
次の2つの文の「には」の働きは別なのでしょうか。
理由はハッキリしませんが、2)には少しだけ異和感があります。
1)庭には二羽鶏がいる
2)私には弟がいる
ハを削除すると、かなり違いが出てきます。
3)庭に二羽鶏がいる
4)私に弟がいる
3)は1)とほぼ同義に感じます。4)は2)と相当違うような。
ちなみに、「私に弟がいることを友人には隠していた」だとなぜか不自然ではなくなります。
さらに少しかえます。
5)庭は二羽鶏がいる
6)私は弟がいる
5)だとほとんど×ではないかと。6)だとやや不自然さが残りますが「私に弟がいる」よりはマシのような。
A 回答 (47件中31~40件)
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No.17
- 回答日時:
No.16 の回答に応えて
>>『「に」と「で」は場所の表現に【だけ】現れる』という主張をしている、
いえいえ、『「に」と「で」は場所の表現に【だけ】現れる』のではなく、他にも種々表れるのに、その全体を理解することなく、<『「に」と「で」>の「場所の表現【だけ】」を取り上げる誤りを指摘しているものです。
論考の文脈を読み取れずに、当方が『「に」と「で」は場所の表現に【だけ】現れる』という主張をしている、と曲解したまま批判をされても困りものです。
>>そもそも、「に」や「で」が場所にだけ関与する助詞でないことは中学生にだってわかることだろうに。
分かっているのなら、その全体を捉えなければなりません。我田引水のつまみ食いではどうしようもありません。それくらいは、【中学生にだってわかることだろうに。】
>>たとえば「庭」や「美しい」という名詞や形容詞は、【それ自体がある事物や動作・状態を指しているが】、「に」や「で」といった【助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指さない。】ということ。
その通りです。しかし、
>>あくまで「〇〇に」「〇〇で」のように他の語とセットになってはじめてその意義を発揮できる。
セットで意義を発揮できるのではなく、助詞それ自体が意義を持つゆえにその意義を基にセットになって使用されるものです。これは、因果が逆転しています。この点が理解できないのが致命的な欠陥です。
>>3)庭に二羽鶏がいる。
という文において、「に」という助詞は、「庭」という体言に付属して『それが場所であることを明らかにする」という意義を発揮している。
「庭」
にわ【庭・場】
①広い場所。物事を行う場所。神武紀「霊畤を鳥見山の中に立てて」。「いくさの―」「裁きの―」【広辞苑】
です。「に」がなくとも「庭」は「①広い場所。物事を行う場所」です。【中学生にだってわかることだろうに。】
問題はそこではなく、何故に場所を表わしている【庭】に「に」「で」「を」が付けられるのか、その相違は何なのかにあります。
>>「に」は着点という位置付けの認識を表わす」と言えないのはなぜか、という疑問はあります
疑問ではなく、着点や、起点の場合もあり<「に」が着点という位置付けの認識を表わす」>のではないことを<菅井三実[格助詞「に」の統一的分析に向けた認知言語学的アプローチ>は論証しようとし、当然できていません。
>>さらに山田は『助詞の研究は意義を主眼としたものでなく、職能を中心としたものでなければならないと説く』と柴谷氏は(引用文中で)締めくくっている。
この点は、柴谷氏も生成文法からスタートしているようにあくまでソシュールパラダイム下での思考のため、山田の限界を理解できておらず、この論文でも「は」「が」の意義を正しく解明できていません。この点は、今回取り上げていません。
>>《「に」は空間的な位置付けの認識を表わす》のだとして、その「に」が実際に使われる、
3)庭に二羽鶏がいる。
という文において、「に」はどういった役割を担っているのか、という点について解説できなければ意義もへったくりも無い、とは思われませんか?
二本立てを目指してください。
この点は先に説明済みで、二本立てではなく、まず語「に」の意義を明らかにしなければなりません。
>>横レス気味が不愉快な場合、おっしゃっていただければ、これ以上の投稿は控えますのでお知らせください。
不愉快なのは誤りを理解できずに繰り返されている点にあり、現在のソシュールパラダイムを克服する一助となれば投稿は歓迎です。パラダイム転換を遂げられんことを願っております。■
No.16
- 回答日時:
#12です。
引き続き、『異次元文法』について若干の解説。
(#4の回答内容から)
参考サイトとして、ご自身の mixi 投稿を紹介しているようです。
D.
