傷以外でお答え願いたいものです。
あなたが、「失笑」をされる「立場」になる結果を招かぬように。
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 halvaさま


 「質問6」まで、一通りのお答えをいただきました。ありがとうございます。本腰を入れたコメントは少し待っていただくことにして、軽くコメントさせていただきます。

 ニーチェの「価値転換」は、halvaさんがご覧になったであろう私の書き込み(たぶん、「フレデリック・ニーチェ」だと思いますが)に書かれておりますように、「事物に備わった力への意志によってなしうることをさせない力=反動的な力によって形成された価値体系を反転させ再構築すること」です。乱暴に要約すれば。
 が、halvaさんの言われる「価値変換」は、文脈から言って「自己否定状態の意義を、自分を磨くため等のように捉えること、外界に直接働きかけるのではなく、自分を変えること」という意味です。 ニーチェの言う「価値転換」とは明らかに違います。「言葉の定義段階の問題」ではありません。何の関係もありません。
 (念のため。ニーチェの「価値転換」は、むしろhalvaさんの言う「外界に働きかけ、対象価値を変更する」方に近い。ですが、これを「ニーチェが個人的に感じた自己否定状態を回復するため」などと卑小化する解釈は願い下げです。)

 次に「論理学のおさらい」について。「2-a」、すなわち全称肯定命題の例として「東京は日本の首都」を挙げるのは、いささか具体例として適切でないように思いますが、他は大体合意できる…かな。しかし…あまり意味のある仕事をなされたとは思えません。お時間をかけたであろうと思いますので、こう言ってしまうと申し訳ないのですが。

 で、「質問」について。
まず「1」。要するに「すべての心的内容は命題により記述可能である」という「命題」が真であることを主張されておられる。これが「心・命題同一説」の根幹であると理解してよろしいですね? 私は「命題記述が心を哲学的に捉える作業に充分であるか」と問いました。お答えは「充分である」ということのようです。
 これについては、まず「全称命題は一つの反例があれば偽とされる」という原則を指摘しておきます。これこそ釈迦に説法でしょうが。
 ではここで、次の命題を考えていただきたく思います。すなわち、
「私(serpent-owl)は、halkaさんを可愛らしい素敵な人だと思っている」
です。「私」の心情内容を記述した命題です。
 いやぁ~、困ったものです。一歩間違うと「オンライン・セクハラ」です。とゆーのも、これは今までの経緯から考えると「皮肉」と解釈することもできるからです。あるいは単純に、serpent-owlというスケベ男の劣情の表明とも。純粋な好意の表明と受け取られる可能性は皆無に近いでしょう(ホントはそうなのに…しくしく(;;)。
 かような単純な命題でも、「現実には」多義的なのです。そこに盛り込まれた諸概念の「外延」にも「内包」にも関わりがない、命題そのものが置かれた「文脈」に応じて命題の意義は多様化します。(ついでに言うと、その「文脈」自体もまた、現実には客観的に把握することは困難です。)
 この場合、「ホントのキモチ」を私自身が表明しています。是非言葉通りに受け止めてほしいのですが、しかしこれをしも「皮肉」と捉えることも不可能ではないのです。決定不能。「証明」できますか? 私の本当の気持ちを。…私自身にすら、証明はできません。「これって、もしかして…恋? いいえ! …でも…そんなこと…ちがうわ…でも…うーん…もしかして…ひょっとしたら…でもまさか…あらあら…困るわ…そんなことないわよ…でも…」…という…なかなかに御苦労様な状態が、人間にはあるものです。
 「反例」は、いくらでも御用意申し上げることができると思います。

