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最近、真田家の話題が盛んになってきました。
私もそれに乗ります。
豊臣秀吉は、真田昌幸のことを“表裏比興之者”と言ったそうです。
この言葉は、そしっているのですか、あるいは褒めているのですか?

A 回答 (4件)

どちらの意味もありますかね。


まぁ、本気でそしるなら、改易してるでしょうし。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
<どちらの意味もあります>
ということですね。

お礼日時:2016/01/23 17:26

どちらの意味とでも取れる



実際に、幾たびも所属先を変えている
単に変えるだけではなく、重用されている

単に裏切りだけで主君を変えるのであれば誰でも出来るし
主を変えて厚遇されることは少ない

なのに、彼は所属先を変え尚かつそれをプラスにしている
そんな奴他にいないぞ

そういう気持ちからの言葉でしょ

だから単純な貶めではないし、かといって手放しで賞しているわけでもない
好悪の合い混じった微妙な評価
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
<好悪の合い混じった微妙な評価>
ですね。
疑問があります。秀吉は、なぜ、微妙な評価を使ったのか。関係者に、ある意味ではあいまいな、どちらにも解釈されるかも知れない、危険な言葉を使ったのか、ということです。

お礼日時:2016/01/22 21:53

言葉は、相手と発言者、そのときの状況を考慮しないと、意味を理解するのは難しいです。


さらに、その人々の暮らしていた社会で、どのような言葉をどういう意味で使っていたのかも大事です。
《豊臣秀吉は、真田昌幸のことを“表裏比興之者”と言ったそうです》そういう事実がなかった可能性が高いです。webで検索すると、羽柴秀吉が上杉景勝に宛てた書状に付帯した副書(増田長盛・石田三成の名前になってい天正14年8月3日付の書面にあるようですが、その書面の文言がweb検索では不明)に、どう書かれているのかがわかりません。
仮にそうした文書があるとして、通常、そうした書面の添え状の文言が第三者の他人に流れることは希でしょう。また、羽柴秀吉が上杉景勝に宛てた書状は戦術的・政治的な意図で書かれているハズで、その副書に誰のことをどう書こうとも、今、当座・当面の説得目的/上杉景勝を説得する目的で作られたものでしかないです。
http://www.rokumonsen.com/source-of-future/sanad …
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なお、こんなのもあります。
戦国武将・人気のウラ事情 著者: 鈴木眞哉 

 12 「比興者」と呼ばれた人たち
 同時代の史料のなかで「比興者」と呼ばれている人が人勢いる。この比興というのは卑怯の当て字ではない。本来はなにかをものに託しておもしろがることだったが、しだいに意味か変わり、この時代には、常識的でないとか、道理にそぐわないとか、いやしいとか、あさましいとか、状況によって、いろいろな気分をこめて使われた。
 よく知られた事例では、真田昌幸がいる。天正十四年(一五八六)八月、豊臣秀吉から上杉景勝に宛てた書状(「上杉家記」)に、増田長盛・石田三成が添え書きして、昌幸は「表裏比興者」だと言っている。
 武田家の遺臣だった昌幸は、主家滅亡後、織田、北条、徳川と次々と所属を替え、家康と対立すると上杉家の傘下に入ったが、この書状が出されたころには、豊臣大名となろうとしていた。昌幸にしてみれば、大勢力に囲まれて家を保ってゆくためには、あざとい真似もやむをえなかったのかもしれない。だが、長盛らからすれば、そうした油断のならないところが「衣裏比興者」ということになるのである。
 ついでに言うと、「表裏」とか「表裏者」とかいう言葉は、それ単独で使われることもあった。天正十一年(一五八三)四月に、羽柴秀吉が佐々成政を「表裏者」と呼んだと、前田利家の家臣・村井長頼の覚書にある。成政は、もともと柴田勝家と組んでいたが、賤ヶ岳の戦いのときには越中で上杉勢と対峙していて、秀古と戦うことはなかった。勝家滅亡後、一時、秀吉に接近する姿勢を見せたので、裏表のある不正直な奴という意味をこめたのだろう。その後、また秀吉と対決して敗れたことは、すでにふれたとおりである。
(この本がどの程度信用できるかが怪しい。かなり怪しい。秀吉が豊臣姓を賜ったのは天正14年9月なので、天正14年にはまだ羽柴秀吉であった。上記の中にある書状が出された前年の天正13年に真田昌幸は次男信繁(真田幸村として知られている)を羽柴秀吉に人質として出し自分は羽柴の傘下に入っている。そして天正14年になる)
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ただ、仮に、天正14年8月3日付の書面や9月25日の書面で、表裏比興者の語で真田昌幸を指していたものがあるのならば、《貶すことば、信用できないヤツをさす言葉》として使ったのでなければ、その言葉を使う意味がないと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
何時ものことながら、綿密な論証でした。
1.秀吉は、質問の核芯である表裏比興之者を使わなかった可能性もあるのですね。
2.仮に、使ったとして、当時の状況において、貶すなどの意味を表さなければ、
<その言葉を使う意味がない>
ということですね。

お礼日時:2016/01/24 14:41

「表裏はあるけど、どっちつかずな性格が気に入っている」という意味です。


褒めているのか、けなしているのか、それは人次第だと思います。
豊臣秀吉に味方するなら、褒めているし、徳川家康につくなら、味方ではないという意味にも捉えられます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
appleboya1978様のご指摘により(少し間違えているかもしれませんが)秀吉は、
”<どっちつかずな性格>
であるお前(昌幸)が、どちらにつくか、により人柄が決まるぞ” と言っている(脅している)、ように思いました。

お礼日時:2016/01/24 21:40

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