まず、
(ア)<モノの存在場所を表わす「で」?>
という表題で、定延利之氏の論考を批判している。
>《このように、何の疑問もなく<場所の表現に現れる「に」と「で」>と一般化し問題提起がなされています。》
:
などと言っています。
しかし、定延氏は、
『このように場所の表現に現れる「に」と「で」にどのような違いがあるのかという問題は、多くの研究者によって論じられてきた。/』と書いているのであって、アスナロウさん指摘のように『<場所の表現に現れる「に」と「で」>と一般化し問題提起』しているわけではない。
論考の文脈を読み取れずに、『「に」と「で」は場所の表現に【だけ】現れる』という主張をしている、と曲解したまま批判を展開していることになる。
そもそも、「に」や「で」が場所にだけ関与する助詞でないことは中学生にだってわかることだろうに。
つまり、定延氏は、「に」や「で」の数ある用法の中から、シチュエーションとしてよく使われることの多い【場所に現れる場合】について論じているのであることに気づかなくてはならない。
(イ)
柴谷方良(まさよし)「助詞の意味と機能について―「は」と「が」を中心に―」については、定延氏批判とは逆に、自らに都合の良いような曲解がなされている。
御愛嬌といって笑ってはおられない状況が展開されていますなあ。
若干長めですが、アスナロウさんが引用した全文を以下に再掲してみましょう。
※ 「名詞や動詞などと違って、【助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指さない。】助詞の意味というときには、ここに問題点の一つがある。このことについて山田孝雄『日本文法論』は次のように言う。「そのあらわせる観念の上より観察すれば助詞は単独にては何らの観念をもあらはし得ず、他の観念語に付属して其の義を認むるを得るのみ」そして、「その機能によりて観察すれば、助詞は観念語たる体言用言副詞に付属して其の意義を明にし、又それらの間の関係を示すに用いられる。」山田は、助詞の分類(記述)として、意義を中心としたものと、それらが示す関係すわち職能に根拠を求めるものとがあり得るが、上の引用でも明らかなように、「独立しては何の観念をもあらわしえるに関せず、他の品詞につきて関係を示すことによりて始めて意義を認め得らるるものなれば、その意義は関係に依存する」(549頁)ことから、助詞の研究は意義を主眼としたものでなく、職能を中心としたものでなければならないと説く。/※(引用終わり)
>《ここに指摘されているように、【助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指さない。】というのが日本語の真実です。つまり、助詞「に」や「で」が【ある事物や動作・状態】である【モノの存在場所を表わす】のではないということです。》
:
などと得々と述べておられるが、これも文脈を理解できていないために生じた全くの曲解です。
ここで言っているのは、
たとえば「庭」や「美しい」という名詞や形容詞は、【それ自体がある事物や動作・状態を指しているが】、
「に」や「で」といった【助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指さない。】ということ。
あくまで「〇〇に」「〇〇で」のように他の語とセットになってはじめてその意義を発揮できる。
3)庭に二羽鶏がいる。
という文における「に」の意義は、「庭」が場所であることを表わすことです。
しかし、ここでアスナロウさんの勘違いが発生している。
【助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指さない。】からといって、
【助詞は(それ自体ではないところの他の)事物や動作・状態を指さない。】というわけではないのです。
上記引用文中で山田孝雄も言うように、
「その機能によりて観察すれば、助詞は観念語(=自立語:hakobulu注)たる体言用言副詞に付属して其の意義を明にし、又それらの間の関係を示すに用いられる。」わけだ。
山田は次のように続ける。
「独立しては何の観念をもあらわしえるに関せず、他の品詞につきて関係を示すことによりて始めて意義を認め得らるるものなれば、その意義は関係に依存する」
つまり、
3)庭に二羽鶏がいる。
という文において、「に」という助詞は、「庭」という体言に付属して『それが場所であることを明らかにする」という意義を発揮している。
さらに山田は『助詞の研究は意義を主眼としたものでなく、職能を中心としたものでなければならないと説く』と柴谷氏は(引用文中で)締めくくっている。
要するに、
『職能を中心としたものでなければならない』とは、示された文中で「に」が担っている職能を考察しなければならない、ということではないですかね。
おっしゃるように、
《「に」は空間的な位置付けの認識を表わす》のは、それはそうなのでしょう。
「「に」は着点という位置付けの認識を表わす」と言えないのはなぜか、という疑問はありますが、いずれにせよ、それが「に」の意義というわけだ。お互いに。(笑)
しかし、山田は、そんなことよりも、『その意義は関係に依存する』のだから、実際の文に示されている『職能を中心としたものでなければならない』と言っている(はず)。
いずれにせよ、『意義を主眼』とした考察も大いに結構ですし私も興味はあります。ただ、だからといって『職能を中心』とした考察、すなわち辞書語釈を否定するような姿勢は改めなければならない、ということじゃないでしょうか。
《「に」は空間的な位置付けの認識を表わす》
のだとして、その「に」が実際に使われる、
3)庭に二羽鶏がいる。
という文において、「に」はどういった役割を担っているのか、という点について解説できなければ意義もへったくりも無い、とは思われませんか?
