心について科学哲学の立場で勉強していますが、壁にぶつかってしまいました。
それは、心について、哲学の立場で説明することと、科学の立場で説明することの違いが判らなくなってきたのです。

 哲学では、心に関する「概念」を論理分析していくことだ。科学では、「仮定」と「実験」で理論を実証していくことだ。との説明がありました。しかしながら、哲学での「概念」は当然のこととして科学理論をも踏まえたものであります。

 そうすると、哲学の概念の中にも科学理論が内包されているわけで、そのような概念とは、科学理論とどのような違いがあるのだろうか、という疑問に突き当たってしまったわけです。

 これは、哲学するとはどのように思考展開していくのかという疑問にも通じることです。アドバイスと参考文献の紹介をお願いします。

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似非 科学」に関するQ&A: 政府は命に係わる危険情報や似非科学にどう対応すればいいと思いますか?

A 回答 (83件中41~50件)

果てしなき議論?を追っていって・・・さて素朴な疑問。



「学」とは何かというと、ヘーゲルを齧った私には『精神現象学』序文に見える「教えうるし学びうる、方法的かつ体系的なもの」という定義が思い浮かぶわけです。
>大学生だった頃の私は「そお~だよなぁ」と同感したものです。そして、そういうものではない諸学を「いいかげんな学問」と思っていました。が…

私もそう思っていました。

 ヘーゲルって、江戸時代の人です。(…何人か、ズッコケました?)
 その「体系」が崩壊していることは論を待ちません。彼は『歴史哲学』を体系に包摂することで世界精神が歴史の中に現象する必然性を記述し、「歴史を知として所有」したつもりだったかもしれませんが、現実の歴史では現実的なものは理性的になってるとは限りませんし、理性的なものは現実的になっているとは限りません。
>お~い世界精神、どこ行ったんだ~? てなもんです。

これには異議あり。
ヘーゲルが主張しているのは「世界精神がどこかにある、ないしどこにあるか?」ではなくまして「歴史を所有する意思」でもありません。あくまで彼の主張は「電光石火で私(ヘーゲル)が世界精神である」としているに過ぎない。


 「現実」は永遠に完結しない。「知」は現実を「所有」できない。原理に回収しきれない新たなものを生み出しつづける。「完結した体系」にはまとめられない。…社会学という学問は、まさにそういう現実に直に立ち向かうフロンティアなのだと思うのです。「学として」まとまるはずなどない。そして、
>それは恥ずべきことではなく、むしろ誇るべきことである、と。

社会学は「フロンティア」などではあり得ない。
社会学を専攻するものが謙虚なのはあれが経済学と同じく個々の「立場」上の記述以外にないことを思い知らざるを得ないからです。
こいつは笑止!
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fwappyさま、お相手頂きましてありがとうございます。


ちょっと強引だったことお詫びします。
あなたとのお話がsatonohukurouさまの疑問解消に役立ちますように・・・。

おふたりとのお話の中で懸念事項があります。
(serpent_owlさま)
>なお、ニーチェの言う「価値転換」と、halkaさんの言われる「価値変換」とは、何の関係もありません。老荘思想も同様です。
(fwappyさま)
>全ては主観的判断でしょう。

これらは言葉の定義段階での問題のように思われます。
serpent_owlさまはわたしに1~6の質問に答えさせた上で有り余る知識に基づき
その不備を指摘して過去の先人の権威のもとに無意味さを指摘するものと思い
ます。もちろん先人の有益な主張は省みてより有効に使われるべきでしょう。
わたしがこうしてお話できるのもそうした先人たちの知識をもとにいくばくひねくり
まわしたものを提示しているに過ぎないと考えます。
しかしそのひねくり回したものが意味を持つためには、すくなくても三者の間では
基礎となる合意部分が必要ではないでしょうか?
基本的に使用している術語に付き、合意に達するかどうかそこからはじめたいと
おもいます。まず私が提示しますので合意調整ができればと思います。

1.概念:対象を名辞したもの。内包と外延より形成される。

2.命題:概念と概念が結ばれたもの。この結合の仕方に「すべての」と「ある」がある。「AはBである」A:人間 B:哺乳類として 厳密には「(全ての)人間は(ある)
哺乳類である」と記述される。このときAはBの外延でありBはAの内包である。
結合の仕方には
a.(全ての)-(全ての)
b.(全ての)-(ある)
c.(ある)-(全ての)
d.(ある)-(ある)         の四区分がある。

3.意識は概念を生み出し命題を判断するものである。判断には真と偽がある。
真の否定が偽であり、偽の否定が真.である。
2-aのサンプルとして「東京は日本の首府である」が真のとき「東京は日本の
首府でない」は偽。個者は(全ての)において適応される。

4.存在:命題の表示形式である。
「AはBである」を命題の繋辞表示という。
「BにAがある」を命題の存在表示という。両者は同値である。

5.存在表示における前件を議論領域という。
代表的なものに事実(時空)、可能、価値がある。
「棚の上にコップがある」のような命題は、これら三区分の命題の中で語られる。
この命題をFとしたとき
・Fが事実であれば感覚がこれを判断する。
「棚の上にコップがあるのが見える」「棚の上のコップをつかんで確かめた」
・Fが可能であれば推測がこれを判断する。
「コップは棚の上かもしれない」「棚の上のコップがあるはずだ」
・Fが価値であれば意識自身の満足度においてこれを判断する。
「コップは棚の上に置くべきである」「コップは棚の上において置いておきたい」
これらの命題は2-dの形式である。
「机の上にコップがある」が事実において真である場合、時空の部分である
「いま、机の上」(ある時空)に対して「あるコップ」が結びついたものである。

以上の三区分の根拠となるのは我々の使用する言語の助動詞の区分である。
助動詞の添える意味として
イ.使役(せる、させる) ロ.受身(れる、られる) ハ.可能(れる、られる)
ニ.自発(れる、られる) ホ.尊敬(れる、られる) へ.希望(たい、たがる)
ト.打ち消し(ない、ぬ) チ.推量(らしい)     リ.様態(そうだ)
ヌ.伝聞(そうだ)    ル.比況(ようだ)     ヲ.断定(だ)
ワ.ていねい(ます、です)カ.過去完了(た)   ヨ.推量・意志(う、よう)
ツ.当為(べき、べし)
のような分類に対して尊敬のような特殊なもの、意志の絡むものを除いて
(それは行為の宣言であり判断ではない)振り分けられたものである。
なお、価値を表す助動詞として希望、当為があるが前者は自分自身の満足度
をもとめるものであり、当為はこの満足度を自己の所属する仲間内、社会ないし
行動基準の信念に投影したものである。

6.判断は時空内部での意識によって命題に対して行われる。
(1)全ての時空において一致する判断が客観的判断である。
(2)ある時空において特異である判断が主観的判断である。

fwappyさまぜひあなたの定義をお示しください。

棚の上のコップを取る,という一連の動きを観察してみよう。
その観察事実はtmよりtnにおいてあったとしよう。
コップをとる腕の筋肉運動量、速度、変化率、筋肉内の化学反応、あるい
はそれを操作する脳との関連において時間tmよりtnに至るまでのそれらの
測定値を観察することにより得られるのが客観的判断である。
観察によって記述された記録は全ての時空に対して真理値1をもつものと
する。これに対して時空に他者を認め、
水が飲みたいので棚の上のコップをとったのだろう
とするのが主観的判断である。
「だろう」というのは他者の「たし」は観察不可能であるゆえ断定できない。
tmよりtnにおいて発生した一連の運動の感覚観察に対して、二つの知覚
観察を持つことが出きる。これはルビンの図形に対して向き合った人を見る
か酒盃を見るかのごとく、感覚情報を処理する際におこなわれるふたつの
モジュールのうちのいずれかの適合である。
・因果論的判断モジュール ・目的論的判断モジュール
前者のモジュールにおいては助動詞「たし、べし」を含む命題は介入せず,
後者のモジュールにおいて介入する。


幾つか議論の中心となる概念に付き定義してみました。
意見の違う部分および未提出の概念について追加をお願いします。
(serpent-owlさま)
以上の各概念の合意の上に以下の質問回答へのご批判をお願いします。