 では「2」~「4」です。
 やはりまだ「答になっていません」。「すっぱいブドウ」でも「甘いレモン」でも何でもいいんですが、すでに題意を確認しましたように、私がお尋ねしているのは「自分の考え方を変えるか、外界を変えるかの選択を根拠づける心的内容は、お示しの論理式のどこに表現されているのか」です。ごまかさずに、そこにまっすぐ回答をいただきたい。神戸やバスジャックの加害者少年らが「我々の持つ倫理に触れる結果となる手段を不幸にも選択してしまった」とのことですが、戦国時代なら罰せられなかったとか、そういうことが問題なのではなく、その「不幸にも選択」というのが何から生じたのか、が問題なのです。
 さらに「質問4」に関しては、halkaさんが「対象価値の変換」と呼ぶ行動の具体的内容に踏み込んで尋ねたつもりでした。「鬱憤晴らし」や「地域での我が子の承認」が動機・目的であることを一旦は受け容れたとしても、その具体的な手段・方法、ないし「手口」はどう説明されるのか。
 神戸連続児童殺傷事件の加害者少年は、被害者少年の頭部を切断し、これを小学校の校門に「陳列」しました。この一連の行動が「お示しの論理式」からどう解釈できるのでしょうか。なぜ、かばんからウサギのぬいぐるみを取り出して殴る蹴るなどして「鬱憤晴らし」するに留まらなかったのか。「鬱憤晴らし」なら、それはそれで結構ですが、なぜ人を殺害し、さらには死体を切断し、あまつさえ校門に晒したのか。このことを説明しない限り加害者少年の「心」を「解釈」したことにはならないでしょう。その「解釈」が、お示しの論理式から導出できるとはとうてい思えません。よしんばそれが「因果論的判断モジュール」や「目的論的判断モジュール」の導入により解釈可能となったとしても、それは論理式自体には盛り込まれていないではありませんか。それらは、まったく無根拠な「外挿」という形でしか与えられないように思います。

 ではとりあえずの結論を。
 「心・命題同一説」は無効です。
 この暫定的結論は、私の中ではずいぶん前から固まっていましたが、もう出してもいいでしょう。私の質問に対する有効なお答えがない限り、この暫定的結論は維持されます。

 さて、少々眠いので、「質問5」「質問6」については、またあとで。

    *

 satonohukurouさんへの回答が二の次になってしまって申し訳ありません。…でも、今回のこの書き込み、実は「内部観測」の話と重なる部分があったのです。実際に考え方を援用してみることで、徐々に自分のものにしているという感じです。
 それにしても、ご質問をきっかけに、私自身、本当に勉強になっています。これがこのサイトのいいところ、私が参加している理由です。よろしくお付き合いの程。
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halka様:


>棚の上のコップを取る,という一連の動きを観察してみよう。
>その観察事実は時刻tmよりtnにおいてあったとしよう。
>コップをとる腕の筋肉運動量、速度、変化率、筋肉内の化学反応、
>あるい はそれを操作する脳との関連において時間tmよりtnに
>至るまでのそれらの測定値を観察することにより得られるのが
>客観的判断である。

なぜ?
例えば、貴方が測定したとして、その結果がなぜ
観測者に依存しないと言い切れるのでしょうか?

>これに対して時空に他者を認め、 水が飲みたいので棚の上のコップを
>とったのだろうとするのが主観的判断である。
>「だろう」というのは他者の「たし」は観察不可能であるゆえ断定できない。

ええ、リンゴが地球に向かって落ちるのは
リンゴと地球がたがいに引っ張りあうからだ
というのも観察不可能です。

観察できるのは、ただリンゴが地球に向かって
落ちるという現象だけでしょう。これに対して、
互いに引っ張り合うという判断は観察不可能
でしょう。

すなわち、物理学の根本は実は主観的判断です。
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 けっこう固まってきました。

「内部観測」に関して、自分の理解にまだまだ修正の余地があることを自覚していますが、自分が知る領域に引き付けてある程度把握できた気がします。
 ここでも回答されているmotsuanさんの質問「人間にとって物語とは何なのでしょう?」(下記URL参照)への私の回答No.8で書いたのですが、「ガダマーの解釈学」。これで途中までは行けそうです。それをここに再掲(コピペ)するのはいくら何でも暴虐ですので、そちらはそちらで軽く目を通していただくとして、ここでは簡単にかいつまんで書きます。

