この人頭いいなと思ったエピソード

私が不勉強ゆえ、劉備ファンの皆様には大変失礼な質問だと思うのですが、劉備のすごさ、よさってどのあたりにあるのでしょうか?
三国志演義は脚色が入っているので、あくまで史実に基づいたところから知りたいのですが、経歴をみるに、よく戦争に負けてるし、逃げてるし、家族は放り出します。城もすぐのっとられたりします。

しかし、曹操陣営に、厚遇で迎えられたこともあるし、「人の下に収まる器ではない」ともいわれています。
なぜそのような評価がついたり、どんどん味方に恵まれたのでしょうか?
よかったらご教授下さい。

A 回答 (5件)

まず、三国志演義における劉備の人物像は、全くのウソっぱちです。


品行方正どころか、「チンピラの頭目」と言うところです。

「中山靖王劉勝の後裔」かどうかは別としても、後漢の劉氏一族に連なることは確かな様で、貧乏ながら親族の支援を得て、名士の公孫瓚と机を並べて勉強したりもしています。
ただ、蜀志 先主傳に「先主は読書を甚だ楽しまず、狗馬や音楽、美い衣服を喜んだ」とあり、勉強嫌いでチャラチャラした人です。

また「豪侠との交結を好み、年少者が争って附いた」とあるので、ちょっとした結社の親分だったかと。
従い、何らか事件を起こし名前を変えて、劉備の地元に流入した関羽と、その子分であった張飛が、身を寄せたのでしょう。

ただ、旗揚げ早々から、後々まで活躍する豪将を手に入れた「器量」はホンモノでしょうね。
その後も行く先々で、そう言う武将や文官を手に入れています。

それと、特に関羽や諸葛亮に代表されますが、この二人は劉備にも勝るとも劣らない有名人ながら、もし劉備と出会わなければ、どうなってただろう?と言う人物でもあります。
劉備とは無関係に名前を残したであろう人は、曹操に対し反乱を起こした馬超くらいで、それ以外では、もし劉備の配下じゃなければ、野に埋もれていたかも知れません。
すなわち劉備は、人材発掘や、発掘した人物を活かすことに関しては、天才的かも?と言うところです。
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この回答へのお礼

関羽や諸葛亮もそのような人物だったのですね。三顧の礼でようやく動くほどだったから、確かになにもなかったらそのままだったかもしれないですね。
人材発掘といかしかたということ、よく理解させて頂きました。ありがとうございました。

お礼日時:2017/06/07 06:17

今だったら会社で考えてみればわかる。

嫌われ者の社長の下で、部下は社長のために働く?そんなわけない。優秀な人は転職しちゃうよ。
人柄が良くて部下思いの社長の下であれば、みんな協力してくれる。劉備はまあ、そんな一面があったんだろうよ。

劉備も諸葛亮も「負けるとわかる戦いは、戦わずして回避する」を大切にしてた。玉砕して死んで名を残しても意味はない、ってね。
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この回答へのお礼

そうですね。現代にも通じるものがあるかもしれません。あの乱世にそれで生きていけるってすごいですね。

お礼日時:2017/06/07 06:13

諸葛孔明を知れば理由がわかる。

が、お前にはわからない。
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劉備は、小戦には強かったと言われています。


でも大戦には弱かった。
それで諸葛孔明をスカウトした。


彼は人徳を売り物にして、それが当たったので
しょう。

そもそもですが、中国は易姓革命の国です。
人徳に優れた人物が天下を治めるを理想とした
国です。
知識人も人民も、それを望んでいました。

弱肉強食、群雄割拠の時代に、あえて人徳を売り出した
ので、人が集まったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

そのような背景が中国にはあったのですね。人々が集まる理由がよくわかりました。

お礼日時:2017/06/07 06:12

担ぐ御輿としてちょうど良かったのでは?



自己主張も強くないし
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この回答へのお礼

自己主張が強いイメージはあまりないですものね。

お礼日時:2017/06/07 06:11

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