>質問1:「人間の心は命題論理や述語論理で記述できるとお考えですか?」
>それは「できる部分もある」ことを認めるという程度のことです。

前回も示しましたとおり価値可能に対して主観的判断を含む論理学でひとの
心は記述可能と思われます。たとえばキリスト教や一部仏教の死後の生活
を説く宗教は例の真理表の2行目から1行目への脱却を狙うものです。
すなわち、幸せな生活は死後の意識という可能性のうちに約束されるのです。
奇跡を見せる宗教は可能性のレベルを0→1に変換せしめるものです。
前回も申しましたが老荘思想は真理表3行目から1知行目への移行をねらう
ものです。これは価値へのアプローチです。

>質問2:「事例分析(1)について。厳しい教育に対して鬱憤晴らしをする子としない子とのちがいは、お示しの論理式のどこに表現されていますか?」

>質問3:「事例分析(2)について。自分を磨くか周囲のせいにするかに関する本人の選択は、お示しの論理式のどこに表現されていますか?」

>質問4:「事例分析(3)について。他の子どもがいなければよいという論理的推論の結果、幼児を殺害したのなら、なぜ一人で終わったのですか? また、幼児殺害が逆に『地域社会における我が子の肯定』を阻害する可能性の考慮は、被告女性の論理的推論には入らなかったのですか?」

わたくしはこの三つの質問を同レベルで捉えておりましたserpent-owlさまには
ご不満かもしれません。
イソップの「すっぱいブドウの論理」をご存知かと思います。
意識は環境を知覚して「ブドウがある」を確認した次に「ブドウを食べたい」それに
は「ブドウを取る」と推論するのかもしれません。
VF「ブドウを取るは良い」 PF「ブドウをとることが出きる」 VS「ブドウを食べて
わたしは満足」となるわけです。
ここでまず「ブドウを取る」という可能性へのアプローチがあるでしょう。
ここで機軸となる論理式は、公理系Lの選言取りかと思われます。
目的的活動は最終目標Cに至れば良いわけですので
「A∨BかつA⊃C、B⊃CよりCを導出して良い」となるわけです。
すなわち目的にいたることが可能ならば、棒で持って取っても良いし、
石を投げて落とすというてもあるわけです。取りうる可能な手段を持ってPF=1
を達成するわけです。
残念なことに寓話はPF=0のまま推移しました。取りうる可能性はVF=0を
願い真理表の4行目への以降を狙って「あのぶどうはすっぱい」という未確認
の情報であり真とはなり難いので不合理とされたのでしょう。
しかしながら受験などの競争に敗れたとき、伴侶獲得に失敗した時、家族
に死なれた時など、それは一度は高い価値を設定したわけですから、その
変更は容易なものではありません。しかしながらVS=1は実現されねばなら
ないとおもいます。そのためには気にしない,わすれる、きりかえる・・・などで
対象価値の削減は実行せざるを得ません。

酒鬼薔薇、バスジャック、お受験はこうした価値判断レベルの変換にまでは
行きついていないサンプルかと思います。彼らは可能性にかけていたと思い
ます。しかしながら病的な手段我々の持つ倫理に触れる結果となる手段を
不幸にも選択してしまったと考えます。もしかれらが戦国時代の権力者なら
罰則は加えられなかったでしょう。彼らは満足を得るのです。

>質問5:「フラクタル現象学の見地からの一般論導出とは、どのようなことですか?」
今日の脳化学であればやはり物理学や化学を前提とするものと思います。
カタストロフィーやカオスにしても基本的に現象に対して因果論モジュール
を適合するわけです。ここには「たし、べし」はありません。
ゆえにそうした複雑な因果論モジュールをフラクタル現象学の一般論導出と
表現しました。

>質問6:「単純な統計的手法が哲学の方法だとお考えですか?」
わたしの示した目的論モジュールは、たとえば他者の痛みは観察できない
としながらも現実には表情や反応で自分を投影して解釈を与えています。
そこから不都合が出るケースは蓋然的にはほとんどないでしょう。
私はファジィないし統計で目的論モジュールは観察可能と判断します。
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halka様:


>fwappyさまが、どう返すかなとかおもいまして



>先ごろよりクオリアエイジェントの方がいらしているようなので

エイジェントって何でしょうか?

>クオリアについてひとこと。
>上記の例でいえばクオリアとは事実命題の主観的判断ということがいえます。

全ては主観的判断でしょう。

>水平線上の月と空中の月のどちらが大きいかということで、賭けをしました。
>「水平線上の月のほうが大きい」は質感を伴う実感であり主観的判断です。
>結果、計測器を用いて視野角度は同じ、命題Fは客観的判断において
>偽となりました。

計測器を用いたのは誰でしょう?
視野角度の「視野」とは誰のものでしょう?
計測者自身の主観が、命題Fを自ら反駁した
というべきでしょう。

>ここで主観的判断F=1は有意味性を持つのでしょうか?

先の反論において、大きさを視野角度としましたが、
その判断が「正しい」かどうかは疑われるべきでしょう。
実際に二つの月を見てから、大きさを判断する過程を
調べる必要がありましょう。

したがってクオリア(というよりも主観的経験)は
十分に意味を有します。
意味がないのは”客観(的真理)”でしょう。
Q.E.D
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 halkaさま


 まず、誤解なきように。別に「けしかけられた」から反論しているわけではありません。前にも書いたように「あいまいなうなずきあいで問題点をうやむやにしたくない」から話を詰めようとしているだけです。(とはいえ、「幼児虐待する母親」の解釈があまりに問題を卑小化しておられたため、少々感情を害したことは否定できませんが、しかしそれも前に書きましたようにあくまで具体例であって、本論ではありません。)
 「質問1」に関しては「心を哲学的に見る作業には論理学で充分。可能と価値を含めた論理学ならよい」とのお答えをいただきました。「質問2」に関しては、「自己否定状態を回復するために対象価値を変換するか、もしくは事実世界に働きかけて可能性を変換するかである」とのお答えをいただきました。ありがとうございます。
 「質問6」までのお答えが出揃うまでコメントは控えようかと思っておりましたが、軽く感想だけ述べます。
 「質問1」へのお答えにつき。事実命題を巡る論理から価値命題は演繹できません。すると、命題論理に可能と価値を導入するということは、まったく異なった公理系を持つ論理を混在させることになろうかと思われます。新たな公理系の構築になろうかと。もちろん「完全性」を証明された公理系を援用することもできません。すると、その公理系の無矛盾性証明からやらなくてはなりませんね。
 「質問2」へのお答えにつき。「自己否定の状態に陥った人間が、価値変換を選ぶか可能性の変換を選ぶか」という二者択一の必然性が、お示しの論理式にどう表現されているのか、というのが質問でした。答えになっていません。その二者択一は、結局「確率」ですか? ならば確率をどう論理式で表現するのですか。それとも「その個人の決断」ですか? ならばその「決断」を下した「心」は論理式のどこに表現されているのですか。…答えになっていません。

 なお、ニーチェの言う「価値転換」と、halkaさんの言われる「価値変換」とは、何の関係もありません。老荘思想も同様です。
 それから、「絶対的な価値」に関する私の考えについてのご質問、「絶対的な価値についてお考えになったことはありますか?」ですね。「あるなし」を選べ、と。
 Have you ever thought about the absolute value? でっか? ほな、
 Yes, I have. でんな。「ある」です。「考えたことは、ある」。
 でも、これって「証明」するまでもないですよ。私がそれについて考えたことがあるということは、「証明」するまでもなく、私が白状します。「考えたことはあります」。はい。で、それが何か問題なのでしょうか? 「全貌」というのは、halkaさんの「心・命題同一説」の全貌という意味で用いた言葉でしたが、関係…あります?

