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次の2つの文の「には」の働きは別なのでしょうか。
 理由はハッキリしませんが、2)には少しだけ異和感があります。

1)庭には二羽鶏がいる
2)私には弟がいる

 ハを削除すると、かなり違いが出てきます。
3)庭に二羽鶏がいる
4)私に弟がいる

 3)は1)とほぼ同義に感じます。4)は2)と相当違うような。
 ちなみに、「私に弟がいることを友人には隠していた」だとなぜか不自然ではなくなります。
 さらに少しかえます。
5)庭は二羽鶏がいる
6)私は弟がいる

 5)だとほとんど×ではないかと。6)だとやや不自然さが残りますが「私に弟がいる」よりはマシのような。

質問者からの補足コメント

  • コメントありがとうございます。

     No.6へのお礼は、他のかたへのお礼を間違って投稿したものです。なぜか時々こういう現象が起きます。
     申し訳ございません。

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/01/13 12:43
  • 「前問」のリストと辞書の記述です。
    https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12559141996.html
     以下は一部の抜粋(重言)。

    「ニ」は〈 時・場所・対象、比較の基準など、格助詞「に」で示されるもの〉『大辞林』でいいだろう。問題は「ハ」。
      強める『大辞泉』
      特にとりたてる気持ちを表す係助詞『大辞林』
      強調または取りたてて示す『日国』
     こりゃ……さて、どうしよう(笑)。
    「取りたて」は「主題」と言いかえることができるだろう。「強調」のこともあるらしい。おそらく「比較」の場合もある。まぁ、大差はないか。
     語釈を見ると、『大辞林』が詳しい。ほかの2冊の語釈のほかに、④⑤がある。
     個人的には「念仏コメントには本当に困ったもんだ」のような使い方もあると思う。「ニハ」の前には否定的な「対象」が入る。

    No.8の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/01/13 17:36
  • 【1】
     いままでとはかなり違うことを考え始めました。
     これは新たに質問したほうがいいですかね。
     まだ考えが未整理です。
     ツッコミややさしくお願いします。

    https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12568517384.html
     以下は一部の抜粋(重言)。

    1)庭には鶏がいる
     これはやはり「庭に鶏がいる」(②存在の場所 物理的・抽象的)が原形で、それに主題化(「取り立て」でも「強調」でもいい)の「ハ」がついたものと考えるのが妥当では。
     問題は下記。

    2)私には弟がいる
     これも述語が「いる」だから「私」は「場所」と考えたいんだけど、そう考えると、1)~6)を並べたときの差異が説明できなくなる。
    〈2〉で紹介したリンク先の〈1存在の場所・時点〉の小分類〈b. 私に子供がある。〈所有者〉 〉でいいのでは。

     以下【2】へ。

      補足日時:2020/01/20 21:56
  • 【2】
     考え方をかえるために、「ある」に持ち込む。
    1.庭には花壇がある
    2.私には夢がある
    3.庭に花壇がある
    4.私に夢がある
    5.庭は花壇がある
    6.私は夢がある

     こう並べると、「庭」のほうは、「3.庭に花壇がある」が原形で、「ハ」がついて「庭には花壇がある」。「庭は花壇がある」は、ちょっと特殊な文脈が必要な気がする。
     一方、「私」のほうは、「私ニ夢がある」が原形で、「ハ」がついて「私には夢がある」。
     それとは別に、「私は夢がある」が原形で、それに「ニ」がついたのでは。こうなると「ニ」が不明? ああそうか。別に無理やり「ニ」をつける必要はなく、これで一文。
    「ハ」は普通の主題で、「ある」がついて所有を表わす。
     一方、「所有」のイメージに結び付きにくい〈5.庭は花壇がある〉はナシ。
     元の文もこれと同じことなのでは。

      補足日時:2020/01/20 21:57
  • 仕切り直すために、下記の質問をしました。以降は下記でお願いします。

    【次の2つの文の「には」の働きは別なのでしょうか。1)庭には二羽鶏がいる 2)私には弟がいる その2】

    No.45の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/02/22 16:46
  • 失礼しました。リンク先が抜けてしまいました。
     仕切り直すために、下記の質問をしました。以降は下記でお願いします。

    【次の2つの文の「には」の働きは別なのでしょうか。1)庭には二羽鶏がいる 2)私には弟がいる その2】
    https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11497505.html

      補足日時:2020/02/22 16:50

A 回答 (47件中21~30件)

