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心は脳が作り出していますか?
(つまり死んだら心も全て消滅する)

それとも心と脳は別であり、
人の寿命が来て脳が死んでも心は生きていますか?
(つまり死後の世界がある)

私は迷っています。

中国唐代の禅匠である
黄檗希運禅師の言葉を引用すると

感知されたものは感知するものではありえない。
われわれはいろいろなものを見ることができるが
見るものを見ることができない。
感じるものを感じることはできず、触れるものを触れることはできず、
嗅ぐものを嗅ぐことはできない。
そのように知るもの(心)を知ることはできない。
知る心はさまざまなものを対象的に知ることはできるが、
知る心を対象化して知ることはできない。
だから知るものである心を脳と同じような対象的な存在として扱い、
それを脳と関連づけて〈心は脳の働きだ〉というのは
正確な理解とはいえない。

とあります。

この考えは理解できるのですが、
であれば何故、薬物などを摂取すると
(大麻、覚せい剤、シンナー、コカイン、ヘロインなど)

心まで変わってしまうのでしょうか?
それは脳に影響を与えるから
心が変わっているのではないでしょうか?

そう考えると、心は脳が作り出したもので
死ぬとすべてが消滅する、
というほうがしっくりくる気がします。

答えの出る問いではありませんが
みなさんはどうお考えでしょうか?

よろしくお願いいたします。

A 回答 (17件中1~10件)

心は実体の無い現象に過ぎず、魂でも、自我でもありません。

例えるなら、心とは、水面に起きる波紋の様なものです。黄檗禅師の言う、感知するものだとか、見るもの、感じるもの、触れるもの、嗅ぐもの、知るものとは、心ではなく、意識の事です。意識こそが自己の最小単位なのです。

心は脳が作り出す現象です。死ぬとすべてが消滅するというより、肉体の機能が停止して何も認識する事が出来なくなり、心が生じる事もなくなるという感じです。しかし、肉体が死しても意識は存在し続けます。何故なら、意識とは宇宙そのものだからです。

本来、意識に個別性はありません。しかし、人間が持つ自我という囲いによって全体から隔離された意識には、自己なる個別性が齎されます。死とは、意識が個別性から開放される事を言うのであって、それは全体性への回帰であると言い換える事も出来ます。

所謂「死後の世界」なるものは実在しませんが、全体に回帰した意識が、自我という囲いの中に取り込まれ、全体から隔離されれば、再びあなたという存在が地上に産み落とされる事になります。

まあ、こういう事は、誰かに答えを聞いて安心しようとするのではなく、坐禅するなどして自分自身で明らめようとしなければ、意味がなかったりするんですけどね。
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心というものは、果たして頭脳が作り出しているのでしょうか。

であれば頭脳こそが自分自身なのでしょうか。それで、次にちょっと面白い科学実験を紹介します。
<ある人の脳に電極を差込み、電流を流すと左腕が曲がるという実験なのですが、なぜかその人は必ず右腕でその左腕を押えようとするのです。なぜそのようにするのか、本人に聞くと「左腕は自分で曲げたという意識はまったくなく、突然曲がるので押えた」というものでした>

さて、もし脳が心を生じさせているのなら、脳への電気的刺激は心をも刺激し、無理やりとはいえ自分の意思で左腕を曲げた感覚になるはずです。ところが、そうではないと言う。つまり、右腕は自分の意思で動かしたが、左腕は自分の意思では動かしていない。
結局、電極は脳を刺激して働かせても、心までも働かすことができなかったということです。このことは『脳=心』ではないということを物語っています。

それでは脳と心の関係は一体、どのようなものかと言えば、昔の人は頭脳のことを『心の座』とか『精神の座』とか呼んでいましたが、つまり、頭脳というものは心がドンと座る場所みたいなところであると言っているのです。これはちょうど、飛行機の操縦席と操縦士みたいな関係で、心が頭脳に乗っかって、その肉体を操るようなものなのです。もっと分かり易くいえば、機動戦士ガンダムのモビルスーツとそのパイロットみたいなものでしょうか。結局、心そのものは目で捉えることができないため、その表現手段として、肉体というものが必要だったのです。いわば心のための着ぐるみ、器みたいなものですね。

