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下関条約のあとの韓国についてなんですけど
下関条約で朝鮮が独立してから
いつロシアが韓国の指導権?を持ったんですか?

A 回答 (2件)

三国干渉(1895年4月)で日本の発言力が低下したとき、


閔妃(国王高宗の妃)が義父である大院君を失脚させるために、
ロシア公使の協力を仰ぎクーデターを行い、
このことでロシアの発言権が増しました。
ちなみに、下関条約の3か月後(1895年7月)のこと。

その後、大院君が日本の協力のもと閔妃を殺害しました。
これが乙未事変(1895年10月)。
これに対抗して親露派の官僚が国王をロシア公使館へ移し
以後はロシア公使館内で政務を執りました。
これが露館播遷。
このため、さらにロシアの影響力が強くなりました。



豆知識

閔妃は大院君が息子の高宗に妃を迎えるとき、
外戚の横行を懸念して迎えた妃。
しかし、御多分に漏れず外戚は横行し、
閔妃は権力を掌握するため、高宗を言いなりにして
取り立ててもらった大院君とたびたび衝突しています。

乙未事変は、韓国では日本によるものとされていますが、
国王と皇子は禹範善であると明言しています。
ちなみに、閔妃は韓国では悲劇の皇后として扱われますが、
当時は民衆から搾取するためだけに政治を行うので
蛇蝎のごとく嫌われていました。

露館播遷で日本の影響力を嫌ってロシアを頼った官僚の一人が、
後に日韓併合を推進した李完用。
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下関条約当時は、韓国と言うくには、存在しておりません。


朝鮮です。

韓国(大韓民国)でしたら、太平洋戦争以後の事です。

日本の敗戦が濃厚になっても、軍部の一部が、一億総玉砕をとなえて抵抗する姿勢を示したため、
アメリカのローズベルトは、早期終戦を図るため、ソ連の参戦を促すため、ヤルタ島で
米英ソ連のヤルタ会談を開きます。
ソ連を参戦させる動機づけとして、ローズベルトは、朝鮮半島の、分割統治を持ち出して、説得したのです。
スターリンは、これによって釣られて、ノモンハン事件後の、日ソ中立条約を、一方的に破棄して参戦してきました。
更に、アメリカは、原子爆弾を使って、日本の戦意を奪って、一方的に、ポツダム宣言を、日本に飲ませてしまいます。

抗日戦争の発端となったのは、1919年3月1日に忠清南道で発生した、抗日集会で、弾圧はされますが、この運動はは、燎原の火の様に、全国に拡大していきます。

これに刺激を受けた、民族主義者たちは、李承晩を国務総理として、「大韓民国臨時政府」を、上海に樹立しました。
日本の降伏後、統一朝鮮の民族運動の動きは、色々ありますが、省略します。
民族主義者たちは、統一朝鮮政府を目指して政府、活動を始めますが、米ソの暗黙の了解の下に、スターリンは、金日成を
傀儡として送り込み、朝鮮人民共和国を樹立、アメリカは、南部朝鮮人民組織の完成度が低いと判断して、自治権をを渡さず、アメリカの、信託統治としてしまいます。
このため、民族主義者の失望は大きく、彼らの反対運動に、アメリカは、手を焼くことになります。
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