【引用】
命あっての物種の意味
⇒何事も命があるからできる。命がすべての物のもと。命さえあれば、もし他のものすべてを失ったとしても命が種となって、物が生じてくる。生命の危険を冒すようなことは避けるべし。(語:物種=物事の基になるもの。)
…………………
とあるページにて上のような説明がなされていましたが、これは正しいですか?(※批判するつもりではないです.)
「物種」とは、あくまで、「物事のもととなるもの」であり、命があることを前提とした上で、命とは別の、新しく生じる何らかの事象の端緒糸口とっかかり(?)のことだと私は思っていました。
しかしながら初めに出した引用文章によれば、
「命さえあれば、もし他のものすべてを失ったとしても命が種となって、物が生じてくる」
とされてあり、あたかも「命」が種であるかのように説明されているのです。
どのように解釈するのが正しいのでしょうか?どなたかご意見ご回答の程よろしくお願いします。
No.1
- 回答日時:
>『命あっての物種』の意味について
↓
そんなに難しく論理的に追究しなくても、「ことわざ」「暮らしの処世の知恵」としての教え・伝承は私たちに生き様・処し方・戒め・勇気を示唆してくれるものでは・・・
◇命がある限り、可能性・チャンス・機会がある⇒短慮や諦めを戒め、捲土重来を再起を諭す言葉
◇たった一度一代で諦めなくても、命が繋がり種子が残る限り可能性は承継される。
◇全ての大本・源種は生命であり、その命が引き継がれるように、願いや思いは、その志・大義が清く正しく真心からならば伝わり受け継がれる。
そんな意味・意義・気持ちで、思いを込めて使われる時
*種子
*源種
*種(タネ)・ネタ
は、命・魂・希望の源・始まりの事であり、比喩された物(具体的なシンボル)ではないでしょうか・・・
この回答への補足
論点をあいまいに提示してしまったように反省しています。そこで、補足を入れさせていただきます。
物種の意味についてというよりは、「命あっての物種」という文章構造が私には引っかかるのです。
つまりは、何らかの行為に取りかかるにあたっては命が大前提となる訳です。
命なしには、例えばピアニストになるにしても、ピアノを弾くことに取りかかることすらできないわけです。
命という大前提があった上で、初めてそのような行為をすることを考える余地が生じる訳ですね。
つまりは、「物種」という「ものごとのきっかけ」は命の存在を大前提とした上で発生するものなのです。
だから「命あっての物種」という文章構造をしている訳です。
確かに、
「命=種」というお考えはよくわかります。否定どころか大賛成です。
しかしながら、
もしですよ?
もし、命それ自体が物種であれば、わざわざ「命あっての物種」とは言う必要はないのではないでしょうか?「命あっての人生」といえば済むのでは?
先程から感じていたのですが……「命あっての人生」と「命あっての物種」とは似た表現ですが別物ですよね、混乱しそうですが。
「命あっての人生」とは、命を大前提として、命がなくては人生自体が存在しないのだから大切にしましょうね、このような意味でしょう。
もしそうであるならば、「命あっての物種」も同様に、命がなくては物種自体が存在しない、即ち、物事をなすにあたってのきっかけすらも存在しない、このように解するのが自然ではないでしょうか?
以上が補足です。
ps.
引用した文章だと、
「命あっての物種」ということわざの使う場面自体を間違えさせてしまう危険性もあるのではないか?そのように不安に感じた次第です。
No.2
- 回答日時:
全くの「私見」を書かせて戴きますが。
「広辞苑[第六版]」の解説には、『命は物種』とも書かれています。
>「物種」=物事の基になるもの
↑
を、素直に解釈すれば宜しいと思いますよ。
つまり、「自分の命が物種と成る」訳です。
死んでしまえば、遺体は朽ち果てるしかありません。
しかし、生きていれば、何かを成して行こうとするのが人間。
「命(生きてるコト)」が「物種」なんですね。
この回答への補足
論点をあいまいに提示してしまったように反省しています。そこで、補足を入れさせていただきます。
物種の意味についてというよりは、「命あっての物種」という文章構造が私には引っかかるのです。
つまりは、何らかの行為に取りかかるにあたっては命が大前提となる訳です。
命なしには、例えばピアニストになるにしても、ピアノを弾くことに取りかかることすらできないわけです。
命という大前提があった上で、初めてそのような行為をすることを考える余地が生じる訳ですね。
つまりは、「物種」という「ものごとのきっかけ」は命の存在を大前提とした上で発生するものなのです。
だから「命あっての物種」という文章構造をしている訳です。
確かに、
「命=種」というお考えはよくわかります。否定どころか大賛成です。
しかしながら、
もしですよ?