二本立てを目指してください。
そのうえであれば、ソシュールパラダイムがどうしたああしたというお話を素直に聞く方も増えるかもしれませんよ。
#11については後刻(または後刻)。
なお、横レス気味が不愉快な場合、おっしゃっていただければ、これ以上の投稿は控えますのでお知らせください。
1311tobi さんには、なんらかの疑問を呈していただく形で、応答いただければ嬉しいですけどね。
No.15
- 回答日時:
No.8です。
補足ありがとうございます。読ませてもらっているのですが、まだまだ消化不良の所がたくさんあります。理解しきるのには時間がかかりそうです。追加された回答でも同じです。交戦状態になっているのはいただけませんが。現時点でも、4は○で6は×というのには変わりありません。
「裏庭は(どうなっているかというと)猫が1匹いる」なので×かと。こんな時は普通「裏庭は」も省略します。とすると「私は」を主題化してしまえばあえていう必要がなく省略され、「私は..」に違和感を感じているのかな。「いる」「ある」の問題はどこから出てきたのかとか、いろいろ疑問点はありますが、あまり突っ込みすぎると本論とずれてくるし主客が逆転してしまいそうです。控えさせていただきます。
しばらくの間、じっくり考えさせてください。
そんなに簡単には片付けられないと思います。
>いろいろ疑問点はありますが、あまり突っ込みすぎると本論とずれてくる
たぶん大丈夫ですよ。
異次元のSF文法に比べれば、たいていの話はOKのはずです。
>しばらくの間、じっくり考えさせてください。
締め切りが早いんで、お気をつけて、途中経過でもコメントが入れば、締め切りが延びます。
No.14
- 回答日時:
#12 のコメントに応え、補足させていただきます。
>>【「庭に鳥がいる。」という文における「に」は、「鳥がいる」という述部が実現しているのは「庭」という場所である。】ということを表わしている。
という解釈は間違っている、と言っていることになるでしょう。」
当然、誤りです。
<「鳥がいる」という述部が実現しているのは「庭」という場所である。>という理解が端的に文とは何かの理解ができていないことを示しています。
文は話者の認識の表現であり、「述部が実現している」のではなく、述部により表わされている話者の認識を問題にしなければなりません。
<「鳥がいる」という述部が実現しているのは「庭」という場所である。>のではなく、「鳥がいる」が表しているのは、「鳥の存在」であり、その場所が「庭」であることを格助詞「に」で位置付け表現されています。
このように、語の意義を媒介とし表現された話者の認識を捉えることができないSF文法を振り廻している限り、表現としての言語を理解することはできません。
ここに、アプリオリな文の存在を前提し、ラングがパロールになるという言語実体観、言語道具観というソシュールパラダイムに呪縛されたSF文法の限界が露呈しています。
令和の初めに、このソシュールパラダイムの呪縛を乗り越えられんことを切に願っております。■
No.13
- 回答日時:
No.12 のコメントに応えて
>>「5時になったら会議を始めます」における『空間的な位置付けの認識』とは、一体何なのか?