心という目で捕らえることができないものが、本来の自分自身というと、何か釈然としないかも知れませんが、例えば、今では地動説は、当たり前になっていますが、今から400年前の人々の宇宙観といえば、誰もが地球は止まっていて、その周りを宇宙が回っているという天動説を信じていました。
確かに目で見る限り、太陽は東から昇り、西に沈みますし、月や星々も時間とともに夜空を駆け巡っています。また、木々や家々、我々もちゃんと立っていて、この大地が動いているなんてとても思えない。ですから、当時は天動説を信ぜざるおえないし、そのような固定観念が根付いたとしても、やむおえなかったでしょう。では、現在ではどうでしょうか。確かに今でも、見た目には400年前とさして変わりませんが、真実の姿が科学によって明らかになった以上、誰が地球が止まっているなどと信じるでしょうか。

我々は科学技術のおかげで、本末転倒とも言える宇宙観を正すことができ、真の宇宙の姿を客観的に見ることができます。このことからも分かりますが、全体を観ずして部分観のみに捕われて判断することが、いかに真実とはかけ離れた結論をもたらすかが、よく判ります。ただ残念ながら、今の科学では宇宙観ほど心というか生命観について明確に解き明かすことができていないことも現状なのです。

ともかく、頭脳肉体があるからこそ、自分があると考えたくなるのは、400年前の人たちが天動説というものを固く信じていたことと根は同じでしょう。やはり、何事も物事の一面のみをもってして、判断してしまうのは実に愚かなことかと思われます。そして、更に愚かなことには、真の自分ではない自分を自分自身と錯覚し、それに執着して苦しんでいるのです。それが死に対する苦悩、恐怖でしょう。我々はどうしても、いずれどんなものも無に帰するという固定観念に取りつかれているのですが、これも物事の一面しか見ていないために起こる誤認識なのです。それで世の中の大部分の人は「人は死んでしまえば、それで終わり」と思っている方が多いようですが、果たしてそうでしょうか。実際のところ、科学的に『死後がある』とも『死後がない』とも証明されておらず、決定的な決め手に欠けているのが現状かと思われます。つまり、どちらも実証できていないという点では、同列であるということです。

ところで『人間は考える葦である』という言葉で代表される数学の確率論や思想家で有名なパスカルに、次のような死後に対する理論があるので紹介しますが、これは一種の『賭け』の理論なのですが、ある人が死後の生命があるという方に賭けて生き、死んだとします。そして結果として死後の生命はなかったとします。するとその人は賭けに負けたということになります。それでも、その人は別に損をした訳ではないと、パスカルは言うのです。一方、死後の生命がない方に賭けて生き、死んだとします。それでもし、死後の生命というものがあったとしたら、その人間はもう取り返しがつかない。いわゆる『後悔先に立たず』です。つまり、生きている間に何らかの善行を積んで、死後に備えておけばよかったと思っても、もう間に合わない。つまり結論としては、死後の生命を信じる方に賭けて、その賭けに勝てば幸福であり、また負けたとしても何も失わない。ところがその反対に賭けて負ければ、何とも取り返しがつかないことになる。

以上のことを冷静に考えてみれば、死後の生命を信じる方に賭ける、つまり、宗教などを受け入れることは極めて合理的な選択であって、理性的である人ならば、これ以外の選択はないという理論なのです。パスカルは確かに賭けの理論を用いましたが、結局は我々に賢明な選択をすべきことを勧めているのです。

ところで、仏法の持つ生命観なのですが、まず生命(心そのもの)というものは永遠の存在であると説きます。つまり、『死んでしまえば、それで終わり』ということにはならないというもので、その死後も生命というものは存続するというものです。これの根拠となっているものが、仏法の説くところの宿業論なのです。たとえば、我々は車に乗りますが、それを運転している時は車と我々はあたかも一体のようですが、その車が経年により配車となったからといって、我々ドライバーも同じようにお払い箱かといえば、決してそうではありません。その車を操作していた本質ともいえる我々は、次なる新しい車を求め、それに乗り換えるはずです。つまり、車の死とも言える廃車があったとしても、我々ドライバーは存続し続けるのです。ところで、前の車に乗っていた時の違反は、新しい車に乗り換えたからといって、その違反が消えて無くなるでしょうか。決してそうはならないはずです。なぜなら、その違反の罪はドライバーに帰属するからです。つまり、何台乗り換えようが、その罪を償わない限り、その罪というものはそのドライバーに付いて回るのです。これとよく似たものが我々の生命にもあるのです。それこそが、いわゆる宿業あるいは宿命なのです。