 では、残りの質問へのお答え、お待ちしています。
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そもそも主観客観はカント以前ではその概念内容が現在とはまったく逆になって


いたときいています。
subjectumはもともと、ギリシャ語のhypokeimenon(下に横たわるもの)のラテ
ン語訳であって、「変化するさまざまな性質の根底にあって変わらないもの」とい
う意味である、というのが本来の意味であったそうな・・・。
この意味に対峙する客観とは移り行く本質の束の間の表象であったとか・・・。
この意味を引き継げばむしろ表象であるがゆえに観察にこだわっているといえる
のかもしれません。
>それに…yahooに行ったところで、事情の分からない人もたくさんいるわけですから
わたくし、かの地ではpandora_mashのHNでやっています。
えげつない私の姿が知られてしまいそうですね。
>今度やったら管理部に死人が出るまで罵り倒すだけのことです。
ほほほ、たのもしき・・・。
パニックの語源であるパーン神が怒り始めると死者が出たそうでございますね。
それにしても、斯様な様になったのはわたくしがserpent-owlさまの美しきお言
葉に魅せられてsatonohukurouさまの質問回答に便乗して、あなたさまをけし
かけたことにあるやもと反省しております。
もちろんsatonohukurouさまに論理学ファンになっていただきたいとの思惑
が本来の目的でございましたが・・・。
いまとなってはgooの管理者さまのご温情にすがるばかりでございます。

>質問1:「人間の心は命題論理や述語論理で記述できるとお考えですか?」
> ・・・「できる部分もある」ことを認めるという程度のことです。でも、それで
>「心を哲学の視点から見る」作業に充分でしょうか?
前回、前々回に述べたような観点から私は論理学で充分かと考えます。
従来の論理学は一般命題のみでしたが可能と価値を含めれば如何でしょうか?

ニーチェなどもあなたのおっしゃる通り価値変換で永劫回帰思想を述べており
ます。それから宗教?かどうか老荘思想などはズバリ価値変換ではございま
せんか?無用の用・・とか。ただ価値は一元論二元論で語りうる実態などでなく、
時空と同じく議論領域と考えるのが私のやり方です。
後悔という感情がありますが、たとえば選択を誤ってつらい思いをしてしまった、
さて今になって悔しい、何とかあの時間を取り戻したい。
そこでツァラトウストラは言うわけでございますよ。超人は辛いがゆえに再びそ
の生を繰り返そうとするのだ!!
でも価値変換する構造的なものをもっと述べても良いのではないでしょうか?
今ある現実に只けちをつける御仁もいらっしゃりますが、それは自己慢心から
くる天邪鬼です。今の苦痛がたまらなくて、そうだ!と価値変換するのがニーチ
ェなのですね。可能変換はできないわけですからVS=1を達成するのは価値
変換しかないわけです。つまりこれは論理学というわけです。

>そして、私は、halkaさんの考え方は否定できるものと予想しております
>(全貌が明らかではありませんので断定はできませんが

全貌といえばserpent_owlさまは絶対的な価値についてお考えになったこと
はありますか?対象Fが価値を持つ場合、それを実現しさえすればVS=1は
達成されて意識の目的は終わるというわけです。
それについて、あるなし、をお選びくださいませ。そしてそれは論理的真理であ
るか否かを証明できたら私の勝ち,satonohukurouさまから点数を頂く、という
ことではいかが?

satonohukurouさま!! 何卒お聞き入れくださいませ!!
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>これは呼びましょう・・・といっているので「呼びかけ」です。


え?「呼びかけをする立場」ではないんですか?
>「必要のない」は私の言で後者の「必要」とは発言者の必要です。
ここに「立場の違い」がありますね。

で、「そもそも説明をする必要のないもの」って学問になり得るんですか?
「そもそも説明をする必要のないもの」だったら、
「そもそも考える必要もない」んじゃないですか?


>>そもそも・・・
>
>ほっとけ!
あれ?その程度しか説明できないんですか?
「そもそも」文章力があやしいんじゃないでしょうか?
「そもそも」意味がわかんないし、
「そもそも」論理性に欠けるし、
「そもそも」矛盾だらけですよ。
「そもそも」この程度のシロートの指摘で「ほっとけ!」?
「そもそも」その程度ならもうちょっと低姿勢で書いたら??
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>「立場のないものが哲学することである。

」は、立派な立場ではないでしょうか。
>ですから・・・その「立派な立場」というものがそもそもないものを哲学と呼びましょう。
>「立場に見合う論理展開」とはその「立場の擁護」
にもなってませんか?
これ無限連関しませんか?


これは呼びましょう・・・といっているので「呼びかけ」です。
この「立場」とは発言者の立場を指します。
正に単なる立場です


>哲学の場合そもそも説明をする必要のないものです。
>そもそも説明の必要のないものに理屈を付ける場合の
>その「説明」とはその「必要」に対する説明と相成ります。
必要無いのに必要?その必要性の説明??

発言者の言う「哲学」の定義を問うています。
「必要のない」は私の言で後者の「必要」とは発言者の必要です。

>そもそも・・・

ほっとけ!
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 哲学と科学について。

こちらを先に述べてしまいましょう。

 以前述べたことと重なりますが、科学の拠って立つ基盤たる「実証主義」は、「あるものを、あるがままに」観察することを規範としています。「客観的に」ということです。
 「客観的観察」は、いわゆる「デカルト的切断(カルテジアン・カット)」にその妥当性を根拠付けられてきました。観察対象と観察主体を切断する、ということです。「私が見るからこう見えるのではなくて、誰が見てもこう見えるのだ」ということであり、「観察する」という行為が観察対象に影響を与えないということであり、さらに言い換えれば観察対象からの「私」(個別的主体性)の排除です。
 しかし、この点については、他ならぬ科学自身の中で、その限界が指摘されてきています。例えば量子力学では、観察するという行為自体が対象を攪乱することが確認されています。「量子の位置を確定しようとすれば運動量が確率的になり、運動量を確定しようとすれば位置が確率的になり、両方を同時に確定することはできない」という不確定性原理がここから導かれています。
 また「客観」を人間が「知」として我が物となしうるかという点についても疑義が呈されています。halkaさんが名前を挙げておられるラプラス。「ラプラスの悪魔」で知られておりますね。「宇宙のすべての物体の位置と運動を知ることができれば、未来の宇宙の姿を余すところ無く予言できる」という機械論的自然観への信仰です。が、これについても、他ならぬ科学自身が「バツ」をつけています。未来は決して予測できない。例えば「三体問題」です。質量点が2つの系ならば、その運動は解析的に解ける運動方程式で表すことができ、未来永劫、いかなる瞬間の状態でも予測できます。が、質量点が3つ以上になると、その運動方程式は解析的には解くことができず、その都度その都度計算を繰り返すしかないことが証明されています(オイラーによる)。これだと未来は予測できません。運動そのものは「客観的」でしょうが、その振る舞いを「知」として人間が所有することはできません。ケプラーが十七年の歳月を費やして発見した太陽系の美しい秩序すら、細かく見れば「多体問題」の揺らぎに絶えずさらされています。この他にもカオス論絡みで「長期予報は当たらない」とか「生態系内のある生物種の個体数変化は予測できない」とか、類似のものは随所に見られます。

 上記のことから、旧来の自然科学が志向した「客観性」とは、一つ「私とは関係なく自立・自存しているもの」であり、一つ「時間的に完結しており、今後新たなものを生み出す可能性がないもの」であると言ってよいでしょう。…後者に関して補足すると、「歴史やら時代やらに左右されない普遍性に高められたもの」ということです。ケプラーの法則も、アインシュタインのe=mc^2も、原理そのものとしては「無時間的存在者」に列せられています。
 がしかし、そうした要素還元的な帰結だけでは現実は説明できない。これを示したのがカオスの発見であり、複雑系の議論です。現実そのものを見るためには、有限時間内には完結しない現象を相手にせざるを得ない。すなわち、「現実」をめぐる「知」は完結した体系としては示されえないのです。「知」は永遠に完結しない開放系です。自然科学においてすら、そうなのです。