これは、空間的な位置付けではなく時間的な位置付けなのはいうまでもありません。空間的な認識が時間的な認識に拡張、転成するのはなにもこの語に限った問題ではありません。
<【格助詞「に」は着点としての認識を表わす。】が正しい「に」の意義です。>が誤りであるのは、先に引用した通り、
名詞や動詞などと違って、【助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指さない。】助詞の意味というときには、ここに問題点の一つがある。/
〔柴谷方良(まさよし)「助詞の意味と機能について―「は」と「が」を中心に―」:『文法と意味の間―国広哲弥教授還暦退官記念論文集』([くろしを出版,1990.6.1)〕
という助詞の本質からして説明を要しません。
格助詞「に」が着点を表わすのではないことは、研究者にも当然問題にされ、
<菅井三実[格助詞「に」の統一的分析に向けた認知言語学的アプローチ>
https://www.jpf.go.jp/j/project/japanese/archive …
なども下記例を挙げ、到達点の解釈との「統一的分析」に向け「「認知言語学的アプローチ」を試みていますが、話者の認識ではなく対象自体を問題にしている限り、【助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指さない。】ので頓挫する他ありません。
(3) a .友達に参考書を借りる. [起点]
b .両親に結婚を反対された. [動作者]
c .余りの熱さに気を失った. [原因]
d .早朝 5 時に集合した. [時間]
このような誤った教育が如何なる弊害をもたらしているかは、
岡田 美穂,奥田 俊博
<場所を表す名詞に下接する格助詞「に」「で」「を」について-日本語教育の観点に基づく先行研究の整理と課題->
https://kyukyo.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view …
が論じています。しかし、この論者自身が<「に」が人や物の存在場所・到着点を,「で」が動作場所を,「を」が動作の行われる場所であり起点・出発点を表すことを学習する.>と、誤りを認識することなく論を展開しているため、解明は不可能で、「今後の課題として示すことを目的とする。」しかないのが現状です。
>>・格助詞「に」は場所【だけ】を表わす。
とは言っていないわけで、この辺りのことを理解できているのか不思議な印象を受けます。
「場所【だけ】を表わす。」のでなければ、他に何を表わし、何故そうなのかを明らかにしなければなりませんが、如何せん、【助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指さない。】のでこの辺りのことを理解できていない以上どうしようもありません。
何故この基本的な事実が理解できないのか、不思議な印象を受けます。
ましてや、助詞「は」と「が」の本質の解明、理解を期待するのは無理筋であるのは納得いただけるのではないでしょうか。■
No.12
- 回答日時:
#10です。
『異次元文法』について若干の解説。
(まず#1の回答内容から)
A.
>《格助詞「に」は空間的な位置付けの認識を表わし、副助詞「は」は特殊性の認識を表わします。》
:
この認識は(あくまで)基本的には間違っているわけではありません。
しかし、大いなる不備があり、この論理を持って他を批判するなど持っての外と言わざるを得ない。
以下に、その根拠を示していくことにしましょう。
まず、「に」が【どのような空間的な位置付けなのか】という点にまで踏み込んでいないという点で不備があります。
「5時になったら会議を始めます」における『空間的な位置付けの認識』とは、一体何なのか?
という疑問に答えることができない。
【格助詞「に」は着点としての認識を表わす。】が正しい「に」の意義です。
「〇〇に」というフレーズにおける「〇〇」は、時空間・人物・事象などに関係なく、後続する述部の着点として認識されるわけです。
4)私に弟がいる。
これは、「弟がいる」という事実について述べている文で、その事実が「私」を着点としていることを意味します。
「私という人格としての存在場所に弟という続柄の人物がいる」のように解釈してもよいでしょう。
むろん、
2)私には弟がいる。
という文は、
「私という人格としての存在場所について言うならば、弟という続柄の人物がいる」
という意味になる。
次に、「は」の本質的意義は主題提示と認識するが最も妥当と思います。
『妥当』というのは、多様な場面で展開される文における意味を、最も的確に包括できる用語である、ということ。
限定・対比などのほか特殊性という意味すらも、すべて主題提示するからこそ可能になるわけですから。
しかし、彼の御仁の言うように『特殊性』が本質だと捉えてしまうと、たとえば、
《「源氏物語の作者は紫式部である」は、清少納言の「枕草紙」や万葉集の作者ではなく、源氏物語という特殊な作品の作者【は】誰なのかということを述べている文です。》
などという誤った認識につながってしまいやすい。
こうした解釈が成立するのは、たとえば、
a:先生!私は、枕草紙の作者は清少納言だと知っています。でも、源氏物語の作者を知りません。誰ですか?
b:源氏物語の作者は紫式部である。
といったシチュエーションの場合。
一方、
c:今日は源氏物語をみんなで読んでみよう。みんな知ってるね?源氏物語の作者は紫式部である。
といったシチュエーションにおいては、《清少納言の「枕草紙」や万葉集の作者ではなく、源氏物語という特殊な作品の作者【は】誰なのか》ということを述べているわけでは、まったく!ありません。
「源氏物語の作者について言うならば、それは・・・」のように淡々と主題提示しているだけです。
その意味で、「は」については、『特殊性』という用語に振り回されるあまりの大いなる不備と言うべきで、
『「は」が加わると他との比較・対照の認識が表現される【場合も】ある』のような認識に改めないと、いつまで経っても自らの矛盾に気づけないことになる。
一方、
4)私に弟がいる。
について、《単に私個人の弟の有無という事実の表現であり、》と言ってる点は評価して良いでしょう。
B.