>>「ある」に持ち込む。



ようやく、当方の指摘した「いる」と「ある」にたどり着きましたね。
この使い分けは、先に指摘した通り趣味や生物/無生物の問題ではありません。
先に紹介した、
「「ある」と「いる」の使い分けのルール」
https://www.nihongo-c.co.jp/blog/blog-entry-42.h …

を参照し、良く理解して下さい。ここに、質問者の発想の根本的な欠陥が顕れています。
それは、対象→認識→表現の過程的な構造を捉えることができずに、表現と対象を直結し、表現の相違を対象自体の相違(生物/無生物)に結びつけるしかない発想です。

No.25の素朴な回答には、この辺への気付きが見られます。

>>「庭」のほうは、「3.庭に花壇がある」が原形で、「ハ」がついて「庭には花壇がある」。「庭は花壇がある」は、ちょっと特殊な文脈が必要な気がする。

この原形、「ハ」の付加、特殊な文脈という発想に根本的な問題があります。

言語は話者の認識の表現で、対象の認識無しに文が表現されることはありません。話者、文脈なしに文は生まれ、表現されることはないということです。

この発想は、生成文法がアプリオリな文の存在を前提にし、語の付加や移動により非文か否かを問題にするのと同一の発想です。

「ハ」を付加する場合は、それに対応する認識がまず存在し、これが文法を媒介として「ハ」と表現されるもので、機械的に「ハ」を付加したものは文ではなく、単なる語の羅列に過ぎず、意味を持ちません。

このため、意味不明で違和感が生まれることになります。

この点が、質問者の発想の根本的な誤りで、「に」と「で」の交換などというのも同様な発想の誤りです。

こうした、機械的、形式的な操作による文ならざる語の羅列を、後付けで意味を探ろうとする誤った発想で質問を繰り返すところに問題があります。

さらに、助詞とは何かが理解されておらず、先に指摘した、

「名詞や動詞などと違って、【助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指さない。】助詞の意味というときには、ここに問題点の一つがある。」

の意味が理解できていません。

このため、

「わたし」が「場所」か否かは微妙な気がします。
姉にバイオリンが弾ける。〈能力の主体〉

と、「に」が「場所」や〈能力の主体〉を表わすという、【助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指す】という誤った解釈に奔ることになります。

格助詞「に」は対象の空間的・時間的な位置付けの認識、つまり話者の主観を直接に表現する語です。

この点を理解することなく、【助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指す】という誤った解釈のもとに、あれこれ問題提起をしても混乱、錯綜するしかありません。

質問者の問題提起の履歴、実績を省り見れば明白かと思われますが。

この点を、まずしっかり反省することが重要です。

質問にある「には」が同一の意義であることは#1にて回答した通りです。■
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直前の回答で的外れなことを書いてしまいました。

ごめんなさい。

 いただいた宿題についてです。「二羽」がついていると、文章が複雑に感じますので、外して考えさせていただきます。

 「庭..」の語順を変えた場合です。「庭は..」のときのみ、まだおかしいのではという感じがします。語順を変える前と比べると少しはましです。でもこの時の「庭」の意味合いが少し違うように感じます。
 「私..」の場合もほぼ同じです。こちらの場合は、後ろにある文を読んだあとに前にある文を頭の中で何故か繰り返してしまいます。「には」「に」「は」の順番で2つの文のつながりが薄くなっているように思えます。「は」ではほとんど別文のようです。

 「庭」と「私」では、性質が違うというのはなんとなくわかります。「私は..です」といった場合は私個人を指していますが、「..弟がいる」では私を取り巻くいろいろなものの中の何かを指しているような感じがします。「私」と「弟」の関係で何かあるのか。「庭に弟がいる」にすると「弟」の意味が違ってくるような。「いる」の意味も違うような気がします。あまり漠然としすぎていて、どう書いていいのやら。

 これはOKという用例をみながら「私は弟がいる」を繰り返し唱えていると、何となくいいのかなという気がするときもあります。でもやっぱり違う。ちょっとグレーっぽくなってはいますが。
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(4)(6)問題が一時棚上げ状態となりましたので、この間に(2)の違和感について検討してみました。


 ここで、問題になるのはどうして私には違和感がないのかということです。少なくとも、このことからわかるのは、この文の持っている構文に問題があるということではないということです。ましてや、「いる」「ある」の違いが原因しているとはとうてい思えません。なぜなら、「ある」にすると今まで違和感のなかった文章に違和感が生じてくるからです。