 いわんや哲学をや、でしょうか。
 少々話は飛びますが、私には微妙に世代を異にする社会学専攻の友人がおります。彼らと交際が始まったごく最初の頃、彼らが異口同音に言ったことがありました。
 「社会学って…学としての基盤が…なってませんけど…」
と、だいたいそのようなことです。知る限りにおいて、社会学専攻の方々はこの面において謙虚ですし、また社会学の本を読んでも、この手のことは最初の方に書かれていることが多いです。曰く、「百人の社会学者がいれば、百通りの社会学がある」などと。
 「学」とは何かというと、ヘーゲルを齧った私には『精神現象学』序文に見える「教えうるし学びうる、方法的かつ体系的なもの」という定義が思い浮かぶわけです。大学生だった頃の私は「そお~だよなぁ」と同感したものです。そして、そういうものではない諸学を「いいかげんな学問」と思っていました。が…
 ヘーゲルって、江戸時代の人です。(…何人か、ズッコケました?)
 その「体系」が崩壊していることは論を待ちません。彼は『歴史哲学』を体系に包摂することで世界精神が歴史の中に現象する必然性を記述し、「歴史を知として所有」したつもりだったかもしれませんが、現実の歴史では現実的なものは理性的になってるとは限りませんし、理性的なものは現実的になっているとは限りません。お~い世界精神、どこ行ったんだ~? てなもんです。
 「現実」は永遠に完結しない。「知」は現実を「所有」できない。原理に回収しきれない新たなものを生み出しつづける。「完結した体系」にはまとめられない。…社会学という学問は、まさにそういう現実に直に立ち向かうフロンティアなのだと思うのです。「学として」まとまるはずなどない。そして、それは恥ずべきことではなく、むしろ誇るべきことである、と。

 で、哲学にも似たようなことが言える。しかも、開放系の学たる社会学も基盤とせねばならない「実証主義」に必ずしも足場を置かなくてもよいので、一面において自由であるともいえますし、一面においてだからこそ慎重でなければならないともいえます。
 哲学も現実を相手にする以上、開放系の学たることを免れないでしょう。したがって、現実を見るまなざしは自然科学のものであれ、社会学のものであれ、まずは一旦受け容れる必要があると思います。しかし「それそのものではいけない」。…これがsatonohukurouさんの問題意識でしょうね。これへの答えは、やはり「実証主義 positivisum」に対する一定の negativisumだと思います。実証主義が立てる「客観」なるもの、その背後で行われている「私」の排除、その排除のプロセスに、実は時代状況に規定された「私」が混入しているのを暴くこと。「私」による「所有」の欲望が蠢いているのを暴くこと。そしてその「所有」が不可能であると宣告すること。「解体」の論理です。この「解体」は必ずしも破壊ではありません。貧しい「客観」からの脱却です。
 とりわけ「心」が問題になりますと、心というのは「私」もまた持っているものであり、「他者」のそれを「観察」するのも困難なものですから、客観性の確保は難しいでしょう。さりとてこれが脳という物質的基盤と無縁に存在しているとも言えない以上、主観を基軸にした観念論も今さら許されるものではない。「心」が問題になる場合、観察主体が観察対象に影響を与え、観察対象が観察主体に影響を与えるということはむしろ当たり前のことです。すなわち「カルテジアン・カット」はなしえない。ということはやはり、「主観-客観」という二分法図式そのものの基底に潜り込んで考える方策をとるのがよい…ということになるのではないでしょうか。

 …読みかけで、生半可理解の『内部観測』を交えつつ書きました。まだまとまりません。「自分で書く言葉」を媒介にして理解しようとしながら書いています。「あなたが書く言葉」も媒介になれば、と願います。

    *

 halkaさま
 低能管理部による妨害の心配でしたら無用だと思います。もうやらないでしょう。今度やったら管理部に死人が出るまで罵り倒すだけのことです。
 私は、どの質問においてもそうですが、質問者の利益を最優先に考えています。この質問のようなややこしいものになりますと、回答者による逆質問や補足要求が出されてくるのは止むを得ないことだとは思いますが、しかし、質問者を無用に混乱させたり困惑させたりするようなものは好ましくないと考えます。
 そこに照らして、halkaさんの立論に関してhalkaさんの善意を疑うものではありません。質問者の利益を思って考え、書き込まれているものと理解しています。
 が、いかんせん、私の考えとは対立しております。そして、私は、halkaさんの考え方は否定できるものと予想しております(全貌が明らかではありませんので断定はできませんが)。さらに、この場ではhalkaさんの考え方に批判を加え、可能ならば否定し去ることが質問者の利益に適い、かつ、後にこのスレッドを目にする読者にも参考になるものとも考えています。したがって、この場で起きたことはこの場で済ませたいと願うものです。
 それに…yahooに行ったところで、事情の分からない人もたくさんいるわけですから、まともに話が進められるとも思えないのです。
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この回答へのお礼

No.170489とNo.172620についてのお礼です。
正直「感動」ものでした。

 先ず、No.170489 についてですが、幻影肢についての深いご理解に感動です。そして、身体論からのアプローチを提言していただき、参考文献を紹介していただきました。ありがとうございます。特に、エリアス・カネッティは、全く承知しておりませんのでした。最後に、私の質問がserpent-owlさまの複雑系との関連を考察するきっかけとなったと、いやはや照れくさいのみです。

 次ぎに、No.172620についてです。いよいよ佳境に入ったという感じです。身を乗り出して、ご意見を聞かせていただきました。「客観」と「主観」についてのご説明は、実に理解容易でした。そして、私にとって新たな発見がありました。「知の解放性」です。そして、「実証主義の解体」については、私は新たなパラダイムとして捉えました。鋭いご意見かと考えます。

 さらに、感銘を受けたのは、私の拙い質問を実に的確に掘り下げていただいたことです。人の気持ちが良くわかる人だ!という感想です。他者の心は観察することは出来ない、ということになっていますが、これは、考えてみれば、実証主義に軸足をおいての考えかも知れませんね。特に、私の質問は全くそのものでした。それと、『内部観測』(青土社・郡司ペギオ幸夫ほか)は、私とっても必読書のようです、早速取り寄せます。

お礼日時:2001/04/04 07:07

> しかしながら、クオリアを、お姉さまは有意味性を有しないことを証明されて排斥されていましたが



いえ、じつははしたないですがfwappyさまが、どう返すかなとかおもいまして、
つい・・・。
たぶん、バカは相手にしないといったところでしょうか・・・。

>例えば、お姉さまは、最初に意識を前提していますが、その意識そのものを説明
>する必要があるように思いますがいかがでしょうか。

げっ、なんとなく山姥の私目に観音経の祈りを込めた矢を射掛けられたような
気がしました。クオリアリーダーの茂木様は以前心脳問題を分類して、自己意識の
問題を極めて難しい、に区分していましたが「わたしはなぜあなたでないのか?」
という問題に納得の行く明確な答えを提示せよというようなことですね。
申し訳ありませんが私の関心はどうも目先に傾いていてそこまで到達していま
せん。私の現在の主な関心事は不安とか無気力とかの感情が命題のコントロール
で制御可能かどうかといったところにあります。憎悪って言うとどうも個人的だし
テーマとしてはタブー視されがちですね。しかしこの命題の三区分ならまあ説明
ぐらいまでは行ってるとは思いますが、それは他の擬似科学でもレベルは
同じというところでしょう。ポイントはやはりそれらマイナスの感情より抜け出す
のに画期的な有意差を示す統計的結果を導出しなければならないようです。

ここでやっとあなたの「科学的」と「哲学的」の区分わけになるのかもしれませんが
不安とかについて科学的にやるとしたらやはり、脳内物質のノルアドレナリンとか
CRFの関与と人の不安状態の観察可能な部分について量化して相関を見ると
いう研究方法になるのではないでしょうか。科学的方法はやはり普遍的に真であ
る命題に基づいて構成されるというのが原則かと思います。主観的に真である
ような命題を取り込むことは科学にはできないと考えます。科学では「わたしは
あなたがすきだ」という命題は脳の中のパルスと化学式で解説しなければなりま
せん。
哲学は先に示したように価値命題のような主観レベルの命題を扱い、その構造を
考えることができます。「わたしはあなたがすきだ」は命題の単位として分析の中
に取り込むことが出きるのです。