 ガダマーは、ある文章(特に古典)が内包している「意味」を客観的に読み取ることは不可能だと断じています。というのは、文中のある単語の意味はそれが置かれた文脈に規定され、その文脈もまた文章全体の中で位置付けられて意味を持ち、さらにはその文章そのものが、それが書かれた社会や時代背景という大きな「文脈」の中で意味を持つものだからです。「客観的に」読み取ろうというのであれば、それらすべてが「客観的に」把握されていなければなりません。ところが、逆に見ると、文脈は単語から形成され、文章全体は文脈から形成され、社会や時代背景はその文章を含む雑多な文物から形成されています。つまりここには「どうどう巡り」が生じてしまう。単語と文脈、文脈と文章、文章と社会は、互いに他方に依拠して支えあっている。…どちらか一方が「客観的に」固定されていれば、他方も客観的に固定できる見込みも立つのですが、それは事実上不可能です。したがって、ガダマーは「文章の客観的読解は不可能だ」とするのです。
 このあたりの問題の枠組みは、内部観測論の「内部観察者」と「観察対象」との関係にきわめて近いものがあると感じました。完結した系を外部から観察する「外部観察者」とちがって、内部観察者は完結していない(開放系の)系の中で、対象を同定する「文脈」、その文脈を規定する文脈、その文脈を…という無限遡行を強いられるのです。ここでも「客観性」というものは、素朴な自然科学が前提する「カルテジアン・カット」のように簡単には得られません。

 さてしかし、ここでガダマー先生には「脱臼」していただかなくてはなりません。百歳を越える御高齢なのですが…。
 というのは、やはり問題が「人の心」となりますと、ガダマーがテクストを相手に構想した解釈学とはまた別の問題が生じるからです。
 ガダマーが相手にしたのは、あくまでも「古典」でした。現代のわれわれと、過去との間の「文脈」の差異、これがあるがゆえに「問いと答えの弁証法」が生じ、テクストと読者の双方を巻き込んだ運動となり、その中で「地平」が融合していきます。その運動全体こそが「真理」であると彼は述べています。そこでの「真理」は、それが掴まれてしまえば運動が終結するというような「客観的な」ゴールではありません。無限の、開放系の弁証法です。
 前の書き込みでも述べましたように、人間および社会を相手とした知は「開放系の知」であらざるをえません。ガダマー解釈学も開放系の知にはちがいないのですが、それでも既に完結した「テクスト」、および既に完結した「過去」を相手にしています。これに対し、私たちが考えようとしている「心」は、現在のものを当然含みます。したがってなおのこと「完結していないもの」と言えましょう。テクスト以上に。
 この点に注目しますと、例えば「人間とは何か」という設問は次のように分解できます。すなわち、
   「人間は何であったか」(過去への視線)
   「人間は何でありうるか」(未来への視線)
です。
 前者については、一定の時間の区切りさえつければ、何とか答えが得られる可能性があります。ところが後者に関しては、やはり未来というものの本質的原理的予測不可能性ゆえに決して解答は得られません。また、過去は常に「現在」が積み重なっていくことで膨大に膨れ上がっていきます。そのことを考えると「過去」を片付けるのも容易ではありません。
 同様のことが「心とは何か」という問いに関しても言えるでしょう。この問いもまた、
   「心とは何であったか」
   「心とは何でありうるか」
という二つの問いに分けられます。以前予告申し上げていた「文学っぽいアプローチ」というのは、実はこの前者の問いに関わるものでした。「心の真実の姿を覆い隠しているかもしれない《近代の神話》」を剥ぎ落とすために、過去のさまざまな時代、さまざまな地域との間に「問いと答えの弁証法」を経験することを通じて「心」というものを見ていく…そういうようなことでした。
 でもやはり、それだけでは話は済まない。…と、こう来ますと、satonohukurouさんの問題意識である「幻影肢」からはガンガン話が飛びまくるわけですが、本質的に予測不可能が未来が絡む以上は、少なくとも「心の可能態」に関して説明するところまでは行っていないと「心の哲学」として充分なものにはならないのではないかと考えます。これ、ものすごいことですので、もちろんsatonohukurouさん独りでやれってことじゃないです。関連学界全体でそっちもやんなきゃいけないのではないかと。
 「心の可能的なあり方」だと、まずは「脳」。心を担う物質的基盤として。心的内容を納める器として。
 そして「心理学」。…以前の書き込みをお読みいただいてお分かりと思いますが、私は過去、および現行の心理学にはあまり厚い信頼は寄せていません。一定の有効性はあるでしょうが、いつでも「エセ科学」に堕しうる。少なくとも思索の素材を提供する学、そしてできれば、素朴実在論的実証主義を乗り越えた学となってくれれば…と願います。
 でもって「哲学」。人間および世界を捉えようと試みる知としての。
 要するに物質的基盤から観念に至るまでの多層的なレベルのどこかに還元するのではない、その全体が絡み合った複雑系として「心」を眺めてみる必要があるのではないかと思うのです。それができるのは「科」に分化した「学」たる「科学」ではなく、哲学でしょう。