 構文に原因がないとすると、文そのものに何かありそうです。そこで、質問文をもう一度読み直してみました。違和感を持つ人と持たない人との違いがどこにあるかがポイントです。ここにあります。「(4)は(2)と相当違うような」。私には「私」が強調されているかいないかだけの違いしかありません。

 違和感の正体は、ものすごく単純な事だったように思えてきました。「私には..」と言ったときに、脳の中では「私に..」という場合とはだいぶ違ってくるのはどうしてかという疑問がわいてきて、それが違和感として感じるのではないでしょうか。
 あるいは、頭の中で言葉を「私に..」「私には..」から選ぼうとしたときに「庭..」の場合と違うのはどうしてということが引っかかり、それが違和感として感じているのかも知れません。
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この回答へのお礼

>直前の回答で的外れなことを書いてしまいました

 というのはこれのことでしょうか。
 さほど的外れとも思いませんが。

 仮に多少的外れであっても構いません。
 少し違う角度から考えると、意外なことに気づいたりもします。
 的外れで意味不明なことを高飛車に書いているコメントは迷惑ですけど。
 当方も、いままでとは少し違う感じで考えています。

 ただ、まとまらない……。

お礼日時:2020/01/20 21:01

やはり、格助詞「に」が場所を表わすという誤りと、助詞「は」には特殊性の認識を表わす副助詞と、普遍性の認識を表わす係助詞があることが正しく理解されていないために種々の混乱を惹き起こしてます。



格助詞「に」自体が場所を表わすのではなく、時間的・空間的な位置付けの認識を表わすということです。

助詞「は」が主題を表わすとされるのは普遍性の認識を表わす係助詞の場合で、「には」「では」のように格助詞と共に使用されるのは特殊性の認識を表わす副助詞です。

これに、「ある」と「いる」の使い分けを趣味、生物/無生物とするのではどうしようもありません。

「ある」と「いる」の使い分けについては、

「「ある」と「いる」の使い分けのルール」
https://www.nihongo-c.co.jp/blog/blog-entry-42.h …

を参照下さい。■
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この回答へのお礼

やはり無理ですね。
 No.18のご指摘は、的外れです。
 他者の言葉を曲解して愚かさをさらすのはやめてください。

>これに、「ある」と「いる」の使い分けを趣味、生物/無生物とするのではどうしようもありません。
 誰がそんなことを書いていますか。
 最初の数行だけ読んで愚かさをさらすのはやめてください。
 曲解以前の問題です。小学生ですか。

 少し頭を冷やしてください。
 ほかのかたに迷惑がかかります。

お礼日時:2020/01/17 22:23

No.15です


スレッドの増える速さに追いついけなく戸惑っています。
なんでも書いていいとのお言葉に甘えてふと思ったことを書かせてもらいます。素人の戯れ言として一笑に付してもらっても結構です。

 相変わらず4と6の違いにこだわっています。そこで246を英語に訳してみました。
英語も苦手なので、一応Weblioを使わせてもらいました(辞書も引かずにという声もありますし)。たぶん3つとも
I have a brother.
ですね。これをもう一度日本語に戻してみます。「弟を持っている」とは訳しません(楽器ケースに入れて持つことはできますが)。「弟がいる」となります。
 問題は主語です。"I"は「私は」と訳します。他の訳に代えることはありません。そのまま続けると「私は弟がいる」になります。この訳は○ですか×ですか。よく覚えていないのですが、○になったような気がします。むしろ「私に弟がいる」(Weblioはこの書き方で書かれている)の方が×にされる可能性が高いような気がしています。「私に」は"me"の訳だという理由で。本来は「弟がいる」とした時点で「私」の格替えをしないといけないはずです。(4が正しいとした場合です)

 もし学校でこういう教え方をされていたら、「私は..」という言い回しが正しく、「私に..」が間違いであると思うようになるのではないでしょうか。また、英語のできる人はこういう訳でも訳した時点で英語の構文が頭にあるから違和感を感じないのではと思ったりもしています。これが戦後ずっとですからだいぶ定着してきているのではないでしょうか。英文和訳語には意味不明な言い回しが多くいつも読むのに苦労します。その例の1つといえます。

 論理の根拠が薄いところもあります。愚答にあたるものなのかも知れません。今思いついているのはこれくらいです。
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この回答へのお礼

