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 昔から疑問だったのですが、晩年の徳川家康って下帯が自分で
結べないくらい肥満していたと聞きます。でも・・・

家康といえば質素倹約。暴飲暴食なんてありえない。しかも鷹狩が大好きな
アクティブ大御所。そして健康に人一倍気を使い薬も自ら調合したという・・・。

そもそもこの時代に肥満するほど栄養がとれるのか?さらに大坂城の秀頼、キリシタン問題、
言うこと聞かない六男忠輝、不気味な伊達の動き・・・家康はかなり神経をすり減らして、太ることなどできなかったのでは?

と、家康肥満説への疑問がムクムクと湧いてきます。
どなたか、お考えを聞かせていただけないでしょうか。よろしくお願いします。

A 回答 (6件)

元々の体型が、骨太のがっしり体型。

遺伝的要素もあるでしょう。

鷹狩りといっても、馬に乗れば、消費カロリーはそれほどでもないし、けっこう筆まめで、あっちこっち書状を送ってた話などもありますから、どちらかといえば、頭脳労働タイプ。
 若い連中に混じって健啖家を装うと、カロリー過多に。

 神経すり減らすことが多いと、ストレスによる過食も。
 金平糖のようなサイズ的には小さくても高カロリーの洋食文化も入ってきてますから、これも肥満の元。
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この回答へのお礼

ご丁寧な回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/11 22:42

>そもそもこの時代に肥満するほど栄養がとれるのか?


肥満になるのは脂質だけではありません。
現在もおかずダイエットと呼ばれているダイエット法があります。
でんぷん質、つまりご飯やうどん、ラーメンなどのでんぷん質を摂取しないで痩せる方法です。
逆にいいますと運動不足のままでんぷん質を採ると太ります。

栄養という意味では日本人は事欠きませんでした。
畜肉や乳製品を摂取していなかっただけです。
魚介類で動物性たんぱく質は充分摂取していました。
現在のように河川は汚染されていませんから、手近な川や湖沼でたにしでもどじょうでもふなでも豊富に手に入りました。
海岸地帯では現在以上に魚が豊富に採れました。
東京湾でクジラが採れたこともありました。
栗を始めとする堅果あるいは殻斗果(かくとか)と呼ばれる、いわゆるどんぐりの類が豊富に手に入りました。
三内丸山遺跡でも栗林があったことが知られています。
現在、山菜とか春の七草と呼ばれる植物は常に身近にありました。
現在のようにバターだのチーズだの焼肉がないから栄養不良だったと考えるのは早とちりです。

飢饉は時たま起きるから史実として記録されて残されているのであって、年中飢饉だったわけではありません。
豊作の年はいくらでもありました。
家康の時代には米を始めとする五穀は当然のことながら、味噌醤油などの発酵食品も現代と同じように食べられていました。
八丁味噌というのは、元々家康軍の兵糧です。
鎧下の帯に巻き付けて持ち運んでいたものです。
医食同源ということが常識として言われていた時代です。
漢方に興味を持っていた家康は当然偏食は避けていたでしょう。

家康の直接の死因は天麩羅の食べ過ぎと言われています。
天麩羅は後の江戸時代には、町人の身近なファーストフードでした。
「天ぷらの 指を 擬宝珠へ ひんな すり」などという川柳も残っています。
屋台で手でつまんで食べていました。

>鷹狩が大好きな
鷹狩の大将といのは、本人は眺めているだけです。
家康の鷹狩の目的は土地勘の無い関東の地形を頭に入れるための巡視が目的でした。
ついでに家臣に行軍の訓練をしていただけです。

>家康といえば質素倹約。
草深い関東の寒村に江戸という一大都市を創りました。
秀吉などよりもよほど多額の金を動かしています。
江戸城は、元々は東京湾の奥にあった地続きの双子の島をならして間の谷を埋めて作りました。
太田道灌が居たのは片方の島にあったデカイ掘立柱の建て屋でした。
これも家康が入ったときは無人に近状態に放置されていました。
規模も秀吉の大阪城を上回っていました。
家康自身は江戸城に住んだのは極めて短い期間です。
江戸築城以降の大半は伏見にいて、秀吉やら、その身辺の大名との駆け引きに明け暮れていました、
つまり、江戸と伏見の二重生活を長く続けていました。
生活費だけども秀吉の倍はかかりました。
要は秀吉とはお金の使い方が違っていただけです。

>大坂城の秀頼、キリシタン問題、言うこと聞かない六男忠輝、不気味な伊達の動き・・・
政治というものに携わる人間にとっては、囲碁や将棋と変わりはありません。
日常業務の範囲です。
こんなことで神経をする減らしていたのでは生き残れません。
まして戦国時代は、自分の命を賭けた博打を毎日やっているのと変りがない時代です。
現在は結果が分かっていますが、その日その場では当人は結果を知るよしもありません。
その博打に勝ち残ったのが家康です。
神経の鍛え方が違います。

戦国時代の大名というのは、何時戦になるのか分かりませんから、喰えるときには喰えるだけ喰っておくという習慣がありました。
平和な時代とは違います。
喰えるきに喰うということをやれば自然に太ってきます。
これに加えて家康は元々太り易い体質ではあったのでしょう。
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この回答へのお礼

丁寧なご回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/07 18:37

秀吉のように南蛮渡来の高価なお菓子をむしゃむしゃ食べるようなことはなかったにしても、それこそ米(や麦)を好きなだけ食べれないほど倹約というかケチをしていたということはありえないでしょう。


暴食かどうかはともかく好きなだけカロリーはとっていたと思いますよ。
そもそも当時足軽に用意してた米はどれだけか知っていますか?一日米1升が基本、状況が許せばもっと多いです。
貧しい時代と思われがちですが状況が許せばカロリーは現代人以上にとっています。