 幸いなことに、前の書き込みでも紹介しましたように、カオス論などへの注目あたりから、科学の側から人文諸学への歩み寄りが始まっております。「カオス」というのは、解釈の対象たる「自然」の側から人間に突きつけられた「否」であろうと思うのです。「問いと答えの弁証法」を稼動させるところの「否」。それに科学はようやく耳を傾け始めた。ですが哲学を初めとする人文諸科学は、太古の昔から一意に還元できない人間的諸現象を宿命的に、当たり前に相手にしてまいりました。この点からして、「歩み寄り」は「科学の側からの」歩み寄りです。人文諸学の側からではなく。
 ここから、「哲学の見方」と「科学の見方」という両者の区別には神経質になりすぎることもないかな、とも思えたりするわけです(哲学と科学を截然と区別すると、哲学もまた仕切りの中に囲われた「科-学」の一つに成り下がることにもなりますし)。ただ、「科学」が示すことどもを盲目的・無批判に受け容れるのではなく、その知の成立基盤を問い、疑い、検証しつつ取り込む…そういうことでよいのではないかと考えます。

 何やら話が拡散して、ご研究には直接役立つ範囲を逸脱しているのではないかと恐れますが…いかがでしょう。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=39578
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この回答へのお礼

ご回答の皆さまへ

 No50 の回答にお礼をし書いている現在も、議論ははるかに先を行っております。お礼が遅く申し訳ございません。serpent-owl さんから結論をいただきましたので、少しコメントさせていただきます。

serpent-owl さまへ

 長い間、本当にありがとうございました。また返礼が遅くなりましたことをお詫び申し上げます。serpent-owl さんにゼイゼイと息を切って、振り落とされまいと、付いて行くのがやっとという状況です。
 多岐にわたるご回答をいただきましたが、お礼としてまして、私の最大の関心事に限定し理解できたことと、私の本質問から得た私の考えを述べたいと思います。

 「心」に関する「知」が有する性質=「開放系の知」であり「完結していないもの」である。このパースペクティブからは「過去への視線」と「未来への視線」が得られる。
 過去は現在の累積でありその無限性から説明が困難である。未来は本質的原理的に予測不可能である。予測不可能性から少なくとも「心の可能態」に関する説明が必要ではないか。すなわち、「脳」、「心理学」、「哲学」など、いわゆる物から観念までの各階層のいずれかに還元するのではない『その全体が絡み合った複雑系としての「心」を眺めてみる必要』がある。