もし、前世の肉体で犯した悪しき行為に対する報いをその時に受けていなければ、次なる肉体の時にその報いを受けなければならないことになるのです。つまり、宿業というものは我々の本質である生命に付いて回るのです。もちろんこのことは善悪両方について言えるのですが。

たとえば、人は生まれて来た時、人によっては平和の国や戦争をしている国に生まれる者もいますし、平和の国に生まれたとしても、裕福な家に生まれる者もいれば、貧しい家に生まれる者もいます。更には、健康体で生まれる者もいれば、先天性病を抱えて生まれる者もいて、まさに様々です。
もちろん誰だって、平和な国に裕福で健康に生まれて来たいはずです。ところが現実はそうはいかない。このような誕生という出発点ともいえるところですら、もう既にそのような差別が生じてしまっているのです。ですから、このような差別というか、違いの原因というものはどうしてもその人の生まれる前、つまり、前世に求めざるをえないのです。

仏法には『過去の因を知らんと欲せば、その現在の果を見よ』という言葉がありますが、まさにその通りで、自分が過去に一体どのような宿業を積んで来たのかを知りたければ、今の自分の状況を見れば、自ずと分かるではないかということで、つまり、前世に悪業か善業かを積んでいれば、その結果としての報いを今世に受けていくということになるのです。
つまり、ヒットラーのように何百万人のユダヤ人を殺しても、ナイチンゲールのように生涯をかけて世に人に尽くした人も死んでしまえば皆同じということは絶対にありえないのです。必ずそれらの行為に対しての報いというものを受けなければならないのです。

よく人によっては、自分は今までに何の悪いこともしていないのに、なぜこのような病苦、経済苦、戦禍等で苦しまなければならないのかと嘆く人もいますが、確かに今世では何もしていなくても、前世に積んだ悪業の報いを今世で受けているのです。これがいわゆる『宿業に泣く』という状態なのです。悪業には悪果を、善業には善果という報いを必ず受けなければならないのです。ですから、このことさえ熟知していれば誰が悪業を積もうなどと思うでしょうか。なぜなら誰だって、未来の自分を不幸に陥れようとは思わないからです。このように宿業というものは過去、現在、未来というように継続して行くのです。このことは取りも直さず、我々自身が死後も存続し続けることを意味しているのです。

以上のように宿業という点から見ても、我々の本質である生命というものは今世のみでは決して終わらず、過去から未来へと悠久を繰り返し生きていくものである、ということが多少なりとも解るかと思われます。結局、我々は朝起きては夜眠るということを何度も繰り返しますが、それと同じように、我々は生まれては死に、生まれては死にと生死を繰り返して行くのです。つまり、永遠不滅の『心』こそが真の自分で鏡に映る肉体は自分を表現するための道具であると自覚すへきでしょう。
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>それとも心と脳は別であり、


>人の寿命が来て脳が死んでも心は生きていますか?
>(つまり死後の世界がある)

>私は迷っています。


これについてに結論はイエスです。
脳は死んでも心は存在します。

現代科学では、死ねば自分の意識はゼロになると見ている。
意識活動の出所は全て脳にあるとみ、
それが死んで消えていくわけだから、
自分は消えてなくなると考えています。
当然心なんてものもパーになると考えています。

ところがでは何故お墓参りに行くのでしょうか?
どうして亡くなった人の前で弔辞といって語りかけるんでしょう。
そしてどうしてお盆をやっているかです。
ついでにどうして神社仏閣に手を合わせにいくんでしょう。

いやそれは単なる儀式ですというのでしょうか?

その割には行事をされる人は殊勝な気持ちで振舞いますが、
そもそも死んでパーになるんだったら、
お墓なんて要らないし寺も要らないし、神社も要らないでしょう。

現代の日本人はやっていることが破綻しています。
というよりも思考が破綻をきたしています。

人生は1回ぽっきり。
だから好きなように、やりたいようにやったほうがいいとなって、
倫理観とか道徳観に対する意識が薄れてしまう結果になっています。
どうせ死ねばパーになるんだから、やった者勝ちの人生観になっていくわけで、
それが現代社会の主流になっています。

