これが怖いの自分だけ?というものありますか?

日清・日露戦争を境として、東アジア三国が異なる進路をとるに至った、その理由と経緯を教えて下さい。

A 回答 (1件)

まず、東アジア三国=日本、中国、韓国。



日清日露から説明するのは無理です。日清戦争開始時に各国の置かれた国際環境が異なるからです。

◎国際環境
19世紀後半、日本は列強の開国要求に応じ明治維新をへて西欧近代化への第一歩を踏み出します。
中国は古来継承してきた冊封体制(周辺諸国に朝貢を促す代わりに国王に任命する主従関係)の維持の不可能性がアヘン戦争・アロー戦争で明らかとなり、列国の関心の的(新市場として)となり日清後の半植民地化が見えてきます。朝鮮も清と同様西欧近代化への転換が遅れ、結論から言うと日本という新米列強に食われ(or の植民地とされ)てしまうのです。(日朝修好条規が好例)
 つまり、日清戦争を待たずして、「近代」(未成熟)国家日本と、「前近代」国家清と朝鮮という軸が現れるということです。福沢先生の『脱亜論』なんか興味深いですね。

◎日清戦争の意味
・朝鮮が中国と外交上対等になった
・中国の半植民地化が進行した
・朝鮮で親露政権が成立した(or 半島からの日本後退)
・日本で重工業化が一挙に進展した

ここでみられるのは中国の近代化に更なる遅れです。朝鮮は日本に植民地化を恐れロシアに接近しますが、結局日本が西欧近代化を大幅進展させてしまう(銀行制度の確立、法治国家体制の整備)ので、日本が国際情勢上有利になり(不平等条約の全廃、日英同盟)、日露戦争もある意味で結果(条約内容)の見えた戦争でした。
 つまり清の衰退は決定的となり、朝鮮は日本の国策により「植民地的」となり、日本は列強としての体裁を整える、といった経緯でしょうか。


◎日露戦争の意味
・立憲国家の勝利⇒清:憲法大綱で議会と憲法
・アジア国の勝利⇒WW1後の民族自決に影響:三一独立運動や五四運動
・日韓併合の準備
・日本とロシアの接近(中国市場の分割を意図)

ここでは朝鮮の植民地化が決定的となり、日本は正式に列強入りした(この表現も曖昧ですが)ことが象徴されました。
 ちなみに中国や朝鮮の民族運動は日本以外の列強に働きかけますが、等閑に付される結果となりました。


◎まとめると
西欧列強と対面する際に、伝統を潔く捨てた日本と、それに固執した中国・朝鮮。
こうした近代化への姿勢が、日清・日露を通じて「植民地化」という形で顕在化したものと私は認識しております。

よって、
「日清・日露戦争を境として、東アジア三国が異なる進路をとるに至った、」
「理由」=近代化への姿勢が異なったから。
「経緯」=上記のとおり。


◎ところで
私は専門家ではありません。もっと言うと受験生です。
高校の教科書程度の知識しかありませんので、自分の歴史認識を絶対化するつもりはありません。
また、史実誤認もあり得ますので、なにとぞご了承いただいた上、回答とさせていただきます。
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