英訳して……というのは有効な時もありますが、この場合はどうでしょう。
 
 主語を省略する……はきわめて有効で、
「二羽鶏がいる」
「弟がいる」
 なら誰も文句をつけないでしょう。

 ふと思ったのは、
「二羽鶏がいる。庭には」
「二羽鶏がいる。庭に」
「二羽鶏がいる。庭は」
 ならどれもさほどおかしくないような。

「弟がいる。私には」
「弟がいる。私に」
「弟がいる。私は」
 だと、やはり「弟がいる。私に」が特に不自然に感じます。

お礼日時:2020/01/18 15:48

「場所」なのかどうかは分かりません。

(これはアスナロウさんのおっしゃるとおりです)「色男金と力がなかりけり」に対して、「わたしには、金も力もある」のように使えることは確かです。
 「庭は鶏がいる」だけは成立しない言い方でしょう。「庭は」といった以上、庭に関する述語が続かなければどうにもなりません。「この時期、庭は枯れ枯れとして寂しいものだ」のように。「庭は鶏がいる」では不足です。「私は」の場合は、私に関することなら何でも続けることができます。「私は弟がいる」。それだけの差です。
 確かに、「は」=主題化ではないかもしれません。しかし、自ら「○○は」といった以上はまず、主題と考えていいのではありませんか。対比なら、目に見えて比較の対象があるか、言外に対象が潜んでいる場合があります。「僕は行かないよ」と言うときは、相手が「行く」といっていることが多いはずです。それは発言者の意図によります。
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この回答へのお礼

>わたしには、金も力もある
 の「わたし」が「場所」か否かは微妙な気がします。
 当方の感覚は下記に書いたとおりです。
【【助詞の話 またしても「ニ」 庭には二羽鶏がいる】〈2〉】
https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12564329159.html
 以下は一部の抜粋(重言)。
===========引用開始
 こう考えると、「庭には二羽鶏がいる」と「私には弟がいる」では、「には」の働きが違う気がしてくる。「庭」は間違いなく「場所」だが、「私」も場所なのか?
「私(という場所)には~がいる」のような解釈を見ることがあるが、ちょっと強引だろう。
===========引用終了

「わたし」も「場所」の一種だと考える人を否定する気はありません。
 ↑の追記をご参照ください。

===========引用開始
c. 姉にバイオリンが弾ける。〈能力の主体〉

(略)

〈能力の主体〉を表すと考えてよいのでは。
 c. は広い意味で〈「バイオリンを弾く 能力」の存在する場所を表して〉いるとも解釈できるそうです(当方は別物と考えるべきだと思います)。
 そう考えるのなら、〈存在の場所(位置)〉 を表すでもよいのかもしれません。【続】でもそう解釈しているコメントがあります。
 どちらが適切なのか一般の辞書がふれていない微妙な問題なので、当方には判断できません。
===========引用終了

>「私は」の場合は、私に関することなら何でも続けることができます。「私は弟がいる」。それだけの差です。
 つまり、「には」の用法は一緒ですが、「私」と「庭」の性質が違う……?
 この考え方に寄りつつあります。

お礼日時:2020/01/18 12:32

どの文も、主格は「弟」・「鶏」であり、述語は「いる」です。


問題になっているのは、「私に(は)」「庭に(は)」の部分、(「いる」にかかる)連用修飾句の構成についてです。
 学校文法(国文法)的には「は」がつくと「主語」と見なされるので、No.3の方のように「主語が二つある」ことになります。(しかし、複雑にしないように、主格は「弟・鶏」と考えたほうがいいでしょう)
「私は」「庭は」のように、名詞自体を主題化すると「私は」「庭は」がどういう働きをするのかが分からなくなってしまいます。(私もちょっと訳が分からなくなっていました)
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この回答へのお礼

本線は、「私に」「庭に」だと思います。おそらく場所で示すんでしょうね。「私」を場所と考えていいのか悪いのか……。過去の質問なんかも絡んできてよくわかりません。

「は」がつくといきなり主題になるのはどうなんでしょう。
「強調」と考えるほうがいい気がしてきました(比較対象があるなら「対比」)。

お礼日時:2020/01/16 22:14

>あまり関係ないのでは。


そんな感性では文法の説明なんてとても理解できません。
関係ないのであれば、あなたの感性で通すしかありませんね。
>(私は)(私には)のどちらもありでしょう。
日本語は主語省略が多いですね、主語が「私は」または「私には」の場合は当然ですが、質問の趣旨に副えば、「どちらもあり」では済まないはずなんですけど。
私は・・・と私には・・・・でどう違うのかが重要なはずです。
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この回答へのお礼