 科学は、自らの拠り所であった実証主義から現象(世界)を説明することに限界があることの自覚から人文諸学への歩み寄りが始まっている。このような現況からすると、「哲学の見方」と「科学の見方」の区分に神経質になることもないのではないか。要は、真理を追究する態度で重要なことは、「その知の成立基盤を問い、疑い、検証しつつ取り込む」ことではないのか。

 大変貴重なそして重い回答でした。心という事象をいかに説明するのか、ということを勉強していくうちに、哲学での分野での説明と、科学での分野での説明の態度に疑問を持つようになりました。それは、哲学で使用している心に関する知識は科学的知識をも根拠としてしているのではないか、それなのに科学において心は学の対象足りうる資格を有するのかという問題を有するのではないのか、この2つの疑問のために、一体「心を説明する」と言うことはどういうことなのだろうか、という問に突き当たる羽目に陥ってしまったのでした。

 serpent-owl さんの回答から私が学んだものは、

「心の性質(本質)を理解せよ、そしてそこから出発せよ。既存の論理に還元するな。」

でした。

 serpen-owl さんは、心の本質を「カオス」ととられておられました。「開放系の知」としての本質です。先に引用しました「心の科学は可能か」(土屋 俊、認知科学選書)で、土屋は結言に代えて心の説明の困難性について、心の「文脈依存性」を指摘しています。すなわち「私」と「社会」を内容に含む概念は形式的処理が困難である、としています。serpent-owl さんの回答にも通じるものがあると感じました。

 そこで、心の概念を説明していくうえで問題とすべきは、「複雑系」、「文脈依存」で性格づけられる心を説明するに相応しい「論理」を見出していくことだと思います。心の概念を説明する論理として「カオス」、「量子論」、「進化論」・・・(たぶん他にもあるはずですが、これから勉強していきます。)が議論されているのだと思います。
 
 「心の可能態」に思いをいたすと、なんだか「心」がますます果てしなく遠くのものになるように感じますが、とりあえず、第一歩を踏み出すために、私に何ができるかを考えてみたいと思います。

本当に貴重なご意見ありがとうございました。多くの方に参加していたできましたので、その方々にお礼をしなければいけません。もう少しオープンにしておきます。そして、少しずつ終末態勢とさせていただきたいと思います。

お礼日時:2001/04/08 17:26

fwappyさま


>なぜ?
>例えば、貴方が測定したとして、その結果がなぜ
>観測者に依存しないと言い切れるのでしょうか?

もうしわけありません。fwappyさまの主張を聞いていますとserpent-owlさまが善悪の
説明で一元論二元論の解説をされていましたが、そのひとつの立場を主張されている
ようにうけとれます。あなたの場合・・・
観測者に依存する存在の証明・・・主観的
観測者に依存しない存在の証明・・・客観的
と解釈されているようです。そして後者は不可能ゆえに無意味ということでしょうか?

わたくしはクオリア論もひとつの理論である以上、対象がある特定の意識にしか知覚で
きないものを対象としていても、何らかの過程を経て全ての人に共有できる真理となりう
る議論と考えておりました。ちょうど色盲の方が特定の感覚しか持てないものに対して
その「見え」の構造は万人のものです。ゆえに赤と緑の識別具合の差において数文字の
知覚レベルに差が出てくることがわかっているのではないでしょうか?
観察者を必要とする、しないが主観客観の差とはおもえません。客観とは対象の存在を
明示する命題に付き共通の判定が出きるということとおもっていましたが、それは観察者
の有無とは異なるものと考えます。以上の事由により、クオリアの議論においても「主観」
「客観」の概念定義を明確にする必要があると思うのすが?
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(halka様)


>あなたの場合・・・
>観測者に依存する存在の証明・・・主観的
>観測者に依存しない存在の証明・・・客観的
>と解釈されているようです。
>そして後者は不可能ゆえに無意味ということでしょうか?