この2,3百年の科学史観では、
心も愛も悲しみも思いやりも全て物質だとどこかで考えているわけです。
愛の作用も物質であり、その表れも物質であるし、

心も物質なのであるし、

ようするに全てが物質によって成り立っていると見るのが現代科学です。
だから死んだ後のことは考えられないし、生まれる前のことも考えられないし、
この点について思考停止するわけです。

現代世界はそういう意味で気の狂った破綻した思想を
受け入れてしまったということになるでしょう。
たとえば、心も愛の思いも所詮「物質」だと大きな顔して言う人が
いるだろうかということです。

人前で平然といえるような人はそうそういないんじゃないだろうか。
もしそんなことを言ったら、冷たい人間だとバッシングされるわけで、
「人間はモノではない、心がある、精神がある」とか
語るのが普通じゃないでしょうか?

唯物科学はあくまでも仮説にしか過ぎません。
所詮は西洋思想です。

それを絶対視するところに日本人の不幸があります。

あのアメリカですら、キリスト教によって、ダーウインの進化論を否定する州が
結構あるのにです。

ちなみに「心」は心臓の磁場に存在します。
そしてその心の中に、魂という自分の本体(意識体)が潜んでいます。

この魂は不滅であり、死にません。
心というのは、意思体ではなく場です。

魂はパーソナリティーを持って永遠に生きています。
3次元に生まれてきたり4次元以降に生まれてきたりしているだけです。
よくいう輪廻転生しています。

でその心臓の場に住んでいる魂は、頭脳を使って五体を動かしています。
頭脳は現代科学では考える場所でいわば思考の根源だと考えているのですが
それは間違いです。とんでもない歴史的大間違いです。

頭脳は考える力はありません。
あくまでも有機体で出来た超微細なスーパーコンピューターです。
パソコンは人間が居なければ何の役にも立たないように、
頭脳も魂が意思しないかぎり何の働きもしません。

頭脳は体を自由に動かすとき、あるいは、
3次元の法則性にそってさまざまに体験した情報を
記憶する装置です。

そしてその記憶に基づいて出来上がったさまざまな物的価値観と
それによって出来上がった性格を置いている場が心です。
それは脳でなく心臓の磁場にあります。
魂に取り巻くように心が出来上がっています。

そして人間が死ぬと頭脳も体も灰になりますが、
魂と心はそのまま残ります。
何故残るか?
次元が違うからです。

3次元世界を全ての世界だと勘違いして、
それで全てを説明しようとしても無理なのです。
ナンセンスといっていいです。

人間はモノではないとか、心があるんだとかよく言います。
しかし科学思想では全てモノなのです。
思考が破綻しているわけです。

古い時代に何でこんなことが分かっていたのだろうと思うような知恵は
幾らでもあります。
昔の人は当たり前のように魂を信じていたものです。

そして今でも自然相手に仕事をしている人は
安易に神の存在を否定しません。
金を出せばどうにでもなると思い込んでいる都会人に
無神論者は多いです。
農業をやっている人や海に出て行く漁師は
神を敬うことは当たり前にもなっています。
あのアインシュタインですら神を信じていた。

しかもあの進化論を語ったダーウィンは晩年、間違いを認めています。
そしてその罪滅ぼしに、自宅をローマ教会に寄贈しています。
今そこは図書館として使われていると言います。
ただなんとなくサルから人間になったのだろうと
言ったに過ぎないし、未だ仮説でしかないということを日本人は知りません。

3次元に終始する旧態依然の科学思想では
地球を破滅させるだけですよ。

全ては物質、心も精神も愛も物質の一部ですというわけですから、
社会が狂気・殺伐・破壊的になるのは当たり前です。

とにかく3次元だけが全てではないということです。

参考URL:http://mind21.ti-da.net/e4025139.html
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心は脳が作りだしている?