質問の趣旨は、「どれもアリ」だけどどう違うか、です。
 個人的には「5)だとほとんど×ではないかと」思いますが、アリと思う人がいても不思議ではありません。

お礼日時:2020/01/16 22:05

#12です。


引き続き『異次元文法』について。

E.
まずは(#11)から。
>《同じ人間でも、「庭に母が【いる】からよんできてくれ。」といったり、「私には慈愛深い母が【ある】。」といったりするのはなぜか、どうして「庭に母が【ある】。」といわないのか、が問題です。これを趣味の問題、生物/無生物の問題としか理解できないのではどうしようもありません。》

これが批判になると思っている点が勘違いも甚だしいと言わざるを得ない。
1311tobiさんご指摘のように『生物/無生物の問題』に帰すのは当然のことでしょう。
論点は、「母」が、どういった場合に、どのような意味で生物になったり無生物になったりするのか、ということ。
アスナロウさんの批判は「論点がずれてる」の典型例と言えますね。

「庭に母が【いる】からよんできてくれ。」と言う場合、話者は母を一個の人間として認識している。
「私には慈愛深い母が【ある】。」の場合は、「母という続柄を持つ存在」という意味であり、続柄なので無生物、ゆえに「ある」と話者は表現するわけです。
あまり論点を広げてもなんですから、この件に関してはこの程度にしておきましょう。

F.
次に(#13)について。

>《「場所【だけ】を表わす。」のでなければ、他に何を表わし、何故そうなのかを明らかにしなければなりませんが、如何せん、【助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指さない。】のでこの辺りのことを理解できていない以上どうしようもありません。》

『他に何を表わ』すのか、おわかりにならない?
ちょっと大辞泉を見るだけでも以下のようなものがある。
a.三時に間に合わせる。(動作・作用の行われる時を表す)
b.水泡に帰する。(動作・作用・変化の結果を表す)
c.迎えに行く。(動作・作用の目的を表す)
d.人によくかみつく犬。(動作・作用の行われる対象・相手を表す)
e.あまりのうれしさに泣き出す。(動作・作用の原因・理由・きっかけとなるものを示す)
f.紙上に発表する。(動作・作用の行われる場所を表す)

『何故そうなのかを明らかにしなければなりません』とのことですが、それは「に」の前後の語によるわけです。
たとえば、
・三時に間に合わせる。
は、「間に合わせる」という動作だからこそ、「に」は、「三時」が「動作・作用の行われる時を表す」ことになる。
単なる「時を表す」ではなく、あくまで「動作・作用の行われる時を表す」という語釈であることに留意すれば、多少は理解が進むでしょう。

・迎えに行く。
の場合は、「行く」という動作だからこそ、「に」は、「迎え」が「動作・作用の目的を表す」ことになる。

これらが、【(「に」は)「独立しては何の観念をもあらわしえるに関せず、他の品詞につきて関係を示すことによりて始めて意義を認め得らるるものなれば、その意義は関係に依存する」と山田孝雄が言っていることでしょう。
また、彼は、【「その機能によりて観察すれば、助詞は観念語たる体言用言副詞に付属して其の意義を明にし、又それらの間の関係を示すに用いられる。」】とも言っており、これはつまり、具体的な文中においてどのような機能(職能)を発揮しているのか、という点に着目すべきである、ということではありませんか?

それにしても決定的な勘違いからまだ脱しておられませんね。
【助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指さない。】の意味をはき違えていますよ。
ま、すでに#16でも申し上げていることなので、くどくどとは言いたくありませんが、大事な点ですから、念のため再度。

【助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指さない。】からといって、
【助詞は(それ自体ではないところの他の)事物や動作・状態を指さない。】というわけではないのです。

ここがアスナロウさんにとっての最重要ポイントですから、素直な気持ちで、よくよく検討してみてください。

G.
(#17について)
【あくまで「〇〇に」「〇〇で」のように他の語とセットになってはじめてその意義を発揮できる。】と申し上げた私の言説に対して、
>《セットで意義を発揮できるのではなく、助詞それ自体が意義を持つゆえにその意義を基にセットになって使用されるものです。これは、因果が逆転しています。この点が理解できないのが致命的な欠陥です。》

と述べている。
しかし、なんと不思議な日本語であろうか。
これで反論のつもりなのか?
ほとんど同じことを言ってるだけだよね?
【(助詞は)他の語とセットになってはじめてその意義を発揮できる】
《助詞それ自体が意義を持つゆえにその意義を基にセットになって使用される》
このどこが『因果が逆転』なわけ?
いくら追い詰められて反論できなくなったからといって、無茶苦茶言ってはいけませんねえ。
見苦しいですよ?