邪悪なふくろう叔父様、時間がなくてすみません。
でもgooの形式に合わないなら如何でしょうか,Yahoo哲学あたりでは・・・。

>「真偽判定する一つの体系である」と定義することによって、さらに主格を
>前提にせざるを得なくなります。この主格についての説明が為される必要を
>感じるのですが。
そうですね。すみません、もう一度考えてみます。
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えー、この問い楽しく拝読させていただいとります。


哲学書を1册も読んだことのないエセ哲学好きのoni_ocでございます。
いろんな方々の御意見を「ほほう?」「な、なんと?」「へへ~??」
などと読みつつ自分の無教養を情けなく思う今日この頃です。

んで、本題に関係ないことかも知れませんが、いささかpikkitoさんに質問が。
>2「立場」について
>>「立場のないものが哲学することである。」は、立派な立場ではないでしょうか。
>ですから・・・その「立派な立場」というものがそもそもないものを哲学と呼びましょう。
これも「立派な立場」ですよ。んで、
>「立場に見合う論理展開」とはその「立場の擁護」
にもなってませんか?
これ無限連関しませんか?
あなたのよく使われる「そもそも」って言葉は「そもそも~~である」
というような用法をもって使用される立場の説明になってませんか?
>哲学の場合そもそも説明をする必要のないものです。
>そもそも説明の必要のないものに理屈を付ける場合の
>その「説明」とはその「必要」に対する説明と相成ります。
必要無いのに必要?その必要性の説明??

他の方の回答は理解できましたが、ここの部分はドシロートの僕が読んでも
矛盾だらけに見えます。さて、何をおっしゃりたいのでしょうか?
わからないので御説明ください。

突然本題に関係のない割り込み失礼を致しました。
んでは、この問いの更に深い考察のされんことを草葉の陰から望んでおります。
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Q一般に宗教と呼ばれている仏教は、「信じる」ものでなく、「学ぶ」ものなのですか?

まず、私は仏教については、門外漢です。
先日、このカテにて、「哲学の心身問題を解決する方法はありますか?」という質問がありました。
この、回答の一つに、
<仏教に学ぶことです。>
があり、興味深く考えています。
教えてもらいたいことは、一般に宗教と呼ばれている仏教は、「信じる」ものでなく、「学ぶ」ものなのですか?

Aベストアンサー

うーん…これは人によってとらえ方、見方が違うものだと思いますね。
私は「両方の側面を持っているもの」だと認識していますので、学ぶべきものであり、また、信じるものでもあるのかな?と思います。

仏教は、他の宗教との違いとして「哲学」として理解していくことが出来ます。
キリスト教も似たところがありますが、どちらかというと仏教のほうがより哲学的です。
ただ、仏教は一番最初の形(原始仏教・大乗仏教)から、広く細かく「枝分かれ」をし、その土地や、そこに住む人々…ことに「仏教家」によって、違う解釈があり、それらが広まっても来たという歴史があります。
日本でも真言宗とか、臨済宗とかありますよね?。
「南無阿弥陀仏と唱えていれば往生ができる」というように、まずもとになる「仏教」があって、その解釈の繰り返しから、最終的にただ真言を唱えれば、などとなっていきました。

しかしこれは「変質」というものではないのです。
元になるべき「教え」についての解釈・深化の過程によって、生み出されてきたものです。
ともすれば「信ずるものは救われる」で、手放しで信じることが信心である、と捉えられがちですが、実際はそこに至るまでの沢山の過程があったわけです。

そこが仏教の特徴的なところだと思うのです。
「学び、問い、実践する」という要素がある。
その中で、自分が見つけ出したい「ひとこと」に出会うということもあるかもしれない。
盲目的な信仰というものを、仏教の中では好ましいとは捉えないわけです。

答えを導き出すための「ツール」として、仏教は大きな厚みのある「本」のようなものではないかと思います。
また「生活の知恵」というか、生きていくための「ノウハウ本」みたいな側面も持っています。

うーん…これは人によってとらえ方、見方が違うものだと思いますね。
私は「両方の側面を持っているもの」だと認識していますので、学ぶべきものであり、また、信じるものでもあるのかな?と思います。

仏教は、他の宗教との違いとして「哲学」として理解していくことが出来ます。
キリスト教も似たところがありますが、どちらかというと仏教のほうがより哲学的です。
ただ、仏教は一番最初の形(原始仏教・大乗仏教)から、広く細かく「枝分かれ」をし、その土地や、そこに住む人々…ことに「仏教家」によって、違...続きを読む

Q量子論的な世界像において、世界は認識される事で存在してる、そうです。そうすると、認識している私は、自

<量子論的な世界像において、世界は認識される事で存在しています。>
そうです。
そうすると、認識している私は、自分自身を認識している、ということになるのですか?

Aベストアンサー

こんにちは。

☆世界は認識される事で存在しています。
◇上で書かれている「世界」は、〈世界そのもの〉ではなく、我々の五感などの感覚によってもたらされた情報をもとに、〈わたし〉によって再構成された主観的な〈世界〉でしょう。

〈世界そのもの〉≠主観的な〈世界〉

そして、物理では
〈世界そのもの〉≠観測された〈世界〉
〈世界そのもの〉≠理論で想定される〈世界〉

我々の主観的な〈世界〉が我々の認識に基づいているのは当たり前のことであり、
物理学的な〈世界〉が観測などに基づいているのも当たり前のこと。

「世界は認識される」という表現で問題なのは、この表現中の世界(主観的世界、物理学的な世界などなどの対象化された世界)を〈世界そのもの〉としていること。

我々の知る世界は、程度の差はあれ、主観的な世界に過ぎず、
そんなものがあればですが、
客観的な世界や〈世界そのもの〉に至ることはできないんじゃないですかね。


☆認識している私は、自分自身を認識している
◇〈認識している私によって対象化され、再構成された《認識している私》〉を認識しているに過ぎません。
認識主体である私が、私の表象(イメージ)を認識していると言っていいのかもしれないですね。
もっとも、ここで言う〈認識主体である私〉がすでに表象(イメージ)に過ぎないけれど。

ショウペンハウアーのこの言葉が参考になります。

ショーペンハウアーは、世界はわたしの表象であるという。このことは、いかなる客観であっても主観による制約を受けていることを示している。
https://goo.gl/w67lxK


ミクロとマクロの関係の話が出ているようなので、私は違う角度から。

我々が実際に生きる世界は、10²³というアボガドロ数オーダーのさらにアボガドロ数オーダーくらいの超多粒子系の世界。
たとえ電子などの粒子一つ一つの挙動が確率的なものであったとしても、このような超多粒子系の現象は平均的なものになり、この平均的な振る舞い、平均値からの逸脱は殆どなくなります。
 ――量子力学のトンネル効果があるからと言って、超多粒子系の我々は、我々の体を構成する電子などの量子の如く壁を通り抜けたりは出来ない!!――

我々はマクロサイズの世界で、そして、圧倒的多数の多粒子系の世界で生きているので、量子力学がどうであれ、我々が日常的に観測する現象はほぼ100%の確率で(古典物理学的な)決定論に従っており、ここに量子力学の出番はありませんよ。

まして、哲学の認識論に量子力学や量子論は必要ないと思います。

こんにちは。

☆世界は認識される事で存在しています。
◇上で書かれている「世界」は、〈世界そのもの〉ではなく、我々の五感などの感覚によってもたらされた情報をもとに、〈わたし〉によって再構成された主観的な〈世界〉でしょう。

〈世界そのもの〉≠主観的な〈世界〉

そして、物理では
〈世界そのもの〉≠観測された〈世界〉
〈世界そのもの〉≠理論で想定される〈世界〉

我々の主観的な〈世界〉が我々の認識に基づいているのは当たり前のことであり、
物理学的な〈世界〉が観測などに基づいているのも当たり...続きを読む

Q一神教の精神・信仰が、よく解らない日本人です。

万物を創造した唯一絶対の神、主に従う、
とか

すべては神の御心のままに、

とかいうのは、
日本人の言葉で言うと

人事を尽くして天命を待つ、

という感じかな?と思ったのですが、どうでしょうか?
ほぼ当たりと思っていいでしょうか?
それとも、全然見当違いですか?