空想妄想は心が作りだしている。との意味のようですね。

「心なる実体は存在しない」とは釈迦もいっていますが。
心とはころころ変わるから、こころ、と言う。などとは仏教者がよく言う台詞のようです。
あなたに、心、なるものが在る訳ではなく、外、からの縁、(環境からの刺激)と体験や記憶知識によって、組み込まれた、あなたの、内側からの方向性、能力。という二つの縁によって、想起する。ものです。
私の回答を読んでいる時、回答を縁としてあなたの思い、心、が想起する。あなたの、心、を起こしている、作りだしている、私である。そして、どんな心が想起するかは、貴方自身の方向性、あなたが思っている、自分の心、でもあるのです。しかしそれとて、元とは体験や知識という外からの縁によって作られてきたものなのです。人間が社会を作るのではなく、社会が人間を創っている。はマルクスですが。
人間の心は、先見的方向性(素質、能力)環境との関数として、想起し、想起した心を縁とし次の心に変化してゆく。という在り方になります。、
先見的方向性としての心、とはどんなものか。
若い頃の私の言いぐさ?は
人の心を知りたくば、動物の行動を見れば判る。心など別に、美しいものでも、複雑なものでもない。
でしたが。
釈迦も「人間を厭え、行い正しく、知恵ある者と出会ったなら、道連れとなるがよい。
そうでなければ一人でいる方がよい。」また「人とかかわるな、友達を作るな」とも言っているようですが。
人の心に働きかけ、影響を与え、相手の心を変えよう、支配しよう。などとの、思惑愛好家、を相手にするのは、知恵を求める者にとっては煩わしいことでもあるはずです。

脳(肉体)が死んでも心は生きていますか?
心は生きているとか死んでいる。ではなく、想起しているか、いないか、です。
人は眠っていても、心は想起しない。何処にも存在していないのです。
心にとって、眠りと死、の差は、目覚めるかどうか、以外に何かあるでしょうか?
死は永眠、と考える。日本人の常識、が最も自然なのでは。
あらゆる物質には、その物質の構造に起因する、能力、方向性、が一体として、付随しています。
在る、とは方向性がある。何か変化を起こす能力がある。ということであり。物質構造が破壊、消滅
したら。付随する能力も、変化する。あるいは消滅のことになります。付随していた、能力、だけが
一人歩きすることはありません。
人間、あるいは、脳、の構造、活動、が消滅すれば、それに付随していた、心、が幽霊、霊魂、などとして、存在することはあり得ない事でしょう。
「無明(明かり=知恵、がない)とは、知らない(知識がない)事ではなく、迷妄(間違った知識)に
取り憑かれる事である」では
「無為自然」作為や思惑の心を捨て、有るものを有るがままに見、有るがままに生きる、のが
最も知恵のある生き方だ。と老子は説いています。
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脳に影響を及ぼす物質は様々にあります。

また体調の変化など、体の状態も脳に影響を及ぼし、心の在りように影響を及ぼすでしょう。

ところで「心・こころ」とはいったい何なのでしょうか?

「脳のことを知らないと、心臓当たりにあると思うのではないでしょうか?」
「心ここにあらず」とかいったとき、「どこ」にあると思われるものなのでしょうか?
「繋がり合う心と心」といったとき、「脳」が繋がり合うイメージで正しいのでしょうか?
「心は、あの人の元へ」といったとき、「脳内での想像」として片付けてしまっていいものなのでしょうか?

「心とは、思うところに思う範囲で広がったり、狭まったり、中心が心臓当たりにあるように思えたり、気づかう相手を思ったり、家族の思うところに重なり合うように思えたり」すると思った方が、心らしいのではないでしょうか?

たとえそれが「脳内」での現象だとしても、その「脳」に影響を与えている「心臓や相手や家族」という実在との関連性があるからこそ、そのように感じる「心・こころ」が存在しうるのではないでしょうか?

たとえ死んでしまったとしても、その人の心を思う人々の心の中に、繋がり合っていた思いのひとかけらでも残るのであるなら、どうしてその人の心が消滅すると言えるのでしょうか?
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心=大脳は正しいと思います。


心は宇宙と繋がってると思ってます。
知り合いがいい言葉を言ったり、いいことをしたら宇宙に貯金みたいに貯まっていって道徳的に悪いことをしたりすれば減ると言ってました。
それがいっぱい貯まったら明るい未来が待ってるらしいです。
それから考えて超能力=宇宙エネルギーだし脳の本気=超能力だから心も脳も宇宙と繋がってるので一緒のものだと思います。

あと死後の世界はあると思います。魂があるので死んだら魂が死後の世界に行き肉体は朽ち果てます。死後の世界に行けなかった魂が現世で霊になり仏からの救いを求めてさまよってます。しかし霊になって数年経つと元はいい霊でも世の中の悪いことを吸収してしまい必ず悪霊になりますし年月が経つにつれて霊力も強くなるのでとても危険です。
見事成仏できたら守護霊として子孫を守ってくれます。しかし悪いことばかりしてると守護霊に愛想つかされます。気を付けて下さい。