>《「に」がなくとも「庭」は「①広い場所。物事を行う場所」です。【中学生にだってわかることだろうに。】
問題はそこではなく、何故に場所を表わしている【庭】に「に」「で」「を」が付けられるのか、その相違は何なのかにあります。》

ここもまったくわかってませんね。
それはそれぞれの助詞の本質的意義が異なるからに決まっている。
「に」は着点としての場所。
あと、詳しくは検証してませんが、
「で」は動作の実現場面としての場所。
「を」は動作の対象としての場所。
といったところですかね。
いずれにせよ、そんな相違があるからといって、「に」の「(動作・作用の行われる時を表す)」という機能(=職能)を解説している辞書語釈を否定する根拠になり得るはずがない。

>疑問ではなく、着点や、起点の場合もあり<「に」が着点という位置付けの認識を表わす」>のではないことを<菅井三実[格助詞「に」の統一的分析に向けた認知言語学的アプローチ>は論証しようとし、当然できていません。

それは単に能力不足なだけ。
『起点の場合もアリ』という短絡的な思考では本質を捉えることはできません。
たとえば、「机の上に本が置いてある」の「上に」は 英語では on を使い、通常 on は「~の上に」と認識されているが、「蛍光灯に蚊が止まっている」という意味でも on を使う。
この時、見上げているわけだから、蚊が止まっているのは蛍光灯の上ではなく下だから on を使うのはおかしい、と思う人もいるらしい。
これと似たようなものです。
しかし、蚊の立場に立ってみるなら、足で踏ん張っているのは蛍光灯の表面なのだから、足は本体の下方についているわけで、自分は当然、蛍光灯の「上に」止まっていることになる。
端的に言うと、 on の本質的意義は「~の表面に」ということで、上だろうが下だろうが、この意義は動かない。
こうした考察ができない人が『起点の場合もアリ』などと言って悩むことになるだけの話。

>《二本立てではなく、まず語「に」の意義を明らかにしなければなりません。》

まあ、若干の進歩が見られる表現です。
ご同慶の至りと申し上げておきましょう。
つまり、単に後先の問題だと気づかれたようですから、今後は「職能=機能=辞書語釈」を一方的に否定して、日本語学習者を戸惑わせることのないようご留意いただきたい。

【横レス気味が不愉快な場合、おっしゃっていただければ、これ以上の投稿は控えますのでお知らせください。】と申し上げた件について、
>《不愉快なのは誤りを理解できずに繰り返されている点にあり、現在のソシュールパラダイムを克服する一助となれば投稿は歓迎です。》

という応答をいただきました。
これは質問者 1311tobi さんに対するコメントだったのですが、まあ、ご愛嬌として、素直に受け止めておくことにしましょう。

1311tobi さんからもクレームが入りましたので、何か腑に落ちない点があったら、新たな質問を立てる形で対応していただきますように。
当スレへの投稿は、今回で終了させていただきますので悪しからず。

H.
1311tobi さんへ。
『異次元文法』の理解に資すると考え、私なりに一生懸命解説したつもりだったのですが、横レス気味のニュアンスが強すぎたということですね。
文章力の無さを痛感している次第です。
どうも失礼しました。
何かご所望が無いかぎり、当該質問への投稿は控えることといたします。

・・・さんざんやった後で言っても遅いっつうの!(陰の声)
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この回答へのお礼

「ソシュールパラダイム」だか「SFパライダス」だか知りませんが、とにかく話になりません。
 他者の説を威丈高に否定するだけで、自説のまともな説明ができないのですから、理解できるわけがありません。

>『異次元文法』の理解に資すると考え、私なりに一生懸命解説したつもりだった
 当方はそんな超絶的な理解力はないので、あきらめてます。
 申し訳ない。
 ただ、さんざんやり取りした方でも理解できないことを確認できたのが収穫です。

お礼日時:2020/01/15 22:04

質問者の、「No.8の回答に寄せられた補足コメント」の誤りについて指摘させていただきます。



>>「ニハ」の前には否定的な「対象」が入る。

★藤山寛実の阿呆ぶり【には】笑わせられた。

のように、「ニハ」の前には肯定的な内容も入ります。「迷惑受身」というのも誤った捉え方です。この点は、ここでは論じませんが。

この「には」も、

1)庭には二羽鶏がいる

と同じです。こういう根拠のない言説は困りものです。■
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