神の御心と人間の主体性についてあれこれと考えています。

Aベストアンサー

お礼ありがとうございます。
儒教的概念の天も、最初は人格を持った存在として認識されましたが、最終的には一種の法則(理)として捉えられました。
したがって、天の理は全てに平等で、分け隔ては無い事になります。
アブラハムの宗教の「神」は、人格神ですから、「神」の御心と言う物が想定されます。(つまり、「神」には意志があるわけです)
「神」は、絶対的な選択者と想定されますが、全てにおいて平等と言う事は想定されていません。
人間から、見れば、天の理がわからなければ、結果がどうなるかはわからないです。
ただし、天の理にかなった結果が平等におきる事は想定されます。
アブラハムの宗教の「神」は、意志を持っているので、御心で結果は変わります。
したがって、同じ事でも、結果が変わる可能性はあります。
ただし、「神」を絶対的善として想定する人の場合は、善を成す結果が起きると想定する場合がありえます。(この場合は、天の理とそれほどの差はありません)
実を言えば、この世で不合理と思われる結果(運命)がある場合の説明の方法が難しいわけです。
仮に、天の理があるとすれば、人間が不合理と思っても、それは天の理にかなった事と捉えられるでしょう。
「神」の御心によると考えれば、これは「神」の意志によるので、人間が不合理と思っても、それは「神」の意志です。
どちらにしろ、人間が予測できないと言う事では同じと言えば同じです。
両方は、何らかの原因により、運命が決定されていると言う、決定論的世界観を生み出します。
したがって、定められた運命に対しての、人間の自由意志はかなわないと言う結論に到達します。(人間が完全に自由な意思決定をできる余地が無いと言う事です)
これを天命にまかせるとか、「神」の御心と表現するならば、実際の現象としては同じ事にはなります。

お礼ありがとうございます。
儒教的概念の天も、最初は人格を持った存在として認識されましたが、最終的には一種の法則(理)として捉えられました。
したがって、天の理は全てに平等で、分け隔ては無い事になります。
アブラハムの宗教の「神」は、人格神ですから、「神」の御心と言う物が想定されます。(つまり、「神」には意志があるわけです)
「神」は、絶対的な選択者と想定されますが、全てにおいて平等と言う事は想定されていません。
人間から、見れば、天の理がわからなければ、結果がどうなるかはわか...続きを読む

Qこの世界の行き詰まりを 三点突破だ!

A 国連に代わる――あるいは 並存してもよいはずですが――村際連合(インタ
ムライズム)によって世界を主導するシステムを!

1. 国家のレベルの国民政府による主導方式は もうふるい。
   ムラ(市町村)の市民政府がそれぞれ主役である。

2. ムラムラのネットワークが 世界をあたらしくつくりなおす。

3. 世界のムラどうしでムラ議会議員を互選する。

4. 世界中のムラムラのあいだで市民が互いに互いを知るようにする。
   つまり ひとの交流をすべてのムラビトがというほど推し進める。

5. いくらでも色んなよいアイディアを出し合ってこれを実行して行く。

6. 経済は それぞれのムラがインタナショナルなインタムライズムの場(市
場)へと企業それぞれを巻き込む必要がある。(連携でしょうが)。



B 《普遍神》論によって宗教という宗教の揚棄を!

7. 宗教にかんして オシへは二の次であって 個人の《わが固有の時》とし
ての信仰について それを一般論として知っておく。神は 普遍神だということ
だ。
  
8. すなわち わが固有の時に憩う《わが非思考の庭》なる信仰は類型として
だれにとっても 同じひとつであるということ。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:シューニャター(空)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(超自然および自然)
   霊:われ(自然本性)

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ

9. このあたかも霊のつるぎによって世界をリセットしよう。




C やっぱし《アース役はつらいよ》の全国的・世界的大合唱で ハラスメント
について本人に自省させるのがよいのでは?

10. 何気なく ♪あぁ アース役はつらいよ♪ とつぶやけばよい。

11. パワハラ・セクハラ・あるいはイヂメに際して みんなで合唱へと持
って行くとよい。

12. 半分は 減るのではないか?
    半分は あたまも気持ちもすっきりするのではないか?
    世界へも広げよう。

13. 無理をせずに 生産性が上がるのでは?
    社会保障費が省けて 財政再建に寄与するのでは?
    つまり 健康年齢(健康寿命)が上がるのでは?

14. その情況にあって いま横になっている人たちの半分は やおら起き
上がって来るのでは?


☆ ご見解をおしえて ぐー。

A 国連に代わる――あるいは 並存してもよいはずですが――村際連合(インタ
ムライズム)によって世界を主導するシステムを!

1. 国家のレベルの国民政府による主導方式は もうふるい。
   ムラ(市町村)の市民政府がそれぞれ主役である。

2. ムラムラのネットワークが 世界をあたらしくつくりなおす。

3. 世界のムラどうしでムラ議会議員を互選する。

4. 世界中のムラムラのあいだで市民が互いに互いを知るようにする。
   つまり ひとの交流をすべてのムラビトがというほど...続きを読む

Aベストアンサー

Aについてです。
国と言うのはいつ頃できたのでしょうね。
現代は、インターネットによる横のつながりによって、新しい共同体や経済の形が現れて来ているように思います。
それがインタムライズムというものの具体的な現れになるのかなと、ふと思いました。一人一人の意見や意思をダイレクトに吸い上げ、ビッグデータとしてそれを人工知能が処理すれば、一人一人が持つ小さな望みを、全体に反映する事も無理ではありません。今まで切り捨てられたり矮小化されたりと不当な扱いを受けて来た市井の人々に、力を復権させられるかもしれません。

QStrange question

I know this is a strange question, but isn't it strange that there are no aliens,
or do they exist? I herd that the possibility of alien life is 100% but we never saw them. They
might live far away but their should be at least one species that could travel in space.

Aベストアンサー

人の寿命は100年程度です。一人の人間が地球外生命体を認識する事は難しいと思います。

1961年にアメリカの天文学者であるフランク・ドレイクによって考案された、ドレイクの方程式というものがあります。
ドレイクの方程式(ドレイクのほうていしき、英語: Drake equation)とは、宇宙にどのくらいの地球外生命が分布しているのか推定する方程式である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%81%AE%E6%96%B9%E7%A8%8B%E5%BC%8F

他の惑星に地球外生命体が存在する可能性は高いと思います。
人間が高度な文明を発展させて、さらに、高度な地球外生命体が同時に存在すれば、地球外生命体との遭遇は早くなるでしょう。

Q「よい文章」とはなにか?

嘗てフランスの近代詩人ステファン・マラルメは「白紙の上に絶対が宿る」といいました。

例えばここに一万円札がある。それで何かを買うということは、その一万円で買えたはずの他の品物を手に入れる可能線を全て放棄したことを意味します。

「選択する」ということは、ひとつを選ぶことによって残りの99の可能性を捨て去ることに他なりません。
逆にいえば一万円札をそのまま使わずにいる限り、そこには永遠に100通りの可能性が残されているということになります。

前回の質問でも述べましたが、「推敲」という言葉があります。
昔中国の詩人が詩句の一節を「僧は推(お)す月下の門」にするか「僧は敲(たた)く月下の門」にするかで悩んだという故事から来た言葉ですが、詩はもちろん声に出して詠むことを前提にされているのでしょうし、全体の音の流れの中で「推す」と「敲く」とでは随分感触が異なると詩人は感じたのでしょう。

しかし現にわたしたちはこの「推敲」という言葉も含めて、中国の詩を(当時の)中国の言葉(音/オン)で読んでいるわけではないし、大抵は外国文学イコール翻訳文学です。
同じ詩、同じ小説でも、訳者によってこうも違った言葉の選択になるのかという、ある種の驚きとも違和感ともいえる感覚は誰しも覚えがあると思います。

繰り返しますが、単に意味が通じればいいというのであれば、「推」(おす)であっても「敲」(たたく)であってもさほどの違いはないように思えます。ここで語の選択の基準となるのは、あくまでも耳に心地好い音の流れということなのでしょう。