もし、命それ自体が物種であれば、わざわざ「命あっての物種」とは言う必要はないのではないでしょうか?「命あっての人生」といえば済むのでは?
先程から感じていたのですが……「命あっての人生」と「命あっての物種」とは似た表現ですが別物ですよね、混乱しそうですが。
「命あっての人生」とは、命を大前提として、命がなくては人生自体が存在しないのだから大切にしましょうね、このような意味でしょう。
もしそうであるならば、「命あっての物種」も同様に、命がなくては物種自体が存在しない、即ち、物事をなすにあたってのきっかけすらも存在しない、このように解するのが自然ではないでしょうか?
以上が補足です。
ps.
引用した文章だと、
「命あっての物種」ということわざの使う場面自体を間違えさせてしまう危険性もあるのではないか?そのように不安に感じた次第です。
No.3
- 回答日時:
引用とあなたの見解を包括したものです。
物種が、現代の種子を意味するだけでしかないので、命をタネに比喩する言葉が他にないですし、
物種は、ものざねやたねものと同じ言葉で、事象のタネという意味を持っていません。
物種は、種子そのものを指したり、天ぷらのタネというような、全体の源、核心という包括的な概念なのです。
「虫」も古来似た様な使い方で、かんの虫とか、虫の知らせとか、虫垂炎とか水虫とか、
現代では昆虫を指す言葉だけになっていますが、人間の身体に病気を起こしたりする、眼に見えない微細ないきもの(場合によっては霊的存在まで)を総括した概念が「虫」「蟲」の古来の使い方になります。
この回答への補足
同じ内容になりますがひとまず一応補足させてください。
物種の意味についてというよりは、「命あっての物種」という文章構造が私には引っかかるのです。
つまりは、何らかの行為に取りかかるにあたっては命が大前提となる訳です。
命なしには、例えばピアニストになるにしても、ピアノを弾くことに取りかかることすらできないわけです。
命という大前提があった上で、初めてそのような行為をすることを考える余地が生じる訳ですね。
つまりは、「物種」という「ものごとのきっかけ」は命の存在を大前提とした上で発生するものなのです。
だから「命あっての物種」という文章構造をしている訳です。
確かに、
「命=種」というお考えはよくわかります。否定どころか大賛成です。
しかしながら、
もしですよ?
もし、命それ自体が物種であれば、わざわざ「命あっての物種」とは言う必要はないのではないでしょうか?「命あっての人生」といえば済むのでは?
先程から感じていたのですが……「命あっての人生」と「命あっての物種」とは似た表現ですが別物ですよね、混乱しそうですが。
「命あっての人生」とは、命を大前提として、命がなくては人生自体が存在しないのだから大切にしましょうね、このような意味でしょう。
もしそうであるならば、「命あっての物種」も同様に、命がなくては物種自体が存在しない、即ち、物事をなすにあたってのきっかけすらも存在しない、このように解するのが自然ではないでしょうか?
以上が補足です。
ps.
引用した文章だと、
「命あっての物種」ということわざの使う場面自体を間違えさせてしまう危険性もあるのではないか?そのように不安に感じた次第です。
No.4
- 回答日時:
「命あっての物種、畑あっての芋種」という、同じ調子の文句を続けて、いわば語呂を合わせた言い方もあります。
これをそのまま取れば、命が畑で、それが前提にあってこその物種/芋種ということでしょう。
「命は法の宝」という言葉も、命はたくさんの仏教の教えの中で最も貴いの意味にもなるでしょう。
ただ、これらの論理的に明快性のある文句の、実際には命=物種であり、それはそれ「命は専(せん)」「命は宝の宝」であり、ありがたい仏法を聞けるのも命あってこそという意味が暗黙の前提として了解されているからともいえるでしょう。
あくまでも辻褄を整えるための論理性を、ややアイロニカルに「語呂合わせ」させているのだと。
ところで、「物種は盗めるが人種は盗まれぬ」という俚言もあります。植物の種は盗めるが人種は窃(ぬす)れない、それは血筋は争えないという意味となるでしょう。
No.5
- 回答日時:
先ず諺の理解に対する大前提は、これが記号論理学の問題ではないと言うことを確認しておきましょう。
人間の使う言葉はどんなに厳密に理解しようとしても、指の隙間から砂が逃げるように逃げて行ってしまう側面があります。実は、その曖昧さを含んでいることが、いざと予想外の事が起こっても、それに適応出来る柔軟性の元にもなっているのです。そして、多様で面白い世界が言葉の世界にも存在し得るのですね。また、その理由があるから記号論理学が幾ら発達しても、未だにどの学者もそれで論文を書こうとする人がいないのです。
そう考えると、「命あっての物種」の解釈を貴方のようにどちらか一方に決めつけてしまって身動きができなくすることは、言葉の持っている多様性の底力を潰してしまうことになりかねません。貴方の言う微妙に違った二通りの受け取られ方の違いで、その会話の当事者達が何か重要な迷惑を蒙るとは考え難いです。それよりも、このような微妙な違いや微妙な誤解が、世の中に一寸した想定外の事象を生み出す可能性を残し、世界で起こることが決定論的に前もって決まっているわけではなく、何か新しい驚きの或る面白い世の中にしてくれているのではないでしょうか。言葉の曖昧さは、ある意味で新しい世界を創りだす契機にもなっているとも考えられます。
さて、そこまで言ってから、無理矢理理屈を付けてみますと、種に命がなかったら種ではありませんね。だから、その種が物を生み出す種だと言うわけにはいかない。だから、
種は種である=命のある種は種である=命があるから種である=命あっての種である=命あっての物種である=命あっての物種
なんて論理の流れも可能です。でも繰り返しになりますが、そこまで考え過ぎると言葉が曖昧であるが故の創造性の芽を潰しかねないですね。
この回答への補足
論点についての議論の可能なご回答をお願いします。
前提として、私は意見や回答を求めてここに投稿しています。
あなたは私が「考えすぎている」と断定していますが、
一体何をもって「考えすぎている」として「決めつけ」という「定義づけ」を論理に潜り込ませるのか?