そうです。

>わたくしはクオリア論もひとつの理論である以上、対象が
>ある特定の意識にしか知覚できないものを対象としていても、
>何らかの過程を経て全ての人に共有できる真理となりうる
>議論と考えておりました。

まず、いっておきますが、私は心脳問題に興味があるというだけで
茂木氏のクオリア理論に賛同しているわけではありませんよ。

次に、私は「全ての人に共有できる」という判断が個々人に
できるとは考えません。したがって、今の自然科学といえども
「すべての人に共有できる真理」だと示すことはできません。

>ちょうど色盲の方が特定の感覚しか持てないものに対して
>その「見え」の構造は万人のものです。

見えの構造とは何でしょうか?

貴方が区別するものを私も区別する。
それが「共通性」の証だということでしょうか?

ところで、なぜ貴方と私のコミュニケーションが
貴方なり私なりに依存しない「透明」なものだと
考えられるのでしょうか?

>ゆえに赤と緑の識別具合の差において数文字の
>知覚レベルに差が出てくることがわかっているの
>ではないでしょうか?

「わかった」のは誰ですか?

>観察者を必要とする、しないが主観客観の差とはおもえません。
>客観とは対象の存在を 明示する命題に付き共通の判定が
>出きるということとおもっていましたが、それは観察者の有無
>とは異なるものと考えます。

では、尋ねますが、「共通の判定」は観察者に依存しますか?
しないのなら、観察者の有無にも関係しません。すなわち
「共通の判定」があるというなら、観察者が無くとも存在しなくては
なりませんよ。それはいったいいかなるものですか?

>以上の事由により、クオリアの議論においても「主観」
>「客観」の概念定義を明確にする必要があると思うのすが?

その前に、貴方がいう「共通性」を明確にする必要がありましょう。
如何ですか?
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fwappyさま



>茂木氏のクオリア理論に賛同しているわけではありませんよ。
そうでしたか、ごめんなさい・・・。なんとなく茂木様に基本的に賛同していると考えて
おりました。

>見えの構造とは何でしょうか?
特定の光波に対して如何なる色が対応して、また特定の部位の疾患が色彩を見分ける
能力をそこなわせるとか・・そうした知識です。

>ところで、なぜ貴方と私のコミュニケーションが
>貴方なり私なりに依存しない「透明」なものだと
>考えられるのでしょうか?
>「わかった」のは誰ですか?

fwappyさまの区分わけで気になるのは、全ての知識が主観的で個々人に依存している
としてしまうことは「この赤い花は薔薇です」という言明と「この薔薇は美しい」という言明が
両者とも主観的言明であるというだけの認識しかもてなくなってしまうのでは、ということ
への懸念です。
もしあなたの区分に従うなら天文学の教科書に「火星には衛星が二つあるのに地球には
一つしかないのは残念である」といった記述が出てきそうです。

>その前に、貴方がいう「共通性」を明確にする必要がありましょう。
如何ですか?

ここでわたしのいう共通性とは・・・
先に述べたわたしの論旨をご覧になればわかるとおもいますが、時空という議論領域に
現れる他者の時空における対象の存在言明は共通であると思います。
あなたが「いま、目の前に薔薇がある」という言明に対してわたしが知覚できないとしたら
その命題を真とは判定できません。わたしはあなたが嘘を言っていると判定するのです。
その種の命題を事実命題としてあなたとわたしは共通の判定ができると思います。
しかしあなたが「薔薇はいいねェ」といって、たとえわたしがそれを嫌っているとしても、あ
なたが嘘を言っているとは考えません。
ゆえにそうした命題は議論領域により差異が出る、としてなんとかまとめようとしています。
それがすなわちsatonohukurouさまにおける「哲学」と「科学」の差と考えるからです。
fwappyさまの場合こうした分類はまったく意味がないということでしょうか?
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