以上のようなことをつらつら考えながら、いったいいい文章とはどのようなものを指すのだろう、と考えてしまうのです。

例えばこの質問文中に

「詩はもちろん声に出して詠むことを前提にされているのでしょうし、」という個所があります。

これを

「詩はもちろん声に出して詠むことを前提(と)されているのでしょうし、」

或いは

「詩はもちろん声に出して詠むこと(が)前提(と)されているのでしょうし、」
という風に書き換えることも可能です。

「推す」か「敲く」かの次元にこだわっていると、下手をするとなにも書けなくなるような気もします、一方で、このレベルから言葉の選択に対してこころを砕かなければ、もとよりよい文章を書くことなど覚束ないとも思うのです。

人は文章に対して何を(あるいはどこまで)求めているのか?そのようなことも含めて、お考えがあればお聞かせください。

尚お礼が遅れることがあるかもしれませんが、予めご了承ください。

嘗てフランスの近代詩人ステファン・マラルメは「白紙の上に絶対が宿る」といいました。

例えばここに一万円札がある。それで何かを買うということは、その一万円で買えたはずの他の品物を手に入れる可能線を全て放棄したことを意味します。

「選択する」ということは、ひとつを選ぶことによって残りの99の可能性を捨て去ることに他なりません。
逆にいえば一万円札をそのまま使わずにいる限り、そこには永遠に100通りの可能性が残されているということになります。

前回の質問でも述べましたが、...続きを読む

Aベストアンサー

NO4です。
お礼有難うございます。

少し、追記させて頂きます。


>「伝えたいことを、可能な限り正確に伝える。」のが目的ですし、
それが出来ているものが、「良い文章」と言うものだと思います。

「可能な限り正確に」・・・ではその正確さとは何によって計られるのでしょうか?
 ↑
「正確さ」は、筆者の「価値観」によって、量られる、と思います。

 文章を作成するのは、筆者であり、「記載すべき内容」は、
 筆者の頭の中に、あります。

 それを文章と言う媒体を通じて、他者に伝えようとする場合、
 自分の中の概念を、可能な限り正確に表現しようとします。

 詰まり、その表現が正確であるのか、妥当であるのか、の
 判定基準は、筆者にあります。



例えば店で品物を買う。

「これ幾らですか?」

「300円だよ」
「それは300円です」
「ん?300」
「おい、これいくらだっけ?え?300?300円ですって」
「そちらは300円になります」

品物の正確な値段300円ということを伝える文で、正確なものは上の中にありますか。
 ↑
その品物が、300円である設定は、筆者がするものです。
当然、その金額が妥当であるか否か、の判定も、筆者がします。

この一連の表現の、「どれが正確なのか?」は、筆者が判定し、
表現すべきことで、他者は関係ありません。

文章と言うのは、「伝達手段」ですので、基本的に、読者の存在を
前提にしていると思います。

そして書かれた文章が、読者にとって価値のあるものであれば、
それは「良い文章」だと思います。

例えば、日記のようなものは、筆者自身が、読者でもあります。
このような場合、筆者と読者が同一であるので、「良い文章」か否かは、
客観性を欠いて、解りにくい、とは思います。
そのような質問のつもりでした。

ご回答をどうもありがとうございました。

NO4です。
お礼有難うございます。

少し、追記させて頂きます。


>「伝えたいことを、可能な限り正確に伝える。」のが目的ですし、
それが出来ているものが、「良い文章」と言うものだと思います。

「可能な限り正確に」・・・ではその正確さとは何によって計られるのでしょうか?
 ↑
「正確さ」は、筆者の「価値観」によって、量られる、と思います。

 文章を作成するのは、筆者であり、「記載すべき内容」は、
 筆者の頭の中に、あります。

 それを文章と言う媒体を通じて、他者に伝えようとする場合...続きを読む

Qデジタル的な生死とアナログ的な生死

人の寿命は限られており、いつかは必ず死にます。

最もデジタル的な生死
ある工場の労働者であった彼は毎日フォークリフトを運転し、一年のうち数日を除いて毎日15時間働いていたとゆー。
ある日彼は仕事を終えて、家に帰り晩飯を食って風呂に入り寝入ったのであった。
次の朝彼の妻が彼を起こしに彼の寝床に行くと彼は布団の中で死んでいたとゆー。
37歳であった。
あまりに完璧な死に様、あまりに完璧なデジタル的終結。

一方、

最もアナログ的な生死
ある町役場の戸籍係をしていた彼は60歳にて定年退職し、そのあと趣味の盆栽をしながら20年を暮らした。
続く5年ほどは何をするでもなく好きな酒を飲んで暮らしていたが、酒が祟って腎不全から多機能内蔵不全となり病院に入院する羽目になった。しかしもともと心臓は丈夫であったので直ぐに死ぬことはなく病院のベッドの上で点滴を受けながら続く5年を細々と生き続け90歳を超えたある日病院のベッドの上で息絶えたのであった。
あまりに細々とした死に様、あまりにアナログ的生き様。

この問題について日頃より考えておりまする。
この両者のうちどちらが美しいと言えよーか。
もし選べるとすれば皆はどちらの生死を選ぶことになろーか。

人の寿命は限られており、いつかは必ず死にます。

最もデジタル的な生死
ある工場の労働者であった彼は毎日フォークリフトを運転し、一年のうち数日を除いて毎日15時間働いていたとゆー。
ある日彼は仕事を終えて、家に帰り晩飯を食って風呂に入り寝入ったのであった。
次の朝彼の妻が彼を起こしに彼の寝床に行くと彼は布団の中で死んでいたとゆー。
37歳であった。
あまりに完璧な死に様、あまりに完璧なデジタル的終結。

一方、

最もアナログ的な生死
ある町役場の戸籍係をしていた彼は60歳にて...続きを読む

Aベストアンサー

死とは何でしょうか。死んだ後私は何かを感じるのでしょうか。
その為には、私は誰なのか考えなくてはなりません。大抵の人は、これが私ですと自分の体を指すでしょう。

 では仮に、手が切り取られたらどうでしょう。手と残りの体とでは、どちらが私でしょう。手は私では無く、残りの方が私ですと答えるでしょう。では首が取れたらどうでしょう。首の方が私ですと答えるでしょう。では脳を取り出したらどうでしょう。脳の方が私ですと答えるでしょう。では脳を半分に切ったらどうでしょう。どちらが私でしょうか。脳を切り刻んだらどうでしょうか。どれが私でしょうか。脳の中のどの部分が私なのでしょうか。

 そもそも、体の中の物質は、3年に一回全てが入れ替わっています。では、3年後の私は私ではなくなっているのでしょうか。

 赤いとか熱いとか感じているのが私です。では、赤い熱いと言う感じは、物質でしょうか。赤い色は、心の外の世界には存在しません。物質の表面に当たって反射する光の波長が存在するだけです。

 では、音はどうでしょうか。外界には、色々な波長の空気の振動があるだけです。私たちが感じている様な音は存在しません。

 この様に、心が作り出したものを取り去ると、何も残りません。従って、赤い熱いと言った感じは、物質ではありません。幾ら科学が発達して、全てを見ることが出来る顕微鏡が出来たとしても、脳の中を覗いたところで、熱いと言う感覚を見ることは出来ません。触ることも出来ません。ただ、私が感じるだけです。物質ではないものを感じている私も物質ではありません。

 私の感じている世界は、私が心の中に作り出したものです。心の外の世界がどうなっているか、私には全く知る術がありません。しかし、心は外界に出来る限り似せて、心の中に世界を作り出しています。

 例えば部屋の中で、テレビを見ている様なものです。テレビは、実際の現場に似せて場面を作り出しています。しかし、決して現場そのものを見ている訳ではありません。あくまでも、テレビが作り出した場面を見ているだけです。
 部屋の中にいる限り、外の現場を直接見ることは出来ません。

 テレビを見ているのが私です。決して、テレビが私なのではありません。 テレビが壊れても、修理すればまた見える様になります。見ている私が壊れた訳ではありません。

 もし、見ている私が壊れたのであれば、幾らテレビを修理しても元通りに見える様にはなりません。テレビを修理して、元通りに見える様になったと言うことは、私自身は何も変わってはいなかった事を証明しています。