言葉の曖昧さや微妙さを重んじるべきだと主張する本人が安易な定義づけをするようでは、議論はできませんよ。
記号論理学を批判しておられますね。批判はご自由にして構いませんが、その批判の線上で、言葉の定義を知ることを萎縮させられたらたまりませんよ。そういう議論は記号論理学論者と行って下さいませ。私には無関係な話です。
「創造性」、についても一度考え直してみられた方がよろしいかと。定義なしに創造なんてできるのですか?
余計な指摘になりますが…
あなたの論理構造からは,燻製ニシンの論理を彷彿させられます。※簡単に言えば,架空の相手を否定して論破したように見せる、よく陥る詭弁(あなたは故意ではないでしょうから誤謬でしょうか)の一種ですね。
最低限でよいので、あなたの得意であろう分野以外の分野も勉強なさった方がよいと思いますよ。議論とは1分野を知るだけではできないのですから。
もちろんこのことは私自身にも言えることです。無知な領域が山のようにあり、日々勉強に追われてます。
だからこそ今回の「命あっての物種」に関して私は疑問を感じた訳ですね。
「ことわざ」として「命あっての物種」を定義し、「ことわざは記号的に意味は決められない」という枠にはめることで、「命あっての物種」の解釈をさせないなんてことは、まったくもっておかしな話です。
諺は本当に全て記号的に意味内容が定まらないのですか?
『昔の表現とは、時代による意味の変化が介在しがちであり、本来的な文章構造や意味内容がずれることが往々にしてある。』
これが正確な理解ではありませんか?
もし、「命あっての物種」が往々にしてある時代推移による変化を受けたとするならば、その変化についてを示していただきたい訳ですね。証明なんて要らないです、疎明程度で結構です。ご意見,ご回答を求めているだけですので学術的なものは求めてません。ただ、納得できる上記についての根拠だけは最低限お示し下さい。あなたのご回答にはそれが見当たらないので。
以上補足になります。
もしご気分を害されましたら申し訳ありません。
No.6ベストアンサー
- 回答日時:
A3です。
相談者さんが引っかかる部分が理解できました。>先程から感じていたのですが……「命あっての人生」と「命あっての物種」とは似た表現ですが別物ですよね、混乱しそうですが。
「命あっての物種」の言葉としては「命あっての人生」を指していません。
命があくまで事象の元本としてタネです。引用のそこが間違っているといいたいのですね。
そこに第3の捉え方「命あってのものだね」という会話口語としても、現代には掛詞として伝承されてくるんですよ。
「命あっての物種だね」とは一般的に使いませんよね。
ことわざは教訓ですから、古人の教えがなければ伝承されないので、
>「命あっての物種」も同様に、命がなくては物種自体が存在しない、即ち、物事をなすにあたってのきっかけすらも存在しない
だけでは、哲学でしかなく、教訓にならないのです。
ことわざの体をなすのは、「~であるから~しなさい」という因果の解が含まれる必要があり、相談者さんの解釈が言葉の正しい意味であり、引用文がことわざの説明部分に当たります。そして現代語の運用方法としては「命あってのものだね」との掛詞です。
で、本来ことわざは道徳の口伝ですから、厳密な意味なんて持ちません。多様な解釈も持たないと時代の価値観の変化で死語になります。
>「命あっての物種」ということわざの使う場面自体を間違えさせてしまう危険性もあるのではないか?そのように不安に感じた次第です。
不安に感じるのは、今時分の価値観の忘却に対してであり、
世代を伝承する言葉自体には、原理的な価値を持たず、変化に対応する包容力があるから、逆に誰にでも当てはまる普遍として、ことわざが今に伝わるのです。
真理には原理と普遍のふたつあるんですよ。それがまさしくタネ。
はじめに言葉足らずや心遣いの至らないところがあり,わざわざ回答を下さる皆様にご迷惑をおかけいたしましたことをお詫びさせて下さい。
>>
ことわざの体をなすのは、「~であるから~しなさい」という因果の解が含まれる必要があり、相談者さんの解釈が言葉の正しい意味であり、引用文がことわざの説明部分に当たります。そして現代語の運用方法としては「命あってのものだね」との掛詞です。