>《 5)庭は二羽鶏がいる
が×となるのは、「二羽鶏がいる」のが「庭」自体の特殊性の問題ではなく、「庭」を格助詞「に」で空間的な場所として位置付け、その位置付けられた場所としての「庭」の特殊性として捉え、表現しなければ論理性を失うためです。》
:
ここは、かろうじて許容範囲でしょう。(笑)
>《 6)私は弟がいる》
は私の特殊性として意味をもち、「私は弟がいるが、彼にはいない。」のような適切な対象的事実の表現になります。
:
すでに申し上げたように、この認識が誤り。
たしかに、そういうシチュエーションもありますが、
2)私には弟がいる。
と同様で、単に「私」「私に」を主題提示して「弟がいる」という事実を淡々と述べるシチュエーションもあるわけです。
(次に#9の回答内容から)
C.
>《さらに、格助詞「に」が場所を表わすという思い込みが重なり混乱しているのではないかと推察します。
格助詞「に」は空間的な位置付けの認識を表わすもので、「庭に鳥がいる。」は正しい表現ですが、庭を空間的に位置付けない「庭は鳥がいる」は文脈の支えがなければ不自然なのは先に回答の通りです。》
:
この論理によると、
【「庭に鳥がいる。」という文における「に」は、「鳥がいる」という述部が実現しているのは「庭」という場所である。】
ということを表わしている。
という解釈は間違っている、と言っていることになるでしょう。
これがまったく理解できないですね。
その一方で、『格助詞「に」は空間的な位置付けの認識を表わすもの』と言う。
では、
「庭に鳥がいる。」という文における「に」は、いったいどのような『空間的な位置付けの認識』を表わしているのか?
ぜひ伺ってみたいものですが、だいたい、このあたりに差し掛かると論点をずらして逃げられますね。(笑)
おそらく、ご自身でもよくわかっておられないのだろうと思われます。
そもそもですが、誰も、
・格助詞「に」は場所【だけ】を表わす。
とは言っていないわけで、この辺りのことを理解できているのか不思議な印象を受けます。
拙文につき疑問点も多々あるかと思われますが、ございましたらどうぞ補足なさってみてください。可能な範囲で説明させていただきます。
なお、
#4と#11についても、後刻投稿の予定があります。
差し支えなければですが。
また、欠席裁判はしたくありませんので、可能でしたら生かしておいていただければ有難い。
No.11
- 回答日時:
#9 のお礼に応えて
>「いる」に対する異和感かと推察します
違います。No.2とのかたとのやり取りをお読みください。
これまでの応答で、ほぼ理由のハッキリしない異和感の内容が理解できました。
やはり、格助詞「に」、副助詞「は」の意義と、「いる」「ある」のSF文法的な理解が混線しているためと推定されます。
さらに、SF文法的な理解では語の意義と文の意味の相違と関連が理解できないため、これが混乱、混線に拍車を掛けます。
このSF文法的な理解では表現の過程的構造を論理的に捉えるのではなく、辞書の誤った語釈を持ち出し捏ね上げるため解決の糸口をみつけることもできません。
話者の認識の表現である言語の理解を認識を無視して解明しようとする発想の誤りが根底にあります。
こうして、疑問、異和感が次々に生まれますが何ら解決に導かれることなく、問題はゴミの山と化しているのが現状ですが、質問者はそのことに気付くことなく、塵(ゴミ)屋敷を築く結果となる他ありません。。
年の初めでもあり、少しこの辺を具体的に指摘させていただきます。
まず、「いる」「ある」の使用法ですが、質問者は次のような理解を示しています。
とりあえず答えだけ書こう。「持っている」でも「ある」でも「いる」でも間違いではない。
どういう状況で使うかは一概には言えない。主として書き手(「語り手」を含む)の趣味の問題で、文脈にもよる。
それ以上の答えがあるのだろうか。 ……原則的には、生物は「いる」で、無生物は「ある」だろう。 【「持っている」 「ある」 「いる」【1】【2】【3】 】
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-1212. …
このように、「趣味の問題」とし、生物/無生物という話者の認識を扱えられない粗雑な解釈では何の解明にもなりません