家康の肥満は記録からして壮年期から一貫したものだったと思いますが、質問主さんが気にしてる晩年期の場合は胃癌による腹水がたまっていた可能性もあります。
『徳川実紀』により近年の家康の死因説は胃癌が主流です。
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この回答へのお礼

丁寧な回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/07 18:39

http://www.iwata-tenjindou.co.jp/diet-genin.htm

(1)暴飲暴食による摂取カロリーオーバー
暴飲暴食に対する意識というのはない時代です

(2)老化や運動不足による基礎代謝量の低下
大いに有り得る


(3)慢性の便秘
不明

(4)ホルモンや自律神経のバランスの崩れ
大いに有り得る

(5)食事の変化による微量ミネラルの不足
大いに有り得る
※ 素人の薬マニアですから

肥満の原因の5大要素のうち、四つまでが家康にはポジティブです。

肥満は飢えが背景にあります。
幼少時の飢餓は細胞段階で肥満しやすくさせます。つまり栄養の貯金をしやすい体質にします。
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この回答へのお礼

丁寧な回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/07 18:39

結論から言えば肥満です。

クタクタ能書きをたれるのは無能のする事です。根拠は肖像画です。当時肖像画は本人が気に入らない(現実違う)ならば残りません。
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個人的には、家康は若いころは"アクティブ大名"だったし、苦労も絶えないし、痩せ気味だったけど、それ以降は中年太りしたか、少なくともよく食べてよく動く人にいる固太りだったのではと思っています。



質問についていくつか思うことがありますので書きますね。

当時と今の肥満の基準や考え方が違う、という可能性はないでしょうか?
今よりも飢餓までの距離がずっと近い時代、現代なら痩せてはいないけど、まあぽっちゃりかなという体型でも当時では肥満!すごい肥満!と言われた可能性があるかもしれません。
また肥満=悪というのは完全に、カロリー過多による生活習慣病の概念が浸透した現代の考え方です。
当時は痩せているほうが悪い意味合いを持っていたはずです。
女性の美も、20世紀後半までぽっちゃりが主流ですし。
だから健康に気をつかうからといって痩せ体型を維持しようとしていたとは限りません。
動けないほど太りすぎれば困るとはわかっていたでしょうが、むしろ痩せ=悪の時代です。
かなりの確率で、健康に気をつかっていても痩せようとはしていなかったはずです。
だから質素だからといって痩せていたとも限りません。

当時の食生活でも太ることは可能です。
というより有史以来、世界中のどこでも支配階層は肥満気味で食べ過ぎがいます。
手に入る食材が今ほど多くはありませんし、砂糖とバターたっぷりの西洋菓子がふんだんに食べられたわけではないにしても、食べるものにも困る庶民とはわけが違います。
質素倹約といいますが、大名のいう質素倹約はおそらく、おかずの数や量を減らすものであったはずです。
麦飯は白飯よりカロリーが低いという程度で、菜っ葉のお浸しに比べれば高カロリーです。
家康は逆に「麦飯太り」の可能性があったのではないでしょうか。
糖質は摂りすぎれば体脂肪に変わります。
おそらく家康の食生活では麦飯をなんどもお代わりするのが常態だったはずです。
普段の食生活が「麦飯(おかわり有り)と粕漬けの魚だけ」なら質素倹約と書かれていても、摂取カロリー自体は高かった可能性があります。

根拠のひとつに、海苔の養殖を挙げます。
現代の一般家庭に海苔が普及したのは家康のおかげという面があります。
漁師たちに魚を献上させたことから偶然海苔を発見したのですが、家康は海苔が好物だったため養殖を推奨して江戸湾いっぱいに海苔を育てさせたからです。
浅草海苔ってブランドですよね。
それ以前は天然ものしか存在しない、厳寒の冬季に海に潜って採るしかない、どのぐらい採れるかわからない超のつく高級品でした。
家康はこの海苔をしょっちゅう食べていたようです。(本当に倹約家ですか?単に食べ慣れた食事だけが好きってタイプじゃないの?)
なにといっしょに?麦飯ではないでしょうか。海苔をちょびちょびつまみながらご飯を食べて太ったのではないでしょうか。
それに家康の好物としてもっとも有名な「鯛の天ぷら」、当時のものはすり身を揚げたさつま揚げのようなものだったそうですね。
この作り方をするさつま揚げは当時の食べ物の中ではトップクラスの高カロリーです。
これを好物を衆目一致するほど食していたとすれば、太っても無理はありません。

鷹狩りで運動すれば余計に食欲が増し、必要なカロリー以上に食べたはずです。
が、それ以前に大御所になれば毎日定期的に一定量の運動をするようなこともなくなるわけですから、太りやすい生活です。
質問に挙げられたような諸問題も、他の根幹部分がうまくはこびつつあったわけですから、ストレスではあったでしょうが食が喉を通らない…というほどとは思われません。
またそのような性格とも思えません。
人間って、ストレスがかかった状態だと食べられなくなるタイプと、逆に食べすぎてしまうタイプがいます。
もし家康が後者なら、だからこそ暴飲暴食をしないよう自分を戒めていたとも考えられます。

ただやはり一番大きいのは、食に困らないことと運動の少ない生活になったことです。
お酒も、控えていたとはいえかなりいけるクチだったそうですし、当時は今より精米歩合の荒い醸造酒でしょう。
太る理由は山ほどありますが、痩せる理由には乏しいため、太っていても仕方がないと思います。
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この回答へのお礼

丁寧な回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/07 18:41

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