恥ずかしながら、第三の口語表現としての「命あってのものだね」、これの存在を解していませんでした。
文章構造と意味とは本来的には等号で結ばれているものであるが、その意味はしばしば時代推移により変容する。広く言えばこれが原理。
「命あってのものだね」の語尾の「ものだね」。
この語尾の現代的な用法(=命の大切さの共感を呼びかけるような使い方)と「物種」とが被っている事実が示すのは、もはや「物種」の厳格な意味合いは幾分か阻却され、むしろ「呼びかけ」の意味に重きが置かれることになった訳ですよね。
また、「呼びかけ」は言葉を変えれば「教訓」であり、「普遍」であると。
「命あっての物種」と「命あってのものだね」、さらには背景的な、原理と普遍(的な価値)の仕組みも理解できたように思えます。なにやらすっきりできた気がします。
お付き合いいただきありがとうございました。
No.7
- 回答日時:
#5です。
別に腹は立ちませんよ。ただ、貴方と私が共鳴出来ないと言うことですね。ソクラテスの産婆術を彷佛とさせますね。貴方は折角論理に目覚めたんだから、世の中には自分の論理とは違った世界の見方をしている人間もいるのだとか、あるいは、そう言う見方は考えたこともなかったとか、そんな風にして、自分の肥やしになる所は肥やしにし、そうでないと思える所は、あっ、そうですかって言っていれば良いんじゃないんですか。そうでないと、まだ見たことのない世界の存在を見い出す機会を潰すことになっって、勿体ないですよ。人類の歴史を見ていると、重大な発見は既存の論理を使ってスッキリ近づける所なんかから見付かって来たわけではなくて、常に想定外の所から出て来たのですから、自分の論理から外れている所にも目をやっておかないと、一生誰でも思い付くような当たり前のことだけ言って終わりになってしまいかねませんよ。貴方の筋は良さそうなんだから、余計勿体ない。まあ、それでも良い、余計なお世話だって言うんなら、私がどうのこうのと言う筋じゃありませんけどね。
度々のご回答ありがとうございます。
>>ソクラテスの産婆術を彷佛とさせますね。貴方は折角論理に目覚めたんだから、世の中には自分の論理とは違った世界の見方をしている人間もいるのだとか、あるいは、そう言う見方は考えたこともなかったとか、そんな風にして、自分の肥やしになる所は肥やしにし、そうでないと思える所は、あっ、そうですかって言っていれば良いんじゃないんですか。そうでないと、まだ見たことのない世界の存在を見い出す機会を潰すことになっって、勿体ないですよ。
……
処世術についてまでご教示いただきましてありがたいです。
自分と異なる考えについてを拒絶するのではなく,拒絶したくても受け流す。
私もその通りだと思います。そのことにつきましては実は友人から一年前ぐらいに気づかされ、気をつけていたつもりなのですが…。ダメなようですね、精進いたします。
さらには残念なことに、勉強という側面だけで見ても、最低限とはいえ人間関係がないことには相手から教えてもらう機会すらなくなりますし。
これは今回私が主張した意味合いでの『命あっての物種』と似た構造でしょうかね。命が人であり、物種が教えてもらう機会、ってことです(笑)
ただ,この度におきましては自説は自説として諺の態様本質も留意しつつ、、
そして今後は、知に貪欲に,そして人間関係は謙虚に,知的探求並びに社会人たる素養を身につけていきたいと思います。
深いお付き合いをありがとうございました。
No.8
- 回答日時:
#4です。
「物種」→「芋種」はさらに続きます→「芋あっての屁の種」と。
まあ昨今でも「長嶋あっての巨人」などと言いはやされましたが。
其の場の思いつきで得手勝手に意味解釈することを語源俗解(Volks-etymologie)などと呼びます。
子供が知ったかぶりで「ハンスト」を「半分ストライキ」のことだと吹聴するするようなものです。
その点、俳味の達人芭蕉翁の句には唸らされます。
命こそ芋種よ又今日の月 (千宜理記)
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