同じ人間でも、「庭に母が【いる】からよんできてくれ。」といったり、「私には慈愛深い母が【ある】。」といったりするのはなぜか、どうして「庭に母が【ある】。」といわないのか、が問題です。これを趣味の問題、生物/無生物の問題としか理解できないのではどうしようもありません。#2の回答にある金田一の解釈も同類でしかありません。
格助詞「に」が場所を表すというのも助詞とは何かが理解できない本質的な誤りです。
名詞や動詞などと違って、【助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指さない。】助詞の意味というときには、ここに問題点の一つがある。/
〔柴谷方良(まさよし)「助詞の意味と機能について―「は」と「が」を中心に―」:『文法と意味の間―国広哲弥教授還暦退官記念論文集』([くろしを出版,1990.6.1)〕
ということです。
さらに、副助詞「は」ですが、これも助詞であり、「名詞や動詞などと違って、【助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指さない。】」のであり、主題などを表わすのではありません。
<「取りたて」は「主題」と言いかえることができるだろう。「強調」のこともあるらしい。>などと辞書の誤った解釈を掻き混ぜ、捏ね上げても何の解決にもなりません。
「花が咲いた。」の花は主語で主題ではないなどと言ってみても、では主題とは何かといえば、「は」でマークされる語などというトートロジーを繰り返し、「には」「では」など格助詞と「は」の組合せは主題とは無縁で説明に窮する他ありません。
これらの問題に具体的、論理的な回答、解明をすることなく異和感を並べ立てても問題、解決は先送りとなるしかありません。
この根本的な誤りを自覚、理解し、本質的、理論的な理解、解明への歩を進める令和の年の始めとしたいものです。
なお、個々の問題についての説明は、個別に質問を立てられればお答え致します。■
あのー。
「SF文法」はアスナロウ氏の言説を指しているんですよ。
未来でしか通用しない文法で、異次元文法とも言います。
当方は現代の日本語の文法に即して書いているつもりです。
それとも自らの「SF文法」はどこに書いてもハナツマミで誰にも相手にされないから自虐を始めたのでしょうか。
ご自愛ください。
しばらく頭を冷やすことをおすすめします。
>なお、個々の問題についての説明は、個別に質問を立てられればお答え致します。
どうせ意味不明のコメントでしょうから、いりません。
No.10
- 回答日時:
#6です。
1.
> 正面は5人SPがいる。裏口は2人SPがいる。裏口のほうが手薄だ。
でも「正面」や「裏口」が所有していますか?
:
広い意味で「所有」に含めても良いかと思います。
ノーマルな表現は、
7)正面に5人SPがいる。
でしょうが、
8)正面は5人SPがいる。
の場合は、
・正面のエリアは5人SPを所有している。
といったニュアンスになるかと。
・正面の出口について言うならば、5人SPが配置されている。
のように主題提示したい意図があるわけでしょう。
その意味では、
5)庭は二羽鶏がいる。
の場合も、
・庭について言うならば、二羽鶏がいる。
というシチュエーションさえ整うなら、当然、これも自然な表現ということになります。
この意味では前言を撤回する必要があるかもですね。(笑)
たとえばテレビのロケ企画でディレクターとアシスタントとの、次のような会話。
デ:今回の企画では長閑な農家という雰囲気を出したいわけだけど、この家で大丈夫か?
ア:はい、牛小屋では出産シーンがちょうど放映できそうです。
デ:そりゃいいね。裏庭なんかはどうなってる?
ア:ばっちりです。裏庭は二羽鶏がいます。因みに、土間のほうはどうしましょう。
デ:それは大丈夫だ。土間は1匹猫がいる。
2.
>>特殊な状況を設定すればOKというのは、いいかえれば、特殊な状況を設定しなければNGってことでしょう。
当方はそういう考え方には不自然に感じますし、異和感を覚えます。
:
重要なことは、
特殊な状況で使えるなら、文法的には問題がない、
という点じゃないですかね。
日本語として間違いとは言えない、という点は押さえておく必要があるのでは?