ただ霊力にしても宇宙エネルギーなので宇宙は偉大です。
宇宙=神様かも知れませんね。
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「伝心法要」において黄檗希運は次ぎのように言う、「修行者よ、疑うことなかれ。

四大が集まって身体ができている。その四大には我(アートマン)はない。また身体には主体はない。このことよりこの身には我(アートマン)はなく、主体はない。五蘊が心である。五蘊には我(アートマン)はなく、主体はない。故にこの心には我(アートマン)はなく、主体はないことが分かる。六根、六識、六境(=十八界)が和合し生滅するのも同様である。このように十八界(=六識+六根+六境)は既に空であるから一切が皆空である。ただ、本心のみがあって無限定の清浄さを保っている」。

貴方は、黄檗禅師の『「心は脳の働きだ」というのは、正確な理解とは言えない』という言葉から、だから心と脳は別物である。と、理解したようですが、それは違います。
上記の黄檗禅師の言葉によれば、「五蘊が心である。」と言っておりますよね。
これを現代の言葉で訳すのなら「精神作用(脳の働き)が心である。」となります。
しかし、「ただ、本心のみがあって無限定の清浄さを保っている。」という言葉が後に続きますが、この「本心」というのは
五蘊=精神作用=脳の働き=心 とは違う心を言っています。
脳の働きとは違う本当の心=無意識の心作用は、脳とは違う所に存在すると禅師は考えていたようです。
ただ、現代の脳科学によれば脳幹の働きを言っているのです。
黄檗禅師の頃は、脳が大脳や小脳や脳幹に別れているなんて知られていなかったので、無意識の心は脳の作用とは別であると考えたのでしょう。
だから、貴方の引用した禅師の言葉「心を脳と同じような対象的な存在として扱い、それを脳と関連づけて〈心は脳の働きだ〉というのは正確な理解とはいえない。」というのを解説すれば、「心というのは、意識化の精神作用(脳の働き)だけではなく、無意識の精神作用(本心)をも含んでいるのである。」となります。
 つまり、心は脳の働きであるということが、仏教では言われています。
 だから、死んだら心も消滅するというのが、仏教的には正しい答えです。
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「心は脳が作り出している」というのは、素朴唯物論的な


古典物理学に過ぎません。
「脳(有限的存在性)は心が作り出している」というのが、
量子論的世界像の帰結です。
真の自己とは、あなたの感じる「自分(感受表面)」の内側
(肉体)ではなく、外側(宇宙=意識)です。

最新の量子論的世界像において、有限な存在性は観測
される事によって生じています。
自我仮説に対する相補的な時空仮説における、他我性
こそが宇宙(無の無限の闇に対する自我の射影)。
全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源
にまで遡った)補完なのです。
即ち「何か有るんじゃ?」という疑問(自我仮説)の相補
として生じた時空仮説に対して、「本当はないんだけどね」
という無の射影として、存在は生じていると言えます。
「死んで無に帰する」のではなく、いつでも無だったのです。
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脳が死ねば、心はもはやうつろう事も無かろう?



うつろうことの無い心なぞ、もはや心とは言えんのじゃあんめいか。
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ご質問の正確な答えにはならないと思いますが、科学的にいって世はほぼ機械論が優勢ですね。

ハードとして理解が可能である。最先端の科学はみるもの、きくものなど感覚器官の詳細なメカニズムを客観的な方法でほぼ解明しています。完全な理解はできていないようですが心を含めて人間は機械的な存在である。機械が動かなくなったらそのひとの人格すべてが無になるということでしょう。
でもここは哲学カテですし、ご質問をもうすこし掘り下げてみなくてはならないでしょう。
人間の心は非常に多様で広範囲なものだと私は理解しています。そのひとの行動全般にかかわりますし、ほとんどの人の心は周囲の人間に影響を及ぼしています。いろんな表現方法で外部へ働きかけるものでもあるわけで、相互関係から言えば当人の意思如何にかかわらず外部からそれを読み出すことも可能だということです。そういったいはばソフト的なものは、当人が死んだあとも(死後)世界に残存していきているほとたちに影響を及ぼしつづけることもありうるわけでしょうね。芸術家たちの仕事、作品がその一例だといえないこともないと思います。彼らにとっては死後の世界が勝負だ、ということです。
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