 同様に、もし病気で脳が壊れて、何も感じなくなったとしても、医学が発達して、脳を直す事が出来る様になれば、また私は前と同じ様に感じることが出来る様になるでしょう。

 この事は、私は何も変わっていなかったことを証明しています。病気をしても、年を取ってボケても、そして死んでも脳を元の状態に戻せば、元通り感じることが出来るので、私自身は何も変わってはいません。

 ただ脳が信号を送らなくなったので、何も感じなくなっただけです。テレビが壊れて直せなくなっても、新しいテレビを買えば元通りに見ることが出来ます。脳が死んでなくなっても、新しい脳が私に信号を送る様になれば、また元の通りに感じることが出来ます。

 科学が発達し、かつて脳を構成していた、物質を掻き集めて、元の通りに組み合わせて、脳を作ったら、また、私は元の通り感じるようになるでしょう。

 私自身は、生じるものでも無くなるものでもありません。穢れるものでも、清くなるものでもありません。増えるものでも、減るものでもありません。宇宙の初めから存在しており、宇宙の終わりまで全く変わらずに存在するものです。

 死んだ後の状態は、生まれる前の状態と何一つ変わりません。何か違いを指摘できるでしょうか。
 生まれる前の状態から、人は生まれてきました。死んだ後の状態から生まれることは、何ら不思議なことではありません。
 「不生不滅不垢不浄不増不減」です。

質問者さん、この様に脳が死ぬと精神である私に刺激を送るものが無くなるので、私は何も感じません。新しい脳がまた私に刺激を送る様になると、私はまた元のとおり感じる様になるでしょう。
死んだら、気が付くと母の胸に抱かれていることに気が付きます。誰しもそうです。ですから、死んだ人にもまた次の生或はその次の生で出会えると考えます。

詳細は、下記のホームページを参照下さい。
http://catbirdtt.web.fc2.com/sitohananika.html

死とは何でしょうか。死んだ後私は何かを感じるのでしょうか。
その為には、私は誰なのか考えなくてはなりません。大抵の人は、これが私ですと自分の体を指すでしょう。

 では仮に、手が切り取られたらどうでしょう。手と残りの体とでは、どちらが私でしょう。手は私では無く、残りの方が私ですと答えるでしょう。では首が取れたらどうでしょう。首の方が私ですと答えるでしょう。では脳を取り出したらどうでしょう。脳の方が私ですと答えるでしょう。では脳を半分に切ったらどうでしょう。どちらが私でしょう...続きを読む

Q不可知を 未知と分けて――哲学なら――用いなければいけない

不可知も まだ知られていないこととしては 未知でしょう。

では わざわざ不可知と言うのは どうしてでしょうか?

定義してください。

Aベストアンサー

#76です。

1.
>☆☆ 非知
☆ のほうが だいたいほかの方法よりよさそうだと言おうとしています。

了解しました。

>でも 哲学する人は ぶらじゅ何とかというどこの馬の骨とも分からないや
つが 非知を言い始めたと知って ほかの方法を考えようとするでしょうね。

いえいえ、そうとは限りませんよ。
☆ 非知
に関しては、
☆ のほうが だいたいほかの方法よりよさそう
といった謙虚なるご見解は不要で、
むしろ、それしかないと言えるほど稀有の視点ですよ。
少なくともわたしはそう認めています。
ただし、人間存在の最終原因とか、神とか、摂理とかいったように、その思考の対象がすでに定まったものに対して適用するのは妥当とは思われない。
つまり、
『 過去、人間は、未知・既知といった経験事象としての概念の他、知り得ないと判断する思考現象としての不可知という概念を操ってきた。しかし世界には、知り得るか知り得ないかが知り得ない、と言わざるを得ないような [ 何か ] は常に存在しているのであり、それは 非知 とでも呼ぶべき対象なのである。』
といった脈絡で採用されるべき視点ではないか、と思う次第。

2.
そのあとの記述も精査しましたが、
>★ つまり、連続説の場合も、(ⅲ)の内容については大いに同意するものです
が、
 ☆’《とはいえ、経験事象が そうしたナゾの影響を受けていることもまた事実
 である》
★ といった続きがあるわけです。
☆ この《続き》は 一たん非連続(つまり 淵があって超えねばならなかった)
を認めたあとの《手続き》としてなのです。さもなければ 《無限》が 有限世
界と地続きだとなります。

☆超えねばならなかった
ものではなく、あくまで、当初から並立しているもの です。
こういった内容に象徴されるように、すべてが 非知を大前提にした論理展開 となっていますよね。
なぜ、非知でなければならないのか?
ここが示されない以上、弱いのではありませんか?

3.[ おまけ ]
>☆ というのは 《絶対の隔たりが 〈無限〉と人知とのあいだに ある》と認
めた上でそのあと それでも わたしは連続説に立つのだという宣言なのです。

違います。
あくまで「宇宙の摂理の象徴としての神」の場合にはですが、
☆絶対の隔たり
は当初から認めていません。
よって、
>★ ここで〔☆ こそ〕また連続・非連続の論議に舞い戻ってしまうわけで〔☆
それに関しては〕やはり見解の相違と判定するのが妥当じゃないですかね。

といった甘言に篭絡されるいわれもありません、ということになりそうです。

>★ むろん、この場合の「直接」は、一般の経験事象同士における直接とは意味
が異なることは、128回ほど申し上げているので、すでにご承知のはずでしょ
うけど。
☆ 鯉の滝登りではありませんが 一たん有限から無限の夢幻境へと論理で駆け
上ったからには その《精神の軌跡》を抜きにして この《直接》の意味内容を
考えるわけには行きません。でしょう?

★原因が分かったとしても、その原因に対する原因が永遠に付きまとうので、最終原因は永遠に不可知と言わざるを得ません。
という言及に関して、
・原因=有限での経験事象
・最終原因=無限の夢幻境での事象
のように分けてお考えなのだと思います。
しかし、
★原因が分かったとしても
という表現は、
「あ、これだ!」のように
★原因が分かったとしても
といった意味ではありません。
★原因に対する原因が永遠に付きまとう
というのは、論理的合理性に基づいて、つまり、これだけで成立している命題なわけです。
説明上、例として挙げることはありますが、経験事象としての原因を必須の要素として必要としているわけではない、という点にご留意いただければと思います。

#76です。

1.
>☆☆ 非知
☆ のほうが だいたいほかの方法よりよさそうだと言おうとしています。

了解しました。

>でも 哲学する人は ぶらじゅ何とかというどこの馬の骨とも分からないや
つが 非知を言い始めたと知って ほかの方法を考えようとするでしょうね。

いえいえ、そうとは限りませんよ。
☆ 非知
に関しては、
☆ のほうが だいたいほかの方法よりよさそう
といった謙虚なるご見解は不要で、
むしろ、それしかないと言えるほど稀有の視点ですよ。
少なくともわたしはそう認めていま...続きを読む

Q人の心は脳の自然現象でしょうか? 死後は無なのでしょうか?

人の心は脳の自然現象でしょうか? 死後は無なのでしょうか?

Aベストアンサー

人間は物質的な肉体以外に、霊体という体が重複的に存在していて、その霊体の方に心が存在しているそうです。

↓スピリチュアリズム入門
http://www5e.biglobe.ne.jp/~spbook/sp-introduction1/index.htm

ここの第2部のところを読んで下されば、人間の魂がどこにあるのか書かれてあります。

Q非戦論という一つのベクトルをも おもてに出してよいのではないだろうか

主戦論を前提とした常識ないし定説で 国際関係論が考えられている
ように見受けられます。

その一色というあり方を修正し さらに補強する手も 考えられるの
ではないか。

《非常識》な市民としては 実際のところ 非戦論が優勢なのではな
いか。

――真夏の夜の夢。

Aベストアンサー

非戦論や戦闘否定論は、特に
真新しいわけではありません。

日本の旧左翼の中にも時折、
主張を聞いたことがあります。

個人的には同意する部分も多々
あるのですが、主戦論者から、
「あなたは自分の家族が危害
を被る可能性がある際も闘わない


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