もっとも肝心なのは、シチュエーションにそぐわない日本語表現を、自然な表現だと思い込んでしまうことだろうと思います。
その意味で、シチュエーションを確認した上で自然か不自然かは判定される必要があるでしょう。
5)庭は二羽鶏がいる。
は不自然と最初申し上げたのも、
1)庭には二羽鶏がいる
3)庭に二羽鶏がいる
といった文から想定される、一般的な情景描写というシチュエーションであるなら不自然ということです。
3.
>異次元の文法
:
部分部分では面白そうなことも、おっしゃるし、聞いてみたい気もするのですが、基本的に論理的論述が苦手なようで、理解に苦しむ点が多いですね。(笑)
今回の投稿内容についても矛盾や不明点があります。
批判する以上、具体的な根拠を挙げて解説させていただいてもよろしいですよ。
今夜はもう遅いので明日ということでよろしければ。
すぐに拗ねてしまうので、厄介ですが、どういう点が非論理的なのかがわかればお互いの思考の一助になると思うのですけどね。
>特殊な状況で使えるなら、文法的には問題がない、
当方は、1)〜6)が文法的に問題があるとは考えていません。
ただ、個人的な感覚としては〈5)だとほとんど×ではないかと〉思っています。でも文法的には「間違い」とは言えないでしょうね。「まったく問題がない」と考える人がいるなら、自分の感覚を他者に押し付ける気はありません。
以下はNo.16に関して。
>横レス気味が不愉快な場合、おっしゃっていただければ
多少なりとも本題に関係のある横レスなら気になりません。
ただ、本題を離れていつもの堂々めぐりが繰り返されるとゲンナリします。
感想を求めた当方がバカでした。
あんなやり取りをいくら繰り返しても何も生まれないことはとっくにおわかりなのでは。
それが好きでたまらないのなら、ヨソで気がすむまでどうぞ。
とにもかくにく、当方の理解力の問題ではなく、一般の人間にはとうてい理解できない特殊な理論であることがわかっただけで十分です。
あれは主張している当人にしかわからない●●●●です。
No.9
- 回答日時:
#1のお礼に答えて。
>>>したがって、1)、2)の2つの文の「には」の働きは同じです。
それなのに、3)と4)の違いが出るのはなぜなのでしょう。
3)に関してはスルーですか?
そもそも、「理由はハッキリしませんが、2)には少しだけ異和感があります。」という異和感は「には」自体の問題ではなく、「いる」に対する異和感かと推察します。
庭に鳥が居る。
は自然ですが、「私には弟がある。」「私は弟がある。」の方が自然という感覚の問題と思われます。「庭に鳥がある。」とも言いません。
母は庭にいます。
は自然で、「母は庭にあります。」は不自然ですが、「私には慈愛深い母がある。」とは言います。
この異和感が「庭に」と「庭には」、「私に」と「私は」「私には」と混線、混乱した異和感ではないかと思われます。
さらに、格助詞「に」が場所を表わすという思い込みが重なり混乱しているのではないかと推察します。
格助詞「に」は空間的な位置付けの認識を表わすもので、「庭に鳥がいる。」は正しい表現ですが、庭を空間的に位置付けない「庭は鳥がいる」は文脈の支えがなければ不自然なのは先に回答の通りです。
1)、2)の「には」自体には何の相違もありません。
この、「いる」と「ある」の相違が不分明であれば別途説明させていただきます。
したがって、「には」自体の問題ではなく、「いる」「ある」の語感、格助詞「に」の意義の理解の誤りが混線しているのではないでしょうか。
現代の日本語のルールを事実に即し科学的に理解することなく、「SF文法」の妄想に囚われていては自身の異和感の正体すら解明することもままなりません。■
>「いる」に対する異和感かと推察します
違います。No.2とのかたとのやり取りをお読みください。
>自然ですが、「私には弟がある。」「私は弟がある。」の方が自然という感覚
どこから出てきた話でしょうか。
>「庭に」と「庭には」、「私に」と「私は」「私には」と混線、混乱した異和感ではないかと思われます。
誰が何を混戦しているのでしょうか。意味不明です。
>さらに、格助詞「に」が場所を表わすという思い込みが重なり混乱している
繰り返します。毎度毎度繰り返される「お念仏」は迷惑なのでやめてください。
現代の日本語のルールに即したコメントをお願いします。
当方は未来の「SF文法」のことはわかりません。
これ以上迷惑なコメントが続くならブロックするしかない気がします。
No.8
- 回答日時:
No.3です。
他の人の回答など読ませてもらうと自分の感じ方が人と違うのかなというような気になってきます。コメントに書いていただいた「正面は5人SPがいる。裏口は2人SPがいる。」でも何か違和感を感じます。「正面には5人spがいる。裏口は2人だ。」ならわかるのですが。
他の人の回答をみているといろいろなシチュエーションの例が挙がってきています。そういう例に触れることが少なかったから、シチュエーションが理解できず違和感を感じ取ってしまっていたような気がしてきました。これは単なる感想です。
お礼コメントが錯綜していて申し訳ございません。
>自分の感じ方が人と違うのかなというような気になってきます。
個人差はあると思います。
他者とあまりにも違うようなら、要注意かもしれません。でも現段階では、ほんとに小さな個人差の範囲だと思います。
本来は、「ある」「いる」などは「に(は)」を伴うべきだと思います。
特殊な状況を設定すればOKというのは、いいかえれば、特殊な状況を設定しなければNGってことでしょう。
実はこの質問には前問があります。
そこ〝に〟もいろいろな主観が登場しています。
のちほど補足します。
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コメントありがとうございます。
No.6へのお礼は、他のかたへのお礼を間違って投稿したものです。なぜか時々こういう現象が起きます。
申し訳ございません。
「前問」のリストと辞書の記述です。
https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12559141996.html
以下は一部の抜粋(重言)。
「ニ」は〈 時・場所・対象、比較の基準など、格助詞「に」で示されるもの〉『大辞林』でいいだろう。問題は「ハ」。
強める『大辞泉』
特にとりたてる気持ちを表す係助詞『大辞林』
強調または取りたてて示す『日国』
こりゃ……さて、どうしよう(笑)。
「取りたて」は「主題」と言いかえることができるだろう。「強調」のこともあるらしい。おそらく「比較」の場合もある。まぁ、大差はないか。
語釈を見ると、『大辞林』が詳しい。ほかの2冊の語釈のほかに、④⑤がある。
個人的には「念仏コメントには本当に困ったもんだ」のような使い方もあると思う。「ニハ」の前には否定的な「対象」が入る。
【1】
いままでとはかなり違うことを考え始めました。
これは新たに質問したほうがいいですかね。
まだ考えが未整理です。
ツッコミややさしくお願いします。
https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12568517384.html
以下は一部の抜粋(重言)。
1)庭には鶏がいる
これはやはり「庭に鶏がいる」(②存在の場所 物理的・抽象的)が原形で、それに主題化(「取り立て」でも「強調」でもいい)の「ハ」がついたものと考えるのが妥当では。
問題は下記。
2)私には弟がいる
これも述語が「いる」だから「私」は「場所」と考えたいんだけど、そう考えると、1)~6)を並べたときの差異が説明できなくなる。
〈2〉で紹介したリンク先の〈1存在の場所・時点〉の小分類〈b. 私に子供がある。〈所有者〉 〉でいいのでは。
以下【2】へ。
【2】
考え方をかえるために、「ある」に持ち込む。
1.庭には花壇がある
2.私には夢がある
3.庭に花壇がある
4.私に夢がある
5.庭は花壇がある
6.私は夢がある
こう並べると、「庭」のほうは、「3.庭に花壇がある」が原形で、「ハ」がついて「庭には花壇がある」。「庭は花壇がある」は、ちょっと特殊な文脈が必要な気がする。
一方、「私」のほうは、「私ニ夢がある」が原形で、「ハ」がついて「私には夢がある」。
それとは別に、「私は夢がある」が原形で、それに「ニ」がついたのでは。こうなると「ニ」が不明? ああそうか。別に無理やり「ニ」をつける必要はなく、これで一文。
「ハ」は普通の主題で、「ある」がついて所有を表わす。
一方、「所有」のイメージに結び付きにくい〈5.庭は花壇がある〉はナシ。
元の文もこれと同じことなのでは。
仕切り直すために、下記の質問をしました。以降は下記でお願いします。
【次の2つの文の「には」の働きは別なのでしょうか。1)庭には二羽鶏がいる 2)私には弟がいる その2】
失礼しました。リンク先が抜けてしまいました。
仕切り直すために、下記の質問をしました。以降は下記でお願いします。
【次の2つの文の「には」の働きは別なのでしょうか。1)庭には二羽鶏がいる 2)私には弟がいる その2】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11497505.html